平成生まれが平成の終わりに色々考える

近代史を振り返るとかじゃなくて、漠然と思った事など。

オツベルと象のオチの解釈(959文字)

 中学一年生の国語で宮沢賢治の「オツベルと象」ってお話を習った。オツベルっておじさんが、自分の仕事場に遊びに来た白象を色々と騙して、過酷な労度を強いたら仲間の象達が助けに来て、結果的に象につぶされたオツベルは地面のシミとなり無事白象は助かるってお話。ブラック企業に労基署がやってきたみたいなもんだ。

 この話は牛飼いが「昔オツベルってやつがいてさぁ」って感じで昔話を語るように物語が進んでいくが、最後はこの一文で締められている。

 

 おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。(青空文庫より)

 自分が中学の時使った教科書には一字不明の部分がなかったが、それまでの象達のやり取りの後に突然この文章が出てくる。当時は牛飼いが勝手に川に向かって歩き出した牛さんに向かっての一言だと解釈していた。だけどこの一文は、宮沢賢治自身が読者に対しての一言なんじゃないかと思う。

 一字不明もなんだか気になるし、「川へ入っちゃ」なのか「川へは行っちゃ」なのかも気になるが、ここで重要なのは「川」ってキーワードだと思う。川に入ってぼーっとしていると、当たり前だがそのまま流されてしまう。オツベルに言われるがまま流されて酷い目に合う白象の様子を、川に流される状況に例えて「君達も、何も考えずに周りの人や悪い人に流されるように生きるなよ」っていう忠告なんだと思う。

 オツベルと象が発表されたのが1926年らしいが、1929年に小林多喜二蟹工船が発表されている。蟹工船も過酷な労働環境を舞台にした有名な物語だが、こうも続けてブラックなお仕事物語が作られるって事は1920年代は一体どんな劣悪な状態だったんだろうかと想像してしまう。

 あれから100年近く経って仕事も便利になったけど、結局毎年3万人近く自殺してしまったり、ブラック企業の過労死や過労自殺が減らないところを見ると、受けるストレスやダメージの種類が変わっただけで、RPGのダメージ判定のように自分の頭の上にで数字でも出てきたら、きっと100年前の人達とそんなに変わっていないのかもしれない。だけど残念ながら自分も含めて大半の人は川に流される人生しかないので、せめてダメージの少ない住み心地ならぬ流れ心地のよい川を探して、うまく受け身を取りながらどんぶらこと流されていくしかないのです。(959文字)

宮沢賢治 オツベルと象

 

 

常識VSジョウシキ(1085文字)

 最近ネットニュースでヘルプマークを知らない子供に奪われそうになったって話が話題になっていた。ヘルプマークっていうのは、外見からは分かりにくい身体障がいなどを意思表示する赤い十字マークがついた札で、カバンからぶら下げている人をよく見る。決して「I,Loveスイス」って意思表示の為の札ではない。

 その人は突然カバンを引っ張られたから何かと思ったら、知らない子供がヘルプマークを引っ張っていて、本体は守れたけど壊れたストラップの部分は持っていかれたらしい。んでその子供の親がやって来て、謝罪をするのかと思いきや「うちの子供が欲しがっているから頂戴」と常識を疑うようなこと言ってきたらしい。

 街行く他人がいくら魅力的なモノを持っていようと、いきなり「それくれませんか?」とは言わないし、ましては力業で奪い取ろうとなんてしない。せいぜい「スミマセン、それ何処で買いましたか?」程度だと思う。親からは当然のように「人のモノを盗ってはいけない」と教わるし、もし教わらなかったとしても他人と交流をしていれば幼少期から自然と身についてくる「常識」だと思う。しかし件の親子は自分たちが身に着けてきた常識を一切持っていないらしい。最初このニュースを見た時は「頭のおかしい非常識人」だと思ったが、最近になってふと思いついたことがある。

 もしかすると、自分が思っている以上に知らない人にいきなり「それ頂戴」とねだると「ん?別にいい。はいどうぞ」とくれる人が多いんじゃないかと。その親がどれくらいの年齢かは分からないが晩婚化している世相や、引きちぎるほどの力がある子供がいることを考慮して40歳くらいとしよう。40年も生きていればどこかで盗ったり物乞いしたりしちゃいけない「常識」や空気感に触れるはずだけど、そこに一切触れなかったその親子にとっては「他人にねだると貰える」ってこそが「常識」になっているのじゃないかと。だからこそ他人のものを何の恥もなく頂戴と言えるんだと思う。そうなってくるとお互い常識同士のぶつかり合いになってしまうので、どっちが正しいとかじゃなくなってくる。

