映画「ティファニーで朝食を」を見た感想

昨日、「ティファニーで朝食を」を見てきた。

なので、その感想を書いておこうと思う。

恥ずかしながら、まだカポーティの原作を読むことができていない。

村上春樹が翻訳を手がけているし、村上春樹が翻訳しているということへの信頼感が僕としては大きくある。

映画を見て、より興味が湧いたので、そのうち読むことになるのだろうと思っている。

 

実際に映画を見てみた感想としては、

自由と不安と葛藤の描き方が印象的だった。

オードリーヘップバーンが演じるホリーは、いろんな自由を追い求めている。

恋愛の自由、

経済の自由、

生活の自由、

などなど。

 

そういった自由を追い求めるのだけれど、そこに付きまとう不安の描き方が、絶妙で、さすがは名作、という感じがした。

 

そして、自由を求めて、愛を失いかける。

 

自由っていうのは、どこか手放しで賞賛されがちだけれど、自由には不安がつきまとう。

個人主義や、自由という、リベラル化が進むと不安が生じるっていうのは、歴史的にも証明されている。

その不安を絶妙に表現しているのが夏目漱石だったりもするが、それについて書くのは骨が折れるから、またの機会に譲る。

 

オードリーヘップバーンのすごいのは、自由と不安の葛藤の表現力だと思った。

自由を満喫しているようで、なぜかネガティブな雰囲気を醸し出していたのがとても印象的だったのだ。

 

どんなに自由になっても、人間の精神は鍛えられない。

不安というのは精神的な問題だし、不安を解消するためにいくら外的に自由になったところで、その不安は内的なものなのだから、根本的な解決にはなり得ない。

自由の中に幸せはあるのだろうか?というカポーティからの問いかけのような気がした。

 

自由を求めるが故に自由に縛られる。

これを、「非執着の着(ひしゅうちゃくのちゃく)」と呼ぶ。

昔から仏教で説かれてきたことだ。

執着を捨て去ることを仏教の修行では追い求めるが、執着を捨て去ることに執着していたら本当の意味で執着を手放すことにはなっていない。

 

自由というのは、執着がなくなるということと似ているが、何か物質に頼って自由になろうとしても、非物質(精神)は自由にしてもらえない。

 

自由の本来性、

それを考える。

個人主義に突き進めば、自由になれるのか。

経済的自由を手に入れれば、自由になれるのか。

そもそも、自由を追求しても幸せはあるのだろうか。

 

それらの問いを抱いた。

誰かと関わると、それだけ縛りが増える。

深く関われば関わるほど、それは強くなるし、折り合いをつけていかないといけないことも増える。

でも、人と深く関わることを避けていたところで、幸せにはなれない。

人間というのは、そういうジレンマの中で生きているのだなと思う。

 

その葛藤の描き方が絶妙でした!

 

ということで、ティファニーで朝食を、オススメです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。では!

力でねじ伏せるのは愛じゃない

またまた、ブログを書くのが久しぶりになってしまったが、

今回は、最近テーマに感じていることについて書いておこうと思っている。

そのテーマが「力でねじ伏せるのは愛じゃない」

というテーマだ。

 

力でねじ伏せるっていうのは、いろんな形がある。

物理的に力で相手を負かすとか、

論理的な力で相手を負かすとか。

 

人間にはいろんな価値観がある。

例えば、善悪、好悪、損得、勝敗、などなど。

ときによっては、善悪がテーマのときもあるし、

好悪がテーマなときもある。

 

僕にとって最近テーマに感じているのが勝敗の部分だ。

 

僕はどういうときに勝敗を気にするか、というと、

自意識がむくむくと膨れ上がったときだ。

たとえば、僕は哲学や思想といったものが好きだけれど、

そういう自分が好きな分野で、

誰かが、さもわかったかのように語るとき、

僕は「いや俺のほうがわかっているし😤」

みたいな自意識がむくむくと膨れ上がってくる。

そのとき、僕は負けたように感じてしまう、

もしくは、勝とうとしてしまう。

 

それをよくないな、と思って過ごしている。

例えば、僕はニーチェやフランクルが好きな哲学者だけれど、

彼らを批判されるようなことを言われたとする。

そのときに僕は、

「いや、それは違う。

 お前は間違っている。

 ニーチェはお前が思っているよりとてつもなくすごい人だし、

 フランクルはお前なんかより一億倍すごい人だ😤」

と言って、相手を言い負かしたくなる。

 

けれども、少し考えてみれば、それはおかしいことだとわかる。

例えば、ニーチェを批判している人が、

本当に言いたいのは、ニーチェを批判したいわけじゃなく、

ニーチェの言葉に傷ついている自分をなんとかしたい、

と言いたいのかもしれない。

形としては、ニーチェを批判しているけれども、

実際のところでは、自分自身をどうにかしたいと思っているだけなのかもしれない。

 

僕のよくない癖というのは、

変に言葉尻にとらわれてしまって、

本来その人が言いたいこと、

伝えたいことをくみ取る努力を怠ってしまうことだ。

本来の言いたいことっていうのは、

その人の背景を知る努力をしていないとくみ取れない。

どういう人生を歩んできて、

どういう考え方に至って、

どうしてそう考えるようになったのか、

そういうところまでくみ取る努力をするのが僕は愛だと思っている。

 

