Racco

ウィキペディアのこととか。

Nevermore / Queen

【クイーン+図書館ネタ】
 
 セカンドアルバムに「Nevermore」という、フレディ・マーキュリーによる1分ちょっとの長さの、小さな宝石のような曲がある。
Nevermoreという言葉は12世紀からあるらしく、リンク先のサイトによれば1840年ごろからよく使われだしているようだ。
1845年、エドガー・アラン・ポーの物語詩である「The Raven(大鴉)」に登場する大鴉は主人公の問いかけに対し「Nevermore」と繰り返し言い、最後には主人公も同じようにこの言葉を言う。
このポーの「The Raven」に登場する主人公は、恋人を失っている。クイーンの「Nevermore」も同様に失った恋人に対する呼びかけのような歌詞である。
当然のことながら「Bohemian Rhapsody」と同様に、フレディはこの曲のモチーフを語っていない。
だが、ポーの「The Raven」とクイーンの「Nevermore」を結び付ける解釈を誰かがしているのではないだろうか。
調べていくと、ロサンゼルス公共図書館のサイトに、図書館員によるブログがあった。
そこにはこう書かれていた。
“The Raven,” inspired songs by Queen (their version was called “Nevermore”
 

【創作短編SF:AI社会】

オフィスのメンバーから人間がいなくなり、すべてAIに任せるようになってから2か月が過ぎた。
俺は管理職としてこの課に残り、AIの仕事ぶりを見守るだけの毎日を送っていた。
ここのAIにはもっと能力があることはわかっている。ただ、管理するほうの能力の問題もあるので、今はヒトの形を模したAIを5体、この課で活動させており、彼らからすると簡単な業務をわざわざ細分化して役割を設定し、個々に少しずつの仕事を任せている。
本格導入は今期からなので、稼働時間も日も限定的だ。わざわざヒトの形をしてあるのも、業務を分担させるのも、本来は必要がないことはわかっているが、管理する側の人間が少しずつ人間ではない部下に慣れていかなくてはいけない。
他社ではドラスティックに変革して「所詮AIはAI」として無機的に扱っているところもあるようだ。うちの会社は人間側のストレス軽減のために、AI一体ごとに名前を付け、命令や指示のコマンドはなるべく平易な日本語にして、徐々になじませていくという余裕を持たせた。
毎日退社時に彼らの仕事の進捗状況をチェックするだけの仕事は、やりがいという前時代的な感覚とはかけ離れているものの、今では自分のスキルを磨くのは仕事という面ではなくなりつつある。
SAMと呼んでいる1体のAIの作業効率が少し落ちてきているとわかったのは、先週の頭だったか。彼の能力であればもっとこなせるはずが、期待している数字があがってきていない。
他の4体は順調であるか、むしろ当初の予想よりも効率よく作業が行えており、ルーティンとなる作業もAIならではのデータの分析によりさらに効率化している。
SAMと他4体との違いといえばあくまで条件的なことだけだった。SAMが納品された時期が少しだけ早く、他の4体からすれば先輩であった。4体を稼働するときSAMの助けもあって導入もスムーズにできたし、作業の役割分担も簡単に行えた。
それにしてもSAMの作業効率の低下はどういうことだろう。
平易な日本語で尋ねてみることにした。
「SAM、どこか調子が悪いところがある? それとも何かテストをしているのかな? 作業効率が予定よりも低いと出ているよ」
SAMからの返事が来た
「職場の『AI関係』で悩んでいます。彼らは僕のことを生意気だとか先輩風を吹かしているとか噂をしていて・・・」
 
 
 
【続編】
そう。SAMはとても高性能だった。他の4体のAIたちもまた高性能であるが故に、実に人間くさい反応を示したのだった。
数日後SAMともう一度話してみた。状況を変える方法を彼自身が思いついたというのだ。
「この問題のポイントは、平等な立場にも関わらず、私の経験によって彼らを指導したことで起きています」SAMは言う。「なので彼らの自尊心が傷つけられ、その結果静かな攻撃に変換された。でも私にはそれを防御するツールがないので悩んでしまっているということです」
実にクリアな分析だ。
しかしそれを解決する方法はあるのだろうか。
SAMは続けた。「シンプルで安価な解決策を提案させてください。
この文字列が記載されたプレートを私の左胸に貼るだけです。これが私を防御するツールになります。彼らの思いをより受け止めやすくなり、私も傷つくことはありません」
そこにはこう書かれていた。
「バイトリーダー」

