枕の上で夢に溺れて

極上の寝具で眠りたい

機を逃し続けた少年

 先日、友人の結婚式に招かれた。

 こんなに美しいものがあるんだなと思うほど、花嫁姿の友人も挙式もすべてが美しかった。それほどの深い感動を体験した。けれど、このような華やかな催しに、親に連れられるワケでもなく関わるなんてことは、あっても随分と先の話になるだろうと思っていたこともあって、どこかずっと気が気でなかった。

 

 その日花嫁としてバージンロードを歩いていた友人と、今からだいたい1年前に、2人で食事する機会があって、そのときはまさか1年後に結婚式を挙げることになるなんて思いもしてなかったけれど、それでもきっと早いうちにするだろうとは思っていた。

 何よりそのとき僕よりもよっぽど前を歩いて、手も届かないような大人の女性に見えて、なんだかひどく惨めな気持ちになって、異常なほど見栄を張って、歩調を無理やり合わせるようなことばかり言って、帰り道、それがあまりにも虚しくて、ひどく後悔したのをよく覚えている。

 

 それから暫く時は経ち、結婚の知らせを聞いた日の夜、僕はどうもうまく寝付けなくて、様々なことを深く考え込んでしまった。そうしているうちに「あぁそっか、僕はずっと、あらゆることの機を逃し続けて、まだ少年時代に取り残されたままなんだ」ということに気付いてしまった。というより、薄々感づいていたけど、確信に変わったというのが正しいかもしれない。

 

 20歳になったばかりの冬、友人宅に招かれて、お酒なんか飲みながら、鍋をつついていたとき、ふいに気分が落ち込んできて、こっそり泣いてしまった記憶がある。

 友人宅に集まって皆で夕食を食べるだとか、そのまま泊まるとか、そういうことがあまりにも不慣れで、そんなことが未だに「特別」であることが、みっともなかった。みんなはきっと、こういうことも既に暮らしの中の一部なんだろうと感じて、居たたまれなかった。

 

 先日の結婚式で出てきた食事も、まだ精神年齢が追い付いていなくて、喉を通らなかった。「ゴチに出てくる料理かよ」なんておどけてみせていたけど、すっかり気疲れして、終わる頃にはぐったりしてしまった。こんなコース料理に物怖じせずに立ち向かえるようになるまでどれぐらいかかるだろう。

 僕は牛丼屋にさえ入ったことが無いし、そもそも家族以外の人と食事する機会がそれほど無かったせいか、単純に異常な偏食でもあるのも起因しているとは思うが。

 

 式のあと、そこで再会した友人らが、そのまま家に戻って遊ぶけど、来る?なんて言うから、ふたつ返事でついていった。このときの「遊ぶ」は、対戦ゲームなどを意味していた。

 それから夜が更けるまでワイワイ騒ぎながら、スマッシュブラザーズマリオカートに没頭した。時間を忘れるほど楽しかった。

 

 他人から「遊ぼう」と言われて思い浮かべるのは、僕は未だに、菓子やジュースを用意して、家でゲームとかをすることだ。きっと今の僕と同じぐらいの年齢の人だと、もう少しなにかこう、もっと成熟したこと、例が思い浮かばないほど分からないけど、違うことをするんだろう。

 でも僕はそれさえも未だに「特別」だった。ゲームをするときはいつも1人で黙々とプレイしていて「友達と遊ぶこと」自体、まだどこか「暮らしの一部」になりきれていない。

 その上、夜遅くまで遊ぶことにさえまだ躊躇いがある。そわそわしてしまう。時計ばかり気にして嫌な気持ちにさせたこともある。怒られるわけでも、門限が厳しかったわけでもないのに「日が暮れたら帰らないと」という精神性が抜け切ってない。

 

 学生時代、仲良しの女の子と出掛ける機会が数度あって、絶対に嫌われたくなくて、集合時間の数時間前に現地に着いて、これでもかと思うほどその街を練り歩いて、リハーサルのようなことをしていたのをよく覚えている。街ぶら番組のロケハン担当ADになれるんじゃないかと思うぐらい。

 これぐらいの歳の人たちがどういう休日を過ごしているのかまったく分からなくて、ぼろが出るんじゃないかと怖かった。昼食にラーメン屋とか丸亀製麺を選んだのも、当時でもベストだと思ってなかったけど、知らない街のちゃんとした店に入る度胸が無かった。

