テクノロジーを哲学しよう

"If we ignore technology, we do not only ignore material artifacts: we ignore our world." [Coeckelbergh, 2019]

技術の本質とは? 2.技術への問い(ハイデガー) ①

目次

 

はじめに

最先端テクノロジーが放つメッセージから未来社会を想像することは、子どもたちはもちろん大人たちにとってもいつでもエキサイティングなことであったし、今のコロナ社会のような先が見えない時代こそ、そういった気持ちも強くなるだろう。空飛ぶ自動車に宇宙エレベーター、自動翻訳機に読心技術。これらの技術の実現に向けて世界で技術開発が進んでいる。日本政府もムーンショット型研究開発事業を立ち上げている。しかし、こうした技術はそもそもなんのために存在するのだろうか。

技術はなんのために存在するのか、またその技術の本質とはなにか?様々な技術哲学者が論考を重ねてきた。個々のtechnologiesが発するメッセージ、そして、技術がTechnologyとして総体として発するメッセージを、繊細に感じ取り言葉にしてきた。その感じ方は、前回の技術はタマムシ色という話にあるように、千差万別でどれが正しいということはないのかもしれない。ハイデガーはテクノロジーにテクネーの響きを読み取り、スティグレールはそもそも記憶や時間の誕生に技術の萌芽をみた。現代の若手の技術哲学者Yuk HuiはCosmotechnics(宇宙的技術)の概念で東西の思想の壁を超えたところに技術の本質を読み取ろうとし、ケビン・ケリーやラブロックは、それぞれテクニウム、ノヴァセンという概念で生命進化から地続きでつながるテクノロジーの進化をリアリティを持って描く。こうした深い洞察は技術の本質を感じさせ、肯定的に技術をとらえ直すことに貢献するが、やはり技術にはネガティブな面があることを忘れてはならない。産業革命のたびに、ラッダイト運動のような抵抗が起き、マルクス主義において技術は労働のための搾取の道具とみなされる。

哲学者、國分功一郎が言うには、ハイデガー原子力の平和利用をだれもが疑っていない時代に、その本質を見抜き、唯一懐疑的な意見を持ちえた哲学者であったという。その点で、ハイデガーは再度評価されるべきだと(原子力時代の哲学(國分功一郎))。現代でも、そしてあまたのテクストの中でももっとも強い影響力をもつ技術哲学書「技術への問い」。この「技術への問い」は、決して長くないテキストだがそうしたハイデガーの技術観を凝縮したエッセイとなっている。

そのエッセイの言わんとすることは、技術礼賛の人にとっては馬鹿げた話か聞きたくもない話である可能性がある。このエッセイで、ハイデガーはつまるところ、「水力発電から電信まであらゆる技術が自然を破壊し人をも資源化する現代の技術の使い方は間違っている」ということを言いたいのだとわたしは理解している。今で言えば、どこでもオンラインになれるようになったことの裏返しの視点から、すべての空が携帯電話の電波で覆われてしまったことを嘆くこともできる。技術は、まさにブルドーザーのように古きよき田園、里山、海辺を破壊していっているのは、間違いのない事実であって、私たちはもう麻痺しているかもしれないが、ハイデガーの時代は、第二次産業革命の電力・電波が資本の力をエンジンとして、古の資産を破壊し世界を覆わんとするその姿を前にペシミスティックになることも多かっただろう。ハイデガーはやはり田園を愛していたらしい。環境哲学の視点からも、ハイデガーから始まったなにかがある。そして、大事なのが、この主張に対して、少しでも自然と共生して生きていきたいとおもている人ならば、即座に共感するなにかがあるということだ。

日本でもこうした思いはとくに20世紀後半にかけて繰り返し描かれてきたように思う。例えば、「平成狸合戦ぽんぽこ」は、そうした里山が技術であり資本によって破壊されるさまを描いたアニメだが、ジブリの映画全般にそういった思いが読み取れる。しかし、一方で、ジブリの映画においてもハイデガーにおいても、技術はまたロマンと希望に満ちあふれたものとして描かれるようにも感じられるわけである。

前置きが長くなってしまったが、ともかく、この「技術への問い」は、タマムシ色の技術をその本質まで掘り下げることで、ポジティブでもネガティブでもないところからとらえ直すきっかけを与えてくれる。しかし、ハイデガーの存在そのものがそうであるが、問題作とされると同時に難解である。その「技術への問い」を私なりに読み解き、ハイデガーはテクノロジーとはどのようなものであると感じ取っていたのかを何回かにわたって取り上げる。

 

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Heidegger

ハイデガーとは?

本題に入る前に、ハイデガーと代表作「存在と時間」における道具的存在の概念を紹介したい。

そもそもハイデガーはどのような人物であったか。それが、どうもかなりの変わり者だったらしい。ハイデガーは、決して静謐の中で穏やかに私たちを諭してくれるような哲学者や緻密な論理を積み重ねることで有無を言わせぬ納得をせまる哲学者ではなく、問題含みのキテレツさを併せ持つ天才。最近では没後出版された黒ノートで話題になることもあるハイデガー。本国ドイツではナチスに加担したということでハイデガーの評価はいつまでたっても低空飛空しているという。