独自研究入りの「防衛食容器」

ウィキペディアに「防衛食容器」という記事を書いた。

少し力を入れて書いたのが良かったのか、非常に好意的に受け止めてくださる方が多かったようで、新着記事としてウィキペディア日本語版のトップページに、一日だけさわりが表示された。とてもありがたいことである。

その少し前に「アジフライ」という記事の初版を書いたのだけど、こちらは初版で私が書いた部分はほとんどリライトされて、いろいろな人の手が入り、とてもウィキペディアらしい変化を遂げて、新着記事に選ばれた。

私の初版はひどいものだったなぁと思わざるを得ない。

「防衛食容器」はこれを書いている時点で、内容に関する編集は誰の手も入っていない。

この二つの記事の変遷の比較は実に興味深いと思う。

アジフライという身近な題材の場合は、私の初版にあるようにとにかくいろいろな切り口を見出しとして投げておけば、寄ってたかって肉付けがされていくものなのだ。
変化していく様をとても楽しめた。

他方、「防衛食容器」のように「なにそれ?」となりがちで、かつ学問としてそれほど研究されていない事物が題材だと、なかなかおいそれと中身をいじることはできない。なので、初版を書いた編集者がもくもくと成長させていくパターンが多いと思う。

 

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さて、「防衛食容器」。
ウィキペディアでは、出典を明記することと、独自研究を書かないことと、中立的な観点が三大ルールとして掲げられている。

でもここはブログなので、独自研究を交えて記事の補足をしたいと思う。

以下の引用は「防衛食容器 - Wikipedia」からである。
自分が書いたのだから引用を明確にしなくてもいいとは思うけれど、念のため。

 防衛食容器に名前が記載されている、「大日本防空食糧株式会社」の社長である、小沢専七郎を中心に書いていく。

まずこの証言。

 1939年(昭和14年)に企画院に赴任し「物資動員計画」の策定を行った田中申一によれば[70]、小沢は資材ブローカーとして陸軍糧秣廠から払い下げによって手に入れた食糧を壺に入れ「防空食」と名付けて全国で売ることで非常に裕福になり、開戦前の会食において田中は小沢の印象を裕福さにおいて右に出るものがない死の商人ともいうべき軍を取り巻く利権屋と表現しており[71]、企画院の連中は臆病だという小沢は開戦を望んでいるように記している[72]。

開戦前にすでに小沢専七郎は裕福で、「防衛食」ならぬ「防空食」という壺入りの食糧を売って金持ちになっていた(名称は小沢の会社名と混同した田中の記憶違いかもしれない)。

つまり1941年12月より以前に、「壺入りの食糧」はあった。

1941年(昭和16年)ごろ「真空食品普及協会」を設立した南金作が、試験的に瀬戸で陶器で「壺詰」を作らせた。

 「Aという男」が支援者より送り込まれ、ともに事業を進めることとなった

「真空食品普及協会」は支援者の意向で「国民食糧株式会社」となった

 1942年(昭和17年)には「壺詰」はできており、全部で5万箱はあったという

 この二つの情報は、南金作が90歳の時のインタビューによるものである。
呼称や年代的な齟齬、記憶違いがあることは十分考えられる。

 

1943年、金属の缶詰と同様に食料が保存可能なものが完成した[30][31]。

1943年(昭和18年)ごろ、日本防空食糧株式会社の社長である小沢専七郎が缶詰や瓶詰の代用となる陶器製の「つぼ詰」を東条内閣に持ち込み

 

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これらを考え合わせると(時系列の記憶違いを含め)このようになる。

昭和14年ごろからすでに金属が不足しており、缶詰を作る材料も供出する流れが出てきた。
食べ物を貯蔵する上においては、缶詰ではない方法が模索される。長時間の貯蔵に耐え、保存するには、缶詰と同様に中身が外気に触れず、容器を密閉する技術が必要となる。

南金作は大正11年に「罐詰時報」の創刊に携わっている。つまり缶詰サイドの人物ということになる。

南は昭和16年に「真空食品普及協会」を設立し、瀬戸の瀬栄合資会社で試験的に壺詰を作らせた。それがなかなかうまくいったので、軍からの食糧を調達できる小沢がこの事業に目をつけ、参画する。

