穏やかな夢
おはようございます。花奈です。
先日、親友が結婚致しました。
真っ直ぐ品行方正に進んで来た年齢の若者にしては早い結婚でありました。
彼女とは幼い頃からいつも二人三脚。
それは私が普通の子とは少し違う要素を持っているということが大きく影響していたでしょう。
彼女は1日のうちに声を聞くか聞かないかくらいのシャイで、私はどこか影のある馴染もうと必死だけど浮いているような少女でした。
夢はあるけど、言葉にできない。
お家と性格の都合上、規則を守りながらも自由に遊びたい。そんな上に出来上がった我らの友情でございました。
彼女のお家は小さくとも平凡で平和でございましたし自由もありましたけれども、彼女は根っからの大人しい子でありました。
私はお家は立派だが、家の中は荒れ果て、笑顔で取り繕うことが使命でした。学校では馴染み、家でも言うことを効き、その時その時で異なる自分を演じることを求められました。
固い規則の中で出会ったのが彼女でした。空気を読むことをしなくても済み、ルールを破る事をお互い良しとはせず、同年代のノリと強制から2人だけ少し外れながら世界を築いて育っていったのです。
私にとって、家族とは何かあれば裏切るような、条件付きの愛情を頂く場でした。私が初めて愛情に条件がつかないことを学んだのは彼女でありました。「私が私である限り、何があっても裏切らないだろう」という安心感を他人の彼女が教えてくれました。これは他人には異質に見えたことでしょうけれども、私にとっては他人の意見などどうでもいいくらい人生において大きな事でした。
学生時代特有の依存感覚は今は切り離せど、大切な人に変わりはありません。
私が選べなかった歩まなかった人生を彼女が見せてくれます。そして疑似体験させてくれるような気がするのです。
いつの間にか私は必然のように息苦しい世界に生きることとなりました。普通を求めただけだったけど、それが手に入るとは到底思えない道を歩んでいます。
「すぐに希望を諦めるな」と仰ってくださる人こそあれど、それほどまでに難しいことが多く積まれております。
特別を望んでいなくとも、特殊な人生を歩んでいるのです。日々の嫌気や止まりたくなる衝動のたびに、私は彼女を通して普通の人生を見て安らぎを得るのです。
人が病気によって変化していくのを見て、いくら人に迷惑をかけずとも奇異だと離れていかなかったのは彼女だけでした。親ですら振り向かなかった。手を貸してくれなかった。
夢のような結婚式を終え、無事に彼女は新居に引っ越します。
その結婚式を見て、私も運が良ければいつか、と思いながら美しい画像を集めるのです。いつかがなくとももう諦められるほどに美しいものを見せて頂けたのですが。
果たして、普通というものになるために、私に足りないものは何でしょう。
害を及ぼさない人と愛し愛され共に支えながら歩んでいくことの大切さと何より難しさが身体に染み付いています。
衣食住に困らず、凡ゆる暴力がない穏やかな家庭を築くことが、いつの時代でも私の夢として君臨するのです。
革命は続く
おはようございます。花奈です。
どんな時でも、いつも、
つらいことがあります。
でもそれを、誰かと一緒に変えてきたのかと言われれば、違います。
大体の問題は、私自身のことで、他人を巻き込むわけにも、悟らせることも出来ませんでした。他人を頼ることが、出来ませんでした。
そのような時期というのは、友人を心の拠り所にすることさえ、友人が穢れてしまうような錯覚に陥り、出来なくなります。
この歳になってやっと心の底から信用して話せたことが、沢山あります。
どんなに長くいても訪れる問題が、そう簡単に寂しさを埋めたり、歩む速度を一緒にしたりはしてくれません。
1番大きなことは、彼等は普通というレールの上に乗っていて、私は既に乗っていないところにあります。
その格差は大きく、理解し合えないことも多いにあるのでした。それでもいいと思えるようになったのが、最近です。
友人がいたから乗り越えられた、
だから良かったかと問われれば、
そんなことは別問題です。
友達と現実は別問題なのです。
レールの上に居れば同じ問題になったかもしれませんが、私はレールの外にいます。友人がいたからと行って問題解決にも心の支えにもなりません。
そしてそう思ってそういう役割の為に友人を置いていません。私の補助のための友人ではありません。利己的目的はありません。
だから、様々な問題とは、友人に知らせもせずに陰ながら1人でやってきました。
孤独とつらさと涙を、幸せなレールの上の人々に感染させるのは悪いこと。
穢い自分でこの人達を穢してはいけない、と距離を置く。隣が美しいからこそ、自分の穢らわしさが目立つ。比較対象がいるつらさ。そしてそれを公開出来ない程の中身。それを抱えながら笑い溶け込む生活をしようと努力することは、簡単だったと今でも思えないのです。
「友人が一緒にいたから良かったね」という言葉に答えるならば「一緒にはいなかった」と言うしかないでしょう。
一緒にいるとは何をさすのでしょう。
物理的距離?