 まぁ確かに誰も何も他人に与えない殺伐とした社会よりも、何かしら分け与え合える社会の方が優しさに満ち溢れた素敵な社会だとは思うが、自分はどうしても恥の方が勝ってしまうので、赤の他人に「それくれ」とは言えないな。
 ちなみに知らない人にモノをねだった経験やねだられた経験の話を検索してみたら、タレントのYOUさんがよく知らない人にモノをねだるらしい。タレントってスゴイナー(棒読み)(1085文字)

www.sponichi.co.jp

「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」と「BALLAD 名もなき恋のうた」はどっちがリアル?(1120文字)

 アニメでも漫画でも実写化するとだいたい浦島太郎のカメの如くボッコボコに叩かれるけど、個人的には「それきっかけで原作見る人が増えるならそれでもいいじゃん」と思う。ちょっと古くなった漫画が売り場位置のいい所に平積みされることなんて、それくらいでしかチャンスないんだから。浦沢直樹の「20世紀少年」とか映画館でチラシを見て「何だこの面白そうな内容は!?」と思って映画が公開する前に全巻揃えたくらいだ。結果的に3部作の映画の感想は「うん、まぁまぁだったな」だったけども。そんな中でも「これは上手い事やったなぁ」と思う実写化映画の話を。

 

 クレヨンしんちゃんの映画のヒット作「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」と、その実写(原案)の「BALLAD 名もなき恋のうた」について。

 大雑把に説明すると、しんのすけ一家が戦国時代にタイムスリップして、そこで出会ったお侍さんと共に春日の国を守るために合戦に参加したりする話。

 BALLADも通過儀礼の如く実写化発表の時は物凄く叩かれた作品だが、単純な実写化じゃなくあくまでも「原案」って立ち位置で、春日の国の姫「春日廉」と城に仕える侍「井尻又兵衛由俊」の恋愛模様に視点を変えて作ったことで、ある意味別作品として楽しむことが出来る。もっとも、それは日本映画が好きで尚且つ恋愛ものが大丈夫な人に限るとは思うけど。

 自分はこの二つの作品でどうしても共通して語りたい好きなシーンがある。それはクライマックスで、圧倒的兵数の多い敵軍に囲まれてピンチになった春日の軍を自動車で助けに行くシーン。

 アニメ版の野原家の車はセダンとかコンパクトカーみたいなファミリーカーだが、実写版の川上家の車はパジェロみたいなオフロード車。これってどっちがリアルなんだろうか?アニメ版は30代サラリーマンがコンパクトカーに乗ってるのはリアルなんだけど、果たして一切整地がされていない戦国時代のデコボコな草原をあんなに颯爽と走れるもんなんだろうか?実写版のは「あんなごつい車を今どき家族で乗る車として買うか?」って感じはするが、デコボコ道を走るには一切間違っていない車選びだと思う。

 どっちもカッコいいシーンだから好きなんだけども、同じシーンでもアニメと実写でどっちのウソを取るのか、そしてリアルに見せる部分はどこなのか。なんか映像の見せ方の違いが見えてくるのでとても好きです。あと実写版の設定として、お父さんが写真家だから自分にも何かできないかと思って、出陣する前日の夜にみんなの写真を撮ってあげてプレゼントするシーンが好きです。

 

 もしよければそういった原作との違いも楽しむつもりで「BALLAD 名もなき恋のうた」を一度観てもらいたいなぁ。(1120文字)

「よくわからんが旨い」それでいい。(1009文字)

 突然ですが自分は回転寿司が好きです。回らない寿司屋に行った事がないから強がって好んでいる訳じゃないです。おそらく本物ではないネタを「マグロ」とか「サーモン」とかだと思って食べてる事が面白ので好きなのです。安ければ安いほどより謎寿司感が出てきていいです。ちなみに自分はエンガワとつぶ貝としめ鯖が好きです。例に出しといてなんですが、むしろマグロとかサーモンを全く食べません。今日は近所のは〇寿司に家族で行ったのですが、あいかわらず特に美味しいとは思わないが「一体何を食わされてるんだ」と思いつつも箸が進みます。この間従弟が青森のお土産で買ってきてくれたしめ鯖がとてつもなく美味しかったのですが、その足元にも及ばない雑なしめ鯖寿司を沢山食べた。

 回転寿司のネタの表記ってよくある食品偽造とか食材偽造の類にならないのかといつも思う。それとも自分みたいに本物ではないって事を前提にみんな食べているから今更問題にすることも野暮であるといった感じでほっとかれているのかな?