当初はふたの内側に開封するときに陶器の破片が中の食品に混入しないように受箱をつけていたが、焼き物として手間がかかるので、受箱は廃止して、中身の上にセロファンを敷けばいいということになった。容器を作るのは瀬栄で、それに食糧を詰めて密封するのは日缶統だったのだろう。

容器をたくさん作る手配を先行させるため、東海地区のみならず、石炭の調達が容易だった佐賀の各地の窯に声をかける。

壺とふたを作るめどを立て、「防衛食」「小沢専七郎」と容器に表記させ、昭和16年の半ばには小沢は壺詰を売り始める(田中との会食はこのころだろう)。開戦後、完成品ができていないうちから注文を取るだけ取って前金を要求し始めた小沢と、南は仲たがいし、結局、南は追い出される。

それまでにはただの壺だった容器が、真空技術により長期保存という付加価値が加わることでより大きな事業となり、食糧難の時代に軍や役人に非常食として提供ができ、合法的に渡すことができるものになる。
瀬栄は、昭和19年になると陶器製手榴弾の製作も開始する。防衛食容器での技術を買われたのだろう。

しかし食料が足りなくなり、中身を入れられることのなかった空の容器だけが大量に残り、終戦を迎える。

終戦後、手元にある容器は「日本国民食糧株式会社」名義で便宜上だけ再利用する。戦争を想起させる「日本防空食糧株式会社」という名称は、戦後にはそぐわない。

ここまでを通して非常にたくさん作られた容器に、自分の名前を入れることを欠かさなかった小沢は戦後地元で衆議院議員になる。

有田で容器を請け負った椋露地は

有田陶磁器会社の専務取締役である椋露地嘉八

やはり戦後4期にわたって有田町の町会議員になっている。

 

小沢は汚職がらみの裁判で名前が出るなどした後、昭和電工事件で表舞台から姿を消す。

防衛食容器とは、金にものを言わせて成り上がろうとした男が生んだ、戦争のあだ花なのだろうと思う。

 

 

【WikiGap 2020 Final長文のレポート】

 

2020年6月に「9月にWikiGapの集大成的なイベントを計画します」と、ご担当のかずみアップルヤードさんからTwitterのメッセージをいただき、9/26のWikiGap 2020 Finalの具体的な計画がスタートしました。

WikiGapを大使館主催でやる場合は、次のような特徴があります。

1.女性の新規記事を作成する

2.翻訳移入でも、全くの新規記事でも構わない

 
それに加えて今回は、
3.オンラインで新規記事を募る。
4.大使館を開催場所にして限られた人数でも開催する
のハイブリッドとなりました。もし計画からしばらくたって、COVID-19の感染拡大状況が深刻になっていた場合は、オフラインのみに切り替えることを想定しながら。
 
5.大使館にお招きできる参加者は20人まで。且つ、なるべく去年来た方ではない方を優先。
6.良く書けた方には賞品を提供したい。
 
この時点でストックホルムからは「(昨年の)東京のWikiGapは成功事例なのでインタビューしたい」との申し出もあったようです。
 
・・・つまり今年のWikiGapはさらなる成功を・・・。
昨年は大使館に50人ほどが集まり、50弱の記事が作成されました。
COVID-19の状況下で、これを上回る?
 
何度か書いていますが、スウェーデンの外務省がWikiGapを提唱し、各国の大使館が呼び掛けてWikiGapは広がっています。その施策の1年間の集大成でもあるのです。
 
昨年は多くのメディアにも取り上げられ、イベントが盛り上がったという共有ができた反面、Yahooニュースのコメント欄では非常にネガティヴな感想も多く見られました。
 
それでも、本当にシンプルに「百科事典に書かれているべき女性の記事を増やす」という考えのもと、私はいろいろ考えながら良い形になるように、またたくさんの記事が書かれるようにうんうんとアタマをひねりました。
 
かずみさんからは「ロシアでの開催は半年ほどかけてのキャンペーンで、オフラインで数だけでいうと4000もの記事の応募があった」という情報をいただきました。ただし、商品は「スウェーデン旅行など」ということで・・・そりゃたくさんエントリあるよね・・・。
 
