【和訳】THE GOLDEN AGE WILL RETURN AGAIN

「狂人共の船歌」が激アツだったので和訳!注釈!解釈!激アツ!

 

The Golden age will return again

黄金の時代は再び来たらん

かつて、高度な科学技術を有したエーギル難民──通称「島民」から技術供与を受けた臨海国家イベリアは、他の国家を遥かに優越する軍事力を有し、「海と大地を征服せん」とさえ豪語するほどの栄華を誇った。

しかし、大地の外の脅威──「海の怪物」によって引き起こされた大災厄「大いなる静謐」以降、それによって致命的な打撃を受けたイベリアはかつての見る影もないほどに衰弱してしまった。

そして島民たちは海の怪物を信奉する「深海教会」との内通を疑われ、イベリア裁判所によって粛清された。繁栄の源泉であったエーギルの科学技術さえ喪われ、今日のイベリアはどん底の状態にある。

それでもなお──イベリア黄金時代の寵児たる「狂人号」スタルティフィラの乗組員たちは輝ける日々の再来を疑わない。

 

Remember when the days were young

在りし力漲る日々を忘るること勿れ

スタルティフィラの乗組員たちはイベリア黄金時代の記憶を胸に抱いている。栄華は決して喪われず、スタルティフィラと共にある。

 

Iberia's future's bright as the Sun

イベリアの未来の輝けるは太陽の如く

イベリアの未来は輝かしいものである。船長アルフォンソは、スタルティフィラを黄金時代のイベリアそのものであると見做している──スタルティフィラの航路は輝いていると、彼は言うだろう。

 

She whispers when the sails ascend 

帆の揚がるとき、スタルティフィラは囁くのだ

船舶は往々にして女性と見做される。故に "She"は「狂人号」スタルティフィラを指す。

 

The Golden age will return again

黄金の時代は再び来たらん

 

The Golden age will return again

黄金の時代は再び来たらん

 

The morning sky warns of the threatening seas

暁の空は恐ろしき海の兆しを告げる

"threatening sea" とは通常、荒れた海を表す。しかしイベリアが直面した海の脅威は、ただの天候ではない──海の怪物である。朝焼けに照らされて「大いなる静謐」はやって来たのだろう。

 

Years go by more forget our beliefs

信念は遥か去る歳月に霞み

「大いなる静謐」によって傷ついたスタルティフィラと乗組員たちは、60年もの歳月を海上で過ごした。その長い長い苦難の時は、彼らの信念を忘却の彼方に追いやってしまうには十分すぎた。

 

And the storm we must endure my friend,

輩よ、我らは災厄を堪えねばならない

それでも堪えねばならぬと、彼らは奮えた。

 

before The Golden age will return again

黄金の時代が再び来たるその時まで

 

before The Golden age will return again

黄金の時代が再び来たるその時まで

 

before The Golden age will return again

スタルティフィラが再び還るその時まで

イベリア黄金時代、その申し子たる「狂人号」スタルティフィラが帰港するその時まで、彼らは堪えると誓ったのだ。

ゴジラVSコングの胡乱感想(ネタバレ特盛)

 正直、本作の展開には驚いた。『キングコング』を世に送り出したアメリカで作られたフィルムにおいて、ゴジラが勝者となったのだから。こういった「VS系」で勝敗が明確にされることは珍しいのではなかろうか。

 モンスターバースにおいては、いっそ頑なな程にコングもギドラも「キング」の冠を剥奪されている。そして、本作においてもまた、ゴジラの『怪獣王 (King of Monsters)』の地位は揺るがない。ゴジラ海上での戦いにおいても、香港での決戦においてもコングを下した。ゴジラが二度も勝利したのだ。香港決戦の終幕、倒れたコングの胸板を嬲るように踏みつけ、ゴジラは勝利宣言の咆哮を上げた。その「王たるはゴジラである。」との宣言に異を唱える者は、この地球上に居りはしない。

