アクト-レヴュードライブ

備忘録的なものです。

ピーター・パーカー、スパイダーマン、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』で描かれる物語


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※ネタバレしかないので本作未視聴の方は視聴してから読むことを推奨します

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伝説が、壮絶に、始まる

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(以下『NWH』)ついに公開されました。この記事を読んでいる方であればその概要をご存じない方のほうが少ないでしょうが、一応かいつまんで説明しますと、現在マーベル・スタジオ制作の映画シリーズマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)の最新作であり、同時に「スパイダーマン」映画シリーズの最新作でもあります。

本作の見所としては、シリーズの垣根を超えた、過去のスパイダーマン実写映画シリーズとのコラボレーションが挙げられるでしょう。2002年から2007年にかけて公開されたシリーズ(通称サム・ライミ版」以下「ライスパ1~3」)、2012年から2014年にかけて公開されたアメイジングスパイダーマンとその続編『2』(以下「アメスパ1~2」)に登場したヴィランたちが本作に再登場するというのが売りの一つとして大々的に宣伝されていました。

本作では前作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』でも打ち出されていたマルチバースが本格的に登場し、異世界から様々な人物が次元を超えてやってきます。本作にも登場し、その単独作の公開が予定されている「ドクター・ストレンジ」がマルチバースの扉を開く役割を担っており、本作はその前哨戦的な意味合いもあるのでしょう。

 

”後悔”と運命

さて、突然ですが皆さんは後悔したことはあるでしょうか。いや、待ってください。怪しげな自己啓発な宗教勧誘ではありません。これは『NWH』に関連のある質問なんです。というのも、本作のあらすじは、前作にてミステリオを倒したピーターがその正体を全世界に暴露されるところから始まります。そして、自身のみならず周囲の人々にも迷惑をかけたピーターは同じアベンジャーズの仲間であるドクター・ストレンジにこう頼みます。「世界中の人々から自分がスパイダーマンである記憶を消してくれ」と……。

そして案の定(?)魔術に失敗したストレンジのせいで(もといピーターのせいで)マルチバースの扉が開き、別次元のヴィランたちがこの世界にやって来ることになるわけです。「ライスパ」シリーズのドクター・オクトパスグリーン・ゴブリンサンドマン、「アメスパ」シリーズのリザードエレクトロ……錚々たる面子がMCUの世界へと集結します。

そうしてヴィランたちと戦いを繰り広げるピーターですが、ストレンジが彼らを元の世界に戻そうというときにある事実を知ります。それは、彼らは死の運命を背負っているということです。その事実に直面したときピーターが下す選択こそが、彼らを助けたい、ということでした。

しかしそんなピーターの前に残酷な現実が立ちはだかります。グリーン・ゴブリンの攻撃によってメイおばさんが亡くなり、世論はピーターを現在起こっているすべての事件の首謀者として捕らえようとする。誰ひとりとして味方がいなくなってしまったピーターの前に……というところで、一度整理したいと思います。

本作でもっとも重要な観点のひとつが、”後悔”であると思っています。それはピーターが序盤で行ったストレンジへの頼みもそうですし、ヴィランたちを助けようとしたこと、その結果として大切な人を失ったこともそうであると思います。事実、中盤で自暴自棄になったピーターはこの事件に関わったことを”後悔”しすべてをなかったことにしようとします。一度はストレンジに反抗してまで止めたマルチバースの復元すら、自分の手で行おうとするのです。ですが、そこに現れるのが、”もう二人のスパイダーマン、そう、本作最大のサプライズであり、そしてもっとも期待されていた、「ライスパ」「アメスパ」二作品のスパイダーマンです。

この奇跡的な共演──もちろんヴィランも含め──は単なるファンサービスではありません。本作のストーリーの上で、ファンサービスを超えたスパイダーマンの物語の一部として機能しています。

ここからは作品内のみではなく、作品外の文脈も含めた、すこし観念的な話になってしまうのですがご了承ください。

 

本作が救おうとしていたもの

そもそもとしてスパイダーマンの映画シリーズは、過去に何度も制作されてきては打ち切りになってきたという過去があります。片手落ちながら、私は「ライスパ」シリーズは観ていないのですが、「アメスパ」シリーズは一応視聴経験があります。ヒーローの挫折と再起を描き、そして完結まで至れなかった──特に「アメスパ」は──多くのファンから続編を熱望され、そして現行シリーズの開始によって諦められていました。そして現在のMCUでもまた、権利問題やその他諸々によって何度も頓挫しようとしていた歴史があります。『ファー・フロム・ホーム』後の騒動は記憶に新しいでしょう。