力でねじ伏せるときっていうのは、

言葉尻に反応して、

ただただ条件反射的に相手をけなしたり、

相手に不快感を持ったりと、

そういうことに陥ってしまいがちだ。

 

どんな言葉であっても、

その言葉の語られる背景は毎回違うはずだし、

毎回違うからこそ、

その言葉にとらわれてしまっては、

本質を見失ってしまう。

 

言葉というのは「事の端(ことのは)」。

言葉で言い表せることは、

せいぜい本当に伝えたいことの端っこの部分だけということだ。

だからこそ、言葉尻にとらわれるのではなく、

言葉の奥の本当のことを見つめる必要がある。

そういうまなざしは、

相手に安心感を与え、

安らぎをも与えうるかもしれない。

 

力でねじ伏せるとき、

人は近視眼的になっているし、

大所高所から眺めることができていない。(自分も他人も)

 

それは愛ではない。

力でねじ伏せたくなった時こそ、

力に頼らず、力を抜いて、ゆるく見つめる。

空気を感じるように努める。

それだけでも、愛に近づけるのではないだろうか。

 

そんなことを思う最近のテーマです。

四月に考えたことなど(ヨルシカ「晴る」,映画「グリーンブック」,朝井リョウ「正欲」などを題材にして)

またブログを更新するのが遅れてしまった。

最近は、あまり本も読めていないし、

本から内容を得て、何かを書くこともできない。

 

ここまでインプットが少ないのも珍しいものだけれど、

論文の内容を書くわけにもいかないし、

どうしたものか、と悩みながら書いている。

 

とりあえず、四月だから、四月に思うことを少し書いてみようと思う。

皆さんは、花見に行っただろうか?

僕は花見が大好きだ。

毎年、この季節になると、どうしてもウキウキしてしまう。

コロナ期でも欠かさずに花見をしていたし、

友達を誘って、散歩をしながら花見をするのはすごく心地いい。

冬の寒さが和らいで、緊張から解き放たれるようなそんな空気が好きだ。

 

春をテーマにした歌も多い。

最近だったら、ヨルシカの「晴る」がお気に入りだし、

「春泥棒」も割と頻繁に聴いている。

 

youtu.be

 

このMVも僕は好きだ。

最初は何を描いているのかさっぱりわからなかったけれど、

何回も見ているうちに、どんなことを描いているのかおぼろげながらにわかってきた。

 

「降りやめば、雨でさえ、あなたを飾る晴る」

っていう歌詞の部分が特に好きだ。

 

雨が降っているときは、どうしても気分が落ちたり、

やる気が出なかったり、ネガティブなことが多いけれど、

そういうネガティブなものも、とおり過ぎてしまえば、

人生を飾ってくれる糧に変わってくれていたりもする。

 

まあ、何か大変な時期に差し掛かっていたときに、

それもいずれ終わるのだという気持ちになれることって、

本当に大事なことだと僕は思う。

 

めっちゃ簡単な例を言えば、

例えば、仕事で上司に怒られているとする。

怒られている最中は、どうしたって緊張してしまったり、

おびえてしまったり、気分が落ち込んだりするものだけれど、

上司も永遠には怒ることができないわけだし、

ミスをして、大変なときにあったとしても、

永遠にミスをし続けることなんてできない。

 

そんな当たり前なことだけれど、禍中にあるときは忘れがち。

永遠には続かないっていうのは、ある意味においては希望だし、また絶望でもあったりするけれど、

基本的には希望のほうを採用していればいいのだと僕は思う。

万物は流転する。諸行無常。

いろんな言葉で先人たちが残している。

 

四月って、いろんなものが入れ替わるし、新しくなる。

そういう芽吹きの時期だからこそ、頑張りすぎることもある。

思えば、僕は毎年四月は頑張りすぎていた。

小学生や中学生や高校生などのときにも、

毎年新学年になるたびに頑張りすぎて疲弊していたような気がする。

人一倍、感受性が強かったのもあるだろうし、

緊張していたのはよく覚えている。

 

僕は、何事も軌道に乗るまでがしんどい。

誰でもそうなのかもしれないけれど、

人間関係も軌道に乗ってきて、

自分が今年度何をするか、

何をしなければならないのか、

ということが固まってくるまで、

無駄に緊張して無駄に疲弊してしまうのだ。

 

いずれにしても、もう少し手を抜いて、

力を抜くっていうのを意識していかないといけないなと思っている。

 

まあ、すべての人間関係を良好にするまでには時間がかかるけれど、

誰か一人の人と仲良くなれればいいや、

くらいの気持ちで、一人から始めてみるっていうことは、最近意識するようにしている。

それを思うようにしてからは、割と力を抜いて過ごせることも増えてきたような気がする。

 

僕自身、今までの人生で身に着けてきた偏見や、固定観念みたいなものがあるし、

それは、間違いなく、親との関係性や学校社会の中で築かれたものだ。

でも、もうそれにこだわる必要もない。

初対面の人とうまく話せなくても大丈夫だし、

陽キャ、陰キャみたいなつまらない価値観も必要ない。

それが意味を成すのは、学部までだと思う。

 

いや学部ですら意味はなかったはずだ。

今年は、そういう意味のない価値観を白紙に戻していきたいな、と思う。

もう今年一年で学生も終わるし、それには最適なタイミングだといえる。

 