 しかし、本作は決してコングの株を下げるフィルムではなかった。映る時間はコングの方が圧倒的に長く、本作の「主人公」はコングの方だったとさえ言えるだろう。本作は、髑髏島 (Skull island) という小さな島で生まれたコングが己の一族が髑髏島に来る前のルーツを探る冒険譚だったのだ。そして、ついに辿り着いたコングの故郷においてコングは一族の長が座すべき玉座に収まる。しかし、既にコング一族は彼のみを遺し死に絶えており、彼に仕え、そして彼が守るべき民は居なかった。孤独故に故郷に還ることを求めたコングは、その故郷においてさえ孤独だった……。ひどく物悲しい結末である。そしてコングは知ることになる。ゴジラ一族とコング一族は、『怪獣王』の玉座を争う宿敵関係にあったことを。

 本作において、ゴジラは悪役 (ヒール) 的な振る舞いをする。実際、コングにそんなつもりはなかったのだろうが、コングが髑髏島を出たことでゴジラはギドラに続いて『怪獣王』の座を狙う脅威が現れたと考えた。故にコングの冒険の最中、幾度も彼を襲撃する。第一戦、海上での戦いはコングからすれば「何故か超ヤバい奴に絡まれた」状況。故に、コングは「覚悟」できていない。そして地の利もまたゴジラにあり、コングはゴジラに終始圧倒される展開だった。しかし、香港決戦。コングは己がゴジラと決着すべき存在であることを自覚し、そして一族の仇への復讐を望み、一族に伝わっていたゴジラの背びれを加工した斧 (コングカリバー) を携えてゴジラと対峙する。

 しかしコングはゴジラに及ばず、敗北した。『王』の座を守ったゴジラは死を待つばかりのコングに背を向けるのだが……。そこに、ゴジラによって撃滅されたはずのギドラの『亡霊』が現れる。それが、本作のメカゴジラだ。『僭王』たるギドラが、不遜にも真の王の姿を模倣して現れる。実にエモーショナルな展開だ。

 此処からは小栗旬演じる芹沢蓮(Ren Serizawa)の話をしよう。『KoM』で大活躍した蓮の父、芹沢博士(Dr. Serizawa)とは対照的に、本作での彼の扱いはお世辞にも良いとは言えない。聞くところによれば人間ドラマのシーンを削りまくった影響らしいが、とにかく、劇中の情報だけでは蓮が何をしたかったのかよく分からない。そのため、これから記すのは胡乱な内容となることを断っておく。

 蓮は劇中の巨大企業『APEX CYBANETICS』が推し進めるメカゴジラ建造プロジェクトに深く関る人物だ。言うまでもなく、メカゴジラとは対ゴジラ決戦兵器、人類が生態系の『王』に返り咲くための切り札として建造されている。ゴジラに狂気的とさえいえる献身を果たした芹沢博士の息子が、父とは逆にゴジラを滅ぼそうとしている。これは、芹沢親子間の確執を示唆しているのではなかろうか。

 蓮の目的と動機について妄想する前に、本作のメカゴジラの特徴を押さえておく。メカゴジラはギドラの亡骸を利用して建造されている。ギドラの首は互いにテレパシーで交信する性質を利用し、ギドラの頭蓋骨二つをそれぞれメカゴジラの頭部と外部コックピットに流用。パイロットは神経接続によってトランス状態になり、メカゴジラを遠隔操作する。

 蓮はメカゴジラパイロットも務めていた。そして、私はこのことから、蓮の目的についてこう考えた。「蓮はゴジラになりたかったのではないか?」

 何故、操作方法が神経接続なのか。それは己とメカゴジラを合一するためだ。何故、ギドラの亡骸を使いながら、メカギドラではなくメカゴジラとしたのか。敗者であるギドラよりもゴジラを模倣した方が良いというのならばわかるが、そもそも何故怪獣を模ることを選択したのか。それは、そもそもヒトの「模るという行為」が、それとの合一を求めるが故に他ならない。蓮はメカゴジラを媒体としてゴジラに並び立ち、そしてゴジラになりたかったのだ。

