デリバティブ取引の基本と機能

デリバティブ(derivative)は、英語のderive(派生する)の名詞形です。すなわち、デリバティブは、ある元となるものがあってそこから派生した商品の総称で、このある元となるものを「原資産」といいます。デリバティブの日本語が派生商品とされているのもここからきています。

デリバティブの原資産は、伝統的な株式、金利、債券、通貨、商品等のほか、天候、クレジット、キャッシングリスク等の無形物や、デリバティブを原資産とするデリバティブが出現するなど、大きな広がりをみせています。

ところで、派生とは具体的に何を意味するのでしょうか?派生商品は、その価値が原資産の価値に依存して決まる商品の総称です。すなわち、派生とは原資産の価格が変動するとその影響を受けて価格が変動することを意味します。

実は、ここがデリバティブの本質となるところです。すなわちデリバティブは、原資産の価格変動の影響を受けて価格が変動するといっても、同じ方向で同じ率だけ変動することはもとより、逆の方向に変動するとか、原資産の価格変動がある水準に達した時だけ変動するとか、さまざまなパターンが存在します。

これはまさしくデリバティブ取引を行うユーザーのさまざまなニーズを汲み取った商品設計が弾力的にできるデリバティブの大きな特性ということができます。さて、このデリバティブとか派生という名前から連想される言葉は脇役です。

すなわち原資産が主役とすれば、デリバティブは脇役というわけです。そしてこの脇役は、金融・経済活動の各面でいまや主役に引けを取らぬ極めて重要な役割を演じています。

しかしデリバティブ取引が持ち味とする資金効率性の良さを乱用すれば、主役の障害になるどころか金融システム全体が機能マヒとなるシステミックリスクを招来する恐れもあります。

デリバティブもあくまでもツールですから、その使い方次第で大きなメリットを発揮することもあれば、大きなリスクを招く恐れがあることに留意しなければなりません。

デリバティブ取引は、その損益パターンにより先物ないし先渡し、オプション、スワップの3つに大別できます。このうち先物と先渡しは、将来原資産をあらかじめ当事者間で合意した価格で売買するという取引内容に違いはありませんが、先物は、それが取引所において取引されるのに対して先渡しは、取引所以外で取引が行われるもので、これをOTC(店頭)取引といいます。

デリバティブ取引と現物取引の違いをここでは、デリバティブ取引を代表する先物取引現物取引の違いという形でみることにしましょう。先物取引は、将来の一時点においてある原資産を現時点で決めておいた価格で売買することを約束する取引です。

これに対して現物取引は、現時点においてある原資産を現時点で決めた価格で売買する取引です。このように、先物取引現物取引の違いは、取引の対象物を将来の時点で受渡し決済するか、現時点で受渡しするかにあります。

また、それ以上に重要な相違点は、現物取引では当然のことながら現時点の価格での取引となりますが、先物取引においても現時点において将来、受け渡しする価格を約束することです。そしてまさしくこの点により、先物取引が現時点で売買価格を固定することによって先行きの価格変動をヘッジすることができるという重要な機能を持つことになります。

デリバティブ取引は、原資産に含まれるさまざまなリスクを加工したうえで、加工されたリスクを、リスクを回避する主体からリスクを進んで取る主体に移転する機能を持っています。これをもう少し具体的にみると、デリバティブ取引は、原資産が持つ価格変動リスク等を分解、加工して、それに価格を付けてリスクを引き受ける意思と能力のある主体に移転する取引です。

日本のODAは民主化に役立っているのか

軍事政権とまともな外交関係をたもちつつも、一方で日本政府は民主化勢力ともパイプをつなぐ努力をしていると強調する。二〇〇二年八月に、G8諸国の現職外相としては、ビルマ現政権発足以来初めてビルマを訪問した川口外相は現政権幹部と会見したほか、アウンサンスーチーとも時間をかけて話し合った。同年一一月、カンボジアプノンペンで開催されたASEAN+3首脳会談の場で、小泉首相ビルマのタソシュエSPDC議長と会談し、国際社会が民主化の象徴としてとらえているアウンサンスーチーの処遇を含めて民主化へのいっそうの努力を懲憑した。

この時、タソシュエ議長は、国際社会が注目する軍事政権とアウンサンスーチーとの対話は進展しているといいたかったのか、「女史(アウソサンスーチーは関係閣僚と一三回、連絡将校とも一〇七回、既に会っている)などと、わけのわからないことを答えている。ともかく、こうした首脳会談に代表される働きかけが、日本政府のいわば両睨みのスタンスを示すものとされる。

川口外相とアウンサンスーチーとの話し合いのなかで取り上げられた経済援助についていえば、一九八八年以降、日本からの新規円借款は供与されてはいないものの、それなりの援助は続いている。二〇〇二年四月には、ヤンゴン市内の病院医療機材整備のために七億九二○○万円を限度とする無償資金協力が決まった。アウンサンスーチーが自宅軟禁から解放された五月には、日本が賠償協定によって役務を提供し建設された歴史を持つ、バル・チャウツ第二水力発電所補修計画に対する無償資金協力が決まった。当該年度においては六億二八〇〇万円を限度とする資金協力である。