そういう学生時代に身に着けた価値観(スクールカースト的な上下意識)は、

人を悪者にしてしまったり、自分と合う人合わない人を大して関わってもいないのに、

決めつけてしまったりする。

こういう雰囲気の人とは自分は関わりません。みたいなことになりがちだ。

でも、「こういう雰囲気」の人(自分とは違う属性の人)と関わるからこそ、

違う価値観が学べたり、自分の盲点だったことに気づくことができたりする。

 

全然インプットしていないといったけれど、

そういえば、最近「グリーンブック」を見た。

youtu.be

グリーンブックで描かれているのも、まさに違う者同士が手を取り合うからこそ生まれることだ。

グリーンブックでも、人種差別という無意味な価値観に対する抵抗が描かれていたり、その価値観をぶち壊すための挑戦が描かれている。

 

そういう意味合いでも、僕は今年は、今までの人生で身に着けてきた、もう必要がなくなった価値観を捨て去る挑戦をしていきたいなと思う。

 

そんなことを考えながら書いていたら、結構いいテーマで書けたし、

割と書くことあるやん、っていう自分への突っ込み。

 

グリーンブックは本当にいい映画なので、おすすめです。

朝井リョウの「正欲」についても書こうと思ってはいます。

サクッとここで書いてしまうと、

グリーンブックともつながりはあるのだけれど、

とらわれていた価値観を捨て去るっていうのがテーマだと思います。

 

朝井リョウ氏の作品には、スクールカーストだったり、

今の若者の承認欲求だったり、僕らが生きづらいと感じてしまう価値観を題材にしているものが多い。

 

「正欲」でもそういうものが題材になっていて、

僕自身、これまでの言動だったり、人に自分の正しさを押し付けてしまっていたな、と思わされることが多々あり、

人生を反省させられるような作品でした。

 

生きづらさっていうのは、自分で作り出しているもんです。

僕自身、生きづらいなと思うことは今までたくさんあったのだけれど、

その生きづらさが最近軽減されてきているのは、自縄自縛になっていたことに気づいているからです。

社会から押し付けられる正しさを自分の正しさだと思い込んでいるとき、人は生きづらいと感じるのだと思います。

ある意味開き直って、社会から押し付けられる正しさと自分の正しさは全く別なんだとあきらめてしまうことは、大事なことなんじゃないかな、と思います。

社会に迎合しないっていうのは言うに易しではありますが。

 

それを考えるときには、福田恒存の言葉を僕は思い出します。

内的な正しさと外的な正しさの折り合いをつけていくっていうことです。

福田恒存は、処世術について肯定していて、社会でうまくやっていくのは大事なことだと。

社会の中でうまくやっていく、っていうのは、外的な正しさをうまく利用していく、ということ。

でも、人間、外的な正しさだけで生きているんじゃない。

内的な正しさも間違いなく存在しています。

 

簡単な例でいえば、春眠暁を覚えず、という通り、

春は寝心地が大変よい。だから朝起きる時間を遅らせたい。

そして、優雅な朝の時間を過ごしながら、花見でもして、お酒を昼からのみたい。

こういう内的な心地よさみたいなものは誰しもあるでしょう。

だけど、社会からは、仕事をすることを求められているし、そういう要請が否応なく訪れるわけです。

そういうときに、ちゃんと折り合いをつけて、自分でコントロールしながら、内的な欲求も外的な圧力にもうまく対処していく、それが処世術っていうものです。

 

でも、現代を生きていると、どうしても外的なほうばっかりに偏ってしまいがち。

外的なほうに偏って行くところまでいってしまうと、人は内的なものと外的なものの区別もつかなくなる。

これが自縄自縛モードのときです。自縄自縛モードがさらに加速すると、もうわけのわからん状況。

 

だからこそ、内的なほうを充実させていく必要がある。

内的なほうっていうのは、感動を伴うものです。

感動するっていうのは、理屈じゃないし、理由とかを聞かれても究極はよくわからん。

よくわからんけど、なんかいい。

そういうのを大事にしていこうぜっていうことを今年はやっていこうと、思っています。

 

話はそれたように見えて、実はそれていなくて、

朝井リョウ氏の「正欲」でも最終的には、内的なほうを優先させていく人たちが描かれているわけです。バッドエンドといえばバッドエンドなのだけれど。

誰かに理解されなくてもいいや、っていうあきらめが最終的には救いとして描かれていて、でも誰にも理解されないでもいいや、って思っていても社会から見つかってしまうと、何かしらの理解を押し付けてくる。

その理解は、固定化されたものでしかなく、社会が納得する形での理解、という浅はかなものです。

でも社会っていうのは、根っからそういうものでしかなく、そりゃ、社会っていうものは、ある程度多くの人に当てはまるある程度納得できるもので構成されているので、

本当の意味でマイノリティを救うことのできる社会は存在していないのではないか。

 

そんなことを考えさせられた作品でした。

 

外的な価値観にとらわれている人として検事の人が描かれているのだけれど、

その検事の人は人を裁く。理解できないものにはふたをして、今まで通りの価値観から理解を押し付ける。枠にあてはめることでしか考えられない。

アイロニーとして、そういう外的な正しさの象徴のような職業なのに、家庭はうまくいっていないっていうことが描かれている。

外的な正しさの中でどれだけ成功しても、家庭はうまくいかないこともあるし、外的な正しさって、もうすでに形骸化してきていて、外的な正しさの中で生きることによって得られるインセンティブはもうなくなってしまった。