そのハイデガーが「存在と時間」を書いたのが1927年。その中で、「道具的存在」と「事物的存在」についての有名な論考がある。ハンマーで釘を打つ時、ハンマーのことを忘れ意識はそのハンマーの先にある釘だけを認識している。つまり、道具を使っている時、道具のことは忘れていて、その道具の先から対象物を認識しているという感覚は、誰しもが納得行く感覚である。こういったことをハイデガーがはじめて言ったのかは、私にはわからないが、師匠であり現象学をはじめたフッサールやメルロ・ポンティの身体性の哲学との関連からも重要な指摘であることがわかる。

またこの考えは、人間は道具であり技術を使って意識を拡張しているというマクルーハンらの発想(ハンマーの先まで意識が拡張していることからの延長)や、ポスト現象学における技術の身体化の議論などへとつながることになるし、日本の脳科学者が発見した、道具を使う猿の脳状態ともつながる。そしてまた、わたしは人間がサイボーグ化することの哲学的意味ともつながると考える。サイボーグもまた十分に身体化されうるものであるという前提を示すものだからだ。

技術への問いを読む前に

しかし、そうした「道具」と「現代技術」はかなり異なるものになるところまで来てしまったというのが、「技術への問い」の主張となる。「存在と時間」の後、第二次世界大戦ハイデガー公職追放ナチス加担)という荒波を超えた後に、その間にあためていた技術への論考を、講演の中で発表したものをテキストにしたのが「技術への問い」である。想像ではあるが、その間の戦闘機や戦車、通信や暗号などの最新技術の攻防が大量殺戮を生んだこと、さらには、広島長崎への原子爆弾の投下という「技術による容赦なき破壊」を知り、「技術への問い」のベースとなる「現代技術は危険である」という主張が生まれたと考えられる。戦前までは、道具の身体化を論じ、技術を手元においていたのに、戦後の展開では、技術は手元から離れた巨大な産業装置で、人と一体化するのではなく人を搾取するものという主張となる。

ハイデガーの技術への問いは、ドイツ語で書かれたものであるが、ハイデガー自体のドイツ語の使い方が独特のようである。また、比喩や言葉遊びをいくつも繰り出しながら、対象となる存在の本質に向かって、その裏の裏にまでも潜り込もうとする勢いで論を展開するのだが、その解釈は容易ではない。

したがって、日本語に訳すのは困難が伴うようで、今では容易に手に入る範囲では2つの訳書を読むことができるが、例えば、キーワードの「Gestell」についても一方は、「集-立」で他方は、「総かり立て体制」である。また他には、「徴発性」「全-仕組み」「仕組み」「立て-組」「巨大-収奪機構」などと訳されていたらしい(ハイデガーの技術論(加藤尚武 編))。Gestellは、私なりの解釈では、「現代技術の人や自然を在庫として用立てる働き」を表現するためにハイデガーは用いたと理解している。しかし、一つの用語だけでこれだけの訳語が分かれる時点で、このテキスト全体でハイデガーが本当に言いたかったことにドイツ語が読めない私がたどり着くのは困難であることが予想される。しかし、技術哲学は、上に書いたように、ハイデガー解釈から始まるのが伝統のようなので、門前の小僧のわたしもそこからはじめてみたい。

次回、その「技術への問い」の内容へはいります。 

技術の本質とは? 1.技術とタマムシ(道具説を超える)

目次

 

技術とはなにか?

よく引用されるように、B.フランクリンは、人間とは道具を作る動物といい、H.ベルクソンは、ホモ・ファーベル(つくる人)といったという。進化の歴史においては、道具を使うことで、類人猿から人類になったとされる。現代のAIやロボットも含んだ技術と人類との関係性そのものの起源は、人類の誕生にまで遡るのである。技術哲学は、その技術とは何かを明らかにするのみならず、技術と人の関係性を哲学するものである。ここからは具体的に、技術とは何かをみていきたい。具体的に、技術とはどのようなものであると技術哲学では考えられているのだろうか。理論としてはざっと次のようなものがある。

  1. 道具説:技術は目的のための手段で価値中立的なもの(一般的考え)。
  2. Gestell:技術は人や自然を用立て在庫にする危険なもの(ハイデガー)。
  3. テクネー論:技術の起源はテクネー(ハイデガー)。テクネーは真理を明らかにするもの(アリストテレス)。
  4. 身体器具説:技術は身体器官を反映してつくられる(カップ
  5. 楽観的技術論:技術は社会をよく発展させ反映させるもの(ベーコン)
  6. 技術決定論:技術は社会のあり方を規定するもの(世界大戦前後の技術哲学者)
  7. 身体拡張論:技術は身体の拡張である(マクルーハン
  8. 社会構成主義:技術は社会的に構成されるもの(STSの論者)
  9. 技術媒介論:技術は世界と人との関係性を媒介する(ポスト現象学

(これら+αを順次取り上げていく予定)

早速、今日は、技術は道具であり使い方次第で、価値中立的なものであるという、「道具説」を取り上げる。この考え方は、現代の常識とされている考え方で、国が発行する文書や裁判においてもこの考え方が使われる。しかし、ハイデガーをはじめ、おおくの技術哲学者は、この考えは正しいが技術の本質ではないという。どういうことだろうか。

道具説とはなにか?

