ハッシュタグ エッセイコンテスト用 お題「平成」 賞金狙い 大衆向けに書いた 途中からは面倒臭くなった

 スマートフォンをなくしてしまった。歩いている時に落としたんだろうか、バスか電車に置いてきたんだろうか、実はカバンの奥に入っていてなくしてないんだろうか。交番や交通局に問い合わせてみても、持っている全てのカバンをひっくり返してみても、私の相棒は見つからない。何処に行ってしまったんだろう。パソコンにバックアップは取っているものの、四六時中私の手の中にあったスマートフォンがないというのはどうも落ち着かない。まぁ、別に良いか。現代の若者のほとんどが軽度のスマートフォン依存症なのは間違いなく、私もそこそこに依存しているものの、反骨心がでてきた。今月が終わるまで、あと一週間LineもTwitterInstagramもなしで過ごしてみよう。

 

 平成についてと言っても平成生まれの私は平成以外の時代を知らない。昭和や大正、明治などは教科書やテレビの中で語られることしか知らない。比較が出来ない以上、客観的に語ることは出来ないのだが、平成生まれ、平成育ち、そして次の時代の中心世代として書きたいと思う。時代と個人の軋轢というのは、多くの作品のテーマになっている。リチャード・パワーズカート・ヴォネガット・ジュニアなどは私の知る限り、時代と個人の関係を最も上手く描いた作家である。彼らの作品が、私に時代について考えるきっかけを与えてくれた。時代は無数の個人が集まって作り上げるものだが、その無数の個人達は時代によって産み出されている。ある個人が、成長の過程において異なる時代に過ごせば、かなり違った人間に育つのに異論はないだろう。私だって、昭和という時代に生まれ育っていれば、今とは随分と違った人間になっていたに違いない。

 

 連絡ツールが電子メールからメッセージアプリに取って代わられてから、どれぐらい経ったんだろうか。確かに便利だし、もはや電話番号はおろかメールアドレスも知らない友達がほとんどだ。そのメッセージアプリのアカウントごとスマートフォンをなくしてしまったんだから、誰とも連絡がつかない。多分、誰かからメッセージは届いているんだろうけど、私はそれを読むことができない。いつも通りの面子からの他愛も無い内容か、何年も連絡してない旧友からか、親からの真剣な相談か、ドイツ人からのチャットか、何かわからないんだけど、きっと私のアカウントには、私という個人にあてられたメッセージが届いている。私も誰かに連絡すべきこともあるし、誰かに話しかけたい日もある。

 

 いわゆる「ゆとり」世代と言われる根性のない平成の若者達が、大日本帝国時代に生まれ、徴兵されて戦地にむかっていれば、それなりの英雄になっていたんだろうか。未曾有の就職難だったのロストジェネレーション達と日本の素晴らしい発展を支えた団塊の世代がそっくりそのままメンバー入れ替えがあれば、結果と個人の幸せはどれぐらい違ったのだろうか。そんな妄想に意味はないのだが、自分の生まれる時代を選べるとしたら、好奇心やノスタルジーは捨象して考えた場合、私達平成世代の多くは、また平成を生まれる時代として選ぶのではないだろうか。少なくとも私は、平成が良い。冒頭でも述べた通り、平成生まれの我々は平成以外の時代を知らないのだが、平成を選ぶだろう。

 

 このまま、誰からのメッセージに対しても既読せず放置していたら、一人暮らしの私の部屋には、誰かがピンポンを押しにくるのだろうか。そんなかまってちゃんみたいな思考に至るにはもう、大人になりすぎているような気もする。平成生まれとは言え、世間的に見れば私は大人だ。連絡を迅速に返すのは大人の基本だろう。しかし、メッセージアプリなんかなかった時代を思い出す。私のパソコンのメールアドレスには一通もプライベートなメールは届いていない。メッセージアプリやSNSに依存している世界が不自由に思えてきた。そんな電力とネットワーク電波みたいな曖昧なものでしか、我々は繋がってないんだろうか。軽度にスマートフォンに依存していた自分も、不自由だったと反省した。