昔は、外的な正しさの中で成功すれば、経済的にも成功し、家庭も充実し、理想の毎日を過ごすことができる!みたいな活気のある考え方があったはずだ。

現在でも若干残っているし、自分の中にそれがあることも理解している。

けれども、その外的な正しさを貫くことで得られるインセンティブは、もう老人たちが吸い尽くしてしまっている。

そういう話だ。

理想がない、ということでもあると思う。

理想は幻想だったと、気づいてしまっているから、生きづらい。

これは正常といえば、正常なことで、理想が幻想だったし、どれだけ頑張っても、得られるものはあまりない。っていうことに気づいて、そこに冷めてしまうっていうのは普通のことだと思う。

 

現代の日本には活気がない、と言われるけれど、

当たり前だ。理想がないのだから。

頑張っても無意味じゃん、

成功しても無意味じゃん、

そういう冷めた価値観のなかで生きているのだから。

 

理想がなく、頑張る意味もわからない人たちが向かう先は、刹那的快楽。

それも当然の話で、僕も意識していないと、向かう先は刹那的快楽。

生きていくうえで、理想とか頑張る意味みたいなものをしっかり自分の中にもてていないと、生きづらい。

そういうことを正欲を読んで思った。

 

手っ取り早く理想や頑張る意味を求めると新興宗教に身をゆだねることになるんかな。

僕は古典的な宗教や古典的な名作を知ることは、理想や頑張る意味を見出す上で大変有意義だと思う。

そもそも、ブッダとかイエスとか孔子とか老子とか最澄とか空海とかかっこいいやん。

かっこいい😍って惚れるのって内的なものやん。

こんな風になりたいな、っていうのが本来持つべき理想だと僕は思うねん。

こんな生活したいな、よりもこんな生き様で生きたいな、っていうほうが強度が強いやん。

そういう人生の師となる人物とは本でも出会えるし、リアルにも存在するかもしれない。

そういう理想と出会えて、心底惚れたら、人は頑張って生きようって思うし、社会からの圧力、外的なものに押しつぶされそうになっても復活できると思うねん。

それは別に古典的な名作だけじゃなくて、五条悟でも極論いいのかもしれん。

それはわからんけど、理想を見出して、燃えるっていうのは人間が根本的に抱えている欲求にあるような気がしてならない。

 

まあそんなところです。ってどんなところやねん。とここまで読んでくれるような忍耐力のある読者はツッコんでくれるだろう。

 

まあ、とりあえず、せっかく読んでくれたので、

最後にまとめておくと、

今年一年、僕自身が意識していこうと思っているのは、今まで身に着けてきたけれどいらない価値観を捨て去ること。

そして、内的なものと外的なものの折り合いをうまくつけていく処世術をみにつけていくこと。

また、自分を熱くさせてくれる理想を見出し、(もう見出しているけど)さらに熱く理想に向かって歩んでいくっていうこと。

あとは、僕自身が誰かの理想になれたらそれは最高やなと思いますが、それはまだ荷が重いかもwまだまだ未熟ものですしね。

とりあえず、フルスロットルで頑張っていきましょう!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

最近ブログを書けてないので、軽く更新する。

こんばんは。

お久しぶりです。

 

久しぶりの更新となってしまったので、

本当に軽く書きたいこと、最近起こったことなどを書いていこうと思います。

 

4月になりましたね。

3月末には学会もどきのようなものがあって、ひたすら忙しく、発表前日まで発表資料ができていなかった笑

 

いや、あれは笑えないくらい焦りましたね。そもそも、学会あるけど何発表する?っていう話になったのが、その2週間前くらいの話で、遅すぎました。

 

割と内輪な感じの学会だったので、多少良かったものの、そうでなかったときを考えると、ゾッとします。

 

とりあえず、頑張って発表しました!

めっちゃガチガチでカミカミだったけど!

それは良いことでしたね。

ちゃんと頑張ったので、そんなに激詰めされることもなく、あっさりと終わっていきました。

 

まあ、あとは、4月になり、修士二年になりました。

あと一年で学生生活も終わってします。

そんな感じなので、

ちゃんと頑張って、

ちゃんと後悔なく、

ちゃんとやり切ったな、

という清々しさを抱えて卒業したいなと、今のところ思っています。

 

ブログもちゃんと更新して、

ちゃんと生存報告を頑張っていきます!

 

それと、朝井リョウさんの「正欲」という小説を読んだので、近いうちに、その感想などを書こうとは思っているし、昨日も書いてみたんです。

しかし、なかなか難しいテーマで、なかなか書き上がる気がしない。

大作になる予感。

 

そんなことを匂わせながら、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

では!

