完成させられない事
done is better than perfectとかいう言葉があります。
facebookの創業者か誰かでしたっけ。
わりと正しいよなあと思うのは、perfectなんて不可能だからでしょうか。
そもそも完璧ってどんな状態を指すんでしょう?
欠点がないことでしょうか。
しかし欠点なんて、いくらでもひねり出せますよね。
万人に受けるコンテンツがないのと同じように、欠点ととられかねない点を全部潰すのは事実上不可能ですね。
そういう意味で、とりあえず「形にする」というのは筋が通っている戦略かもしれません。
「それが終わったらperfectを目指してみましょう」って感じかな。
しかしperfectであることは事実上不可能です。
たとえば、機会費用という言葉があります。
「それをすることで、どれだけ他のことができなくなるか」みたいな。
お腹空いてる時に、ラーメンかパンケーキが食べたかったとする。
ラーメンを食べたら、パンケーキが食べられなくなる。
逆もしかり。
ラーメン→パンケーキは食べすぎですもんね。
空腹である最初に食べたほうが美味しさも大きいでしょうし、機会費用からは逃れられません。
同時に食べればいいって?あんまり美味しくなさそうですね。
ここで一番難しい問題が、二つを公平に比べられない事でしょうか。
たとえば、当たる確率の違う二つのクジなら話は簡単です。
より当たるほうを選べばいいですからね。
しかし、ラーメンとパンケーキのどっちが美味しい?って聞かれたら難しいですよね。
どちらもベクトルが違う良さがあって、決めきれない。
最高のラーメンと、口に合わないパンケーキだったとしても迷う事ありますよね。
この場合でも、done is better than perfectでしょうか。
どっちを食べても、まあまあ満足するし、まあまあ後悔するでしょうからね。
「近いからこっちでいいや」くらいで食べちゃった方が手っ取り早いですな。
それが出来ないのが私なんですけどね。
とりあえずperfectを目指したくなってしまう。
「どっちも良い点があって捨てられない」、貧乏性です。
テストを早めに終わらせても、気になって無限に見直ししちゃうタイプの人です。
テストならその時間はテストしかできないんですけど、タスクの場合は大変。
「いや…ここはこうした方がいいな…」って無限に考えて他のことが出来なくなる。
なので最近は、ぎりぎりに終わるような時間で始めています。
「時間なくてギリギリだから」という言い訳が欲しいわけですな。
または、勢いだけでやる時もあります。
一気に書いて、気になり出す前にdoneにしてしまう。
勉強でも趣味でもperfectを目指すのは大変そうです。
機会費用って考えだしたら止まりませんからね。
「こうすると機会損失が…」って考えている間にも費用はかさみます。
なので最近では、やることは一つ以下に絞るようにしています。
「AもやりたいしBもやりたい」って考えだしたらキリがないですからね。
機会費用に殺されてしまいます。
それならむしろ、失うものを無くして0にする。
失うものが無いからやりたい放題ですね。
新しいことを始めた後って大抵は効率が悪くて機会費用に悩まされがちなので、多少暇なくらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。
「違う事やってたほうが…」とか「こういう見方をすれば…」とか考えだしたらキリがないですからね。
非接続とか切断ってやつです。
まあ別に、意図して他事を切り捨てているわけではないんですけどね。
「そもそも、そんなに合理的に最大効率を求めてないよ!」
それもそうでした。
そういう意味で”目を背けること”も大切だと思います。(とても言い方が悪い)
未来のことがわからない以上、最大効率かなんて判るはずもない話ではあります。
じゃあ最大効率とかじゃなくて、「ギリギリだから」とか「慣例だから」みたいなものに頼るのも一つの手ですね。
”儀式のような、手順とか伝統みたいなもの”を大切にしていく。
しかし言葉を習得してしまった以上、「こうした方が…」みたいなのが無くなることはありません。
それさえ考えられないほど繁忙を極めるのも手なんですけどね。
ある時、「なんでこんなに忙しくやってるんだろ…」って戻ってしまうことも多々。
ほどよい忙しさがいいですね。
暇すぎないし、忙しすぎない。
動きすぎないけど、動かなすぎない。
けど動くのと動かないのとって両立できませんよね。
あぁ、また機会費用だ!
「わからない」を楽しむ/「亜人ちゃんは語りたい」の高橋先生の凄さ
皆さんは「亜人ちゃんは語りたい」というマンガを読んだことはありますか?