精神的距離?
何かの支え?
何かの気の紛らわせる媒体?
その答えによって、その人が友達というものをそもそもどういう風に捉えているのかが分かるのかもしれません。
自分より人に恵まれている人は五万といますが、それを自分もしたいとは思いません。出来ないからです。
羨ましいとも思いません。
自分の力の限界を知っているからです。
確かに一部の人にとってカーストの頂点は気持ちが良いものかもしれないけれど、きっと、私には何も満たす大事なものとして、作用しない。
あれは意味のないポジションでしょう。
レール外の私に、レール上のルールを当てはめて物差しで測ろうとしたりすることに、私は傷付いたり苦痛を感じたり、虚無感を感じます。
努力しても築いてこれなかったものがありました。でも努力したら築いてこれたものがありました。
実のなりにくい木に出来た、やっとの思いの小さな実を斧で枝ごと切り落とされると悲しくなります。
あたかも「努力しなかったのね」と言われているよう。責められている気分になるのはなぜでしょう。私は友達すらも持つ価値がないのに持ってしまったから?
身の程知らず。お前なんかに、お前ごときに…そういいながらタオルで鞭のように殴られていた競泳時代を思い出します。
「そう言われるのは、私の価値が、努力して手に入れたこれに、見合っていないから。」
私が掴んでも何も言われない。
許される幸福とは果たしてこの世にあるのでしょうか。
GWといえば、思い出します。
数年前、必死の思いで上京し暴力から逃げた日を。明日がどうなるか分からない中で初めてお洋服を自分で選んだ。
GWは私にとって、
闘いが幕を開けた記念日なのです。
媚びは愛嬌
おはようございます。花奈です。
私は、職場の上司とよくぶつかります。
団塊世代、高圧的で、利己的で、支配的な男性です。セクハラパワハラ紛いのことは日常。でもそんな人とも上手くやるのが仕事。
元社長ですが、わけあって今の仕事をしている人です。案の定、自尊心が高く、柔軟性はありません。しかし世には、上司が上手く動いてくれなければ、下が困るということが沢山あります。能力ない上司に付き従ってるだけでは自分も潰れるのです。どうしたら上司に上手く動いてもらえるか、考えるのも仕事。
私は昔から"媚び"というのが一切売れません。「能力が高くても、媚びが売れなければ、世の中では悪目立ちをするのよ」とよく歳上のお姉様方に言われます。
男性優位、年功序列。
私が苦手なもの。
そんな世界から遠いところで幼い頃は育ちました。
長く居たスポーツの世界では、結果の数字が全てです。媚びを売っても自分個人の結果は変わりません。また、女性が男性を抜かすことも平気であります。スポーツといえども、途中まではやはり女性は努力で男性を越せたりするのです。強いものが1番偉い。潰されたくなければ速くなれ。そんな世界でした。
それは勉学も同じ。
学校のクラスでも一匹狼や幼馴染と2人きりの単独行動がメイン。女子同士の争いや、男性に対してモテることを意識したことはありません。自分よりも勉学もスポーツも出来ない人に時間を割くほど私は暇ではない忙しない幼少期を送ってしまったのです。
しかし、それこそが社会性を育てる必要な能力でした。
社会では成績が高いことをいい事にするための工夫が必要で、ただ数字が叩き出されれば評価されるものではなかった。
媚びと愛嬌と社交性。
疎まれない目立たない力。
「愛嬌という名の媚びを使いなさい」
「女を使いなさい」
と、何度言われたことでしょう。
それが自然に出来ない私はこの歳になっても、潔癖的な嫌悪感と闘いながら、社会に溶け込むのに必死になっています。
女性性を使うことが、仕事でマストと言われたら、摂食患者の私はどうすればいいの?