宗教と精神性

今回は、宗教と精神性について書いていこうと思う。

これは、日本全体に広がってしまった宗教観と、

僕自身の宗教観についての記述になる。

 

まず、日本人全体として、どういう宗教観になっているかについて。

日本人は自分は無宗教だと自己認識している人が多い。

そして、宗教というのは、怪しいもので、ぶっちゃけ洗脳されてるんじゃないの?w

っていうのが普通の価値観なのだと思う。

 

これは、オウム真理教の事件だったり、

最近だったら、統一教会の問題だったり、

そういう新興宗教を大きくメディアで取り上げてきたことが影響していると思う。

 

ほかにも、創価学会だったり、幸福の科学だったり、

政治とつながっている宗教もあり、

それに対する不信感や、それってどうなん?という疑問があるのかもしれない。

 

ちなみに、僕は別にそういう政治とつながりのある宗教を否定するつもりでこれを書いていないし、貶める意味は全くないので誤解のないようにお願いします。

 

歴史的にみても、ヨーロッパではキリスト教と政治がつながっていた時期があり、

政治と宗教が癒着すると社会が腐敗していくという経験則からも、

宗教に対する不信感を抱いてしまうのかもしれない。

 

また、日本でも仏教と政治は昔から結びつきがあって、

政治にも利用されてきた歴史がある。

 

そしてニーチェが説いたキリスト教批判についても、

共通認識としてあるのかもしれない。

人間のルサンチマンが、奴隷的な道徳観を生み出しているという考え方だ。

そして、そうしたルサンチマンを利用しているのが宗教であると。

ルサンチマンを解消してくれる宗教は、

弱者を救済しているように見えて、実は信者を利用しているだけだと。

 

これは全くその通りだと思う。

常識的に考えて、その通りだ。

政治や権力と宗教の癒着は社会を腐敗させてきたと僕も思う。

 

けれど、僕は、宗教を考えるときには、その根本を見るのが大事だと思う。

宗教の理念と言ってもいい。

その宗教の目指すところを考えることが大事だと思うのだ。

 

具体的に言えば、

釈迦が本当に残したかった教えは何だったのか?

キリストが本当に残したかった教えは何だったのか?

空海は?最澄は?

そういうことを考えることが大事だと思う。

 

もともとのキリスト教は、

弱者を利用してやろう、

なんていう動機ではじまっているわけがない。

 

仏教も、政治とつながりをもって、

信者からお金を巻き上げよう、

なんていう動機ではじまっているわけがない。

 

歴史を経て、ねじ曲がってしまったり、

権力者の都合のいいように解釈されてきたのが宗教だからこそ、その宗教の本来の教えの部分に立ち返ることが重要だ。

 

日本人の本来の宗教っていうのは自然崇拝だ。

宗教でもないのかもしれない。

なぜなら具体的な善悪も教えも存在しないからだ。

 

僕は日本人の精神性の源流は、間違いなく自然崇拝にあると思う。

山をご神体と見立てたり、巨石をご神体と見立てたり、天地自然の万物に神が宿るというのが日本古来からの信仰のあり方だ。

僕らの先祖は、みな自然を崇拝してきたのだから、そのDNAには自然を神なるものとして扱う精神性が宿っていると僕は思うのだ。

 

日本人の精神性と宗教が切っても切り離せないほど密接につながっているのは、その信仰が自然崇拝だからだ。

日本人の根底に流れているのは自然崇拝だということを誰も説いていない。

それだから日本人は無宗教だと自分を認識する。

じゃあなんで、いただきます、というのか?

じゃあなんで、もったいない、と思うのか?

なんの宗教性もない荒廃した精神性しか持ち合わせていない人間は動物化するだろう。

動物には、いただく、なんていう価値観は存在しないはずだし、

あればある分だけむさぼりつくすのが動物ではないか。

 

じゃあなんで日本人は動物化せずに、その道徳観を維持できているのだ?

そこに古来からの自然崇拝が残っているからではないのか?

 

というのが僕からの問いかけだ。

 

自然崇拝は、1フェムトメートルも怪しくない。

これだけ恵まれた自然環境があって、

四季があって、美しい山や空や桜や海や川があって、

豊かな漁場や豊かな畑があって、

それで自然にありがたみを感じるな、っていうほうが無理がある。

 

日本の場合は、自然災害も多い。

けれど、古代の日本人たちは、それすらも神と思い、祀ってきた。

自然のよい部分、恩恵の部分、プラスの部分だけではなく、

ネガティブな部分も引き受けて、それでも自然を信じて生きてきたのが日本人なのだ。

 

人生にも四季はある。

冬のような寒さに耐えるような時期もあれば、

パッと明るく花開くような春の時期もある。

人間も自然の一部なのだから、当たり前だ。

生きていくっていうのは、ポジティブな面だけではなく、ネガティブな面も引き受けていくっていうことだ。

 

そういうたくましい精神性が日本人の中には今も根付いている。

その精神性と自然崇拝がつながっていないとは、僕にはどうしても思えないのだ。

 

僕はエヴァのカヲル君が好きだ。

エヴァQのカヲル君はたくましい。

覚悟が定まっていて美しい。

シンジのネガティブな部分も引き受けていくあり方がかっこいい。

 

あらゆる宗教は、もともとは、人間に知恵を授けてくれて、

人間がたくましく生きていくことを手助けしてくれるものだったはずだ。

それが宗教の本来性の部分だ。

宗教は逃げるために使うものではない。

逃げないために、力を借りるものだった。

その宗教の本来性が失われたことをニーチェは神は死んだと表現した。

 

その点でいうと、日本では宗教の本来性は、神社には残っている。

僕は人生から逃げないために、神社に通っているのだ。

神社には経典もなにもない。

ただ祈りが残っているだけだ。

 

僕は日本はすごいと思う。

神社は本当にすごいと思う。

僕には愛国心があると言われるけれど、

愛国心を持っているという意識はない。

 