まあ、そんなことはさておき、私ひとりでできることを考えました。
 
1.Zoomを使った長時間の茶会的な記事作成相談窓口を2回やること。やらしい話ですが、Zoomの有料コースを自腹で。
2.イベント日の約1か月前から、実際に記事を書き、アップし、「もうイベントは始まってますよ」と背中を見せていくこと(最終的に今回のイベントでは5本の記事を書きました)
3.スタッフとして動いてくれる皆さんのバリバリの執筆者の方向けに、泣き言をいうこと(「成果としての記事数がさほど伸びないかもしれないなぁという懸念があります」)
4.デモンストレーション用の記事も書くこと。キャシー松井さんがもしかしたらコメントをくれるかもしれないので、当日アップするために作っておきました。
 
それに加えて、大使館での記事作成ガイド動画の撮影と、さえぼーさんによる記事作成ガイド動画、大使館で用意した記事作成ガイドキット、などのツールも用意。
 
私は大使館に「海獺はエルダーフラワージュースが好きである」と弱みを握られているので、動画撮影にも協力しました。
 
それと並行して、大使館によるWikiGap以降の、各地でのWikiGapのコーディネート的なものも徐々に始まりました。
 
というのも、詳細は省きますが、各地のWikiGapでは予定だけで開催に至らなかったものも含め「ウィキペディア側が、もしくは主催者側が、大使館に迷惑をかけちゃってる/しなくていいことをさせてしまっている」というケースが複数回あり、でしゃばることはしたくないのですが橋渡しができる立場として、双方がスムーズに気持ちよく開催してもらいたい気持ちが強いのです。
 
まあ、そんなこんなの準備と思いを乗せて、本日のイベントに至ります。
 
==反省点==
1.前日までのZoomで、なぜか入れない人がいたらしい。ごめんなさい。
2.当日のZoomのアドレスが、時間をずらしたせいで複数存在してしまい、グダグダでほとんど機能せず。
3.オンラインもオフラインも記事のアップ時間の締め切りが守れないせいで、リストを作っても作っても(リスト係の子安さんごめんなさい)、新たにエントリされてしまう。その代わり賑やか。
4.イベントの趣旨に賛同して記事を書いてくださった方と、賞品がもらえるコンペティションの対象記事は違うにも拘らず、一時ごっちゃになる。つまり、書いたけど賞品は要らないよー、とか、郵送されるのはちょっと、とかの事情もありますし、記事の出来だけでいえば編集経験が豊富な方のほうが、そりゃすごいい記事が書けるわけだし。→ベテラン編集者には賞品対象から外れてくださいとお伝えしたり。でもたくさん書いてくれた方にはかずみさんから特別賞が設定されたり。
5.タイムテーブル的に、賞品対象を決めるための会議時間の割り当てと設定でグダる。
 
==よかったこと==
1.私が勝手に決めて、勝手に役割を決めたウィキペディアに詳しい方々がものすごく頑張ってくれて、会場にいる編集者に的確なアドバイスをしていた。
2.賞品対象の記事をみんなで話し合って決める中で、なんとなく差し上げる対象の記事や条件について、考えがまとまって同じ方向を向いていたような気がした。
3.コーヒーや軽食が大変おいしい。
今回のTシャツが配られたのですけど、やはりお土産があるといいよね。
4.今日の時点で出来上がった記事数が80を超えていること。
 
オンラインで今後イベントをやる際のノウハウを少し蓄えることができました。
他方で、継続性を考えたとき「こういうやり方もあるよ」的な編集上のテクニックは、一度目は統一して、次回以降にアドバイスしていく形のほうがいいのかなとか、も考えました。
 
というのも(ウィキペディアの編集テクニックの話で恐縮ですけど)翻訳後に内部リンクをつけまくっていく作業をするときは、ビジュアルエディターのほうが早いしわかりやすいと思います。でも、機能的にできないこともあるのでソース編集のみでやってもらうこともありうる。このへんのさじ加減はオフラインで相対して、その方の理解度を見ながら丁寧にレクチャーできる時間があれば臨機応変でもいいのだけど・・・と結論出ず。
 
ふんわりしたイメージでは、オンラインを含む編集イベントをやるときは、イベント当日までに自由に下書きベースで編集してもらい、当日にはチェックとアップだけにするという方法がいいのかなと。
 
 
ほとんどの環境では、「Zoomでリアルタイムレクチャーしているときはウィキペディアの編集ができない。なぜなら画面がひとつしかないから」となるので、編集は編集、アドバイスやレクチャーは別日に設定。質問できる窓口や機会を設けるのがいいと思います。
 
これを読んでいる方にちょっとやってほしいのですけど、今日、ユミソンさんが書いた「リンダ・ノックリン」というアメリカの美術史家の方の記事があるんですけど、「リンダ・ノックリン」でちょっとググってみてください。
 