毎日毎日考えます。
努力したところで、やったことがない私にはどうすることが媚びで女性性なのか分からないのだけれども、出来た方が余程楽だろうと思える事件には多々遭遇するものです。
どうやっても男性に湧き上がるこの恐怖感や嫌悪感。察しやすい圧力。「屈し汚れろ!」と言われながら頭を地面に押し付けられ、泥水を飲まされているのと、何ら変わりを感じません。
「他の女性は汚れてると言いたいの?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではなく、自分には何か汚れてはいけない恐怖のシルクのようなものが身体に纏わり付いているのです。
それをすれば社会に馴染めるのですから、出来ることなら、やりたくて仕方がありません。羨ましいと思い続けています。
しかし、やり方も分からなければ、それに何故か恐怖感や嫌悪感までついてくる。
父が発するあの圧力を彷彿とさせます。
男に付き従わなければいけなかったこと。女にならないことを求められ続けたこと。
社会の仕事というものはどうしても私の苦手なものをフラッシュバックさせる。
息を殺して、都合よく笑って、お話をして、でも大人の女にはなってはいけないよ、と私に刻み込まれたコレは、いつ消えるのでしょう。
偉い人って何がえらいの?
偉ければ、人をゴミのように扱っていいの?偉ければ、頭を下げられるの?偉くなるのに何をしてきたの?偉くなるのに何を満たされてきたの?偉くなるのに自分でしたことって何?
偉ければ、強ければ、弱い人を傷付けてもいいんだ。私には、偉いは汚いに見えてしまいます。
本当に尊敬出来る人は、高い地位にいても、「偉い」と表現されないような雰囲気を持っているのです。力を誇示することが、私にとっての偉いの定義になります。ですが、大抵の人間は力を持てば誇示するのです。そうしてまたさらなる高みに上がる事に執念を燃やし、上ばかりを見て、自分はもう下には行かない、下にいるのは何かが足りないからだ、と言うのです。
私はそういう方々の耳元で囁きたい。
「貴方はたまたま"何か"を持っていただけで、たまたまその高さにいるのだとしたら?」
その人達の人生から、その他によって与えられたとも言える"何か"を一度外してみてみましょう。そうして、もう一度人生を歩み、同じ高さに辿り着けたなら、それはきっともう充分自分の力を信じられる、他人に誇示しなくてもいられる人間なのではないでしょうか。
そういう他人が、ただ運が良かっただけで人を踏み潰しているように歪んで見える私は、日々薬を飲み、社会に十二分には馴染めない笑顔を作るのです。
自分の中の何かを殺して。
春よ来い
おはようございます。花奈です。
長年、「春よ来い」と言うのは、今の時期でした。実家の方はまだ桜は咲いていないそう。
電車内にはお着物の女性達がいらっしゃって、それは綺麗です。小さな小物まで、着物は奥が深そうですね。
そんな横で私は、ホワイトニットにブラックスカート、ソックスにニューバランス、髪も顔もすっぴんで、久しぶりに休日に電車に揺られています。
いつも通りなのは腕時計とネックレスとパールピアスくらい。
しっかりお化粧して着飾るのが外出だと思っていた頃から一年でこういう休日が送れるようになったことを感慨深く思います。
外出も出来ない、家で只管寝て自己嫌悪に陥るのを何度も繰り返してきました。
休日にもオンオフの微妙なスイッチがあって、オフの中のオフを作ることで緩い休日というのが送れるのかもしれない。
休日というのはハイヒールの日だと思ってきました。その前までは毎日がハイヒールの日でした。
その私がハイヒールの日を逆に休日にして、見た目で目立つことを極力避けるようにし、職場では職場の地味な装いに徹し、影をなるべく潜めます。
なのでスニーカーの日は今や、お仕事のことを指していました。
休日のハイヒールの日はそれはそれはレベルの高いもので、1週間分がぎゅっと凝縮され、疲れた私には準備が難しく、この一年休日は寝込んでばかりでした。
