ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

Crystallize

 3月に母校の高校や大学の周辺を歩く機会があった。変わったようで変わらない景色に、友達の美しい声や、楽器ケースの色、雨の日の匂いを重ねる。

 記憶は、景色と結びついてクリスマスツリーみたいにキラキラとぶら下がっている。宝石のごとく煌めく一瞬がレイヤーを織り成す。歳を重ねることの特権は、なんてことはない景色の編集パターンが増えることだと思う。そして、それは後から振り返っても得難いものなのだ。

 どうにも忘れられない、極めてミクロで日常的な瞬間がある。それは机の上でペットボトルをぺこぺこと潰す手だったり、ロッカーの上に座っているときの視線の向きだったり。

 友達は、私が今まで切り取ってこなかった景色に名前をつけてくれた。雑居ビルや花壇や給水塔も、友達の言葉がぶら下がることで、取り替えのきかないものに変わる。隣にいなくても、電話を通して暗闇で一生懸命言葉を結びつけていった時間は、かけがえのないものだった。思い出を、鮮度を保ったまま残しておくのに、友達の言葉はぴったりだった。一人一人が美しい物の見方を持っていた。

 

 名前のなかった日常に彩りを加えて、たくさんの記憶を輝かせてくれた友達の多くは、明日から新しいステージに立つ。この3月に会った友達に対して、その別れ際に必ず「またね」と言った。ただの言葉かもしれないけど、少しでも、切り離さず結びつける言葉の数は増やしておきたいから。得難い存在を失わないように。

 

 7年前、一緒に過ごしてきた地元の友達と別々の道を歩み、新たな門出を迎える私の心の中は、不安に満ちていた。

 そんな不安を払拭するように、教室や音の鳴り響く部活動でたくさんの人が私に話しかけてくれた。きっとみんなが同じような気持ちだったから、だと思う。誰もが不安だったから、相手の不安を消すために繋がりあったあの瞬間は美しかった。優しい季節だった。

 人と人とが出会うとき、一番だいじなことは「排除されている」という気持ちを持たせないことだと学んだ。できるだけ相手の視点に立って、相手が「紛れもなく自分自身と会話している」と思えるような話題選びや、声のトーンや表情を見せることが大事だ。4月の教室で人見知りの私に話しかけてくれた人が、そんな大切なことを教えてくれた。大切なことに、私自身が救われ続けてきた。

 人格を否定しないようなぶつかり方も教わった。ぶつかることは仕方のないことだし必要なことで、不必要に傷つけないよう気を付ければ、良い化学変化が起きることもある。対立する二者の間に立って奔走することも結構あったけれど、彼らは対立こそすれど、決定的な傷つけ合いは決して行わなかった。相手を人間として尊重し、間に立つ私を気遣ってくれた。

 時が経ち、対立も大変だったことも思い出にして語り合えるようになったとき、あの少し熱暴走していた時代を振り返ったとき、なんと綺麗な表情をしていただろう。

 

 大学に入り、色んな人がいることを知り、高校の頃には考えもしなかったようなことを、たくさんこねくり回して考える私のことを「私らしい」と称えてくれる人に救われた。

 様々なバックグラウンドを持つ人々が集い、言葉を交わしていく中で、「敬意」の持つ強さと揺らぎなさを改めて感じた。

 たくさんの人々の背景と文脈が入り混じる中で、感情と想像力と知識を総動員して、適切な距離を取りながら寄り添っていくこと。それは精神を磨耗させる、とても難しいことである。それは「感性」とも呼べる。

 でも、私の周りには、その感性を死守することを諦めない人がたくさんいる。感性を結晶にして、美しい作品や言葉、寄り添い、空気、思いやりに変えて、大切にし続けてくれた。形に残るものの強さを、この一年は思い知ったから。絶対なんてないことを、教わったから。

 だから、私も大切な相手と培ってきた感性を、結晶にして守りたい。

 