 

 時代が変われども、変わらないものがある。今、ここで経験されていることは、過去においても経験され、そして未来でも経験されるという人生の構造を、カート・ヴォネガットは「スローターハウス5」という小説で示した。4次元を見ることができるトラルファマドール星人という宇宙人は、人生におけるすべての瞬間を見てきており、その運命に抗うような行動はできない。この小説では、ある一人の地球の人間がトラルファマドール星人と伴に時間の中に解き放たれるのだが、あまりにも残酷な戦争も虐殺も拷問も自分が殺される運命も、「まぁ、そういうものだ。」で済ませる。抗えない運命に対して、自由意志を以て新たな道は切り開かれない。トラルファマドール星人達は、自分達の訪れた30以上の惑星の中で、自由意志なんていうものを信じている生命は地球人だけだと言う。

 

 スマートフォンという連絡ツールを失くしてしまい、誰とも繋がれない状況を不自由と感じるのか、スマートフォンの中の世界が全てになってしまい、大切なものが見えなくなってしまうのが不自由なのかわからなくなって来てしまったなぁ。いっそ世捨て人になって、今の関わりを全て断ち切って、数年後にひょっこりと今のコミュニティーに現れてやろうかなんてことも考える。「時間旅行してたんだ。」なんて笑えない冗談だけで、また友達になってくれるんだろうか。「なにも言わず去る」ことって格好良いように思えるけど、実際は迷惑なんだろうな。でも、自分程度の個人がいなくなって、この世界にどの程度の影響があるんだろうか。そろそろ、スマートフォンを失くしてから5日ほど経っている。

 

 蛙の子は蛙。変わらない者は変わらない。時代が変わっても、変わらないものとは一体どんなものなのだろうか。普遍的に不変なもの。人間は過ちを繰り返すし、歴史は変わらない。おそらく、人類史の大きな流れは、それこそ運命づけられているように思う。どれ程、地球の環境が破壊されたり、資源を使い切るかというのは学術的に正しく予想され得るだろう。しかし、その大きな流れを生み出す、個人というのは非常に曖昧な存在である。少しのインプットで、大きく幸せにもなり得るし、不幸せにもなり得る。だからこそ、自由意思が存在するのではないだろうか。ある個人における、人との出会いや、私の場合においてはカート・ヴォネガットの小説との出会いなどで、一つの人生は大きく変わる。個人の幸せや不幸せは、少しの意思で大きく変えることができる。

 

 私が属していたコミュニティーは主に、家族、親戚、高校、大学のクラス、大学のサークル、程度でしかない。そのどれでもなく知り合った友人が10人程度いる。おそらく平均的な交友関係だろう。その全員とメッセージアプリとSNSでしか繋がっていなかったのかと思うと不思議な気持ちである。いや、むしろ繋がっていたのかさえ怪しくなってくる。繋がるとはどういうことなのだろう。繋がると信じていただけなのだろうか。人との繋がりは、国民国家という枠組みのような、領土によって定義されない、全員があると信じていて初めて存在し得る宗教のようなものに似ている。私の友達は、ここにはいない。しかし、スマートフォンの操作によっていつでもコンタクトを取ることが可能だし、会う予定を立てることもできるということをほとんど全員が無意識に認識している。そんなもの、ただの二進法のプログラミングに過ぎないのに。相手の顔が見えなくても、文字だけでコミュニケーションを取ることができるというのは、完全にある種の信仰が前提になっているように思える。

 

 平成が始まって間もなく生まれた私の人格を形成したのは、今まで出会ったすべての人々だ。その人々が昭和に生まれたか、平成に生まれたかは別に関係なく、平成に育った私に関わった。すでに亡くなっていた人達も、書籍などメディアという形で、私の人生に関わってくれた。その全ての人々によって私の人格は形成された。それは後天的なもので私が取捨選択し、獲得していった人格である。それとは別に、私の遺伝子をもった生命体としての特性がある。後天的に獲得した人格があまりに大きなファクターなので、それを捨象し、私の先天的遺伝子的特性に関して語ることは難しいのだが、理論的には私の本質、イデアとして存在するはずである。私という個人が、時代という大きなファクターを通して、どのように生きて、どのような人間になったかというのが、また時代を作る小さな小さな構成要素なのだ。そして、次の時代に生まれてくる子供達の人格を形成していくのだ。