参考にした専門書(『科学技術社会論とは何か(東京大学出版会, 2020)』)の「第3章 技術とはなにか」によれば、道具説は、

技術は外部から与えられた目的を実現するための単なる手段であり、

技術の善悪はその利用目的あるいは使い方によるとする。

 (科学技術社会論とは何か(東京大学出版会), P59)

 

考え方である。さらに、

技術は誰がいつどこで利用しようと同じように有効に働くのであり、その目的と利用方法は技術の使用者が決めるもので、技術自体が判断するものではないから価値中立的だという主張もある

 (科学技術社会論とは何か(東京大学出版), P59)

という。いずれも一見そのとおりであると感じられる主張である。一般に、「道具は使い方次第」、「道具は手段で目的ではない」といわれる。それを使って何か問題が起きても使った人間の問題となる。原発事故が起きたときに、裁判で訴えられるのは、原発やそれを開発した人間ではなく、原発を管理していた人間である。Winny事件の判決でも技術は中立と強調され、開発と実装が区別された。

 

 

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科学技術社会論とは何か (科学技術社会論の挑戦 1)

 

道具説の問題点

これらの考えの前提には、道具は人間にとって制御可能(Controllable)だというのがある。制御可能だからそれを使う人が制御できなかったことが問題になる。また、制御することで社会をよくしようというか考えになる。テクノロジーは、道具をルーツにしているので、テクノロジーもまた、同様に使い方次第とされる。このような考えは一般に浸透しているし、とくに、上記の裁判のように行政の判断は基本この考えに基づいている。例えば、こちらの国が発行している人間中心のAI社会原則にも「人間が AI を道具として使いこなすことによって、・・」という一文がある。

しかし、なにか違和感を感じないだろうか。例えば、本当に人間は技術を使いこなす(制御する)ことができるのだろうか。原発事故などをかんがみるに、それは難しいのではないだろうか。現代のテクノロジーは、人間の使い方を超えてしまい技術自体のパワーを持つに至ったのではないだろうか。こうした疑念が、技術哲学の最初の問いである。

また、上の本でもハイデガー研究の哲学者、加藤尚武の考えが引用され、

技術には特定の目的実現に貢献する使命があり、その目的から逸脱できないので、「使い方次第」というためには、その目的意図から完全に自由な判断を下す主体がその技術を支配している構造が必要になる。しかし、技術を保持している当事者が無私の立場でその技術の目的の価値・是非を判断するのはかなり難しい。

と説明される。実際、使い方次第という考えは、使い方を自律的に決定できる自己を前提としているが、これだけたくさんの技術に囲まれた環境で、使い方を自律的に決定する余地はまた限られている。原発を使いたくなければ、すべての電化製品をボイコットするしかない。しかし、それは、不可能である。また、原発自体は目的を持つものであって中立とは言い切れない。

したがって、技術自体が持つ何か(この何かをポスト現象学では「技術的志向性」と説明する)を受け入れ、それを理解し、技術をただの道具とする観念を超越したところから新たな関係性を模索することが技術哲学の出発点となる。

クランツバークの第一法則を超えて

実際、よく観察してみると、人は技術に対する複数の考え方を都合よく使い分け、技術のせいにしたり人のせいにしたりしている。裁判では人のせいでも、原発反対運動の矛先は人ではなく原発という技術それ自体である。AIへの人類の思いは、あまたのSF作品となって降ってきている。

人は、個々の技術が持つなにかに敏感に反応して、賛成反対、様々な意見を述べる。

技術史の大家、クランツバークの有名な「クランツバークの法則」の第一法則は、

Technology is neither good nor bad:nor is it neutral.

テクノロジーは、善でもなければ悪でもない。そして、中立でもない。

 

 

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メルビン・クランツバーグ(Melvin Kranzberg)

 

 というものであるが、技術は、善でも悪でも中立でもなく、何であるのか?という問の答えは、簡単ではない。しかし、個々の技術(小文字のtechnologies)をみてみれば、それぞれなにか固有の訴えをしていることがわかる。そして、技術全体(大文字のTechnology)となったとき、そこにどのようなメッセージが生まれるのだろうか。

また、それらはメッセージであるがゆえ解釈は人により異なる。ポジティブにとらえたりネガティブにとらえたりすることができる玉虫色である。テクノロジーというのは、状況や人によって解釈が変わる「玉虫色」の性質をもつ。けれども、そのテクノロジーというタマムシ自体がもつ性質というのもあるだろう。その答えを、読者の皆さんと一緒に考えていけたらと思う。

次回は、技術哲学の唯一の古典、ハイデガーの「技術への問い」を取り上げます。

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タマムシ

 

技術哲学とはなにか? 4.技術哲学史 経験的転回、倫理的転回と第三の転回

 

さて、技術哲学について英語版Wikiでは、技術哲学史が不十分だったので、次に、同じく気鋭の技術哲学者、オランダのフェルベーク(Verbeek)の「Moralization of Technology(邦訳:技術の道徳化)[Verbeek, 2011]」の最終章からハイデガー以降の技術哲学史をみていきます。

 

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技術の道徳化 [Verbeek, 2011]

技術哲学史まとめ(ハイデガー以降)(フェルベークまとめを更にまとめたもの)

  1. 1950年代- :悲観的技術決定論の時代
     ~第二次産業革命(電力・通信)~2つの世界大戦~原発~(巨大な装置としての技術の時代)
    この時代の技術哲学は、2つの戦争にテクノロジーが利用され世界で初めての規模の大殺戮が行われた後の反省的世相から、ハイデガーを中心とした悲観的な技術決定論が主流(他、エリュール、ヨナス等)。技術哲学の著作として著名な「技術への問い[Heidegger, 1953]」(おそらく唯一、哲学者なら誰もが知っている技術哲学書は、ハイデガーの「技術への問い」のみ)のトーンは、悲観的な技術決定論であり、現代技術は脅威で危険なものであり、それに人間は抵抗しても無駄であるというような悲観的な見方にあふれている(しかし、ハイデガーは、そこからの救いの道をテクネーでありアートに見出す点がポイント(追って取り上げる))。さらに、議論が超越論的で抽象的。したがって、具体的にこの技術の問題を乗り越えるための方策を考えるためには不十分でだったと技術哲学史においては位置づけられる。