 きっとこれから、またたくさんの情報に呑まれ、価値観を揺さぶられ続け、心のアンテナやエンジンが上手く動かないときが来るだろう。

 そして、得るものと失うものを天秤にかけなければいけないときが増えてくるだろう。大きな決断をする機会も増えて、選ばなかった方の重さもどんどん増えてくるだろう。

 それでも、情報の波や天秤とは離れたところに、学生時代の記憶は残り続ける。綺麗事が綺麗事のままでいていい空間に、懸命に取り組んできた記憶は強く刻み込まれ続ける。

 

 私は、たくさんの宝石を貰った。決して壊れることのない、そして錆びることのない瑞々しい感性を、言葉にして、思い出にして、一緒に閉じ込めて笑ってくれた。

 きっとこれからも、この思い出と感性の結晶は輝きをやめない。優しい人たちが、過ぎていく日常に抱くちょっとした違和感を、ずっとこれからも大切にできるようにしたい。

 

 かけがえのない16年間をありがとう。

2020

 どこか、非日常であり続けている。

 

 パソコンとしばらくにらめっこしていても、出てくるはずの言葉が出てこない。2020年はとにかく「言葉が足りていない」と思う一年だった。そして、意図的に情報を遮断することが多かった。

 なんとなく、慣れてしまっている。今までにない時代を生きていることを自覚しながらも、その時代に対峙するための言葉を持ち合わせていない状況が続いて、「言わない」ことに慣れてしまっている。武器を持たないまま、ひたすら最初のステージの敵キャラを倒し続けているみたいな、どこか本質的なものを先送りにしている感覚。

 おそらく私は、先送りが正解だと思っていた。分かったような口調で本質っぽい何かを語れるほど、私は自分の武器に自信を持てなかった。なんとなく、「言葉では何とでも言える」からこそ、「言葉だけではずっと掴めない何か」が、型抜きされたお菓子の生地みたいに残り続けた。

 以前に、短い言葉で「正しさ」らしきものを書き続けることの暴力性についての文章を書いたことがある。これは2019年の夏に書いたものだが、今こそよく当てはまるものだと思うので、長くなるが一部引用したい。

 

southernwine29.hatenablog.com

世紀末だなと思える事件やネット上での騒動が多発している。旧態依然が見直され、因習が絶えず問い直される時代になっている。各々がそれぞれ必要だと思っている情報が「シェア」されることで氾濫が止まらなくなっている。

SNSという便利な技術は「自分なりの理性」を振りかざして、素材のままでパイ投げのように相手の顔に投げつけることを容易くした。そこでは、相手に「届けよう」とする配慮を重ねることを丸ごと無視してしまった「毒舌」という名の怠惰がまかり通っている。画面越しに一人の人間が居るという意識を丸ごと欠いてしまった言葉が飛び交っている。

(中略)

呼吸をするように断片的な文をリリースすることで自分の思想をチラ見せすることができる。チラ見せのための手っ取り早い方法は、仮想敵を作り出して叩き潰すことである。

140字を相手の悪いところへの言及に尽くせば、自分自身を差し出さずに済む。何かを叩きのめすことでその反転像としての自分を受け取り手に読み取らせようとする。

(中略)

説明を放棄することは、コスパの良い怠惰である。ただの怠惰であるはずなのに、あえて言葉を尽くさないままでいることで、大きなものがそのベールの裏に隠れているかのように振る舞うことができる。性質の悪いことに、意味深なガラクタは大量に置き土産にすることができる。自分も答えがわかってないのに「これは宿題ね」と言い放ち、ぬくぬくと自分の世界に閉じこもる。周りが勝手に宿題に対して色々と回答してくれる。こうしてちょっとずつ怠惰の共犯者を増やす。

(中略)