 

 あぁ、もう限界だ。あいつと飲みに行きたい。あの子は今日も東京で一人で働いてるんだろうか。昔の恋人に久しぶりに連絡してみたい。お父さんはお母さんの墓参り行ってるんだろうか。Hallo, wie geht es dir, mein Freund? 明日、新しいスマートフォンを契約しに行こう。パソコンのバックアップから復活できるはずだ。たくさん、メッセージが届いてるんだろうな。SNSも更新したいな。スマートフォンなくしてましたという言い訳の投稿からだろうか。この接続過多の世界からはどうにも逃げ出せないみたいだ。この得体の知れないものを盲目的に信仰するのはなんて幸せで楽なんだろう。私は一人にはなれない。

 

 平成という時代を過去や未来から覗いてみるとどういう時代なのだろうか。元号が変わったからといって、昭和の最後の1年と平成最初の1年が劇的に変わったとは思えないし、平成最後の年と次の5月からの時代が変わるわけではない。冒頭で述べた通り、私はまだ、平成以外の時代を知らない。それでもしいて、平成がどんな時代だったかと説明しなければならないとしたら私はこう言うしかないだろう。

 

 平成とは私という個人が生まれ、育った時代だ。

 

時代と個人の軋轢

 最近、小難しく書いていたのですが、気は狂っていたし、カッコツケてもいたと思います。できるだけ、話し言葉に近いような文章でも書いてみたいなと思います。ジダイとコジンのアツレキについてはまたの機会に小難しく書こうかなと。ジェダイスター・ウォーズは見たことない)とゴ・ディン(ベトナムの初代大統領)のアレッキーノ(イタリアのマリオネット)でも良いかもね。

 

 親愛なるSSRさんと「どん底」という洋酒喫茶で話したのは小難しい僕にとっても、コメディアンの僕にも面白かったんですよね。そもそも僕は、一人の時にしか小難しくならないので、誰かと会っている時は基本的にヘラヘラしています。このヘラヘラしている僕は「人を笑わせたい」という明確な目標だけで生きているので、悩むことはほとんどないのです。客観的に面白いかどうかは置いておいて、どうにか工夫して人を笑わせることだけがプログラムされているんだと思います。ゾナハ病患者です。今は一人でこのブログを書いているのですが、なんとか小難しい僕が出てこないようにしています。SSRさんとの会話を一人で反芻すると自動的に小難しくなってしまうぐらい、一般的な20代同士の会話からは遠くかけ離れていたと思うので、今回書かないのですが、その中でも面白く書けそうなことがあったのです。

 

 哲学者は自殺してはいけない。というようなことだったと思います。哲学者ほど自殺しそうな連中もいないと思えるんですが。むしろ哲学者の典型的な最後は自殺でしょ。まぁ、彼の言ったことをどれぐらい伝えれるかわからないんですが、でも、納得したのはね、哲学者は真理に近づくことが目標なんですよね。僕が人を笑わせることが目標なように。それは、ある種の「レーゾン・デートル(存在理由)」とも言えるのかもしれない。哲学者は真理に「到達する」ことが目標なんじゃなくて、真理に近づくことが目標なんやと思うんですよね。あらゆる先行研究を駆使したり、京都の「哲学の道」を行ったり来たりしたり、あらゆる実験と実践と仮説と反証を繰り返さないといけないんですよね。それには、永遠の時間が必要。自分の命の続く限り、近づき続けないといけない。昨日より今日、今日より明日、明日より明後日、真理に一歩でも近づかないといけない。だから、ある哲学者が今日、自殺したとすると、その哲学者が明日には真理に近づけてたかもしれない距離が消失してるんですよね。数学は得意ではないんですが、漸近的に近づくって言っても、Xの値が増える度に傾きは急になっていくけど、Yの値はちょっとは伸びてる、正の関係なんですよ。だから、哲学者は自殺してはいけないってことですよね。