 食の問題が沸き起こる度に連日テレビのライドショーでは取り上げてみんなで怒るけども、そんなに怒ることじゃないと思うんだよね。腐ったものを混ぜて提供したとか、食べちゃいけないものを提供してたら怒って当然だけど、やれ産地が違う程度や同じエビでも少し種類が違う程度の話でしかない。むしろその種類の差すら分からない舌で「高級品を食べたかったのに騙された!!」なんて怒って人を見ると「騙されるバカ舌を持ってるお前は棚上げかい?」と思ってしまう。だいたいさ、高級だとされるものが安い価格でそれなりの量を供給できる訳ないって事が何で解らないんだろうか?自分達庶民は嘘をありがたがって食べるんだよ。それでいいじゃない?嘘でも美味しければ。毒や腐ったものじゃなければ。

 

 まぁそれはそれとして、北海道でも全国規模のデカい事件がいくつもあったけど中でも一番有名なのが「ミートホープ事件」だけど個人的には近所の西友で起こった「西友偽装肉返金事件」の方が記憶に残ってますね。「レシートなしでも返金します」って言ったらとんでもない数の人が押し寄せて怒号が飛び交う状況になったのをテレビで見ながら「近所で大変な事が」幼心にワクワクしてました。大人の大変さも考えずにね。

 

 本物も偽者も分からない状態で食の安全とか言われてもなぁ。何はともあれ「よくわからんが旨い」それでいいんじゃないかなぁ。(1009文字)

自殺してもいいんだけどさ…、でもちょっと待ってくれ。(2220文字)

 世間では平成・令和を股に掛けた10連休で大賑わいですが、Yahoo!ニュースにGW明けの子供の自殺に注意なんて記事が上がってくるもんだから「何だかなぁ」って感じだ。

 自分が中学高校の頃はいじめきっかけで自殺する人が多かったり一時的な社会問題になってたりもした。あれから10年以上たったが、いまだにいじめって減らないし自殺してしまう人もいる。「学校や先生は一体何をやってるんだ!!」と世間は学校サイドを責め立てるけど、一から百まで先生も面倒見れないし、大体い先生に見つかるようないじめなんてしない。学校内では守ってくれるかもしれないけど、学校から一歩外出たらどうしようもない。もう対策のしようがない問題なんだろうなぁ。

 しかも今はクラスになじめないとかでもストレスで不登校になったりして自分を追い詰めてしまうらしい。自分はある時からクラスや世の中になじむ事を諦めたので「え?何でクラスで友達が出来ない事をそんなに悩むの?」って感じになってしまったが、やはり人によっては重い問題らしい。きっと自分が中高生の時よりもLINEで四六時中学校の誰かと繋がっている環境で、自分だけが所属していないグループで悪口を言われてたり、卒業して別の学校に行ったいじめっこがいつの間にか自分の学校のクラスメイトが仲良くなってて、その人伝に自分過去話をされたりと一度付いた悪評は一生付いて回るんだろうな。改めて今学生じゃなくてよかったなと。

 

 んで自殺について。自分自身タイトルの通り自殺ってしてもいいと思うんだ。よく自殺しそうな人に「君が死んだらみんな悲しむよ」と親や友達の存在をチラつかせて説得しようとする人がいる。でもこの引き留め方って、結局その人の側に一切寄り添っていない。その人の事が心配なんじゃなくて死んだ後の周りの心配しかしていないもん。自殺しようとする人だってバカじゃないから、そりゃ親兄弟が悲しむことは解ってる。だけどもそれを超えて自分が苦しくて「もう死ぬしかねぇな」って状態になってる気に「周りの人の事を考えろ」ってあんまりにも酷な話なんじゃないかと。

 

 だから今自殺を考えてい人は自分の人生なんだから周りの人の気持ちも考えず、世の中の迷惑も考えず胸を張って死んでほしい。

 

 とはいえ、でもちょっと待ってくれ。今ドン底の状態で死んでもきっと「つまんねぇ奴が1人死んだ」って事にしかならないぞ。世の中に何にも残せないまま死んじゃうぞ。

 