短さは正しさと等価ではない。公式に落とし込めない事象の数々をより短文で言い表すたびにこぼれ落ちた例外の数々への想像力がどんどん腐敗していく。短文はわかりやすい。刺さりやすい。だから傷つけやすい。

 

 たくさんの「数」が示されて、その指標を基にした短い言葉がリリースされ続ける日々だった。対策の是非は死者数の多寡で測られ、あまりにも規模が大きすぎる議論に一つ一つの個人的な出来事が吸収されていく。それは、対策を考える上ではやむを得ない姿勢である。しかし、この姿勢に慣れすぎてしまうと、一つ一つの感染や死を一緒くたにしてまとめて天秤にかけて道徳的な判断を下す、感情的で暴力的な言葉に変わり得る。特に、「自分なりの理性」を短文で表現する際に、それは顕著になる。

 数の増減ばかりに気を取られ、悲しみに暮れている一つ一つの個人的な出来事の声に耳を閉ざしてしまう。あらゆる死の主語が消え、感染症との闘いという大きな物語の中に回収されていく。ある文脈の中に個人の出来事を無理やり当てはめることは、経験に価値判断を押し付ける暴力になる。どこの国でどういう死を迎えたとしても、それは「誰かの大切な人の死」であることに変わりはない。感染症対策に失敗した国の死者数の中の「一」として埋め込まれ、その価値を決めつけられるものでは、決してない。

 もちろん、判断を行う際には、ある程度の抽象化や数値を用いることはやむを得ない。しかし、世界の誰かの大切な「一」について想いを馳せることも出来るはずである。これは私自身への自戒であり、少しずつ余裕がなくなっていく社会に対する一つの処方箋であるとも考える。社会はある意味、感染症の収束を望んで皆が同じ方向を向いている一方で、ふと頭の方向を変えて自分と異なる場所にいる人と向かい合う機会もなくなっているのではないか。

 

 おそらく、私の中にも潜んでいる「どこか非日常であり続けた」感覚は、どこか抽象化しがちな気持ちがあったのだと思う。2021年は、もう少し言葉を探しに行きたい。

サクリファイス

小一で苗字が変わった友人を「魔法みたい」と形容したこと

教室は缶が似合うよこぼしてもハッピーだもん不合理ハッピー

昼休みカップ麺ばかり食っていた奴を本気で羨んでたこと

自由とは辛いものだと小三に教える夏の自由研究

書写の日に休むと休んだ証明がしばらく残る 僕だけ「希望」

廊下には残酷色の夕方が四角く注ぐ6月がある

シンプルな希望があった 点数や午前終わりの水曜日とか

教室の隅で泣いてた人よりも静かに消えた真ん中の人

楽譜からはみ出た音符に急かされる ヤケクソ気味に夕陽が帰る

日曜にチャリを飛ばした イオンへの道はやたらとまっすぐだった

正しさでマークシートを塗り潰す ※別解は数年後を参照

さよならと言った最後の時よりも最後らしかったねじゃあまたね

断片の輝き

以前、見ず知らずの高校生に対してオンラインで勉強を教えるバイトをしていたことがある。

生徒が分からないところの写真を撮って投稿し、教えられそうな講師が立候補して個別指導に入るというシステムだ。分からないところだけを迅速に解決できる、なかなか合理的なシステムであるように思う。

チャットで教えることもできるが、音声通話を用いることもできる。シャイな人が多いのか、チャット希望の生徒の方が多かった。だけど私が教えた生徒のうち、一人だけ音声通話希望の子がいた。

その子の質問内容は、政治経済の衆議院参議院の違いに関するものだったと思う。答えられそうだったので立候補し、どこの誰かもわからない男子高校生との短い通話を始めた。

流石に音声通話を希望するだけあってか、明朗快活な話し方をする子であった。もちろんカメラは使わないため、顔も部屋の様子も分からないが、おそらく机の上は綺麗かあるいはそのまったく逆であろう、とどこかの誰かの部屋の中を想った。