 

 だから、何が言いたいのかって言うとですね、僕は哲学者ではないけども、哲学者的な思考なんですよ。自分の命が続く限り、知らないことを少なくしていきたい。これは無限です。月が落ちてくるのを見てみたいですもん。知らないことさえ知らないものも知りたい。「セブンイレブンのおにぎり工場から各店舗に運ばれるおにぎりトラックに轢かれて死んだ蛾が幼虫やった時にひっついた少年の服のメーカーの社長が行きつけのバーで頼むウイスキーの瓶についた傷」とかも知りたいんですよね。ひつまぶしの4通り目の味とかね。僕は海外も国内も、あまり旅行には行かないんです。場所の移動なんて分かりやすいものに頼りたくない気持ちがある。確かにレイキャビクの空気の冷たさの中にあるスムーズさを僕はまだ知らない。でも、僕は自分の家のガラスを無意味に割った後の後悔も知らないし、そっちの方が知りたい。

 

 この「自己啓発」的な気持ち悪さを無視して恥も知らずに言うと、色々やってみないと自分がわからん。最近、めちゃめちゃ写真を撮る人間になってしまった。遅い。ゲーテがアウトプットは一つに絞らないと、技術の洗練は成し得ないと言っていたのは知ってるんですが、色々やりたい。

 

 

追記1 ジダイとコジンのアツレキ

    ジェダイとゴディンのアレッキーノ

    うまい

 

追記2 SSRさんと話した僕の話ってことをご理解してほしい

 

追記3 真理を卵子、真理に近づく哲学者達を精子、になぞらえた受精の話があるとす

    れば受精が何にあたり、受精卵は、生命は何になるんだろう。

 

文体、図形、あるいは記号

 自分の文章が気持ち悪い。醜い。なんて矮小な人間の書く文章なんだろう。と思い始めたらお終いで、二度と書くのをやめてやろうと思う。書く内容も書き方も恐ろしく汚い。文章でさえそう思ってしまうので、自分が生きている意味さえもなくなってしまう。特に、優れた散文詩に感銘を受け、自分の文章にもそれなりの美しさが宿っているはずだと、このブログを読み返すたびに自己嫌悪に陥ってしまう。これが、レポートや論文、あるいは小説や脚本などであればそうはならない。自分の産み出したびゅーちふるえくりちゆーるのはいからさにほれぼれする。

 

 それでも懲りずにブログを更新するわけだが、この世に完璧な文章が存在するおかげで、不完全で危うい文章の魅力があるはずだと信じたいのだろうか。テクニカルな面、the art of writingの洗練は不可欠であるのだが、感覚と理論という二項で言えば、もっと感覚的に書かなければならないと感じている。「感覚的に書くための技術」という破綻しているものを求めている。

 

 良い文章というのは、例え散文であっても読み始める前からひとつの大きな図形として美しい。漢字、ひらがな、句読点のバランスが一つ図形、大げさな言い方をしてしまうと「絵」として秩序だっている。余談として、紙の種類やインクの質、フォントまでもその要素としては存在し、あらゆる要素が全てにおいて優れている本というのは何冊所有しても気持ちの良いものだ。本屋に行く度に買ってしまう本というのが存在する。

 

 逆に言えば、自分の文章がpictureとして醜いと思わざるを得ないのは痛みを伴うのである。汚い絵の具で無理矢理に絵を書かされているかのような気分だ。International Klein Blue IKB  イブ・クラインという青に取り憑かれた芸術家が残した・・・・ほら、また文章が気持ち悪くなってきてしまった。