  2. 1980年代-:経験的転回
    第三次産業革命(IT)~第二次AIブーム~インターネット~
    ハイデガー決定論の呪縛を超えるために行われたのがミッチャムやアイディによる「経験的転回」である。こうして技術哲学は、「現実の技術と密接に関係するようになる」。技術そのものへ視点を向けさせることになった(Technology(大文字のT)からtechnologies(小文字のtの複数形)へ)。科学哲学における経験的転回になぞらえて、技術哲学における「経験的転回」と呼ばれる。STSへの接近もこの頃。

  3. 2000年代-倫理的転回
    ~IT~バイオ~

    ナノ倫理・情報倫理・生命倫理・工学倫理等、実際の諸技術や技術発展を扱い始め、再び、社会的・政治的な関与を行い始めた。その結果、技術と社会を分離して論じるように成り、個別の倫理にとらわれ、STSへの接近によってしたかったこと(技術と社会の相互浸透性の研究)を忘却。倫理的考察の中心に道徳性と技術の相互浸透性を据えるべきで、経験的転回と倫理的転回に続けてもう一つの転回をしなければならないとフェルベークは言う。

  4. 2010年-第3の転回
    ~AI~ロボット/サイボーグ~IoT~
    それまでの「経験的転回」「倫理的転回」を統合するタイミング。技術と人の連合体としての行為者の概念を持ち出しポストヒューマニズム時代における新たな技術観を前提とした技術哲学を展開することで、より複雑な人と技術の関係性を表現し、AIやロボット、環境知能などの先端テクノロジーを論じる素地を作る。技術の道徳的意義の見直しも行う。

 

 技術哲学を勉強する中で、経験的転回~倫理的転回の流れは、欠かせないと感じています。この流れのおかげで、具体的に技術について論じることができるようになった。また、本当にめざましい技術革新に対応し、技術の実態を捉える技術哲学へと生まれかわった(ないしその可能性が生まれた)。

その結果、アイディ~フェルベークのポスト現象学と呼ばれる、「世界は技術を媒介して知覚される」 という考えに基づく考察が始まり、そうして、人間と技術は、切っても切り離せない、一体化したエージェントであるという媒介理論(mediation theory)にたどり着きます。これがフェルベークのいう第三の転回です。

 確かにこの流れのおかげで、現代の技術について論じることができます。とはいっても、まだまだこれだけの説明では、技術哲学がなんの役に立つのかわかりませんね。

具体的なテクノロジーについて技術哲学的に論じていきたいのですが、その前提となる道具立ての紹介ができておりませんので、次回からは、技術哲学の「道具立て」を紹介していきたいと思います。

  

技術哲学とはなにか? 3.技術哲学とは、テクノロジーを最もよく理解するための哲学

前回までで、日本語で技術哲学についての情報をえることは現状むつかしいということがわかりましたので、このサイトで、徐々に、なるべくわかりやすく、海外で盛んに研究されているテクノロジーの哲学である技術哲学について、紹介していきたいと思います。

 

まず、技術哲学とはなにか?ですが、いくつかの技術哲学テキストから紹介します。まずは、ベルギーの若手技術哲学者Coeckelbergh(コイッケルバーグとおそらく発音するので以下コイッケルバーグ)の昨年末に出た大学講義用の技術哲学テキスト「Introducation to Philosophy of Technology」から、一文を抜き出しました。これです。

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Introduction to Philosophy of Technology

 技術哲学とは?

Philosophy of technology is a disciplined and systematic attempt to think through these kinds of issues, including the question of how we can best understand technology and the challenge to evaluate new technological developments.[Coeckelbergh, 2019 p5]

技術哲学は、技術をどのようにして最もよく理解することができるのかという問題や、新しい技術開発を評価するという課題を、熟慮し体系的に検討する試みである。)

 

 まとめると、

技術哲学とは、テクノロジーであり技術を最もよく理解するための哲学」でっす。

わかりやすい。テクノロジーってなに?を最も考えている分野であり、技術哲学者は、もっともテクノロジーについて考えている研究者たちというわけですな。

何のために考えるのか、上記の文は次のように続きます。

It is an academic discipline, but it can also take the form of a public philosophy, or it can take interdisciplinary and transdisciplinary routes. Perhaps it has to, if it aims to have impact on the issues it talks about.[Coeckelbergh, 2019 p5]

一つの学問分野であるが、公共哲学の形や学際的なルートをとることもでき、話題とするテーマについてインパクトを与えようとするならそのような方法をとる必要があるだろう。)

 

新しい技術の評価や社会的実装を考え、技術倫理へと接続される哲学だということが見えてきます。このことから、「技術哲学は、技術と人、社会の関係性を考察する哲学」ということも見えてきます。

 

今の時代、あらゆる物事が、テクノロジーを通して(媒介して)行われていますので、技術哲学的な思考が求められているのは間違いないかと思います。とくにコロナでバーチャル化が加速しています。しかし、なぜか、日本では広まっていない(その理由解説も追って)。勝手に使命感を感じておりますw。次は、技術哲学史の補足です。