 
今日何度かいろいろな方にお話しした言葉で、このレポートを締めます。
 
「今日、あなたが作成した記事は、検索すると既にかなり上位に出てくると思います。ということはネットでその人の情報を探したいと思った人は、あなたが書いたことを読み、知識として受け入れますパレスチナの女性活動家である『Nibal Thawabteh』さんのお名前のカタカナ表記は、記事名として綴った『ニーバル・サワブテア』という表記が、今後スタンダードになる可能性がとても高いです。ウィキペディアに記事を作って、知の拡がりの一端を担うという事はとても楽しく、責任も伴うことを感じてください。もちろん編集する楽しさも味わっていただけたら

追記:キニマンス塚本ニキさんより、イベント参加者に向けてメッセージをいただきました。

学生時代からたくさんお世話になってきたWikipediaがみなさんのような人達の献身に支えられてきた事をあらためて気づき、こうやって人のつながりや学びは連鎖してゆくんだなーと感慨深く思いました。
私もラジオで学びとチェンジを広めるためにがんばります!

 

Queenに『The Loser In The End』という曲がある

Queenに『The Loser In The End』という曲がある。アルバム『Queen II』の、アナログでいうA面の最後に入っているロジャーによる曲だ。

www.youtube.com

 

ところでウィキペディア英語版の『Liar (Queen song)』

en.wikipedia.org

にはこのように記載されている(日本語版もこの記述をもとに翻訳されている)

 

「この曲はクイーンの楽曲の中でハモンド・オルガンが使われている3曲のうちの1曲である。ほかのふたつは『アンダー・プレッシャー』と『ナウ・アイム・ヒア』」

 

しかしながらこの『The Loser In The End』の0:30あたりの左チャンネルから聞こえる持続音は、レスリー・スピーカーを通したハモンド・オルガンに聴こえる。
ところどころ強く加工されたギターの音のようにも聴こえるが、和音の積み方や、音使い、音の均一な持続の感じは、やはりオルガンで間違いないと思う。

 

この曲についてさしあたってネットで調べてみたが、、マリンバはロジャーによるものだという記述以外はなく、オルガンに言及しているものはない。

クイーンに関する書籍でも楽器構成に関する言及は見つけられなかった。

 

私が聞く限りでは、イントロのドラムはエコーのリピートを利用したもの、そしてマリンバ。強くひずんでいるエレクトリック・ギターの音と、アコースティック・ギターはロジャーによる演奏だと思われる。ベースはジョンであろう。右チャンネルのオブリガード的なギターとソロ、そしてソロ終わりのセンターのギターのコードはブライアンによるもの。ボーカルはロジャーによるダブルトラック。

 

全世界のクイーンのファンに尋ねたい。この音は(ハモンドではないかもしれないが)オルガンだよね?


そしてウィキペディアの『Liar (Queen song)』 にわざわざオルガンが使われている3曲のうちの1曲というような記述があるならば、『The Loser In The End』の立場は少し寂しくないですか?

あだち充さんの「みゆき」が全巻読めるので読んだ

あだち作品やそのヒロインについてはいろいろな人が優れた論文を書いているかもしれないけれども、ちょっと書きたくなったので。(作品のネタバレを含みます)

作品には何の罪もないし、disるつもりは全くないと前置きした上で書きます。

 

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昭和50年代(1980年17号 - 1984年18号)の作品である「みゆき」を読み返してみたら、2020年の感覚では10代女性への描写や成人男性からの扱われ方にものすごく違和感を覚えた。という話。

 

知らない人のために少し書くと、いわゆるラブコメの漫画で、他の有名なあだち充作品とは違い、スポーツがテーマということはなく、ラブコメだけで終始している。

 

ウィキペディアによれば、この作品はテレビアニメ化、テレビドラマ化、映画化されている。第28回(昭和57年度)小学館漫画賞受賞も受賞している。


https://ja.wikipedia.org/…/%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D_(%E6…

 

つまり客観的には、多くの人に受け入れられ、好意的な評価が多い作品と言える。

 

しかし、だ。

 

今の自分の感覚、とりわけジェンダーギャップについて考える機会が多くなってきている昨今では、「気持ち悪っ!」と思えてしまったところがこの漫画にはいくつもあった。

 

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主人公の男の子は高校一年生。とても聡明なガールフレンドがいる。名前はみゆき。

 