時よ止まれ、そなたは美しい

 「レーゾン・デートル(存在理由」

 この西洋的な意味と響き、なんと魅力的なのだろう。おそらく、非キリスト教徒の私が自身の存在理由を問うことには、レーゾン・デートルといった表現は相応しくないように思う。私は自身の生命に対して、神から与えられたものという認識があまりないからである。しかし、では西洋人にとってのレーゾン・デートルにあたる、我々の存在理由とは何なのだろうか。我々はなんのために生まれ、生き続けているのだろう。「アイデンティティ(自己同一性)」という言葉の持つ、自分が自分である所以とは異なる所に私は命題を置く。

 

 「死」

 永遠のテーマなので、思考が拡大しすぎているが、何故こうも我々は死に魅了されてしまうのだろう。死生観。死ぬこと、生きること。少しでもこの「死」について語れるようになりたい。

 

 「食事」

 食の堪能を言葉で語りたい。食べることは生きることであるからだ。しかし一方で私は食に関しては下品なことだとも考えている。生にしがみつく醜い行為だとも思える。ある民族集団は、人前で恥を感じずに性行為を行うが、食事だけは絶対に一人で行う。食事は排泄とセットで考えられるべきものであり、食事だけが、グルメ漫画やワイドショーの行列ができるレストラン特集などで取り上げられるのに違和感がある。それに、生命を奪い、喰らうというグロテスクな行為であることを忘れてはならない。全てに死を連想してしまう年齢を私は過ぎたが、それでも、眼前のステーキのために一頭の牛が屠殺されていることを私は想像してしまう。

 

 「セックス」

 暴力の対称としてのセックスである。人間を無差別に、無慈悲に、普遍的に、理不尽に傷つけるものが暴力だとすると、人間を無差別に、無慈悲に、普遍的に、理不尽に癒やすものがセックスである。暴力が半ば淘汰された社会において、セックスは生き続けている。そして、どうやら新しい生命を作り出す行為でもあるようだ。この奇妙な概念について、愛の偉大さ、愛の脆さについて、語りたい。

 

 「フランシス・ベーコン

 奇妙な画家である。本当に気持ち悪い。だが美しい。3年ぶりぐらいに、絵画を見て気持ち悪くなってしまった。デヴィッド・リンチ、ベルトリッチ、浅田彰大江健三郎、ジョーカー、この画家を愛した偉大な表現者達よ。待っていてくれ。

 

 「大江健三郎高橋源一郎

 失語、聾唖、障がい、これらに向き合わねばならない運命に私はある。

 

 「モーリス・パンゲとバルトとモラエス、時々ベネディクト・アンダーソン

 日本文化論か。文化や歴史を知ることがどれぐらい、自分のイデオロギーに影響するんだろうか。自分の所属する共同体について知ることは、自分のレーゾン・デートルを知るヒントになるのだろうか。自分の思考や存在は、どの程度文化によって支配され、生活様式や気候に影響されているのだろう。

 

 

 最近、興味のあることを書き出した。

自主制作映画

 何故なら、彼は何であっても、「物事のお終い」が大好きであったからだ。即ちそこにある、何処か遠方へ出発する前夜のような、それとも取片付けを終えて何かを待つばかりになったとでも云うような、静かな一刻に憧れていたからだ。

 稲垣足穂弥勒

 

 「自主制作映画」という言葉が私に思い起こさせるのは、極めて純度の高い青春である。私は音楽に青春を捧げ、ある程度は美しい思い出なので後悔はないのだが、映像制作に捧ぐ青春には、存在し得た世界、選択しなかった道として憧れを持っている。これが、「映画製作」であれば話は変わってくる。現在の映画業界の不況や、才能が枯渇してしまった監督の葛藤などの苦しい物まで想像してしまう。あくまで「自主」制作映画だから良いのである。

 

 映画を作ろうと思い立ったきっかけに関しては割愛するが、何人かの先輩には感謝している。「弱いつながり」が大きなきっかけになるという東浩紀とマーク・グラノベッターの言う通りである。

 