そしてループする何も出来なかったことへの自己嫌悪。
今日初めて、1人の外出の感覚が掴めた気がします。シンプルな装いで、楽なことだけを意識して選ぶ。ふと街の全身鏡を見て「こんな自分もいいかもしれない」と思えました。
しかし案の定、休日の力の抜き方がまだまだ不慣れで、ネイルサロンの予定時刻に間に合わないので、大幅にズラす羽目になっております。
知人との待ち合わせにも加減がわからず何度も遅刻しています。
「これは休日である」とするだけで、
精密機械のように時間に厳しくぴったり動けていた今迄と違い、この一年でこれまた極端性を使って、"遅刻"をするようになりました。
未だに何度やっても上手くいきません。
これでオンにしてしまったらお仕事になってしまい休日の意味がない。
でも時間の仕様はオンである。
身体と頭がちぐはぐになります。
毎日毎日が本番で本気で家の中でさえお外と同じだと思っていた一年前迄の私。
こんなミスはありませんでした。
毎日を家の中まで機械のように動いていました。気を抜くときなんてなかった。
頑張っているのに約束時間に間に合わない。
加減が分からない。
薬の副作用の眠気が襲ってくる。
みんなはどうやってるの?と思っても、こんな初歩的なことは、皆自然と出来ていて、説明するほど分析なんてしていなくて、教えて貰うことは出来ないのです。
失敗しながら今迄のようにゆっくりと掴んでいくしかないのかな。
皆様、ご迷惑をおかけします。
普通な人のようになるには、もっともっと時間がかかりそうです。
春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山際、
少し明かりて、
紫だちたる雲の
細くたなびきたる。
動かなくなるその時迄
おはようございます。花奈です。
やらなければいけない、課せられたことが沢山あるから。
私はまだ、死にたいとは言えません。
その言葉を口にしたら折れてしまうような気がして、普通の若者の「死にたい…(疲れた)」と言うことも出来ません。
口に出したらこの力が抜けてしまう気がするのです。まだ疲れたと限界を感じてはいけない。まだやることがある。それが何なのか明確には分からないけれど。
歯を食いしばって、這ってでもやることがあったような気がするのです。
人間はいつも100%の力など出さないで、ゆるくゆるく毎日を繋いでいくものなのだそうです。ゆるくゆるくやっていて生きていける道だったならば、それが出来ていたのやも。
今は足の骨から痛むのです。
実際に足先の骨の歪みは年々ひどくなり、外科手術か痛み止めの選択をしなければならないのですが、そんな暇もなく力もなく、痛みで痙攣するのを無視して耐えるばかりです。
足が使えなくなっても、腕がある。
そうして一個一個なくなっていくのでしょうか。
何かに追い立てられるような脅迫感が背中に迫っていて、私は休むことが出来ません。止まったら追いつかれてしまって、今まで血が滲む思いでやった努力が、水の泡になってしまうんじゃないかと怖いのです。
今まで頑張って、涙さえ消して走ってきたのです。止まることはできません。堪えてきた何か莫大なものが、止まることを許しません。
腕がなくなったら首がある。
左目がなくなったら右目がある。
私の背中にかかるものは最早休むことより重く怖い量なのです。
私の中では、私が認識している限り、自分を含めて4人の人がいます。
私は今迄自分の解離性障害をそこまで自覚もせずに危機感も持たずにやってきました。
みんながなんとなく連携をとり、ぐちゃぐちゃの世の中をぐちゃぐちゃになりながらも、渡っていけたから。そんなことが小さいさなことだと言えるくらい、大きな問題が目の前にずっとあったから。
一人暮らしとなり、家族と離れ、年月が経ち、やっと最近は彼らと向き合わなければいけないことが増えました。
不自由を感じています。