 では、何故蓮はゴジラになりたかったのか。それはおそらく、父との関係に由来する。物語における研究者系父親というのは得てして、己の研究に没頭するあまり家族を蔑ろにしがちであるから、芹沢博士もそうした類いの人物だったと仮定しよう。蓮の父はゴジラを愛し、ゴジラのために死んだ。蓮は、最後まで自分は愛されなかったという寂しさを抱えていた。故に蓮が願ったのは二つ。自分に向けられるはずだった父の愛と、その父の命を奪ったゴジラへの復讐。しして、父が愛したゴジラになることで父に愛されたいという歪な代替行為。これらの願いが、彼をメカゴジラ開発へと駆り立てたのだ。

 あるいは、彼もまた父と同じくゴジラフリークで、ゴジラになりたいという少年の如き夢を叶えたかっただけかもしれないが……。

自分にとってソーシャルゲームとは何だったか

 実に下らない話をする。共感し難く、女々しく、取るに足らない備忘録。他人に見せるべくして書くものではないことをことわっておく。

 ソーシャルゲーム、殊に、スマホゲーム。自分がインストールしたことがあるのはFGO、FEH、グラブル、プリコネ、そしてシャドウバースだ。今はどれもプレイしていない。そして、シャドウバースを除けばほとんど真面目にプレイしていなかった。これからもするつもりはない。この判断はきっと、自分にとっては正解だ。しかし、故にこそ、極々ささやかな後悔が脳裏にこびりついている。

 後悔はふたつ。ひとつは、あれらに金と時間を費やしてしまったこと。こんなことを言うのはソーシャルゲームを貶すことになるので忍びないが、あれらに費やした金と時間はもっと有意義に―自分の大好きなコンシューマーゲームをプレイするために使えたはずだった。そうすべきだった。もうひとつは、金と時間を多少とはいえ注ぎ込んだスマホゲームを、今や辞めていること。先述の通り、きっとこれは正しい判断だ。しかし正しいからといって、後悔していないわけではない。貧乏性なのだ。勿体ないのだ。あの金と時間はまったく無駄なコストだったと思えばこそ、なおさら後悔の色は深くなる。

 未練がましく保存してあるスマホゲームのデータを完全に消去してしまえば、この鈍痛はきっと消え失せる。しかし、一時の激しい後悔に耐えなければならない。このまま保持すれば、激痛を感じることはないだろう。そして、あれらが全てサービス終了するその日まで、痒みにも似た痛みに苛まれることになる。再開してしまえば、真面目にプレイすれば、失った金と時間は再び意味を持つ。ふたつの後悔は彼方へと消えるだろう。しかし、もはや自分は戻れない。重厚で、濃密な体験を提供してくれるコンシューマーゲームをプレイする時間を削れない。削りたくはない。だからこそどうしようもない。後悔を拭う方法を知りながら、それを抱き続けることを選択し、しかし後悔を嘆いている人間の、共感し難く、女々しく、取るに足らない独白。冒頭に記した通り、これはまったく価値のない葛藤について記した、まったく価値のない文章なのだ。

 そしてこれは余談だが、年末年始はグラブルやプリコネの無料ガチャ大盤振る舞いがある。それをおみくじ代わりにして、それなりにレアなものを引いてはいるのだが……、なおさら勿体ないような気がして嫌になる。そう、これは自分のせいに他ならないが、福袋だの、サプチケだの、ろくにプレイしないゲームに1万円近く支払ったのはまったく愚かだった。年末年始は自己嫌悪の臭いがする。