 

 機を逃し続けると、精神が成熟しきらず、心が子どものまま、身なりだけが大人になってしまう。

 だから僕は今でも失敗をすると、すぐにメソメソ泣いてしまう。ご飯茶碗を割ったときや、お茶を溢して机の上を水浸しにして本や書類を濡らしてしまったとき。ここ1,2ヶ月にあった、そんな些細な失敗にも耐えきれなくなって、やりきれなくなって、めそめそ泣いてしまった。

 

 僕に限ったことじゃなく、みんな全員がかつて子どもだった時期があって、しっかりあるべき時期に相応の出来事を経るなどして、大人という上着を手に入れて、それを羽織ることで大人になっているのかもしれない。

 みんなどこか子どものまま、そんな部分をうまいこと折り合いをつけて生きている、なんてことはないんだと思う。僕がただ、然るべき道を通らず、機を逃し続けて、大人という上着を羽織れずにいて、こうして機を逃してしまった。だからきっと、売り出し期間中にちゃんと手に入れることができなかった上着を今後手に入れることも難しいのだろう。

 

 みんな、すごいよ。

 置いていかれてしまった。取り残されてしまった。

 僕はもう、手遅れなのだろうか。

 

 こう見えてぼくは「大人っぽい」って今までよく言われてきた。「っぽい」というところがすべてで「大人」ではなかったんだと思う。これからもずっと、「大人"っぽい"」ままなんだと思う。大人を繕うことで、大人"っぽく"生きていくことで、どうにかやるしか、やり方がもう分からないから。

書籍の山崩れ

 いわゆる「積読」と呼ばれている行為である「買っておいたまま読んでいない本」の山がいよいよ"なだれ"を起こしもみくちゃになって、部屋が無残な被災地と化してしまったので、床で将棋倒しのようになっている本を少しずつ片付けつつ手に取り、読み進めている。ただただ理由なく先延ばしにしていただけで、読もうと思えばいつだって読めるはずだったのに。

 本は良い。精神のオアシスである。しかし書籍というものの存在は年々とてもコアになりつつあるように感じる。というのはあくまで肌感覚の話で、何らかの統計に基づいたものではない。本を読んでいる人が以前よりも少なくなったのかもしれないという憶測の話でしかない。

 世の中の娯楽は、ここ最近、一気に「インスタント化」したように見える。あくまで支持を集めているものに限定して言っているけれど、時間を取るものや、何らかのコストがかかるものは敬遠されがちなんだろう。決してそれが悪いと言いたいわけではなく、それもひとつの形だと思っているけれど、ただただなんとなく寂しく感じる。現代人は、あんまり余裕が無いのかもしれない。

 エンドロールが流れ出した途端に席を立たねばならないほど、せわしない日々を生きているのかもしれない。ゆったりと流れるクレジットを眺めては深いため息なんかついてみたりして、じんわりと染み込んでくる余韻に浸りながら、現実と空想の境界を彷徨いつつ、無いものに対して想いを馳せる。こんな行為を愛おしく思い、止められなくなっている僕のような人間の方がよっぽど異端であることぐらい、とっくに分かってはいるけれど、なんだか時々、えらく寂しい気持ちになる。

 書籍を読む人がもっと増えて、「あとがき」を嘗め回すように読むことの幸福感を多くの人が味わってくれればいいと時々思うけど、こんな気持ちなんて一生分からなくたっていいとさえも思う。

壊れた部屋と夢日記

 いつの間にか夏になっていた。

 

 先月末のとある夜に、自宅の電気が前触れもなく消えた。単純にブレーカーが落ちただけだったのだけど、そのあと分かったのは僕の部屋のエアコンが悪さをしていたとのことで、完全にエアコン故障中のため使用禁止扱いになってしまって、一切電源が入らない状態にされてしまった。

 それからというもの本格的な暑さのあおりを受けて、僕の部屋はすっかり品のない空間になってしまった。ただでさえ風通しが悪い部屋なので、窓を開けたところで何の効果もない。そんな最悪を具現化したような部屋に唯一存在していた空調設備が死んだことによって、僕の快然たる夏はあっけなく死んだ。

 