ただ、日本はすごいと思っている。

この国に生まれてきたことに深い意味を感じるし、

この国に生まれてきたことに深く感謝している。

本来、僕の精神性と宗教観はそこだけだ。

 

それに気づくまでに、ずいぶんと時間がかかったし、

いろんな紆余曲折を経たけれど、

それにも意味があったなと、今では感謝している。

「灰の劇場」を読んだので、感想を書いておく。

久しぶりに、恩田陸さんの小説を読んだ。

 

 

恩田陸さんの小説にハマったのは、

大学1年の時だったと思う。

大学1年のときは、とにかく知性を高めようと、

高い知性に触れたい!っていう欲求が強くあって、

佐藤優さんの本を読んでいた。

 

佐藤優さんの本の中で、

恩田陸さんの「夜のピクニック」が紹介されていたのだった。

それで、「夜のピクニック」を読んでみたら、

めっちゃ面白くて、深い学びもあり、

とにかくいい小説だった。

 

小説の一つの効能として、

人生観をストーリーを通して深められるということが挙げられる。

恩田陸さんの小説は、何かしら、

人生観を深められるような視点が盛り込まれているように思う。

それは、今回読んだ「灰の劇場」でもそうだった。

 

この小説は、事実を基にした小説で、

一風変わった構成をとっている。

「事実」は、一緒に暮らしていた女性二人が飛び降り自殺をするということで、

その事実を基にした女性二人に対する想像の部分と、

「灰の劇場」を執筆している筆者のエッセイ的な部分から構成されている。

「灰の劇場」が舞台化されるという設定の小説の部分もある。

 

それらの部分が入れ替わりながら、話が進んでいく。

まあ、当然ながら結末は「事実」に行きつくわけだから、

読み始めなくても、結末は想像がつく。

 

「灰の劇場」

を読んで、思ったのは、

生活を選ぶのか、人生を選ぶのか、ということである。

この「灰の劇場」に登場するMとTという二人の女性(飛び降り自殺をする二人)

がいるのだが、

Tは、早々と結婚して、身を固める。

けれど、すぐに本当は夫のことがすきではないことを悟り、

結局のところ、離婚する。

 

なんということだろう、あたしにも感情というものがあったのだ、夢見がちで、無邪気で、うじうじした、娘らしい感情が。

なのに、自分にはそんなものなどないと思っていた。ずっと押し殺してきたもの、見ないふりをしてきたものに気付かないふりをして、重大な決断をしてしまったのだ。

灰の劇場, 河出文庫, 恩田陸, 94頁

 

これは、Tが、結婚に対して後悔の念を抱いている場面。

Tは、生活を選んで結婚した。

安定した生活を求めて、自分の感情を無視して、条件で結婚を選択したのだ。

 

僕も、もう24歳であり、

結婚というものについて考えたりする夜があったりする。

 

結婚する相手などいないのに、

漠然と、もう20代中盤か、

みたいな気分と同時に、結婚ってどんな感じなんやろ?

みたいな漠然とした妄想みたいなものだ。

 

僕は、昔にブログで恋愛観について語ったことがあった。

 

zakioza.hatenablog.jp

もう3年前か。

めっちゃ懐かしい。

 

根本的には、当時に書いた恋愛観と変わってはない。

ただ、もっと現実的な部分を思い浮かべる。

ずっと一人で生活していく寂しさについて考える。

 

世の中で結婚する人の大半は、純粋にその人を愛しているというよりも、

自分を大切にしたいという思いから、結婚しているのではないか、

と思ってしまう。

 

本来の結婚というのは、

愛を社会的な形にしたものであるはずだけれど、

それは形骸化していて、

中身の伴わない、形だけのポーズになっているような気がする。

 

けれど、一人の寂しさもこの歳になると考える。

独りぼっちで生活していくのは、思っているよりもきついことだ。

考えただけでも鬱屈した気持ちになってくる。

 

寂しさをどうにかしたい、

寂しい思いをしたくない、

そういうネガティブな動機の結婚は、

今や当たり前になってきているのかもしれない。

 

女性の場合は、子供を産んでみたいという場合もあるかもしれない、

お母さんという立場にあこがれを抱いている人もいるのかもしれない。

 

いずれにしても、相手を愛しているから、結婚するというわけではない。

 

これらは、すべて生活を選んだ結果なのだと思う。

先ほど引用したTの後悔は、生活を選んで利口に生きようとした、

けれども、利口に生きられない自分を自分の中に見た、

ということだと僕は思う。

 

たしかに、頭で考えれば、条件が良い方がいいし、

結婚してさみしくない方がいい。

自分のあこがれをかなえられた方がいい。

けれど、人生は頭ではない部分の決断の方が大事だ。

 

もっと言うと、

腹や胸から湧き上がってくる思いによる決断の方が大事だ。

 

えてして、そういう決断は、

一見すると損に思えたりする。

頭ではそっちに行かない方がいい、

とわかっているのに、

行ってしまう、とか、

 

そっちに行くのは怖い、

でも、

行きたくなる、とか、

 

そういう感じの決断だ。

もし、その決断を迫られたときに頭で理屈で自分を押し殺すとどうなるか、

人間はクズになる。これはわかりきっていることなのだ。

 

別に、生活と人生のどちらかを選ぶかという決断を迫られたときに、

毎回、人生を選び続けるのは難しいかもしれない。

 

でも、ここぞ!