ゼロワン持論

 令和で最初の仮面ライダーシリーズ、「仮面ライダーゼロワン」が完結した。

 問題点として挙げられるのは「お仕事五番勝負」パートに代表されるZAIA編である。その他の問題点においては擁護の立場を取る自分だが、「お仕事五番勝負」ばかりはもっとやりようがあったはずだと思わざるを得ない。滅亡迅雷.net編は基本的に一話完結式であり、その中で新たなプログライズキーやライダーが登場したりゼロワンが強化形態を手に入れる等、テンポよく話が進んでいた。しかし「お仕事五番勝負」は人間ドラマを描く必要があるためか二話完結式を採っており、やや話の展開が冗長であった。人間ドラマ部分も三、四番目ではそれなりに楽しめたのだが、一、二、五番目のドラマ部分はいささか陳腐だったと記憶している。

 しかしそれ以上に問題だったのは、毎週のように主人公陣営が一方的にボコられる戦闘パートだろう。滅亡迅雷.net編の終盤に満を持して登場した強化形態シャイニング(アサルト)ホッパーやアサルトウルフが登場から数週間で仮面ライダーサウザーに全く歯が立たない型落ちフォームに転落するのはあまりにも味気なかったし、二話完結ゆえにその状況が長く続くのである。しかもメタルクラスタホッパーが登場するまでパワーアップは無し、そのメタルクラスタホッパーさえMADE BY ZAIAという有り様であり、サウザーに戦闘力で歯が立たないのは分かっているのにろくな対策もせず挑み続ける主人公陣営が愚かに見えてしまった印象は、おそらく後述の問題点と無関係ではない。

 ZAIA編の構図は「飛電インテリジェンス vs ZAIAエンタープライズ」の企業対決なのだが、その企業感があまりにも薄かった。それぞれの陣営の支持者についてはほとんど描写されず、正直「飛電或人 vs 天津亥」の個人的な対決にさえ見えるものだった。おそらくゼロワン世界の社会には、ヒューマギアに職を追われた失業者が大勢居る。ゼロワンと同じく、人間と自我を得たAIとの関わりを描いた「Detroit Become Human」などはそうした社会問題を生々しく描いた作品だったが、ゼロワンは子ども向けゆえかそうした社会構造的な対立はぼかされている。社会のヒューマギアに労働力を依存した面と、ヒューマギアが人間を追放し始めている面との対比がおそらく先の企業対決に象徴されたのだろう。個人的には、悪意からレイドライザーを手にするのが責任あるはずの社会人であるところに違和感を抱いていたが、暴走するのが失業して自棄を起こした人間であれば違和感はなかったように思う。肝心なところをぼかしたことでZAIA側がただ傍若無人に振舞うように見えてしまったのではないだろうか。(もっとも、ニチアサで失業者問題を真剣に取り扱ってしまうと、ちょうど親が失業してしまった家庭などにクリティカルヒットしてお茶の間が氷点下になる可能性がある以上、仕方ないところではある。)

 「何かの拍子でマギア化するかもしれないヒューマギアを使い続けるのは不自然だ」との指摘が見られるが、おそらく先述の通り労働力をヒューマギアに依存した社会はもはやヒューマギアなしでは立ち行かない。その程度のリスクはコラテラルダメージとして勘定しなければならないほど、社会がヒューマギアに依存しているのだ。ZAIAはそれへのカウンターとして、人間でもヒューマギアに匹敵するパフォーマンスを発揮できるようになるZAIAスペックの販売に踏み切ったのだろうが、それは人間を暴走させる危険性を孕む、ヒューマギア以上に危険極まる代物であった。まだ暴走ロボットの方がマシである。(天津はZAIAスペックを意図的に暴走させてマッチポンプ式にレイドライザーを販売しようとしていたが、そんなリスキーなことをするならヒューマギア問題を放置して飛電に責を負わせていた方が効果的だったのでは……?ゼロワン脚本の拙い所はZAIA周りに集中している。やはり当初の脚本で描こうとしていた社会問題が重すぎて脚本を歪めてしまったのではないかと邪推しているが、真偽を知るところではない。)また、最終盤では滅の声明に感化されたヒューマギアがデモを行ったりマギア化するなど人間に敵対的な姿勢を見せたが、飛電の警備員型ヒューマギアは職務を全うしていたし、その後の円満な展開からは暴走したのはごく一部のヒューマギアだったとも考え得る。しかし与田垣の慌てぶりを見るに問題は相当大規模だったともまた考え得るため、この辺りは推測の域を出ない。