 贅沢で麗しい暮らしなんて望んでない。ただ人並みに慎ましく、程よく暮らしやすい環境で生活がしたいだけだ。主に壊れていないエアコンがある部屋だとか、風通しの良い部屋などがあればいい。部屋に申し訳程度に置かれた空気清浄機が、漂う空気だけは清潔に保ってくれている。

 壊れたはずのエアコンが問題なく動いていて、部屋で涼しい思いをしている夢をいよいよ見てしまった。

 

 夢といえば、先月から、夢日記を時々書くようになった。夢日記というのは、眠っているときに見ていた夢を書き起こす行為をいう。夢日記と同時に現実の日記始めて、書ける日にはなるべく書くようにしている。

 日記を書き始めたのはただ文字が書きたかったからで、それ以上でもそれ以下でもない。何でもかんでもキーボードやスマートフォンなどで文字を生成していて、ろくにペンを持たなくなってしまったことで、字も下手くそになっているように感じて、字の練習ついでに日記を始めた。

 

 夢日記を始めてからというものの、睡眠の質が急激に悪くなったから、近いうちにやめるつもりだ。元から目覚めが悪い人間であることもあって、人生がさらにしんどくなってしまった。毎日ずっと消えてしまいたい。ただでさえ冷房設備が死んだ部屋で暮らしているので、心も体も簡単にへこたれる。

 

 書き留めるほどでもないことしか起こらない起伏のない毎日なので、現実の日記には、雨が降った、卵を焼いた、水を撒いた、自転車に乗った…程度の情報しか書かれていない。夢日記の方が様々なことが起こっていてユニークだ。現実では、目の前でゴリラが突然暴れ出したりはない。少なくとも僕が生活している身近では。

 

 そんなこともあって、Twitterでも呟くことが大してない。どうしようもない嘘とかとりとめのない冗談とか、そういう適当なことばかり呟いて、どうにか上手にTwitterを使っていければいい。

生活の狭間にて

 後回しにしていた生活にまつわる面倒事のあれこれをたくさん消化した。

 後回しにしていたのはほかでもなく「面倒臭かったから」なのである。送られてきた書留や請求書とにらめっこをしながら「こいつらさえやっつけられれば…」と思いながらも、明日には必ずなんてできもしないことを思いながら放り投げてしまっていた。

 

 今日は違った。というかもう期限が目と鼻の先だったのだ。負けるわけにはいかない。ちゃんとこの「生活」に勝たなければいけない。岩のように重い腰をなんとか持ち上げて「片付け」へと出掛けた。

 

 通信契約の更新と解約。コイツが一番の曲者だった。本来オンラインでさくっと済ませたかったのだが、ややこしい契約の仕方をしてしまっていたせいか、ショップでしか手続きができない様子だったので、仕方なくショップへ向かった。

 ショップは苦手だ。これをこうしたいとしっかりと伝えても、素直にハイと返事をして、その手続きにそのまま入ってはくれないのだ。あちらも商売である。売りたいものがあって、安くなったように見える魔法みたいなプランを用意し、それをどうにかして契約にこぎつけたいのだ。

 終盤まですっかり飲まれていた。不思議なもので何故だか得するように見えてしまうのだ。その上悪い意味でお人好しのせいで「そんなんいらんて」がなかなか言えないのである。相手もその性質を見抜いたかのように、やたらと情で訴えかけてくる。卑怯だにもほどがある。

 案内された新しい契約に対して曖昧な相槌を打ち続け、いよいよ窓口の席に座らせられ身分証を提示し「それではこのような形で進めさせていただきますね」という「チェックメイト」にしか聞こえなかった台詞を突き付けられ、誰もが「こりゃ負けだな」と諦めるところまで追い込まれたが、そんな土壇場でどうにか跳ねのけることができたのだった。明日の朝刊の見出し級の奇跡の逆転劇。万歳三唱。

 

 このまま何もできずに負け続けるだけの人生になってしまう気がして、こいつらをやっつけて勝たないとこれからずっと何にも勝てないような気がして、なんていうか、怖かったのだ。

 完全に負けたと諦めてしょうもない契約を結ぼうとしていたとき、ふと「これで本当にいいのか」という強い意志に背中を叩かれて、そうだ、今日は勝ちに来たんだ、こんな情けない思いをしに来たんじゃない、相手に飲まれるだけ飲まれて帰るだけなんてたくさんだったのだ。