5分くらいの短い会話であった。数個上でしかない私が、政治の仕組みについてプロみたいに話した。「なるほどわかりました。ありがとうございました」と言って、通話は切れた。

 

あれから一年以上経っている。おそらく彼は受験生だったから、もうとっくに入試は終わっていて、大学生になれたかそうでないかは分からないが、今日も元気に綺麗な部屋で生きているだろう。生きていてほしいと思う。

私が教えた政治経済のたった一つの知識が彼の人生を左右したなんて思い上がったことは言わない。だけどあの時たしかに私は彼の人生に5分間だけ交わり、たしかにひとつ何かを与えた。

彼が大学生になったとき、私のことを思い出す時間は少しもないだろう。そんな質問をしたこと自体を忘れているかもしれない。それでいいと思う。あの一瞬を忘れてしまうくらい、大学生を楽しんでいてくれたら嬉しい。

 

今まで出会ってきたすべての人の人生に、何らかの形で交わっている。たとえ、それが5分間だけであろうとも。

この限りなく果てしない命題は、たまに嬉しく、そして恐ろしく感じられる。スクランブル交差点ですれ違う無数の人々の中に、未来の友人がいるかもしれない。未来の上司もいるかもしれない。未来めちゃくちゃ憎む人がいるかもしれない。誰とどこでどんな風に交わっているか分からないから、思い出を一つずつ覚えておくことしかできない。伏線に気づいた時は、その伏線には戻れない。

液状化した現代社会は、誰との間にも境界線は引けない。境界線に見えるものは引いているつもりになっている線であって、踏み越えるか否かは自分が決める。だからこそ、私は途方もなく小さな断片的な思い出を、宝物としてしまっておきたい。ある日とんでもなく心惹かれる何かが、そこには眠っていると思いたい。

 

いつか政治経済を教えた彼とスクランブル交差点で出会ったら、どこの教科書にも載っていない、私の人生で出会わなかった彼の沢山の知見を、5分とは言わずに教えてほしい。ゆっくりでいいから。

アーカイブ

 もう、インスタの投稿ぜんぶアーカイブにぶち込んじゃおっかな。

 隣にいた若者が、夜の色を纏った電車の中で唐突にそう言った。

 若者の友だちと思われる男は怪訝な顔をして、アーカイブとは何なのかと若者に尋ねた。見たところ若者より年上で、インスタの細かな機能をよく知らないといった様子だ。

 若者は笑いながら続ける。ああ、そっか知らないか。一度投稿したものを自分しか見えないところにもう一度ひっこめておく機能って言えばいいのかな。何枚も写真を加工したし文章もたくさん書いたし、削除するのはもったいない気がするけど、このままみんなの前に見せておくのも違うよなってときに便利。

 年上の男は合点した様子でうなずく。なるほどね。そしたら君は自分の投稿をみんなに見せたくなくなっちゃったのか。

 見せたくなくなっちゃったというか、すべてを自分の中に取り戻したくなったというか……若者は口ごもる。少し間があいて、「取り戻す」って、そもそも何か失ってたのかと男が聞いた。

 若者は一気に喋り出す。他人に自分の写真を見せたりSNSでシェアしたりするのって、「ほらほら、私の生活ですよー」って自分の人生を切り売りしているようなものじゃん。この自粛でしばらく家にひきこもってたらさ、自分が大切にしている人との思い出をこんな簡単に切り売りしていいのかなって。長らくひとりになってみて気付いたんだよね。なんか今日あったことを事細かく載せたりプライベートすぎるものを公開したりするのが、途端に恥ずかしくなったというか。

 そんなの皆に見せてどうすんのよって気持ちはあるよね、俺世代の人たちはよく言っているイメージ。男は自嘲気味にそう言った。

 何も気にせず外に出ていた時は特に変に思わなかった。だけど、皆ひきこもるようになってもなお、自分の生活を載せる人が意外と多いなって思って。若者は、家の中の生活を皆に見せようという気持ちにはならなかった。