 

技術哲学とはなにか? 2.Wiki英語版まとめ

前回は、「技術哲学」をググってみましたが専門的な情報しか出てこなかったので、次は、英語Wikiを翻訳します。

翻訳マシンはグーグル翻訳ではなく、DeepLを使います。DeepL,ご存じない方もいらっしゃると思いますが、GoogleよりもDeepLの方がよほど正確です。研究開発予算からするとGoogleのほうがよほどいいものをつくりそうですが、DeepLに現状軍配です。この分野の技術革新の激しさを暗示していますね。DeepL翻訳を原文見ながら修正するかたちで作成しています。

箇条書きの要約をまずはご覧になって「技術哲学」と何かを読み取ってみてください。

 

(英語版Wiki要約)

技術哲学とは

  • 技術哲学は、技術の性質とその社会的影響を研究する哲学の一分野。

 

技術哲学史

  • テクノロジー(またはそのギリシャ語の語源であるテクネー)に関する問いの哲学的議論は、ギリシャ哲学さかのぼる。
  • 「テクノロジー」はギリシャ語の テクネー(τneνη)(芸術、または工芸の知識)に由来。
  • ギリシャ語におけるテクネーの見方に共通するのは、テクネーは自然の模倣として生まれるという見方。
  • アリストテレスは、テクネーは自然を超えて「自然がもたらすことのできないもの」を完成させることができるとも主張。
  • プラトンの『ティマエウス』では、職人が設計図を使って物を作るように、世界は永遠の形に沿って世界を創造した神の職人(デミウルゲ)の作品として描かれている。
  • 中世のスコラ学の哲学は一般的に、技術は自然の模倣であるという伝統的な見解を支持していました。
  • ルネサンス期には、フランシス・ベーコンは、技術が社会に与える影響を考察した最初の近代作家の一人、自然哲学とテクノロジーを用いて自然を支配する人間の力を拡張し、生活環境を改善することで社会をより良くするという楽観的な世界観を打ち出した。
  • エルンスト・カップは、1877年に基本書『Grundlinien einer Philosophie der Technik』を出版し、技術を人間の臓器の投影とみなし、ヨーロッパの文脈では、Kappは技術哲学の創始者
  • 20世紀の技術哲学に大きな影響力を持つようになったもう一つの、より唯物論的な技術の立場は、ベンジャミン・フランクリンカール・マルクスの考えを中心にしたものでした。
  • 近代技術が人間性に及ぼす影響をダイレクトに取り上げた20世紀初期の著名な哲学者は、ジョン・デューイ、マーティン・ハイデガー、ハーバート・マルキューズ、ギュンター・アンダースハンナ・アーレントの5人。
  • ハイデガー、アンダース、 アーレントマルクスはデューイよりも両義的で批判的だったが、彼らは皆、テクノロジーを現代生活の中心的なものとして見ていた点で共通。
  • ハイデガーにとっての問題は、テクノロジーの本質である集-立(Gestell)(訳補:自然や人を在庫として用立てようとする技術の働き)の隠された性質であり、それは彼が最大の危険と呼ぶものを人間にもたらし、それゆえに最大の可能性をもたらすもの。
  • 20世紀後半には、多くの個々の重要な著作が出版。エリック・ヒッグス、アンドリュー・ライト、デビッド・ストロングの編著『Technology and the Good Life (2000)』、ハンス・アハターハイスの編著『American Philosophy of Technology (2001) 』等。

 技術哲学者の仕事

  • 技術哲学者は、広くこの分野に反映し、仕事をしており、地球工学、インターネットデータとプライバシー、技術的機能と技術の認識論、コンピュータ倫理、バイオテクノロジーとその意味合い、宇宙における超越、等より広い技術倫理の多様なトピックを含んでいる。

用語解説

  • 技術的決定論とは、「技術の特徴がその使用を[決定]し、進歩的な社会の役割は、技術の変化に適応し[利益を得る]こと」

 

 

 いかがでしょうか?なにか発見はありましたでしょうか。

ギリシャのテクネーがテクノロジーの語源なのですね。また、このWikiでは触れられていませんが、テクネーとアートは語源が同じで、すなわち、技術と芸術は本来同じ意味だったと言うのを聞いたことがあるかもしれません(ここもまた詳しく紹介したいポイントです)。日本の職人芸と工芸美の関係からも、納得できるのではないでしょうか。それが本来のテクノロジーの姿だとハイデガーは、言うわけですね。今テクノロジーは、危険なものになっているけど、そこに救いがあるのだと。

しかし、さて、どのような救いがあるのでしょうか。せっかく訳してみたものの、技術哲学を勉強した身からすると、例えば、このハイデガーの技術決定論的見方(例:技術=危険)を超越するための現代の様々な議論の紹介があまりに不十分な感じがします。

結論からするとこのWikiだけでは、技術哲学を紹介したことにはならなさそうです。まとめると、 

(英語版Wikiに足らないところ)