 自分も何もやりたい事が見つからないまま大学卒業して、ニートとして自室の玉座に鎮座し続けたけれど、3年目の春に「今年でニート3年生だし、進路も決めようか」と決意もしたが、2年動かなかった奴がものの数カ月で玉座から尻が離れるわけがなく、あっけなく夏が過ぎ「かわまん、春になったら人生の卒業式しよう!」って思った。だけど「う~ん、このまま死んでもつまんない奴が一人死んだって事にしかならんしなぁ」と踏みとどまり、親に頼んで工業系の専門学校に行くことに。

 あと小学校の時のクラスメイトの女子Yさんが高校1年生の時に自殺をして、もう1人高校1年生の時のクラスメイトのM君が大学4年生の時に自殺しているので、彼ら彼女らの事を考えたら「2人共もっと生きたかったはずなのに、自分はそんな適当な理由であっけなく死んだらだめでしょ」と。だって申し訳ないじゃん?

 ちなみに入学した専門学校で同じクラスのO君はその年の7月7日(多分)に自室で首を吊って自殺しました。最後に登校した5日に実習中にこっぴどく怒られ、その時は「お前今凄い火花出てたぞ!」って話しかけた時は彼も笑いながら「やばかったっすわ~」みたいに笑ってたのに、帰り際にすれ違った時にこの世の終わりみたいな顔をしていたのが今でも思い出す。その時「また明日な」みたに声をかけた気がするが、何であの時「顔色悪いけど大丈夫か?」ってもう一言声かけてあげなかったのかなぁと、今でも頭の中がもやもやする。7日の昼に先生から自殺しましたって話をされた時は「何か一言声かけてれば…」と同時に「なんてつまんない死に方を…」って思った。悲しすぎて午後からの実習も上の空で涙が止まらなかった。ただただ窓の外を見ながら「人って死んでも空って清々しいくらい青いな」って思った。

 

 思い出話が少し長くなったね。自殺したい人は周りことを考えず自分の人生だから自由に死んでくれ。でも気持ちが一番落ちてる時に死んでも「つまんない人」でしかないよ?どうせ死ぬんだったら最後に「伝説」作って死にませんか?犯罪以外なら何でもいいです。人生の最後の大勝負をしてみてください。歴史に名を残しといてください。もしかするとその時は死ぬことなんてどうでもよくなってるかもしれません。それでもなお死にたいかもしれません。それでも構わんよ。絶頂期で死んだらそれはそれで「あいつ凄い奴だったな」と永遠に語り継げるので。

 自分は何だかんだあって、卒業後は専門学校で勧められた企業に就職してキツイけどなんとかやってる。気持ちはまだ「永世名誉ニート」だけど、やっぱりこの会社に何か傷跡くらいつけてやりたいと思う。いい意味でも、悪い意味でも。

 

 とにかくドン底期になし崩しに死のうとしないで、絶頂期で最高の死場を見つけて死んでください。それがきっと短くてクソみたいだけど「最高の人生」だったと言えると思うので。最高の死に向けてがんばって生きて!(2220文字)

映画館は誰の居場所?(1706文字)

 北海道新聞の朝刊にはラジオ欄の下に必ず札幌市内の映画館での公開作品の上映時間の一覧が載っている。これを見たい映画があるかないかは別として毎日見ているのがだ、公開時期が奇跡のタイミングだったらしく、札幌駅の映画館での上映作品の半分くらいがアニメもしくはオタク系の実写化映画で占められていた。味噌汁をすすりながら「もう映画館で映画を見るのはオタクしかいないのかもしれんなぁ」と思った。あとはジャニーズ系かAKB系か坂道系のアイドルを主演に映画をファン達が映画館で見ているのかもしれない。

 

 自分は年間で10本程度しか映画館で映画を観ないが、この10年を振り返ってみてもおそらく邦画洋画合わせて実写映画は5本くらしか見ていない気がする。あとは全部アニメだ。別に実写映画に全く興味がないわけじゃないんだけれども、何となくアニメの方が優先順位が先で実写を後回しにしているうちに公開終了しているなんことがよくある。

 中学生の頃から年映画館に通うようになったが、その頃は大きい映画館で邦洋問わず実写映画を見ていたが、高校生くらいから小さな映画館でマイナーな邦画ばかりを見るようになり、大学生くらいからアニメ映画ばかりを見に行くようになった。