これら映画シリーズの歴史の中で、否、あえて主語を広げたいと思うのですが、エンタメを応援していく上でつきまとうのが打ち切りです。金銭の絡む商業的作品である以上、売上は何にも代えがたい指標であり、また続編制作の基準です。売れなければ打ち切られるとは有名な話ですが、過去の作品もそうした憂いの目にあってきました。そしてシリーズものであれば、リブートやつながりのない続編などで過去の作品がなかったことにされることもあるでしょう。スパイダーマンはその筆頭ともいえます。そんな現状の中で、過去の作品を応援してきたことを”後悔”する人もきっといるのかもしれません。私自身、そうした経験は何度かしてきました。

だからこそ、本作で描いているストーリーはそんな”後悔”してきた人たちにとってのある種の福音となるものであると感じました。これはあくまでも私個人の考え、捉え方であって、それを強制するものではありません。ですが、本作で描かれていることは、間違いなく過去を肯定するものだと思います。

世界中の人々から記憶を消すことを”後悔”し、ヴィランを助けようとしたことを”後悔”したピーターは、別世界の自身との交流を経て、自分がやってきたことは「無駄じゃなかった」といわれます。それはまさに彼ら自身の紡いできた物語が無駄でなかったことでもあるし、また彼らを見、応援し、忘れずにいた私たちにとっても無駄じゃなかったといえるのではないでしょうか。

別世界のピーター・パーカーのつらい過去を気軽に話して雰囲気を最悪にしたり、ピーター・パーカーが複数いるせいで妙に混乱したり、互いの境遇がかぶって変な感じになったり。本作の雰囲気にはなかば合っていないように感じるギャグシーンですが、ピーターの境遇を考えると、これでよかったのです。

大いなる力には大いなる責任が伴う」──これはスパイダーマンにおけるオリジン、原点の象徴であり、数多くの媒体で引用される代表的な文句でもあります。ですがMCUでは、このセリフが登場することはありませんでした。これは、単に数多くの作品で描かれてきているし、もうすでにMCU世界でこのイベントはこなしているのだろう、そう歴戦のファンの方なら思ったでしょうし、実際そうした意見を目にすることも多くありました。ですが違います。MCUにおけるこのセリフは、スパイダーマンMCUからのいわば”独り立ち”の象徴としての言葉なのです。

ベンおじさんが死ぬときに遺してきたこの言葉は、本作ではメイおばさんの遺言としてピーターが受け取ります。それは、アイアンマンという”始まりの超人”が逝き、キャプテン・アメリカという”偉大なるリーダー”が去り、マイティ・ソーという”最強の戦士”が地球をあとにし、アベンジャーズに残されたスパイダーマン=ピーター・パーカーが”親愛なる隣人”としてどうするべきなのかを問うために必要な道のりでした。

それは本作の展開を振り返ってみてもわかりやすいでしょう。そもそもピーターがストレンジに記憶を消す魔術を頼んだのは友人であるネッドとMJがMITに落ちたことがきっかけです。そこで大学に自分で掛け合ってみろといわれたピーターは文字通り自分の身一つで大学の責任者のもとまで、結果について抗議しにいくわけです。また、エレクトロとの戦いでめちゃくちゃになった送電線を(その実態はともかく)そのまま放置するのではなく、きちんと自分で後始末をつけていきます。

まともな日常を送れなくなったピーターでしたが、対照的にその解決方法は地道なものです。自分で蒔いた種は自分で刈る。そうした延長線上にあるのが、ストレンジとの対決です。幾重にも分裂する列車という象徴的な映像もさることながら、その決着は幾何学を応用した蜘蛛の糸によるものでした。これは間違いなくピーター自身の力によるものであり、「魔術より偉大なものは数学」であるのです。

 

「自分で蒔いた種は自分で刈る」

さて、別次元のピーターたちも集結したヴィランとの最終決戦ではキャップの盾を持った自由の女神という、「再出発の象徴」での戦いが繰り広げられます。ここでもまた、本作の、MCUのピーターが積み重ねてきたものであるチームワークが発揮されます。孤独であったピーターたちはチームでの戦い方を知りませんが、本作のピーターはそこにおいて一日の長がありました。ときにファン垂涎の楽屋ネタを折り込みながら、一度は失敗したピーターたちはなんとかヴィランたちを治療していきます。かつては果たせなかった”救う”ということを果たしたピーターたちの姿には、涙が止まりません。