1.技術哲学史における現代の技術哲学の紹介不足

ハイデガーまでは、いいとしても、20世紀後半からの流れの説明がかなりかたよっています。重要な著作として、ヒッグスらの「Technology and the Good Life (2000)」とアハターハイスのアメリカの技術哲学の紹介テキストが挙げられていますが、後日紹介するアハターハイスの弟子のフェルベークらの技術哲学者による技術哲学史からすると、やはり、技術決定論に対抗する形で生まれた社会構成主義STSの流れ、ミッチャムやアイディらの功績(経験的転回と呼ばれるより実践的な技術哲学が行われるようになって、2000年以降の技術倫理の流れが生まれた)の紹介は欠かせないように思います。また、AIやロボットの技術哲学的議論をする前提となる、情報哲学やポストヒューマニズムもトランスヒューマニズムの思想紹介もありません。

2.論点紹介の不足

技術哲学の論点としてなぜか技術決定論のみが紹介されていますが、こちらも不十分と言わざるを得ません。

 次回は、技術哲学の専門書から技術哲学史をいくつか紹介してみたいと思います。

  なお、和訳全文はこちら(適宜、修正します)。上記のこともあり日本版Wikiへの反映(新規投稿)はまだです。

 

こちらの和訳

https://en.wikipedia.org/wiki/Philosophy_of_technology

 

技術哲学

 
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技術哲学は、技術の性質とその社会的影響を研究する哲学の一分野です。

テクノロジー(またはそのギリシャ語の語源であるテクネー)に関する問いの哲学的議論は、西洋哲学の黎明期にさかのぼります。[1] 「技術哲学」という語句は、19世紀後半にドイツ生まれの哲学者で地理学者のエルンストカップがGrundlinien einer Philosophie der Technik[2] [3]」という本を出版したときに初めて使用されました。 

(訳補:この書籍の中でカップは、身体器具説(技術は人間の身体の反映であるという考え)を展開します。)

歴史

ギリシャの哲学

西洋の用語「テクノロジー」はギリシャ語の テクネーτneνη)(芸術、または工芸の知識)に由来し、テクノロジーに関する哲学的見解は西洋の哲学のルーツにまで遡ることができます。ギリシャ語におけるテクネーの見方に共通するのは、テクネーは自然の模倣として生まれるという見方です(たとえば、織物はクモを見ることから発達した)。ヘラクレイトスやデモクレイトスなどのギリシャの哲学者たちはこの見解を支持しました。[1]アリストテレスは自然学において、この模倣はよくあるケースであることに同意する一方、テクネーは自然を超えて「自然がもたらすことのできないもの」を完成させることができるとも主張しました[4]  アリストテレスはまた、自然物は生成と運動についての内部法則を持つだけでなく目的因を持つ一方で、テクネーは、それ自身を形作る外的要因や外的なテロス(目的、目標)によって形作られ [5]自然とテクネーは存在論的に異なっているとします。自然物はある目的のために努力し、自分自身を複製するが、テクネーそうではないのです。プラトンの『ティマエウス』では、職人が設計図を使って物を作るように、世界は永遠の形に沿って世界を創造した神の職人(デミウルゲ)の作品として描かれている。また、プラトンは『律法』の中で、職人がすることはこの神の職人の真似をすることであると主張している。

中世から19世紀

ローマ帝国時代から古代後期にかけて、ヴィトルヴィウスの『建築学』(紀元前1世紀)やアグリコラの『金属学』(1556年)のような実用的な作品を生み出されました。中世のスコラ学の哲学は一般的に、技術は自然の模倣であるという伝統的な見解を支持していました。ルネサンス期には、フランシス・ベーコンは、技術が社会に与える影響を考察した最初の近代作家の一人となった。彼はユートピア的な作品『ニュー・アトランティス』(1627年)の中で、架空の施設(サロモンの家)が自然哲学とテクノロジーを用いて自然を支配する人間の力を拡張し、生活環境を改善することで社会をより良くするという楽観的な世界観を打ち出した。この架空の財団の目標は、「...原因の知識、物質の運動の秘密、そして可能なすべてのものを実現するために、人間の帝国の境界を拡大すること」である[引用が必要]。

19世紀

テキサスを拠点にしていたドイツ出身の哲学者・地理学者エルンスト・カップは、1877年に基本書『Grundlinien einer Philosophie der Technik』を出版した[3]。 カップヘーゲルの哲学に深く感銘を受け、技術を人間の臓器の投影とみなした。ヨーロッパの文脈では、Kappは技術哲学の創始者と呼ばれています。

20世紀の技術哲学に大きな影響力を持つようになったもう一つの、より唯物論的な技術の立場は、ベンジャミン・フランクリンカール・マルクスの考えを中心にしたものでした引用が必要 ]

20世紀から現在まで

近代技術が人間性に及ぼす影響をダイレクトに取り上げた20世紀初期の著名な哲学者は、ジョン・デューイ、マーティン・ハイデガー、ハーバート・マルキューズ、ギュンター・アンダースハンナ・アーレントの5人です。ハイデガー、アンダース、[6] アーレント[7]、マルクスはデューイよりも両義的で批判的だったが、彼らは皆、テクノロジーを現代生活の中心的なものとして見ていた点で共通していました。ハイデガーにとっての問題は、テクノロジーの本質である集-立(Gestell)(訳補:自然や人を在庫として用立てようとする技術の働き)の隠された性質であり、それは彼が最大の危険と呼ぶものを人間にもたらし、それゆえに最大の可能性をもたらすものでしたた。ハイデガーの技術に関する主要な仕事は『技術への問い』にあります。