 最終的にアニメ映画に定住してしまった理由は、おそらく実写よりも「変なモノ」を見せられる確率が高いとからだと思う。ストーリもそうだが映像表現として、実写と違って全てを描かなければ映像にならないが、その代わり実写よりも自由度は無限大にある。だから作り手のセンス100%の映像を見せられた時に「こりゃすげぇな。」ってなる。この感動って実写にはないベクトルの感動なんだよね。例えば人が突然羽根を生やして飛ぶシーンを作るとする。今の時代CG処理で違和感なく生やしてクロマキー合成でいくらでも飛ばせられるけど、ベースが生身の人間である以上絶対に出来ない無理な部分が出てくる。だけど実在しないキャラクターならば違和感なく表現できてしまう。だからアニメって面白いのかもしれない。

 

 元は「映画館にはアニメ系・アイドル系のオタクしかいないのか?」って話だったので、そっちの話に戻す。

 結論から言ってしまえば、結局わざわざ映画館で見る必要性が無くなったんだと思う。だってYoutubeAmazonで新作映画を自宅でワンコインで気軽に好きな時間に見れる時代に、わざわざ1800円払って決まった上映時間に2時間拘束されるなんて不便極まりないもん。自宅で見るなら「ちょっと待って、今のところよく分からなかった」とか「今のシーン凄かったからもう一回見直そう」とかの巻き戻しが出来るけど、映画館だと自分の理解力を無視しきって2時間過ぎてゆくからな。映画はテレビの登場で一度死んだけど、ネットの動画配信サービスの登場で二度目の死を迎えたんだと思う。3Dや4DXとかもあるけど結局は主流は従来の平面の映画のまま。

 だからこそ劇場に来てほしくて特典商法とかするしかなくなって、それにまんまと釣られてしまう自分を含めたオタク層しか来なくなるんだと思う。アニメ作品はまだ釣れるエサがあるからいい。邦画実写はバラエティー番組の番宣で何とかできるからいい。問題は洋画作品にどうやって人を呼び込むか。

 最近センスのないダサい邦題とポスター問題が話題になっているが、みんな映画館に行かないんだから、どうやったって分かりやすい表現を取るしかなくなってくるのは当たり前な事だと思う。コアな映画ファンは「本来のタイトルとポスターの方がセンスがイイ!」とブチ切れてるのは解るけど、結局そのままのモノで宣伝されて見に行くのは君たち映画ファンだけでしかな。

 

 シネコン系の映画館と小さな劇場でコアな映画ばかりを上映する映画館とでは、客層は全く違くて後者の方が映画ファンが多い。わざわざ映画館で見る映画ファンはもう小さいところに集まる程度の数しかいないのかもしれない。きっとコアな映画ファンもSNSで一生懸命「アレが面白かった」「コレがヤバかった」と口コミをしてるんだろうけど、その口コミが届かない程に世の中は映画に興味を持っていないんだろうなぁ。(1706文字)

「コミケ」ってどうよ?(2561文字)

 「平成最後」ってキャッチフレーズに思わず飛びついてしまい、絵も漫画も描けないのに勢いでコミックマーケット95に申し込んだら、運営から「参加を許可する。3日目東ラ51bの場所を託す」と言われてしまいました。9月頃からちまちまと作業を始めて、なんだかんだで12月の中旬で完成させて印刷所に提出する事ができました。プロ漫画家や経験豊富なアマチュア参加者でも原稿落とす人がいるなか、初参加で余裕もって完成できた事は、少し誇りたい。誇っていいよね?

 しかし3カ月一生懸命やったかと言われると残念ながらそうではなく、当初の予定では、9・10月は下書きと絵の練習で11月中で完成させようと計画していた。しかし思ったより内容が思いつかないし、練習もほぼしない日々。11月に入った段階で夏休みの宿題の如く終盤に慌てる始末。昔、文学フリマで本を出してた事もあったがその時から終盤に慌てるのは変わっていないですね。今後も本を作る事があるかは分からないが、きっと未来でも慌てているのでしょうね。

 そんでもって完成した本を頒布するわけだが、毎度の事ながら自分は印刷所から完成した本が届いた段階で9割がた満足してしまい、あんまり「よし、売っちゃうぞ!」って気分にならない。しかしながら「見てもらいたい」って気持ちがないと言えばウソになので、とりあえずPixiv・Twitterで宣伝はしっかりとする。Pixivでの宣伝は数ページ載せるだけだが、Twitterでの宣伝はある程度ずる賢く行っていたりもする。