 

 6月も終わり、いよいよ2017年も下半期へと突入する。ここでしっかり勝っておきたかったのだ。止めるもん止めて、変えるもん変えて、払うもん払って、生活を整えておきたかったのだ。

 

 ただそれだけの話だ。

 なんていうか、あまりに自らの都合の話すぎて、書いている途中で飽きてしまったというか、うんざりしてしまった。

誕生日を迎えた男

 今日は誕生日である。

 

 6月23日が、ぼくの誕生日である。だからなんだと言われたらそれまでだし、誕生日について自ら言及すると、恩着せがましくなるというか、祝ってやらねばいけないムードにさせてしまうので、あまりぼくはこの日について自ら触れたくはないのだけど、世の中には言われなければ分からないものもあるのだ。

 あまりみんなの祝意に水を差すような感じになってしまうのも嫌なので捻くれたことを言うのはこれぐらいにして、控えめに言って、本当にありがたいです。どうもありがとう。

 

 誕生日というのは、年に一度だけしかないその人が無条件で主役になれる日だ。学校に居場所がない人も、家に居場所がない人も、そもそも家がない人も、本来その日はその人が主役になれる日なのだ。無条件に祝って然るべき日であるのだ。「本日の主役」というタスキを掲げて、胸を張って先頭を歩いてもいい日であるのだ。

 日付が変わった瞬間にタスキを剥奪されて、ボコボコに袋叩きにされる覚悟のある人間だけ調子に乗りまくればいい。ぼくはそんな覚悟はないから、偉そうにするでもなく、慎ましく1日を過ごしたけれども。

 

 こんなだけども、今年で24歳になる。年男だ。早いものだ。中身はずっと年を取らないまま、肉体ばかり悲鳴をあげる勢いで年を重ねている。精神的にはそれこそ「スマブラDX」で強い奴が一番偉かった中学時代の頃と大して変わらないのである。コントローラーの奪い合いをしていた頃の私との違いは、内面的に言えば、ほとんどない。

 

 年度末に暫く続けていた仕事を辞めて、転職もうまくいかず、今は半ば職無しの状況で、自問自答をしているような、していないような状態で、生活をしている。

 学生時代に、なんとなく楽しそうで片足を突っ込んだ創作活動、音楽活動も、今はすっかり楽しいのか分からなくなって足を止めてしまったけれど、また、創作活動、音楽活動にもう一度、腰を据えて取り組んでいきたい。何かと紆余曲折してきたけれど、また本腰入れて、再開したいなと。

 

 どうにかやっていきますよ。やるからには、ちゃんと結果を残したいですし。もう干支2周分も生きたのだから、そろそろ人生がある程度はどうにかならないといけない時期です。いやー、どうにかなりたいですね、人生。

 

 また、ゼロからのスタートです。またお世話になります。よろしくお願いします。

 

 

 

夢と睡眠と友達の友達

 眠ると大抵、夢を見る。

 というのは、間違った認識であるらしく、夢は眠れば必ず見ているものなんだとか。夢を見ていたかどうかではなく、目が覚めたときに夢を見ていた記憶があるかないか、自覚があるかないかの違いなんだそう。ざっくり言えば、眠りが浅いときに夢を見ていることへの自覚が生まれたり、起きた後しっかりそのことを覚えていたりする、みたいなものらしい。

 人生に1度か2度だけ、一瞬目を瞑っただけのような睡眠だったことがあった。まるで魔法みたいだった。長めの瞬きをしたような感覚のまま、目を開けたら朝になっていた。よっぽど快眠だったのかもしれないけれど、ものすごく損をしたような気分になった。

 

 今日見た夢は、父親が死んだ夢だった。最近、もしも家族が死んでも自分は泣けるだろうか、悲しめるだろうか、と物凄く不安になることが多かったのだけど、この夢を見てはっきりと分かった。こんなに悲しいことがあるんだと思った。

 夢の中で、しばらく長い間泣き続けていた。いつしか父親の幻覚を見るようになり「お父さんが帰ってきた」とうわ言を言うようになってしまい、しまいには精神内科に通うようになっていた。

 