テクノロジーに関心を持つ現代の哲学者には、ジャン・ボードリヤールアルバート・ボルグマン、アンドリュー・フィーエンバーグ、ラングドン・ウィナー、ドナ・ハラウェイ、アビタル・ローネル、ブライアン・ホームズ、ドン・アイディ、ブルーノ・ラトゥール、ポール・レビンソン、エルネスト・マイス・バジェニーリャ、カール・ミッチャム、レオ・マルクス、ギルバート・シモンドン、ルイス・マンフォード、ジャック・エリュール、ベルナール・スティグレール、ポール・ヴィリリオ、ギュンター・ロポール、ニコル・C・カラフィリス、リチャード・セニョール、ポール・ヴィリオ、ギュンター・ロポール、カラフィリス、リチャード・セニョール、ニコル・C・カラフィリス、カラフィリス、リチャード・セネット、アルバロ・ヴィエイラ・ピント、ジョージ・グラントなどがいます。

20世紀後半には、多くの個々の重要な著作が出版されましたが、ポール・ダービン(哲学者)は、世紀の変わり目に出版された2冊の本によって、技術哲学が正典的なテキストを持つ学術的なサブディシプリンとして確立したとみなしています[8]。 それは、エリック・ヒッグス、アンドリュー・ライト、デビッド・ストロングの編著『Technology and the Good Life (2000)』(2000年)と、ハンス・アハターハイスの編著『American Philosophy of Technology (2001) 』です。この10年間で、技術哲学をテーマにしたいくつかの論文集が出版されており、『Techne: Research in Philosophy and Technology (the journal of the Society for Philosophy and Technology, published by the Philosophy Documentation Center) 』や『Philosophy & Technology (Springer) 』などの技術哲学の専門書が出版されています。20世紀後半から21世紀初頭にかけて、アレクサンダー・ギャロウェイ、ユージーン・サッカー、マッケンジー・ワークなどの哲学者たちは、その著書『Excommunication(破門)』の中で、デジタル技術の進歩と普及は、技術哲学を新しい「第一哲学」へと変容させると主張している。プラトンの対話集『ファイドゥロス』の中の文字と言論の分析などの例を引用しながら、ギャロウェイらは、テクノロジー存在論の二次的なものとして考えるのではなく、テクノロジーを哲学の可能性の前にあるものとして理解することを提案しています。

「存在するすべてのものは、提示され、表現され、媒介され、再調停され、伝達され、翻訳されるために存在しているのだろうか。反復、交わり、統合ではなく、異端、追放が勝利へと媒介する状況があるのだ。「これ以上のメッセージはないだろう」というある種のメッセージがある。それゆえ、すべてのコミュニケーションには、相関関係のある破門があるのだ。」[9]。

(↑この引用文はよくわからなかった。原文は以下、「Does everything that exists, exist to me presented and represented, to be mediated and remediated, to be communicated and translated? There are mediative situations in which heresy, exile, or banishment carry the day, not repetition, communion, or integration. There are certain kinds of messages that state 'there will be no more messages'. Hence for every communication there is a correlative excommunication.」)

技術の哲学者は、広くこの分野に反映し、仕事をしており、地球工学、インターネットデータとプライバシー、our understandings of internet cats(インターネット猫??)、技術的機能と技術の認識論、コンピュータ倫理、バイオテクノロジーとその意味合い、宇宙における超越、等より広い技術倫理の多様なトピックを含んでいます。 引用が必要 ]

テクノロジーと中立性

技術的決定論とは、「技術の特徴がその使用を[決定]し、進歩的な社会の役割は、技術の変化に適応し[利益を得る]ことであった」[10]という考え方である。レリア・グリーンは、技術的決定論と社会的決定論を選択的に示すために、ポート・アーサー大虐殺やダンブレーン大虐殺のような最近の銃の大虐殺事件を使った。グリーンによれば、技術は、特定の技術を普及させている社会文化的な文脈や問題が取り除かれて初めて、中立的な存在として考えることができるという。そうすると、技術の保有によって提供される社会集団と権力の関係が横たわっていることが見えてくるのではないだろうか。

参照

 

(以下は、引用などなので英語のママ)

参考文献

 

  1.  Franssen, Maarten; Lokhorst, Gert-Jan; van de Poel, Ibo; Zalta, Edward N., Ed. (Spring 2010). "Philosophy of Technology"The Stanford Encyclopedia of Philosophy. Retrieved May 15, 2014.
  2. ^ Marquit, Erwin (1995). "Philosophy of Technology". Archived from the original on 15 October 2015. Retrieved 25 September 2015. Section 2, paragraph 10. Published in vol. 13 of the Encyclopedia of Applied Physics (entry "Technology, Philosophy of"), pp. 417–29. VCH Publishers, Weinheim, Germany, 1995.
  3. Jump up to:a b Ernst KappGrundlinien einer Philosophie der Technik. Zur Entstehungsgeschichte der Cultur aus neuen Gesichtspunkten (Braunschweig/Brunswick 1877, Reprint Düsseldorf 1978, Engl. Translation Chicago 1978).
  4. ^ Aristotle, Physics II.8, 199a15
  5. ^ Aristotle, Physics II
  6. ^ # The Outdatedness of Human Beings 1. On the Soul in the Era of the Second Industrial Revolution. 1956 # The Outdatedness of Human Beings 2. On the Destruction of Life in the Era of the Third Industrial Revolution.
  7. ^ Hannah Arendt, The Human Condition, 1958.
  8. ^ Techné Vol 7 No 1
  9. ^ Excommunication: Three Inquiries in Media and Mediation, Alexander R. Galloway, Eugene Thacker, and McKenzie Wark (University of Chicago Press, 2013), p. 10.
  10. ^ Green, Lelia (2001). Technoculture. Crows Nest, Australia: Allen & Unwin. p. 2.
  11. ^ Green, Lelia (2001). Technoculture. Crows Nest, Australia: Allen & Unwin. p. 3