 もはや、やることがなくなってしまったこの世界で退屈しない唯一の方法が教養だと、らも兄さんも言っている。青き美しき時代を終えたくだらない人生において、暇つぶしの方法以外に何が必要なのだろうか。映画でも撮ってやろうじゃないか。

 

 映画を作ろうと思い立ってからは、インスピレーションが過剰暴走している。何処を歩いていてもカメラワークを考えてしまう。Y字路に宇宙的な何かを感じてしまう。夢でみたものをスケッチしてしまう。悲劇的な喜劇を紡いでしまう。トカゲにぶち切れてしまう。雲が理想的な形になるまで待ってしまう。フランシス・ベーコンの絵画を気に入ってしまう。台本にないアナルセックスを強行してしまう。どんな映像がこの私に撮られるのを待っているのだろうか。

 

 これまでの人生では随分と偉そうなことを言ってきたように思う。スノービッシュなシネフィル的な発言や、無意味なハリウッド批判など、好き勝手言ってきてしまった。映画を撮ったこともないくせに。あの、映像には一言も二言もあるジョージさんはどんな映像を撮るんでしょうかねー。みたいな態度に怯えながらも、作っていきたいと思う。もちろん一人ではできることも限られているので、色んな人に協力を仰ぎながら2年以内には納得のいくものを撮れるようにしたい。

 

 「レーゾン・デートル(存在理由)」というタイトルのシナリオを書き始めたら、パリでの撮影を見越さないといけなかったので「耳の位置は人による」というシナリオを書き始めた。まずは、実現可能な脚本を完成させよう。

システムと脳の新しい回路

 2019年の始まりと伴にブログを書き始めて、1ヶ月ほど経ったが、当初の目標の1年で100記事というペースからは程遠い。ブログを書くという習慣がなかったため、日常の中の行動として定着しない。理解することと行動を起こすことのギャップを埋めるために、自由意志が存在するのだと信じてブログを今日もまた書き始めよう。

  とりあえず、今このブログは一人を除いて誰にも公開していない。ブログを始めたという事実は何人かの友人には告白してみたものの、反応は必ずしも良くはなかった。友人の一人に「時代と逆行するのはあなたの癖だもんね。」とも言われてしまった。悪い気はしないものの、どうやらブログを書くというのはどこかクールなことではないみたいだ。時代と逆行するのが癖であるというのは、自身としても認識はしている。このデタッチメントの世代の若者の中にあって無視せずに声をあげたいと思うことも多い。自分があの時代に生まれていれば厭世的な芸術志向の運動(スポーツ)好きの学生だったのではないかと妄想する。

 なんていう語り方をしてしまうと、このブログの本質が政治的なにかであったり、若者のアパシーの是正であるように聞こえてしまうかもしれないが、つれづれなるままにひぐらしmacbookに向かいて、よしなしごとを書き綴りたいだけなのである。論理的な文章が書きたいわけでもない。たしかに文章において論理の美しさの存在は認めるものの、抽象画のように美しい文章も存在することを私は知っている。

 

 前置きはいつも長くあるべきだとも思う。急いで結論や要旨を求めすぎてはいけない。腰を据えなければわからない魅力を軽い腰では見抜けない。

 

 夕方のニュースでA市の牡蠣の特集を見かけた。美味そうだ。私は牡蠣には目がないので、A市にいるニュースキャスターを羨ましく思った。美味そうだ。牡蠣が食べたい。今年はまだ牡蠣を食べていない。A市の牡蠣の味を想像し始めた。

 しかし、ニュースを見続けていると、

「このA市の牡蠣、なんと食べるだけではなく、ある利用方法もあるんです。」

 なんだって・・・

 そもそも養殖という言葉に伴うイメージとして、食べるために生を与えられ生かされるという、いわゆるカズオ・イシグロ 私を離さないで ぼくらの ダーリンインザフランキス的な、ある目的のために人為的に産み出された人間の葛藤を連想してしまう。おそらく、人間という存在自体が何かの目的のために神の意思によって創造されたと信じ込み、結局神は死んだと言い、カニバリズム的に自分達のアイデンティティを見失ったという、キリ○ト教的な前提に産み出された作品達である。