 ヒューマギアの「人権」問題だが、これは「ヒューマギアが人間と同質になる」と見るか「ヒューマギアが人間に並ぶ存在になる」と見るかで変わってくる。自分としては前者の解釈は稚拙と唾棄したく、後者の立場を取るものである。「ヒューマギアは破壊されても復元すればいいや」との姿勢が倫理観に欠けるとの指摘だが、そもそも人間とヒューマギアは同質ではなく、人間の倫理を適用し得るか怪しいものである。人間はどうしたって蘇らないが、ヒューマギアの復元は技術的に可能であるのだから問題はない。仮に初めから人間は死んでも蘇らせられる、そういう存在だったのならば、我々視聴者に巣喰う死人返りへの忌避感など存在しなかっただろう。そしてヒューマギアは、そういう存在なのである。しかし劇中、迅は滅の「死」を悲しみ、滅もまた迅の「死」を悲しんだ。これが事態をややこしくしている。これは彼らが人間をラーニングしたことで、人間の行動をエミュレートしていることに起因する。それでもゼロワン完結後、ヒューマギアたちは総体として自我に目覚めつつも「我々は人間に似ているが、違う存在である」とラーニングしてゆくだろうし、人間社会もまた適応的に変容するだろう。ヒューマギアが人間と同質化せんとするのは、ヒューマギアという一種族の歴史において「親離れ」するまでのごく短い間なのだ。「仮面ライダーゼロワン」の物語、そして結末は、二つの知性種族の共存の歴史の「黎明」を描いた作品と捉えれば何ら不自然ではない。決して諸々の問題が解決されたわけではなく、むしろヒューマギア事業の拡大は人間とヒューマギアとの衝突を激化させ得る。そしてアズと仮面ライダーエデンの存在が示す通り、アークは事実永遠のものとなった。人間もヒューマギアも悪意を克服してなどいないし、きっと未来永劫できない。ゆえに、滅と迅は悪意の監視者となることを選んだのだ。彼らが監視者たり得るのは、ヒューマギアがバックアップと復元とを駆使することで人間よりもずっと永らえることができる存在だからである。特に滅は、悪意を心に抱えてなお争いを鎮めることができる者、飛電或人が確かに生きていたことの証人でもあるのだ。

 飛電或人は悪意を克服してなどいない。自身の心に悪意が巣喰うことを受け容れ、それでも憎き敵である滅を許すことができた点において、彼は主人公である。其雄が説いた強さとは、敵を滅ぼす力があるにも関わらず、敵を許すことができる心の強さである。復讐を否定し、争い、すなわち悪意の連鎖を終わらせることができる強さである。(最終話で突然「仮面ライダー」概念が表出してきたのには違和感があるが、「仮面ライダー」とは正しさのために危険で強大な力を行使する者であるとのメタ的文脈に拠るならば、一応筋は通っている。一応だが……。)