 「おうち時間」ってやつか、と男は電車の椅子で姿勢を直しながら言った。

 そう。あれ自体は別に何も思わないんだけど。私の中で「家」って自分だけの領域ってイメージがあって。なんか抵抗感があったな。テレワークするときは寝床と仕事場を分けた方が良いって聞くけど、自分の生活世界を公に接続することへの抵抗感って皆はあんまないのかな。

 話している間に電車は駅に到着し、若者の対角線に位置する座席にカップルらしき人たちが座ってきた。座ったのだが一人分の空間をあけていた。もともと一緒にいた二人が電車で今更距離を取ったところでそこまで意味はないような気がするが、これは距離を取ることを乗客に見せること自体が目的なのである。ここは公だから。

 年上の男が話す。このご時世で、公共の場での振る舞いが倫理的に強く求められるようになって、それに引っ張られるように私的領域での振る舞いにまで公的領域の倫理を持ち込んでしまうのかもね。だって家が散らかっててもカップ麺ばっか食べてても部屋の中を裸でうろついてても、他人に迷惑をかけなきゃ自由じゃんか。でも公の場が閉ざされてしまって、倫理的でありたい欲求が暴走して、仕方なく公で見せていた倫理を私的領域で披露するしかなかったのかもしれないね。

 「少なくとも他人に見せられるくらいの生活を保てています。」ーー「おうち時間」はかろうじて自分が公に繋がり続けていることを示す存在証明に近いのかもしれない。そしてその証明は、私的領域の中へ他人を容易に招き入れていいのだという前提の上に成り立っている。

 若者は言う。話ズレるかもなんだけど、二人がくっついている写真を載せたりするカップルとかって、ある意味私的領域の抵抗なのかもしれないね。公の倫理に浸食されそうな私的領域のものを、公に投げ返してやる。見てて恥ずかしくなるくらいプライベートなものを載せる。公と私は絶対に交わらないぞって言っているみたいで、これは私的領域を守る救世主なのかもしれない。

 男もうなずく。なんにせよ、公と私の問題って難しくて、常に意識していることなのに語りづらいことな気がするんだ。今、両者の境界線はますます曖昧になっていて、お互いが相容れない。だけど、境界のはざまで誰かを排除するようなものにはなってほしくないな。

 若者はハッとしたように男に話す。ねえねえ、アーカイブ投稿っていうものもあるんだ!インスタに投稿してすぐにアーカイブに移す。そして三日ほど経ってからアーカイブから外す。こうすることでタイムラインには投稿が流れないけど、自分のプロフィールにはその投稿が見られる形で置いてある。

 これって、家みたいじゃない?自分の家に訪れて覗き見をした人しか見られない投稿。これに対して文句を言われたって、「覗き見した方が悪いだろ」って言い返せる。今度からアーカイブ投稿にしようかなあ。若者は微笑む。

 男は言う。覗き見に快楽を覚えるストーカーを生み出しそうな気もするけど……面白いね。見せたいけど見せすぎたくない。そんな微妙な心理が働いているみたいだ。まあよくわかんないけど、うまくSNSと付き合えるといいよね。

 雑に締めくくると、電車が最寄り駅に着いたようで、男は電車から降りていった。彼を見送った若者は、スマホに目を落とす。

 この電車で起こった出来事は、おそらくアーカイブ行きで、ずっとタイムラインには戻ってこないだろう。それでいいんだと思う。切り取られなかった日常が溜まっていくアーカイブこそ、私たちが守らなければいけないものなんだ。残しておきたい写真なんて、皆の前には展示してやんない。だって、色褪せちゃうもん。それに、タイムラインに思い出を漂流させて私と思い出の間にまでディスタンスが取られたら、私は何を抱いて眠ればいいのかわかんなくなるから。