神なら清くできる…「聖ユスチノ殉教者の『キリスト者のための第一弁証論』」を読んで
罪を犯した後、回心した人が、どのようにして罪を逃れるかについて、預言者イザヤを通して、神が次のように言っておられる。「洗って、清くせよ。悪い行いをあなたがたの魂から取り除け。…」
罪を犯しているとは
私の回心の道のり
罪から逃れるための道
わからない道だから羊飼いを頼りにしよう…「聖ベダ司祭の『ペトロの第一の手紙注解』」を読んで
【復活節第三月曜日】
『毎日の読書』「聖ベダ司祭の『ペトロの第一の手紙注解』」より
わたしたちはキリストの恵みに照らされ、導かれて、
この秘儀〈※キリストによって罪が贖われたこと〉によって天の住まいの光へ向かって歩いていく。
この恵みの光は、イスラエル人の旅の間中、夜の闇に対して彼らを守り、約束の地へ向かって確実に導いた雲と火の柱によっても表されている。
自分の努力で信仰を保てるわけではない
人は「私は、この神を/キリスト教を信じることにしている」と言えません。
私は洗礼を受ける前に、「私は洗礼を受けよう」と思いました。
その決断をしたのは私だと思っていました。
確かに、私はそう言葉にすることで、自分の信仰を宣言しました。
しかし、そういう思いにいたるまでの道のりがあり、考えさせられる時間がありました。
そのように働きかけられたのは神なのでしょう。
私の家族や友人にキリスト教徒はいませんでした。
それでも、神は教会や聖書に近づくよう働きかけられました。
私たちの人生の歩みは神に導かれている
洗礼を受けたら、罪からまったく離れてすばらしい人間になれる…わけではありません。
どうしたらいいの?と困惑することもあります。
人生は順境と逆境のくり返しです。
人間には荷が重いです…。
そんな時、私たちの神は「こっちへおいで」「そっちへ行ってはダメだ」と導かれます。
「迷える小羊」を導く羊飼いとして。
たとえ、一人で決断しなくてはいけないことがあったとしても、私たちは本当に一人なのではありません。
思い悩んでいる時、パッとアイデアが浮かぶことがあります。
思わぬ助っ人が現れることもあります。
普段は、その瞬間のことで精一杯になっていて気にとめられないことが多いかも知れません。
しかし、私たちは思っている以上に「自分の力だけで何とかして」いるわけではありません。
そのことを、時々でも思い出すと、日々の労苦も軽くなるのではないでしょうか。
恵みの光を見失わないこと
洗礼を受けたら、今後の人生は安泰…というわけにはいきません。
やはり人生にはいろいろな困難があります。
そのために、神を忘れたり、遠く離れることもあります。
ですから、私は三位一体の神・教会・聖書から離れないように、と心にとめています。
そう思うこと自体、神からの導きなのでしょう。
神に従っていきたいと思っても、もっと気楽な道があるように感じられることもあります。
そのようなことを感じたのは私だけではないはずです。
それでも、私たちに寄り添い続けておられる神を信頼できる私たちは幸いです。
神の導きを感じて、信じて、歩んでいきたいです。
最後までお読みいただきありがとうございます☆
神がわからないからこそ知りたくなる…「シエナの聖カタリナおとめの対話録『神の摂理について』」を読んで
永遠の三位一体よ、あなたは深い海です。あなたを求めれば求めるほどそれだけ見出し、見出せば見出すほど、それだけ求めるようになるのです。
もくじ
永遠の三位一体
深い海
求めるほど見出し、見出すほど求めるようになる
本当の幸せな状態に近づく…「古代の著者による復活祭の説教」を読んで
「父よ、わたしを信じる人々をわたしのいる所に、ともにおらせください。」
この神が気になって仕方がない…「アンチオケの聖アナスタジオ司教の説教」を読んで
【復活の火曜日】
『毎日の読書』「アンチオケの聖アナスタジオ司教の説教」より
本来は苦しむことのない神のみことばが苦しみを受け入れられた理由を理解しましょう。
その理由は、人間が他の方法では救われることはないということです。
これを知るのは、主と、主が示そうと思う者のみなのです。
「 キリストが救い主なら、なぜあんな殺され方をされるのか。
そんな人間が救い主のはずがない」
そう言われたことがあります。
そう考えるのは無理ないことだと思います。
「救い主」と言うからには、特別な力を持っているはず・・・。
罪人として処刑された人間を、「人を救うために、そのように死ぬ必要があった方」と考えるのは、「自然な考え方」ではないと言えます。
「キリストは人々を救うためにあのように死ななければならなかった。
神でありかつ人である必要があった。
神であるから死に打ち勝つことができ、
人であるから人間の喜びや苦しみを知り、死ぬということも可能になるから」
そう受けとめている今でも、ふっとある思いがよぎります。
「そうしなければいけなかったのだろうか…。
人は苦しい時にこそ神を求めるのに、そういう神を人が受け入れられるものだろうか。」
それでも私が聖書を読み続けるのは、その方を至上の存在だと思わざるをえないからです。
それこそ、「人知を超えた神の力」と言うしかない状態です。
人が神のすべてを把握できないから神なのです。
植物や動物のことだって、人にはまだまだわからないことがたくさんあるわけではないですか。
だから、私は人が把握していることがすべてだとは思っていません。
人がすべてを把握できるほど、この世界は小さいものでもないと思っています。
世の中には、人生には、苦しいことがたくさんあります。
病気であれ災害であれ、人を正しい場所へ連れ戻すために役立つことがあるとしても、「何もここまで苦しいことに合わせなくとも良いのではないか」と思うこともよくあります。
「どうしてここまで」と何度も思うけれども・・・
それでも、この神が気になって仕方がないのです。
その神を完全に把握することなどもちろんできませんが、少しでも理解を深めたいと読書に向かっています。
最後までお読みいただきありがとうございます☆
世界を見つめよう…「サルデスのメリトン司教の過越祭における説教」を読んで
※2019年4月23日更新
【復活の月曜日】
『毎日の読書』「サルデスのメリトン司教の過越祭における説教」より
愛する皆さん、理解していただきたい。
いかにあの過越の神秘が、新しいものでありながら古く、永遠でありながら一時的であり、朽ちるものでありながら不朽であり、死ぬものでありながら不死であるかを。
この文だけ読むとなんだかよくわかりませんよね。
矛盾しているようだけれども、そのひとつひとつが真実・・・
というのが聖書の世界、キリスト教の信仰です。
「神であり、かつ人間」ということが、まず一般的に考えれば「矛盾している」ということになりますよね。
それを信じられるというのは、確かに人間の「常識」を超えています。
人は世界のすべてを把握できません。
私が知っていると思っていることは、世界のほんの一部だと心得ていれば、謙虚になれると思います。
もっと、ものごとを深く見られるようになると考えています。
最後までお読みいただきありがとうございました☆