前からこの不自由を感じていたけれど、これが当たり前すぎて、「不自由だと言うのには軽いのではないか?まだ不自由ではないのではないか?」と思っていました。
彼らと上手くいっていたら、そもそも彼らは生まれていなかったのでしょう。
だからこそ、なかなか自分では上手くいかないことが多いのです。
人に敬遠されることが増える程、話せなくなっていくものですね。
困っていて話しても、他人なら簡単にクリア出来てしまう課題ばかりなのでしょう。
私にとってそれがもうとてつもなく難題だったり「こうやるんだよ」とやり方まで教えてもらっても上手く出来なかったりします。何故だかはこれも分かりません。
「努力不足かな…」とついいつもの癖で考えてしまうくらいには。
病院の先生に、「みんな君なんだよ」と言われました。そう、みんな私だった者達です。独立する程、ここまで渡ってくる道は険しかったのか。
今日も明日も、他人に何を言われようと、折れないように、前を向いて。
春風に乗ってやって来た
おはようございます。花奈です。
私には運良く友達がいます。
私には出来過ぎた、とても素晴らしい優しい穏やかな人達です。
*H
まず、Hという幼馴染が居ました。生まれた時から母親同士が友人で、一緒になることが多かったパターンです。幼稚園も違いましたが時々顔を会わせる女の子で、小中を一緒にします。小学校は6年間一緒に過ごしました。とても自由でアーティスティックな子。そして人に好かれる魅力的な子でした。私は後について回っていただけで、その子の唯一無二かと言われれば、今でもよく分からない。Hには沢山の友達がいるけれど、私はひとりぼっち。私が後ろについて回っていて、時々「邪魔!」とされるような、関係でした。なにぶん幼い頃から顔を見てるので、本気の拒否を受けなかったのです。これがとても大きい。
でも気分にムラのある子でした。
それもこれだけ長く付き合うと、馴染んできてしまうものです。今は連絡もまばらでどこにいるのか何をしてるのか大体はよく分かりません。でも神出鬼没でひょっこり顔を出す、不思議な少女のままなのです。
*S
Sちゃんとは幼馴染で、小学校入学の6歳の時に出会いました。そこから高校3年生まで全て同じクラスでした。実は小学5年生まではそこまで接触が無かったのです。出席番号が前後だったり、マラソン大会の順位がいつも隣だったり、何かと近くにいました。でも彼女は極めて大人しく、1,2年生の頃は声が小さくて、聞いたことが殆どなかったくらいです。
一方で私は案の定浮いていました。3,4年生時点で友達を作ることを諦めました。あまりに人に気を使ってしまって、相手が不快感を感じたと分かった瞬間自分から離れてしまうのです。人の感情に物凄く敏感でした。作り笑顔と空元気というのを覚え始めました。つらいけれど1人でいることに慣れることに専念し始めました。時々Hの後ろを追い掛けてみたりもしますが、友達の多さと社交性に圧倒的についていけなくなって、結局1人でポツンとしているのでした。
ある時、何かの御礼だったのでしょう。お手紙を書いたのです。Sちゃんが私にか、私がSちゃんにか。
それは文通となって続きました。
相変わらず大きくなってもお互い学校ではそこまで口数が多くありませんでした。ぼんやりと空気感で話しているような感じでした。お手紙の方が饒舌で、そして2人とも温厚でした。
特に深い話や色んな事情を事細かに話し合ったわけではないのです。
これはもう時間と素の性格だと思います。
不思議なことは彼女からこちらへの怒りや悲しみや不快感を感じたことがないことです。極めて敏感な私が唯一感じたことがない人間。なにぶんSはとても女の子らしく可愛い。年齢が上がるにつれ、クラスのマドンナになります。私はそこにつく無口な男の子っぽいボディガードで、彼女を狙う男子は決まって私のことを邪魔だと言いました。
私には分かりません。
どうして彼女が私と一緒にいてくれたのか。クラスのマドンナはどうして孤立しがちな少女の私と一緒にいたの?