というときには、絶対に人生を選び取る勇気がいる。

 

その、ここぞ!のときが、

結婚の人もいるだろうし、

就職の人もいるだろうし、

受験勉強の人もいるかもしれない、

 

いずれにしても、ここぞ!っていうときに逃げないことを心にとめておくしかない。

 

まだまだ、いろいろ書けそうだけれど、

ボリューミーな内容になってしまったので、

またの機会にとっておく!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

 

追記(2024/03/16)

生活を選ぶか、人生を選ぶか、という二者択一で全ての選択を分けるような書き方をしてしまっているけれど、

本来、人生と生活は切り分けることのできないものである。

1番良いのは、生活も人生も諦めないことなのだと思う。

うまくその折り合いをつけていくのも、また人生の一部のような気がする。

ただ、ここぞ!という場面は誰にでもある。

その瞬間には、生活を捨てでも人生を選ぶことも必要なのではないだろうか?

「おりる」思想(集英社新書)を読んだ感想

「おりる」思想という本を読んだので、その感想を書いていこうと思う。

 

 

この本は第一部と第二部に分かれていて、

第一部では、「おりる」というアイデア

第二部では、朝井リョウの作品を基にした「おりられなさ」

について書かれている。

 

第一部と第二部では、抱く感想が違ったりもした。

僕は朝井リョウの作品には親しんできたつもりだ。

とはいいつつ、

ちゃんとすべて読み通せたのは4作品で、

100ページくらい読んで飽きてしまったものもある。

 

僕が感銘を受けたのは、「どうしても生きてる」という短編集で、

これを読んでから、朝井リョウにドはまりした。

それから「死にがいを求めて生きているの」もすごく面白かったし、

「スター」も好きな作品だ。

 

朝井リョウと言えば、「何者」のイメージが強い。

僕は「何者」は映画だけ見たことがある。

けれども僕は基本的に、

映画で内容を知ってしまった小説は読む気にならない

という性分を抱えているので、

「何者」は積読されたまま放置されている。

 

それで、『「おりる」思想』の中でも朝井リョウの作品について言及されているのだが、

その批評?が面白かった。

ぼくが初めて朝井の小説を読んだころに感じたのは、これほどしらけた様子の登場人物たちの中に、じつは「好き」という直球の前向きさが封じ込まれている、ということへの意外さと、自分の中にそうした要素があるのなら、それに沿って好きなように生きればいいのに、という素朴な疑問、さらに、そう思いつつも朝井作品の登場人物らが自分にとっての「好き」と距離を取ってしまうことへの妙な納得感だった。

「おりる」思想, 飯田朔, 集英社新書, 230頁

僕も同じような感想を抱いたことがあった。

なんというか、しらけているのに、しらけきれないっていう感じ。

「おりられなさ」と書かれているけれど、まさにそんな感じで、

日本の社会は生きづらいし、苦しいし、しんどい。

 

でも日本の社会を変えるようなことは難しいし、そういうマクロはあきらめている。

自分の人生についても、正直あきらめそうになっている。

でも自分の人生については、あきらめきれない。

そういう葛藤が朝井リョウの作品の中では描かれているように思う。

 

朝井リョウの作品の中で描かれているのは、

人間の上下意識だと僕は思う。

誰かが上で、誰かが下という考え方だ。

 

例えば、お金持ちは偉くて、貧乏人はさげすまれるべき対象だという価値観。

特別な才能を持っている人、または注目を浴びている人が偉くて、

そうではない人は偉くない、もしくは下である。という価値観。

こういう価値観を総じて上下意識と呼ぶ。

 

ピラミッド型の思考でもある。

昭和の日本っていうのは、この上下意識を利用して、

戦後の復興を遂げたわけだ。

要するに、戦争に負けて、一番下まで落ち切った日本は、

ピラミッドの上のほうに理想を求めて経済的に発展することを求めたのだった。

 

でも平成になり、経済的には復興して、世界的にも裕福な時代になっても、

社会的な問題は全く解決しなかった。

解決しなかったというより、新しい問題が次々と噴出してくる世の中になった。

 

そしたら平成になってからは、

経済的にいくら発展しても世の中はよくならないという時代に突入した。

でも、日本人は何を使って戦後になりあがったのかと言えば、

上下意識なわけで、

その意識を利用してきたからこそ、

いまだにその上下意識の呪縛から逃れられないでいるのである。

 

たしかに経済的に発展して、物質的にすごく豊かになった。

コンビニは便利だし、アマゾンも便利だ。

スマホも今やなくてはならないものになったし、

誰でも素晴らしいテクノロジーを手に入れられるようになった。

けれども、政治はいつまでたっても腐敗し続けているし、

日本の政治が良くなったと思っている人はたぶんほとんどいない。

 

僕にとって大切なのは、

上下意識から「おりる」ことである。

誰かより上でありたいとか、誰かに勝っている状態でなければ気が済まないとか、

そういう意識から「おりる」ことが大事だと思っている。

 

別に自分が特別であることを証明しなくてもいい、

別に誰かと比較して優れていなくてもいい、

そうやって他人との比較や上下意識からいかに脱するか、

これは人生を通じて向き合っていくべき課題だと認識している。

 

