魯相と魯王

後漢末、張遼や温恢などが「魯相」つまり魯王の相(宰相)になったとされているのだが、じゃあ魯王は誰なのかというと不明じゃないかと思う。



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ずっと以前記事にしたように、魯王=東海王だったんだろうか?それとも、東海王として知られる人物は実は魯王だったんだろうか?それとも、記録上分からないだけで魯王も別にいたんだろうか?



結論。分からない。

ひとこと

そういや、黄巾は潁川郡あたりが根城の一つだったと言われているんだったなあ。



後漢末頃の潁川郡出身の著名人って割といるわけだが、何人かは本人や一族が黄巾関係者だったりするのかなあ。

悪の巣窟

太史公曰、吾嘗過薛、其俗閭里率多暴桀子弟、與鄒・魯殊。問其故、曰「孟嘗君招致天下任俠、姦人入薛中蓋六萬餘家矣。」世之傳孟嘗君好客自喜、名不虛矣。
(『史記』巻七十五、孟嘗君列伝)


史記』太史公によれば、かの賓客を多数集めた事で有名な孟嘗君の領地であった薛では、孟嘗君が招き入れた連中の影響で治安が大変悪くなっていたのだという。漢武帝の頃も続いていたということになる。



「6万余家」ってことは人口なら10万以上になると思うんだが、反社会的勢力の類がそれだけ一都市に集まったのだとしたら、何世代も経っても影響残っておかしくないかもな・・・。

5月5日の伝説

5月5日。



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5月5日といえば、かつては「5月5日に生まれた子は背丈が家の戸に追い付くと自分か親を害することになる」という迷信があったそうだ。



世の5月5日生まれの人たちは、こんなことが起きないように家の戸をとても高くしておくのが吉。

ひとこと(屯田民)

曹操屯田民は、おそらくは曹操の軍糧生産の民、つまり曹操軍のために囲われる民だと思われる。



一方、通常の郡県の民は、いわば皇帝に属する民ということになるだろう。



つまり、屯田民が増えることは曹操の隷民が増えることになり、一般の郡県に帰農させれば曹操の民が減って皇帝の民が増えることになるのではないか。




などとふと思った。