きいたことはありません。
でもある時彼女は言いました。
「みんなはさいきが強くて私が弱いと思っている。けれど本当は逆で、さいきは強そうに見えて弱くて繊細なのよ。私は弱そうだけど実は強いのよ。2人で1人、目に見えないように補い合っているのよ。」と。
護ってきた筈の彼女に、護られているのは私でした。不思議です。
どうして隣にいるのか。どうして話さなくても色んなことが伝わったのか。
そんな彼女がもうすぐ、結婚します。
*C
Cちゃんはもともと中学の頃に、Hの友達としてやってきた子でした。私もSもシャイだったのでその場に居合わせることが多いという印象でした。何しろHが台風の目で、目の前を通り過ぎていくので、その風に乗ってCちゃんはやってきたのです。
Cちゃんはシャイで照れ屋です。
高校生になった時、私達はHと別れ、私とSとCちゃん、3人が同じクラスになりました。田舎の自然エスカレーター式から一変した知らない人々の数。私達は3人でぎゅーっと丸くなっていました。
時々私以外の2人がお友達をつれてきたりしました。私は相変わらず1人か、その2人の後ろで絵を描いていました。
どうにも2人以外に馴染めなくて怖かった。その頃にはもう意識をして人が怖いのだと思うようになりました。SとCちゃんだけからは攻撃性を感じませんでした。ただ昔からの空気のようでした。後ろで静かにしていようと思っていました。そしてCちゃんは、Sと私の補完し合う特殊な関係と、私の弱さを初めから分かっていて2人を護るようなポジションに居ました。いつも、分かっているよとばかりに、Sのほっぺをふにふにして、私の頭をポンポンとして、ちょっとぎこちなく笑うのです。饒舌じゃないけど愛情を感じる、父性のようなものを放つ人です。ちょっと離れて見ているような、でも隣にいるような。社交性に溢れているように見えないのに沢山お友達がいます。憎めない、みんながちょっと好きになるような、陰ながらみんな仲良くなりたいと思っているようなシンプルでかっこいい人です。
*A
そんな高校時代、静かにしていた私の背後に台風2号が現れました。
Aです。
猪突猛進という言葉がピッタリなのです。
何もしていないのに、何も話していないのに、というか寧ろ逃げているのに!Aは兎に角追ってくる追ってくる!
「さいちゃん可愛い!お友達になって!お友達になって!」Aは結局びっくりしてダッシュして逃げる私を追い続け、ついには捕獲され、なぜか分からないけれど、今もなおずっと愛を叫ばれています。裏表がなく、攻撃性もなく、根っから愛を叫ぶ子なのでした。
実はどの子もとても繊細で、話し下手だったらしいのですが、それはあとから気付いたりきいた話し。彼女達はその中でも1番隅っこに隠れている私のヒーローでした。
簡単に言えば、繊細な人間がただ、集まりました。
そこから去年の今頃、Mが来るまで、私に新しい友達はいませんでした。頑張っても知人。Mのことはまた後で…。
彼女達は、今も昔も結局とても不自由で苦しんだ私の人生の中の、唯一の光であり、宝。そこで人生の運を使い果たしたのだと言われれば、何となく納得して、「それも悪くないな」と思えてしまうくらいの。
私はただ純粋に、彼女達の根っこの清らかさと美しさに心底惹かれています。
私の人生に彼女達を越すものはないと思える、愛してやまない存在なのです。
世界に憧れた
おはようございます。花奈です。
私はかつて原家族全員のケアをしていました。全員の悩みや相談や愚痴を聴き、お互いに対する不満を全て受け、仲裁をとり、家の中の唯一の癒しであろうとした。笑いながら蝕まれていきました。蝕まれていくことにすら気付かなかった。
笑顔は本物。
世界の皆の役に立ち、平和に動く為に少しでも力を貸すことができるのは素晴らしいこと。何もできない、価値のない自分にとって少しでも何かが出来るなら、それはこの上ない役割で、幸せ。