ここで重要なのが、グリーン・ゴブリンの存在です。「ライスパ」最初の敵として強い印象を残した彼ですが、ご存知の通り二重人格のキャラクターです。彼が吐くセリフは悪役のものながらとても印象的です。「不本意でこうなったわけじゃない」「望んでこうなったのだ」と。ヴィランだってヒーローのように力を手に入れてそれを”後悔”などしていないというテーゼを示すのが、まさに本作におけるピーターの二つの人生を象徴するかのような二面性のあるヴィランであるというのは意識しているところでしょう。完全な余談ですが、『ダークナイト』との共通点も感じる面白い部分です。
ですが、少なくとも彼のもう一つの人格はグリーン・ゴブリンとしての人格を”後悔”していました。そして本来わからないはずの運命ですら、本作ではその結末が明らかとなっています。死の運命を変えたいという本作のピーターの願いは、『ホームカミング』で見せた瞬殺モードを拒否する彼の姿とまったく変わらずその本質を映し出しています。

そして、大切な人を殺した相手であるグリーン・ゴブリンを、一度は赦そうとしたピーターでしたが、最後の最後、落ちた盾の上での戦いで、ゴブリンを殺そうとします。かつてのゴブリンの最後のように彼の円盤でとどめを刺そうとしますが、それを止めたのは「ライスピ」ピーターでした。彼もまた、過去の”後悔”を、新たな形で晴らすことができたのです。

そしてすべてのヴィランを治療したのち、今度はピーター自身が最初に引き起こした因縁が待ち構えています。すなわち、ストレンジの魔術の暴走であり、マルチバースからの侵略者の襲来です。これを止めるためには本来の魔術すなわち全世界、マルチバースを超えたすべての人の記憶から「ピーター・パーカーの記憶を消さなければならない」。しかしそれは、緩やかな死刑宣告と同様でした。一度はそれを行おうとしたストレンジですら、この状況下においてそれを一瞬拒みます。彼の性根は子供を守ろうという大人の一人です。

ですがピーターは覚悟を決めていました。それはまるで、『アベンジャーズ:エンドゲーム』において自身の死によってサノスを倒すことを受け入れたアイアンマン=トニー・スタークのように。そして彼自身の犠牲を受け入れたピーターは、彼の望み通り世界中の人々から自分の記憶が消えることになります。彼を本当に愛している人の中からも……。

この結末には賛否があるかもしれません。彼が借りた広々としたアパートの一室を見て、結局残ったのヒーローの虚像だけと思う人もいるかもしれません。ですがそれでも、私は彼の選択はきっと”後悔”していないものだと思います。ネッドからも、MJからも、ハッピーからも忘れされても、スパイダーマンという親愛なる隣人としての彼は生きています。そしてなにより、彼を見届けた私たちが彼のことを忘れません。

すべてを失い、空っぽになってしまったピーターですが、ミシンで作ったスーツを身に、今日もNYを駆けていることでしょう。彼が出会ったスパイダーマンと同じように、ハイテクスーツではなく、ローテクな、ハンドメイドのスーツで、いちから再出発しているでしょう。

私はあのなにもない空き部屋のカットは、高卒認定試験対策が映る鞄のカットは、スーツの切れ端が残るミシンのカットは、これまで観てきた中でもっとも素晴らしいものだと思いました。それは、単なる映像の美しさや構図の完成度では言い表すことのできない、極めて個人的な領域における感想です。ですが、私はそれを声高に言っていきたいと思います。だって、私は私の選択を”後悔”していないから。人生に無駄などない。それを”親愛なる隣人”は教えてくれました。

 

新しい”ホーム”

やや感傷が過ぎましたが、ここで一旦締めたいと思います。本作においてまだまだ語るべきところは残していますが、これ以上は長くなりすぎてしまうでしょう。個人的には、「アメスパ」ピーターの過剰ともいえる救済が非常に嬉しかったりするのですが、それはまた別の機会で。

主観的な話にはなりましたが、私が感じたことが少しでも伝わっていたら幸いです。最後に、もしこの壮大な彼のオリジンを観ていない方がいたら、ぜひとも観てください。本作だけでも十分に楽しめます。