我が導きの月光よ

「ああ、ずっと側に居てくれたのか。我が師、導きの月光よ。」
医療教会最初の狩人、聖剣の英雄ルドウイーク。
偉大な狩人の一人であった彼は、いつしか悪夢に囚われ、心身を醜い獣に変じてしまった。ガスコインに並び、狩り続け、狩り過ぎた者はかつて獲物であったはずの獣になり果てることを象徴するキャラクターである。
しかし、彼は先の言葉と共に、人としての己を取り戻す。彼を導き続けた「月光」が、彼の心を呼び戻すのである。
ルドウイークはしきりに「光」を気にする。「狩人よ、光の糸を見たことがあるかね?」「教会の狩人よ、教えてくれ。君たちは光を見ているかね?」そして彼の言葉や諸々のフレーバーテキストに、その光こそが彼の心の支えであったことが示されている。「光」、すなわち「月光」。だからこそ、月光の聖剣を取り戻した彼は、正気もまた取り戻したのである。
しかし、その「月光」は不気味な残響を伴うものである。ルドウイーク曰く、「真実それが何ものかなど、決して知りたくはなかったのだよ。」やつしのシモン曰く、「ほら、これがルドウイークの導きの光だ。英雄を導いた、目も眩む欺瞞の糸さ。」これから察するに、「月光」の本質は優しいものではないのである。
武器としての月光の聖剣は、物理と神秘の複属性武器。そして、Bloodborneの世界において神秘とは、人ならざる者たちの宇宙悪夢的知識。すなわち「月光」とは外宇宙に由来する存在なのである。
ルドウイークが何故これを導きとしたのか。獣狩りという、人と獣の境が曖昧になる狂気の場において、ルドウイークは更なる狂気、「光」で己の目を潰し、己の仕える医療教会の正義をただ信じたのである。その蒙昧さ故に、彼は獣に堕ちた。
ルドウイークは確かに誇り高く、精強な狩人だった。しかし、たとえそうであっても、人など、心など、宇宙の神秘の前には吹けば飛ぶものである。そのどこか残酷なBloodborne世界の理を表すキャラクターであろう。
しかし悲しいかな、我々現実世界のプレイヤーもまた蒙昧であり、尋常の思考回路で物語を享受する。故に、ただルドウイークが最後に己を取り戻したことに感動する。してしまうのである。彼が、我々が、哀れで矮小な存在であることを忘れて。

SEKIRO bossrush mod is GOD.

 ここ一ヶ月とり憑かれたようにSEKIROをプレイしていて、学業も友達付き合いも壊滅していたNASnosukeです。マジ反省してます。ッス。この記事を書きだした時点でbossrush mod用のセーブデータは七周目終盤です。リリースする頃には八周目。

 そうです。bossrush mod導入して遊んでました。意地悪なことに、SEKIROには正規のボスラッシュがありません。そのため、「あのボスとまた戦いたい!練習したい!」と思うなら、周回しなければいけません。正直ダルいです。自分、一月末辺りに八周目苦難鐘(八周目:SEKIROは周回すると難易度が上がる。八周目で頭打ち。苦難:ハードモード。敵の体力、火力増強、弾きミスで割合貫通ダメージ発生。鐘憑き:敵の体力、火力微増。)の最高難度モードをクリアしてしまって、熱が冷めかけていたんですね。あの難易度のまま周回したくないし、そもそも雑魚狩り億劫だし。そこで、今まで何となく敬遠していたけれど、少し興味のあったmodに注目したのです。それこそがbossrush mod。

 感想ですが、題にも記した通り、GODです。まず、一つのゲームモードとして完成している。「mod作者、社員か?」と思ってしまうほどの出来。bossrush modでは、初めに多少の資金を渡されて、それを元手にアイテムを一から揃えてゆきます。初めは何も持っていないので、始めたての頃のアイテム不足を思い出して楽しかったです。その他にも、ゲームのテンポが良くなっていました。SEKIROではアイテムを入手すると逐次演出が挿入されるのですが、まあ何周もしてるので見飽きてるんですよね。それが省略されていたのでかなり快適でした。5000兆葦名ポイント。このmodで修練したおかげでずっと苦手だったラスボスもほぼ完封できるようになり、その他のボスにも躊躇することなく新戦法を試せるようになりました。マジ素晴らしいです。グレート。