他人が幸せになるのなら、喜んでこの身を差し出したい。それが、まだ変わらぬ染み込んだ私の価値観です。
最近、所謂"メンヘラ"と呼ばれる方々が「私は蝕まれている!」と発信している姿を見ます。その自覚と発言力、現実がどうであれ素晴らしいものです。
この代々受け継がれる機能不全を破壊する為に、あることをきっかけに私は家を出ました。気付けばあんなに頑張った筈なのに、時間も経歴も財力も自立も全て手の隙間から零れ落ちていった。そして身体が蝕まれていきました。
笑いながら身体が削れていきました。
それが役割だと思っていました。
この身を捧げて幸せが成立するならば。
私は消える為に生まれて来た。
でもそれは他人を幸せにしないのだと、知ってしまいました。
だから、私は同じ思いをした伯母を頼りに家を出た。
今は、無一文の貧しい生活をしています。障害者となりました。障害があるなんて思ってもいなかったのに、私はどうやら不自由であったようです。
機能不全を破壊することは、成功率が不安定なもので。破壊されたまま皆が何も気付かず終わるかもしれない。歪みは直らずに私だけ怨まれて終わるかもしれない(怨まれるくらいなら問題ないのですが、見せかけの幸せを壊してしまった罪悪感はやはりあります)
でも私は、愛しているからこそ、この人たちを信じて選んだのです。
何十年かけても最後には希望が見えるかもしれない、でも見えないかも知れない。気付くかもしれない。
この不全に。
そして機能した状態で再び顔を会わせることが出来るようになるかもしれない。
その為に私は一度壊しました。
私がいつの間にか一家の機能不全の生贄として要となっていたからです。
私が消えた要塞は、沢山の空き巣に入られて、今もなお崩壊を続けています。
最初は自分の意見を持って母と向き合いました。母はノンストレスな性格から精神を病むようなところまで、変わりました。そしてこの間根源のような祖父が亡くなりました。
次に父と向き合いました。
父は私となかなか向き合ってくれません。いつもくるりと背中を向けられるのです。今はその状態です。
昔とは変わりました。論理的だと信じていたけれど、それは私が受け入れる体勢をとっていたからであって、私が本気で向き合おうとすると、彼は現実から逃げて行きます。暗い影がまた、彼自身の過去にもあることを知っています。
私は自分の為に生き、私のことをやることで、家族がこんなに壊れていくなんて知らなかったし驚いている。そんなにも自分の為に生きるって特殊だっただろうか?でもやはり、戸惑う事が多く、自分も自分でやったことがなかったのだと思い知らされます。
他人の為に生きる事が私にとってはラクでした。何故なら、そうに育てられたから。その為に育てられたから。存在意義を失って、今までのやり方が全て通じなくなった、生きる術が分からなくなった、進む方法をそもそも教えられていなかった。だから、食べなくなりました。どうに進んだらいいのか知らなかったのです。
つくづく思うのは、親は子育ての中で、生きる方法を教えるのですね。どんな動物でも、生き抜く進む方法を教えるのです。最低限の方法を教えたら退散です。そう、最低限です。
生きることを知らない、「人間の形をした空洞の人形」それが私が自分から拭い去れない感覚です。
人によっては透明人間だったり、膜が張ったようだったり、表現の仕方は沢山あるようですね。どれも同じことを言っているのだと分かります。
私達、と言っていいならば、私達はこの世にいないかのようですよね。世界に参加していない。参加できない。でも世界を見続けさせられている。
人形は笑います。
人形は動きます。
糸で吊られて。
糸を切られた私は、あとはゴミ箱にいくだけ。朽ちるのを待つだけ。どうに壊されるのかは分かりません。
最後に糸が切れた人形があの見せられ続けた世界に憧れて、自分で糸を張ろうと繋ぎ合わせる虚しい姿を、皆様どうぞご覧下さい。