出生数の転換

わが国の人口は、この百年間で約三倍に増加した。幕末以来の経済発展、国力伸張の背景には、人口増加圧力があった。長い間日本は、「国土は狭く、資源が乏しいのに、人口が多い」ゆえに貧しい国だと教えられてきた。

人口の増加は、一方で日本人の心のゆとりを奪ってきたが、他方、和を尊ぶなどと口では言いながら日本人を激しい競争に駆り立てる背景にもなってきた。それは物量的な労働力という意味でも、精神的な向上心という意味でも、二十世紀におけるわが国活力の源泉であった。

今日直面している総人口の減少に先立つ出生数の転換は、すでに半世紀前に極めて急激に起っていた。第二次世界大戦が終わってまもない時期にベビーブームがあり、その直後、出生率は四九年から五九年のわずか十年間で四・三二から二・〇四へと、世界的にも例を見ないほど急速に低下した。

当時そのことは、それまでの「人ばかり多くて貧しい国」から脱却するための施策が成功したものと考えられた。しかし人口の増加がわが国の成長・発展にとってむしろ原動力であったことを、今日、人口の屈折点に立って初めて痛感させられている。

わが国の人口が減少した経験は、約二百五十年前、十八世紀中期にまで遡る。徳川吉宗の時代であり、享保の改革はおそらく人口停滞によるデフレの時代に行われたのであろう。それでも約七十年間の人口減少率は四・五%であるから、横ばいないしは微減というところである。

不行使に力の源泉

この決議の経過を追うと、アメリカが最初に提案した案では「武力行使」という表現になっていたが、中国と旧ソ連が強い難色を示し、英国が「最小限」という表現を入れる伸裁案でいったんP5案がまとまった。しかし、さらに非同盟諸国がこれに反対したため、中国がその意向を汲んで「武力」という言葉の削除を求め、それが受け入れられるという経緯があった。その過程で中国の発言権の裏付けになったのは、言うまでもなく拒否権である。

似た例は、九二年十一月のボスニアヘルツェゴビナに対する国連保護軍の増派決議でも見られた。強制措置をうたった国連憲章第七章を引用し、「当事者の同意」を必要とする平和維持活動(PKO)から一歩踏み出そうとする米国案に対し、中国は「第七章の引用を削除しなければ拒否権を使う」と英国に通告して妥協を迫った。結局米、英はこれに応じて文言を修正し、中国が棄権に回ることで決議は採択された。

このように、P5は明示にせよ黙示にせよ、拒否権の行使をちらつかせることによって決議案の修正を迫り、結果的に他の常任理事国から妥協を引き出すことができる。自国に有利なように表現を薄めさせ、さらに棄権することによって、結果的には決議を成立させながら修正案には同調しない、という微妙な立場を取ることができるわけだ。天安門事件以来、国際社会から孤立し、強い姿勢は取れない一方で、非同盟の声も代弁せざるを得なかった時期の中国としては、拒否権は貴重な外交上の武器だったと言える。

この例からも分かるように、拒否権は、むしろ行使しないところに力の源泉がある、とすら言えるだろう。だがそうであればなおさら、なぜP5にだけ、この強大な特権が与えられているのか。という疑問が出て当然だろう。実際、安保理の改革をめぐっては、常任、非常任理事国の枠の拡大と共に、この拒否権の見直しを主張する国も多い。しかし、現実には、安保理も大量の近代兵力を持つP5に頼らざるを得ない、というジレンマがあり、拒否権を否定する声は主流にはなっていない。

フィリピン・権威主義開発体制の陥穿

フィリピンは長らくアメリカの植民地であった。アメリカの指導下に「アメリカンーデモクラシー」を採用し、フィリピンはアジア忙おいては希有な民主主義代議制を擁した国として、第二次大戦後の開発期を迎えた。独立後も国民党と自由党の二大政党制のもとにあり、事実、政権はこのふたつが交代しながら進んだ。

マルコスもまた二大政党のもとで戦われた一九六五年の総選挙で大統領に選出された。一九六九年の総選挙でも、マルコスはフィリピンの選挙につきものの「カネとネポティズム」にまみれながらも、ともかくも民主的手続きをもって大統領に再選された。アメリカンーデモクラシーの「ショウーウインドウ」としてのフィリピンの代議政体は、少なくとも形の上では守られていたのである。

しかし、行政府が弱体であり、権力をもつ官僚テクノクラートをシステムとしてもっていなかったこの時点でのフィリピンは、財政的規律が弛緩しており、膨大な財政赤字を恒常化させていた。これに危機感を抱いたマルコスは、国際通貨基金IMF)の援助をえつつ、厳格な緊縮財政政策を発動した。