 ただ、一部の中ボスは未実装です。桜牛くんと戦えないと形代所持数上限にできないのでちょっと困ることもあります。まあ、それを補って余りある充実機能満載のmodなので総合点数4,999,999,999,999,900葦名ポイントの神modです。

 余談ですが、いくらやっても慣れないボスの紹介です。栄えある一位は中ボス「葦名七本槍」の皆さん。いやらしいディレイに即死余裕の超火力。攻め立ててもスーパーアーマーでバッチリ割り込まれる。ラスボス超えたよお前。二位はマイネェェェェェェム!で大人気。ストーリー最初の大ボス、「鬼庭形部雅孝」さん。ノーマル難易度ではノリと勢いで何故か倒せちゃう変なおじさんですが、苦難では一変します。ディレイの利いた攻撃が弾きミスを誘発し、削りダメージが嵩んでしまう。騎兵ゆえか、常時スーパーアーマーなので攻め立てて行動を縛ることもできない。相手の攻撃の手札を全て覚えなければならないので、案外難敵です。三位は「怨嗟の鬼」。SEKIROには珍しい化生の大ボスです。やはり常時スーパーアーマー。(常時スーパーアーマーの敵とスーパーアーマー付きの強行動持ってる敵はもう強い。)周回を重ねると息をするように即死ダメージで殴ってくるので毛根がヤバい。

 しかしまあ、SEKIROやモンハンもそこそこに、社会復帰していきたいですね。

SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE感想

こんにちは。NASnosukeです。ブログをリリースするのは大分久々ですが、熱の冷めないうちに、と思い立って書き出しました。

正月休みから始めたSEKIRO、夢中になって今や六周目に突入しています。それだけ、このゲームは面白かった。散々語られたところではありますが、このゲーム性は繰り返し語る価値のあるものでした。GOTY2019の貫禄。

一口に表すならば、スタイリッシュ戦国剣戟アクション。攻めと守りが目まぐるしく入れ替わり、一瞬の油断が容易く死を招きます。しかし、このゲームで斬新だったのは、その守りが攻め的価値を含有する点でしょう。以下に語る要素が、SEKIROをSEKIROたらしめます。

SEKIROにおける生存ステータスは「体力」体幹です。「体力」はいつもの要素です。凡百のゲームにさえ存在する、普遍的要素。体力尽きれば、人は死ぬ。当たり前体操。問題は「体幹」。これが守りに攻め的価値を付与します。「体幹」は「体幹ゲージ」で描写され、敵に攻撃を当てたり、敵の攻撃を「弾く」とゲージの目盛りが増えていきます。ゲージがMAXになると、膝をつき、一瞬態勢を崩す。そして無防備なその喉に刃を突き立て、体力残量を無視して一撃必殺!

SEKIROは、基本的には体幹を崩してのキルが主になるように設計されています。主人公である「狼」さんは、ぶっちゃけかなり非力です。体力を攻めるのは、不可能ではないが、なかなか厳しい。そのため、急所への一撃で敵を葬る。しかし、ただ敵の攻撃を弾いて、殴ってではまだ味気ない。SEKIROはもう一歩先を行く。SEKIROの特筆すべき点は「此方の攻撃に反応して敵が反撃してくる」点でしょう。敵もバカではありません。狼さんの刀を防ぎ、あるいは弾き、反撃してきます。でも、それがいい。反撃されたら、それもまた弾けばいいではないか。忍びはそう考える。

此方から攻撃することで能動的に敵の反撃を「引き出す」ことができるのです。攻撃し、反撃を弾く。弾いたら、また攻撃。弾く。殴る。弾く。殴る。こうした一瞬の間隙もない剣戟がたまらなく楽しい。ボス敵の行動バリエーションは極めて豊富で対処も困難ですが、反撃モーションは大抵2~3択に絞られ、対処しやすいものが多いです。故に、誰が言ったか「攻めた方が安全」な設計になっています。

話をまとめると、SEKIROの魅力は、能動的に戦闘を展開できる点にあったということです。