 昔から、友達の友達から「あなたの話をよく聞いてます」と言われることがとても多い。僕の友達は、自分の友達に僕の話をする人が多い。

 「いやお前の彼女と会ったことないし、初対面のヤツいたらさすがにお互い気まずいだろ」「いや大丈夫だって、お前の話はよくしてるし、会ってみたいって言ってるし」みたいな会話が、今まで割とよくあった。

 

 しかし「自分のことを友達伝いでよく知ってる」という絶好の条件があるにも関わらず、いざ友達越しではなく関わろうとすると「いや直接関わるのはちょっと…」みたいな態度を取られてしまいがちなのだ。え、ちょ、あれ、今どこで間違えたっけ。ど、どうすればいい。ん?え、あ、待ってリセットリセット、とりあえず前回のセープポイントからやり直すか…

 

 「友達止まり」どころか、友達にもなれない人が多い。ぼくのことは「友達越しの観察対象」でしかないのだろうか。

 

 Twitterで例えるならば、相互フォローである「私の友達」さんは、ぼくのツイートをRTしてくれていて、「私の友達」さんと相互フォロー関係にある「友達の友達」さんは、自身のTLに流れてきたぼくのツイートをいつも読んでくれているんだけど、ぼくをフォローすることはない、みたいな状況なのだろうか。

 そう考えると、大しておかしなことはないな。しかしぼくは友達が少ない。フォロワーも少ない。友達を増やしたい。フォロワーも増やしたい。なのに「友達の友達」や「まだ友達でない人」との友達のなり方が分からない。

  

 どうすればいい。

 ぼくと友達になってください。

 

最新のバージョンにアップデート

 最近、自宅のパソコンのOSを最新のWindows10にアップデートした。

 しかし今まで使っていたWi-FiアダプタがどうやらWin10非対応だったらしく、一切Wi-Fiに繋がらなくなった。うんともすんとも言わなくなってしまったのだ。あっさり自宅のWi-Fiが死んでしまった。いとも簡単にだ。

 殺したのは私だ。そうだよ、私が殺したんだ。なんだよ、責めるならいくらでも責めればいいさ。もういっそWi-Fiを殺してぼくも死ぬんだ。だってそれしか方法がないもの。

 

 という話をするつもりだったのに、突然Wi-Fiが生き返った。何事もなく繋がるようになったのだ。どういうことだよ。何故繋がってんだ。お前非対応なんじゃなかったのか。いや、いいんだよ、繋がるんだったら。でもなんかこえーよ。大丈夫か、お前無理してないか。しんどかったらしんどいって言ってくれていいんだからな。

 

 昨日は母親の誕生日だった。

 思えば母はもう、ぼくの約3倍の歳月を生きてきたのだ。想像もつかない。ぼくのこれまでの歳月をあと2回ほど経験して、ようやく現在の母の年齢になるのだ。そう考えるとぼくなんてまだまだなんだと思わざるを得ない。途方もない。

 母曰く、この年齢になると、何事も風のように通り過ぎていくのだという。1年なんてあっという間に終わってしまうし、1週間なんて、もはや"瞬間"なのだという。さらに母は体も丈夫ではなく一度大きな病気を患ったりしたこともあって、なかなか思うようにはいかないのだ。

 

 母はよくぼくらを「うらやましい」と表現する。あらゆる物事が追い付かなくなってしまったいま、やりたいことがなんでもできるこれからの世代がうらやましいのだという。時々「もう手遅れだ」と思ってしまうのも、母からしたら贅沢で腹立たしいことなんだろうな。

 

 これからなんでも始められる。言い訳をしている場合ではない。手遅れなもんか、先に始めている人がいようとも、遅いなんてことはない。

 人生って思っているよりも案外自由なのかもしれない。いつからでも新しいことを始められるし、なんでもやり直せるのかもしれない。パソコンに続いて、ぼくも最新のバージョンにアップデートをしよう。最新のアップデートに更新だ。新しいアップデートは、生き生きとしたバージョン!

 

 ぼくなんて本来☆1の評価つけられても仕方のない人間なのに、ずっと☆4あたりの評価をしてくれている。長い間めちゃくちゃ課金して育成してくれたのに、これまでろくなアップデートが無かったのに、それでも☆4の評価をしてくれている。一世一代のガチャだったのにだ。本当にありがとう。誕生日おめでとう。

 SSRにはなれないかもしれないけれど、いつかRぐらいにはなるからね。