 養殖の翁(漁師のおっちゃん)、牡蠣をミキサーにかけペースト状にして、茶色いコロコロとした、動物のエサ的なものに混ぜ始めた。そして、別の養殖所に行き、その牡蠣ペースト入りのエサを水面に撒き始めた。大きな魚がピチピチと跳ねる。実はこの魚サーモンなんです。とキャスター。

 サーモンか。サーモンもとても好きな「食べ物」である。

 しかし、私が思いをはせたのは牡蠣食いサーモンの味ではなく、中学生の時に習った食料不足の問題である。肉牛の養殖を一切やめ、肉牛を育てるために必要な飼料の穀物と水を世界中に分配することができれば、食料不足はこの先100年以上は問題にならない。といった趣旨のものだった。人間が全て食の堪能を忘れ、とうもろこしやじゃがいもを食べ続けるというのはもはやあまり想像できないが、この美味しさの蒸留の輪廻性にゾッとしたのである。A市が牡蠣をエサにしたサーモンをエサにした熊の肉をエサにした牡蠣を売り出す未来。もちろんその牡蠣は新たな何かのエサとなるのだろう。

 この全て輪廻のソトに人間は君臨し続けている。全てを食い、全ての養殖をコントロールしている。私は、動物愛護者でも菜食主義者でもないので、人間に食べられる生物に関しての同情はほとんど感じない。人間は大きな視点で見てみれば、システムを作り出しコントロールすることに長けているのだなと夕方のニュースを見て考えただけである。私も人間なのだから、小さなシステムをコントロールすることぐらいできるだろうと思っている。ブログやラジオのネタを常に探し、吐き出すシステムの構築が必要なのだろう。

 誰か一緒にA市に行ってサーモンを食べましょう。

文体どうしようかな。

 ウラジミール・ナボコフ

「殺人犯というものは決まって凝った文体を用いる・・・」

 というロリータの一節がある。では果たして凝った文体を用いるものは、決まって殺人犯なのだろうか。そもそも殺人犯はいつ殺人犯になるのだろう。また、殺人犯は殺人犯でなくなることは可能なのだろうか。将来的に人を殺すことが運命づけられている者を、潜在的に殺人犯と呼ぶべきなのだろうか。優れた文芸評論家は、文体を見るだけで、殺人犯を見抜くことができるのだろうか。

 ブライアン・メイは自作のレッド・スペシャルという自宅の暖炉から削り取った材木を使用した唯一無二のギターと、6ペンス硬貨、トレブルブースターを使い、虹色のトーンを出した。聴く者の心を踊らせるような虹色のトーンだ。おそらく、ブライアン・メイという男が、ストラトキャスターレスポールなど、その他大勢のロックギタリストが使用するような素晴らしい既成品のギターを使っていても、素晴らしいトーンを出していたことだろう。しかし、彼は削り出した。それも自宅の暖炉から。

 彫刻の本質が、作り出したり、産み出したり、創造するといったプロセスにはなく、むしろ「そこにあるものを見つけ出す」という所にあるとすれば、まさに神が与えたギターを彼が見つけたに過ぎない。彼が生まれる以前に、彼に見つけられるのを待っていたギターが、暖炉としてそこに存在していただけである。

 殺人犯が凝った文体を使用するという命題が真であるとすれば、普通の文体を用いる人間が、人を殺し、見事に殺人犯となった瞬間から、凝った文体を使用し始めるのだろうか。メフィスト・フェレスとの契約のような、あるいは呪術的な、殺人を犯した者にしか扱うことの出来ない大きな力が存在するのだろうか。自分の文体が気にいらず、もっと凝った文体を操りたいと願う人間が、殺人を犯せばどうなるのだろう。

 人は殺してはいけない。これは、理屈などはない真理である。殺人を許す法などないだろう。散文を蒸留したければ、殺人犯に委託すればいい・・・