僕は自分でいうのもなんだが、学歴の上ではピラミッドの上のほうにいる。

だから、たまーに上下意識に飲み込まれていると、

学歴のない人を下に見てしまっている自分がいたりする。

僕にだって上下意識はある。

それに飲み込まれているとき、

つまりハッキングされているときもある。

けれども、ハッキングされてしまっているな、と気づくこと。

 

これが大事なのだ。

ハッキングされている状態から抜け出すには、

ハッキングされているということを自覚すること、

ハッキングされているかもしれないと疑いを持つこと。

これしかない。

 

集合的無意識からのハッキングというのは、

いとも簡単に起きる。

それは映画「マトリックス」で描かれている通りだ。

この本の中で言われているのは、

「生き残る」のではなく、「生き直す」ということだ。

言い換えれば、今までの生き方の基準(上下意識)を「手放す」ということだ。

 

生きづらさ、というのは思い込みによって生まれる。

こうしなければならない、ああするべきだ、

というhave toの考え方。脅しのような感じ。

 

よく言われたであろう、

「学歴がないと大変」だとか、

「結婚しないと大変」だとか、

そういう脅し文句だ。

実際の人をよく観察してみれば、○○しないと大変、

と言っている本人のほうが大変そうである。

結婚を進めている本人が結婚に満足していないだろうし、

学歴を得ることを推奨する本人が学歴にコンプレックスを抱えていたりする。

 

ちなみに、本当に大変な目にあって乗り越えている人が、

〇〇しないと大変だ!いうことには真実味があるのだろうが、

本当に苦労して乗り越えている人は、

あまり人に押しつけがましく価値観を述べたりすることはないのだ。

 

学歴があっても大変だし、結婚しても大変なことはある、

それが真実なのだ。生きている限り、大変なこと、悩みは尽きない。

過剰に社会から、周りから押し付けられている価値観から、

一度脱却することが大事だ。つまり「おりる」こと。

 

一回、おりてみたけれど、やっぱり結婚したいから結婚する。

それはご自由にどうぞ。だし、

一回、おりてみたけれど、やっぱりお金をたくさん稼いで出世したい。

それもご自由にどうぞ。がんばれ!って感じだ。

 

一回、脱却してみて、自分という本質、

内面に軸足を持ってくるのが大事だと、本書にも書いてある。

では、内面に軸足を持ってくるということはどういうことなのだろうか?

本書では「自分が苦痛に思うことはやらない」と書かれている。

 

たしかに、苦痛に思うことをやらないことは、「おりる」ことにつながるだろう。

でも、自分が苦痛に思うことをやらずに生きていくことは本当にできるのだろうか?

苦痛に思うことをやらないで生きることは僕はできないだろうと思っている。

かならず、社会との摩擦の中で人間は生きていくことになる。

そこに生きづらさを感じながらでも生きる必要はあるのだ。

生きづらさを生み出すものは何なのか?

 

それはさっきの上下意識でもあるのだが、

これについては、内的自己と外的自己について語る必要がある。

人間には内的自己と外的自己がある。

簡単にイメージしてもらいたいのは、外面と内面だ。

 

人間が社会的に生きていくために、

後天的に身に着けるのが外的自己。よそいきの自分である。

そして、外的自己という鎧の内側に存在するのが内的自己だ。

家をイメージしてもいい。

内的自己が家の基礎の部分。外的自己が外に見えている家の部分。

人間は誰しも、この内的自己と外的自己がある。

 

「おりる」というのは、

内的自己に立ち返るということでもあると思う。

「おりる」必要があるということは、

内的自己(家の基礎)が脆弱であるということでもある。

メンタルが強い人は、どういう人かというと、内的自己が充実している人である。

内的自己が充実していて、

社会の荒波(集合的無意識、上下意識からのハッキング)を受けても、

微動だにしない強い基礎を持っていれば、

簡単には「おりる」という発想に至らない。

 

社会の中で生きるときに、なんで「おりる」という発想になるのかと言えば、

世の中から押し付けられる外的自己(競争意識、上下意識など)

に内的自己が押しつぶされてしまうからだ。

肥大化している外的自己に耐えうるだけの内的自己の充実が図れていないと、

「おりる」必要性が出てくる。

 

精神的に強くなるために必要なことは、内的自己を充実させることだ。

内的自己を充実させていれば、常に内面に軸足を置きながら、

外的自己をうまく利用して社会と折り合いをつけて生きていくことができる。

要するに、強い精神性を身に着けていれば、

競争社会の中でもその精神性を大切にしながら、

競争に身を投じることも可能であるということだ。

 

内的自己と外的自己を描いている小説が、

トルストイの「光あるうち光の中を歩め」であるから、

読んでみると良い。

 

内的自己を充実させて精神的に強くなるためには?

こんなブログに書き示せるほど、僕はまだまだ精神的に強くなれていないw

 

どんな結論やねん!とツッコミが飛んできそうで仕方がない。

 

 

でも、そんな簡単に精神的に強くなれるわけはないよね。

簡単に内的自己が充実するなら苦労はないわけで、

毎日挑戦していくほかないのだと思います。

とりあえず、目の前にいる人との関係性を深めていくこと、

感動するような体験を積み重ねていくこと、

それがヒントになっていると僕は思っています。

感動したいなら、ブルージャイアントを爆音で見ればいい。

今なら(2024年3月9日現在)ネットフリックスとプライムビデオで見れます。

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  • 山田裕貴
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