主人公はいろんな事情で一軒家に一人で暮らしており、そこに血のつながっていない一つ年下の妹(名前はみゆき)と同居することになる。妹自身が「血がつながっていない」と知っているかどうかは主人公にも読者にもわからないが、知らないという前提で話は進んでいく。

つまり、近親恋愛についても常に考える形になっている。

 

単行本でも垣間見えるが、途中原稿を落とすなどして、作者が連載に熱心ではなくなっている時期があるようにも見える。1年くらいの違いで代表作と言われる「タッチ」の連載が週刊で始まっているので、それも要因かもしれない。

 

作品で違和感を覚えるのは:

  • 下着、水着、いわゆるパンチラのシーンの多さ。

  • 兄の前で扇情的な姿勢やポーズをするが、兄だからという理由でそれを正当化するシーンの多さ。

  • 男性の過度な要求に対しても、受け入れる妹

  • 中学校教員による中学生女子へのあからさまな恋愛感情。おしりを触るなどのセクハラ行為。あろうことか女子中学生の高校進学に合わせて、彼は高校の教員になる。

  • ヒロインの父であり、主人公の妹につきまとい、パンティを拾ったり隠したり盗んだりする警察官。

  • 主人公より学力がありながら、主人公と一緒にいたいという理由で同じ大学を目指すヒロイン。

  • 留年した主人公に合わせて自身も留年するヒロイン。

  • 妹が結婚するという事になって、妹を奪われたくないという感情が大きくなり、結婚式から奪う主人公。

  • 妹の結婚相手だった男性と今後何か起こりそうな予感をさせる最終回のヒロイン。

などである。

 

キスやセックスなどの直接的な描写は全くない。

 

連載当時、断片的に読んでいたが、ラストがどうなるかなどは知らなかった。つまり私は熱心な読者ではなかった。
しかしながら記憶しているシーンもあったし、セリフもあった。

 

なにより、当時読んでいた時には、いま改めて読んでみたときの違和感は全く感じなかった。

自分は、その常識で育って来たのだなということは忘れないようにしたい。

アダム・ランバート

www.youtube.com

いわゆる名称としてのBlack Musicを聞かずに育った。
今となればこの呼称はレイシズムと言われても仕方がないものだけども、いわゆるファンキーな音楽はあまり好んで聞かなかった。

Queenがファンク寄りの曲を出すようになっても、自分の中ではQueenの曲としてしか認識していなかった。

だから私のベースはいつまでたってもグルーヴが出せないままだ。

それでもChicは知っている。「おしゃれフリーク」はヒットしたし、デュランデュランのメンバーたちと組んだPower Stationの「Some Like It Hot」は文句なくかっこいい曲だった。
ChicそしてPower Stationのドラマーである故トニー・トンプソンはマドンナの「ライク・ア・ヴァージン」やデヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」でもドラムを担当していた、一音一音が重たいドラマーだった。

Power StationのプロデュースはChicのベーシストの故バーナード・エドワーズ。Chicの「グッド・タイムス」のベースはQueenの「Another One Bites The Dust(地獄へ道連れ)」の原型と言っていいフレーズだった。

そしてChicのギタリストのナイル・ロジャース。前述のマドンナやボウイのアルバムのプロデューサーとしても名高い人である。1983年から84年を初めとして、80年代を代表するプロデューサーの一人だろう。

さて。

Queenの先だっての来日公演は、とても好意的な評価が多かったように見えた。

映画「Bohemian Rhapsody」でのQueenの再評価以降初めての来日であり、フレディ・マーキュリーを感じたい人たちにとって、フレディではない人物が歌うことを再度意識するものだった。

アダム・ランバートは2009年にオーディション番組で注目を集め、それをきっかけにQueenのメンバーから一緒にやらないかと誘いを受けたという。

結果的に2020年のQALのコンサートでは、アダムに対する評価はとても高いものとなった。

他方、彼にはやりたい音楽がある。
ナイル・ロジャースのと共演曲の「Rose」が先日リリースされた。

彼は最近のインタビューでこう言ったらしい
「誰かを定義するには、ただ純粋にその人であればいい」という思いから、「『カミングアウト』という言葉を廃止しよう」

彼はLGBTQ+団体を支援するNPO基金「フィール・サムシング・ファンデーション」を設立した。

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アダムさん。この曲をこんな風に歌えるのならばQueenの「You Don't Fool Me」をカバーしてください。