 ページ全体を載せない様にする。そもそも絵も漫画も描けないので全体を載せると酷さがより際立ってしまう。個人的に好きなコマや上手くいったコマだけを載せて、そのコマに合わせたコメントや煽り文句を書く。そうする事で見た人が、絵が酷い事は隠し切れないが「何故このキャラはこんな顔してるんだ?」とか「なんでこのキャラの組み合わせなんだ?」と興味を引き付ける効果が出てくるんじゃないかと。言い方は悪いけど「パッケージで騙す」って事が出来るんじゃないかと。

 その効果があったのかは分からないが、自分よりも何億倍も絵が上手く人気のある参加者さん達が宣伝をリツイートしてくれたりしました。中には「興味があるから買いに行くよ」と言ってくれる参加者さんまで。本当にありがたい事であり、これこそが同人活動の素晴らしさというか、決して「絵の上手さ」だけでは測りきれないのが同人活動なんだなぁと。

 

 初めて同人誌を作って文学フリマに出た時の目標は「1時間1冊。イベントの6時間で合計6冊頒布出来たら御の字」だったので初参加のコミケでもこの目標で挑む。ほとんど暇な時間を過ごすと思っていたので、資格試験の勉強を6時間するつもりでいました。開始直後からテキストを読んでいると開始15分でまさかの手に取る人が来たじゃありませんか。しかもパラパラと見本誌を見た上で買っていったではありませんか。「何故こんな本を?」という疑問と「ありがとうございます!!」と思っていると、それから5分もしないうちにまた買っていく人が来たじゃありませんか。「これは案外あっさりとノルマの6冊は達成できるかも」なんて事を思いながら資格試験の勉強をする事に。

 結果から言いますと今回出した新刊が売れたのは5冊。プラス過去に文学フリマで出した2種類の本が各1冊の合計7冊。新刊で5冊の内訳は通りすがりの人で3冊。事前の宣伝ツイートを見て買いに来てくれた人の1冊。自分の隣のサークルさんで1冊の計5冊。自分はサークル参加したらなるべく両サイドのサークルからイベント終わり15分くらい前に新刊が余っていたら買うようにしているので、ある意味交換みたいなもんなので純粋に「売れた!」って感じの1冊ではないんですけどね。

 売れただけでも大変ありがたい話ではあるが、やはり新刊を6冊頒布するのがノルマだったので残念な結果ではあったかと。勉強なんてしない真面目に頒布しろよって話なんですけどね笑。

 

 最近注目された発言に、自分と同じコミケ初参加で全然売れなかった人の嘆きがまとめられていたが、その人から見ると自分なんかは成功者に見えるんだろうか。その人がどんな本を出して、そして売れなかったのかはあまりよく判らないが、「エロしか売れない」は違うと思うんだ。だって同じ条件でサークル参加した自分が3カ月(いや実質1ヶ月?)何とかしてボールペンでA5のコピー用紙に自分が面白いと思うものを殴り描きして本にしたら、売れると思っていなかった本が少なくとも4冊(隣からの1冊は抜いて)は売れたもん。こういう言い方をするとまるで「お前は努力していなかっただけだ」って言ってる様に聞こえるかもしれない。そうじゃない自分が言いたいのは「君が『面白いと思う本』を作ったのかい?ただ『売れる事だけを考えた本』を作ったんじゃないのか?」って事です。

イベントにおける、みんなに見てもらいたいはイコール「売れる」って事だから「売れるような本にする為にはどうしたらいいか」を考えるのは悪いわけじゃないがそこが第1になってはダメで、きっとそういう本って「プロ参加者」には一発で見抜かれてるんだと思う。

  別に本に限らず動画でもイラストでもいいんだけど、作者はナルシストであるべきだと思うし、自分の作品の一番のファンは自分であるべきだと思うんです。今回の本を読み返して、やっぱり絵は酷いし展開も適当だし「ひでぇ本だなぁ」とも思うけど、でも「いや、そんなに悪い本じゃない」と思ってしまう。なんだかんだで好きなんだよね、自分の本が。

 

 ここまで書いておきながら「一体お前はどんな本を描いたんだい?」って思うかもしれない。自分はアイドルマスターシャイニーカラーズってゲームの二次創作同人誌を出しました。長々と同人活動に関して語っておきながら、結局アイドルマスターなんて人気シリーズで二次創作して数冊売れたって…。ゴロやイナゴと変わらない可能性あり…?
 Pixivで前書き・後書きを抜いた、漫画部分だけを全部公開してるので興味のある人は見てって下さいな。(2561文字)

【アイドルマスターシャイニーカラーズ】「283な日々(C95で頒布した本)」/「伊藤P」のイラスト [pixiv]