技術哲学とはなにか? 1.「技術哲学」をググる

最初の投稿です。技術哲学とはなにかからみていきましょう。

さっそく「技術哲学」とググってみましょう。

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技術哲学検索結果 20200824

 

村田先生の日本でのゆいいつの技術哲学の教科書「技術の哲学(岩波書店)」が出ますね。次は、戦前の書籍である三木清先生の技術哲学。次がフェルベークという気鋭のオランダの技術哲学者の紹介です。いずれもいつか解説したいとおもいますが、書籍や論文へのリンクであって、研究者向けの情報です。

つまり、「Wikiがない」わけです。これでは、技術哲学とは一向になんなのかわかりません。「テクノロジーの哲学を学びたい!」と思っても技術哲学というのはとてもハードルが高いものとなっているのが現状です(なので、ブログを始めたわけですが。。)。

 

最近、英語版のWikiが和訳表示されたりするようになったのでそちらは見えています(人によってリコメンド表示は異なるようです)。そちらをクリックすると、冒頭に、このように書いてあります。

 

The philosophy of technology is a sub-field of philosophy that studies the nature of technology and its social effects.

Philosophical discussion of questions relating to technology (or its Greek ancestor techne) dates back to the very dawn of Western philosophy.[1] The phrase "philosophy of technology" was first used in the late 19th century by German-born philosopher and geographer Ernst Kapp, who published a book titled "Grundlinien einer Philosophie der Technik".[2][3]

......

https://en.wikipedia.org/wiki/Philosophy_of_technology 

 

ふむふむという人はいいのですが、私を含め日本人にとっては、日本語のほうが読みやすい。

Google自動翻訳すると

 

技術の哲学は、のサブフィールドである哲学の自然研究技術とその社会的影響を。

テクノロジー(またはそのギリシャ語の祖先のテクネ)に関する質問の哲学的議論は、西洋哲学の黎明期にさかのぼります。[1] 「テクノロジーの哲学」という語句は、19世紀後半にドイツ生まれの哲学者で地理学者のエルンストカップが「グルンドリーニエンアイナーフィロソフィーデアテクニック」という本を出版したときに初めて使用されました。[2] [3]

......

 

はいはい、なるほど、そうなんですねと。でもこれだけだと何のことやらわからないですよね。で、何なんですか?技術哲学は?ということで、次回、英語版Wikiの翻訳&日本版Wikiへの反映!に挑戦します。

 

「テクノロジーを哲学しよう」をはじめます

テクノロジー を哲学したいという方のためのブログです。まずは、海外の情報の訳や書籍のレジュメを載せていくのでテクノロジーの哲学に興味のある方、参考にしてみてください。

私は、民間で10年ほど研究開発しているなかで、そもそも技術とはなにか?という哲学的問いにぶつかり、技術哲学の研究を志したものです。

調べてみてわかったのが、テクノロジーの哲学、つまり、Philosophy of Technology=技術哲学は、海外では、アメリカ・ヨーロッパ(特にオランダ)で今も盛んに議論されているが、日本にあまり入ってきていないということでした。

ハイデガーの「技術への問い」以降、パッと思いつく範囲では、主な技術哲学の専門書の訳書は、アメリカのフィーンバーグの「技術への問い」、オランダのフェルベークの「技術の道徳化」ぐらいなのではないかと思います。

20世紀後半の技術哲学文脈での重要な哲学者である、ドン・アイディもカール・ミッチャムも訳書がでていません。フロリディは、インフォスフィア(第四の革命)のみ出版されています。

日本では、技術哲学の研究は、必要がないのかもしれません。しかし、私のエンジニアとしての経験から、技術とは何かを今問うべき時だと思っています。

また、日本人であり西洋人の技術観は大きく異なります。宗教観(一神教多神教等)の違いと説明されることもありますが、個人的には、そもそも日本人の「もの」と「Thing」から異なりますし、ドイツ語の「Ding」はそれとも違うでしょう。

日本語の中でも、テクノロジーと技術で語感は違いますし、Technologyを科学技術と訳す場合もあります。道具、ツール、そして、テクネーなど、技術の周りには、たくさんの言葉が浮いています。

そうした技術が「AI」や「ロボット」として進化することで、社会を変えようとしていると様々に議論されています。AIの脅威論を展開する西洋の学者は多いですが、東洋人からするとあまりピンときません。そもそも「物」のとらえ方が違うんだと思います。

また、調べていくと意外なことに西田幾多郎三木清など戦前の京都学派の大家たちが技術についてかなり深く論じていることがわかってきました。

2020年代以後の新しい時代背景をいろどる技術観を、東洋的であり日本的思想に根ざしながら考えていけたらと思っています。

 おいおいまとめますが、今の私は以下の3大テーマに関心があるので、通奏低音で問い続けられたらなと。

 

  1. 機械論:人間はどう機械で機械でないのか。
  2. 技術決定論:技術は社会をどう決定し、決定されるのか。
  3. AIの自律性:AIは自律性をいかに持ち得て、持ち得ないのか。