放漫な財政に馴れきってきた経済はこれにより「貧血状態」となり、ベトナム戦争の鎮静化にともなう「特需」の減少がこれに重なって、この時期のフィリピンは極度の経済的低迷を余儀なくされた。緊縮財政に対する国民諸階層、産業界からの批判は鋭く、マルコスはここに大統領三選禁止条項を無効化して、一九七三年九月、戒厳令を布告した。政治権力のすべてをマルコスに集めた、個人的色彩の強い集権的権威主義体制への移行であった。

EC共通農業政策の成功

ECの予算の中で農業予算が大きなウェイトを占める事実は、ECがいかに共通農業政策を重視していたかを物語っている。対外的には、EC農産物を保護するための境界価格が設定された。

境界価格はデュイスブルク標準価格から代表的な輸入地ロッテルダムヘの運賃、その他諸経費を差し引いた水準に設定される。輸入品のCIF、運賃・保険料込みの価格が境界価格以下になると、その差額が課徴金として徴収される。

この課徴金政策は、安価な国際農産物のEC流入を阻止するのに威力を発揮した。輸入品の価格水準に応じて変化する関税と違って、固定したEC価格が基準となる課徴金制度の下では、ECへのダンピング輸出も難しくなる。こうして、域内統一価格の設定による農産物価格支持制度は、加盟各国の農業所得を保証し、引き上げるという実績を残したのであった。

共通農業政策のもう一つの柱、農業の構造改革政策は、長期的に見れば、より重要な意味を持つ。経営規模の拡大、機械化を軸とする農業近代化は、共同体政策の最重要課題である。農業近代化なくして産業統合もあり得ない。1972年にECは農業近代化計画の指令を採択した。

EC農業問題にとって最大の構造問題は、農業従事者の離農問題である。農業の近代化は生産性を向上させ、離農者を増やす。事実、戦後まもなくの時期に2,000万人近くあった農業人口は、1970年代を通じて着実に減少し、1980年代には700万人台にまでなったのである。

EC共通農業政策の成功は、その反面、国際的な紛争を巻き起こすことにもなった。とくに世界最大の農産物輸出国アメリカとECとの対立はガットのウルグアイ・ラウンドにおいて頂点に達した。アメリカの過剰農産物が安値で流人する事態に対して、ECの農業所得を保証する正当な価格を維持するために課徴金制度を創ったのだというのがECの言い分である。

アーバンデザインチーム

昭和四八年の末、長かった工事も終わり、土を埋め戻して、地上部分をもとどおりにする原形復旧が行なわれようとしている情報をキャッチした。三万人ほどの職員をかかえる膨大な組織である横浜市役所では、このような、原形に戻すという工事は軽微な問題で、ほとんどはそのまま行なわれてしまう。とくにこの工事は、原因者である地下鉄工事を担当している、交通局の問題であり、交通局の予算で行なわれる。交通局は公営企業会計といって、税金で賄われる一般会計とは異なり、大きな点だけをチェックされるだけで、ほとんど交通局が自由に執行できるのである。

こうした状態のなかでも、情報をキャッチできるようになるのは、総合的行政を行なう第一歩であるが、とにかくそこまでは達していた。原形のままに復旧しても、あまり意味がない。そこで原形復旧費を元手にして、もっと歩行者を中心にした、憩いの場になる案をだそうということになった。このためには、単純な原型復旧に比べて、とうぜん若干の時間を要することになる。「三月には予算市会が始まるから、工事が終わっだのになぜ原形復旧をしないのかと責められると困る」というのが、交通局のいい分であった。なにしろここは市議会の真ん前の場所である。

このための会議が招集される。このていどのものでも、交通局はもちろん、道路管理を行なう道路局、緑を植える緑政局、庁舎の前なので庁舎管理を行なっている総務局、その反対側は防災街区造成事業を行なっているから、その担当の都市整備局、地下埋設物に関する下水道局、それに招集者の企画調整局という、六局になる。実際にはこのほか、議員の駐車場に関する市会事務局や、水道局、それに、市以外で県警察、東京電力電電公社などが、すべてからんでくることになる。

一週間のスピードでつくりあげた、アーバンデザインチームの素案が示された。これが五年前なら、議会にいいわけがたたないということで、ずいぶん紛糾したことだろう。しかし、企画調整局の、五年に近い実績がものをいった。なかでもあの高速道路地下化を、強力に実行した印象が強かったろう。そこで二、三ヵ月遅れるていどならということで、実施案をつくってみることになった。

いままでは、自分の局だけの責任を果たしていれば、それですんだ。怖いのは市議会であるが、これも各常任委員会は、局別にタテ割り化しているから、自分の局だけが治まればいいのである。だから、できるだけ他部局に問題を広げないように原形復旧でいいじゃないかということになる。企画調整局のような立場からいわないと、総合的な視点からの案は出てこないのである。