Amazonで一巻だけ無料になっています。
「微笑ましい」「笑えるハーレムもの」「オモシロ可愛い」
レビューから抜粋しましたが、どれも正しいと思います。
しかし主人公である「高橋先生」の生き方、考え方が”ただのハーレム漫画”で終わらせられないくらい最高です。
亜人ちゃんは語りたい
アニメ化された経験もあるので、名前は聞いたことあるっていう人も多いかもしれません。
雑なあらすじとしては、
”亜人”と呼ばれる特異な体質を持つ人たちがごく少数いる世界。
たとえば雪女とか、サキュバスとか、ヴァンパイアとか。
そこで教師をしている高橋先生の元に、個性豊かな四人の亜人が何かを語りに来る…
みたいな。
無料なので、詳しく知りたい方はとりあえず読んでみてください。
本題は、主人公である高橋先生が素晴らしくて「私の理想とする大人像」であるということです。
高橋先生は亜人ではなくて、いわゆる”普通の人”。
大学では生物学を勉強していて、赴任先の学校でレアな亜人に出会えて願ったりかなったり。
いろんなきっかけで四人の亜人と仲良くなり、語られたり語ったりする関係になります。
高橋先生のすごさ
何が素晴らしいかというと、「わからなさ」を許容しているという点だと思うんです。
人と違う点がある「亜人」。
高橋先生としては願ったりかなったりの機会で、彼らについていろいろ研究したいと思っている。
しかし彼らとは「絶妙な距離感」を保つんです。
「俺は亜人について研究していたし、学校の教員だから女子高生のことも知り尽くしている!」ではない。
「わからないから、彼らのことを避けるし、攻撃したりもする」でもない。
「生徒として一個人として対面し、”わからない”ことを許容しながら接している」というところが本当に凄いと思っています。
亜人と言われると、ものすごく個性の立った特異体質のように思われるかもしれません。
ですが、性別も小分けになり、今まで”障害”と呼ばれていたものが「個性」になった今、亜人は「私たちとは全く異質なもの」ではないと思っています。
そういう意味で高橋先生の亜人に対する接し方は、いろんな参考になるものであるのではないでしょうか。
相手が誰であろうと平等に接しようとし、「わからなさ」や「違い」を許容していく。
「亜人だから」じゃない
特に印象的なのが、彼がバンパイアの女の子と会話するシーンです。
初めて仲良くなった亜人である彼女に、了承を取ったうえで質問をぶつけてみます。
「いろんな伝承って本当なの?」とか「牙で血を吸ってみたいと思うの?」とか。
この時点でいろいろ凄いと思うんです。
後の彼の発言に「コミュニケーションとはどこまで許せるか探っていくこと」みたいなのがあるんですが、これもそれを体現したかのようなもの。
自分とは全く違うと思われる人を受け入れ、偏見なしで彼らと接する。
バンパイアだから十字架辛いんじゃないの?のような偏見の押し付けをしない。
「亜人の研究をしていたから全部わかってるよ」という驕りを持たない。
一人の人間であることを理解して、「彼女も思春期の女の子なんだな」と思えばちゃんと距離をとる。
理想のコミュニケーションではないでしょうか。
特に凄いのが、「知った気になっていない」という事だと思うんです。
高橋先生は大学で亜人のことを研究していたり、学校教員をやっていることもある人です。
そんな人が「女子高生の亜人」に対して敬意と「一人の人間である」という意識をもって向かえることが本当に素晴らしいと思います。
まとめ
「自分と違う人間に、敬意をもって接すること」
亜人である前に一人の人間であることを理解すること。
「亜人だから」という括りでみんなを同じであるように扱わない事。
理解した気にはならないけど、理解しようと努めること。
「亜人だから」持っている体質に気が付いても、それを表に出さない事。
「亜人だから」を「特異な体質」に読み替えたら、”普通の”人間にも通じることではないでしょうか。
全ての人は”特異な体質”と呼べるものを持っていて、それは亜人であるということとも通じるかもしれまえせん。
それは”障害”とも呼べるかもしれないし、”個性”とも呼べるかもしれない。
そんな人と接するとき、高橋先生の立ち振る舞いは参考になるところがあるかもしれません。
まあ、マンガとして普通に面白かったのでぜひ読んでみてください。
無料ですしね。
「孤独のグルメ」のちょうど良さ
「孤独のグルメ」という作品をご存知でしょうか。
最近はAmazonプライムでそればかり見ています。
松重豊演じるサラリーマンが、日本各地で孤独に飯をつつくドラマ。
こう書いたら何が面白くて見ているのかわからなくなりましたが、不思議な魅力のある作品です。
「見ている」というよりは「作業用BGMとして聞いている」のほうが適切かもしれません。
他事をしながら、おっさんがご飯を食べるドラマを見る。
我ながら不思議な空間ですね。
少し話は変わりますが、昔と違って映画やアニメを全部見るのが辛くなってきました。
見たい映画があっても「これ90分もあるのか…」と思って渋ってしまう。
アニメだともっとひどいですね。
「2クールってことは30分×24で…」みたいな。
えらく打算的になってしまいました。
しかしふと思えば、映画やアニメを見る時間は昔よりも増えています。
中学生のころはたまに友人と映画館に行くか、暇すぎて○○ロードショーを見るくらいでしたから。
今では見放題サービスのおかげで、時間はないのに”見るべき名作たち”が押し寄せてきます。
私が誕生する以前の名作たちと、物心つく前の名作と、時間や興味関心のために見逃した名作と、オンゴーイングな名作のタマゴと…
選択肢がありすぎて迷っちゃいますね。
迷ってるうちに時間が過ぎて、何も見れずに終わってしまうんですけど。
そんなときに「とりあえず流しとくか…」くらいのノリで見始めたのがこの「孤独のグルメ」。
何が面白いかはわからないんですけど、とりあえず流しておくには本当にちょうどいい作品です。
話の流れもほぼないので、ちょっと集中しても巻き戻して見る必要がない。
基本的に五郎さんの独り言なので、画面を見なくても何をしているかわかる。
感情を揺さぶろうとか、ヤマを作ろうみたいな魂胆が見られないので平常心で見られる。
disってるのか?って感じの説明ですけど、貶めているわけではないです。
「面白い」とは違うけど、「続きを見たい」と思わせてくれる魅力がある気がします。
どんな魅力でしょうか。
と言いながら、やはり作業用BGMとして見ている気がしてきました。
youtubeを流しながら作業をするのと大差ないかもしれません。
言ってしまえば、「可もなく不可もなくな音楽を流してくれるチャンネル」みたいな立ち位置かも。
YouTubeは作業のお供にも使えますが、操作が必要という欠点があります。
音楽を流していても、「これ好みじゃないな…」とか「これさっきも聞いたな…」ってなったりしますよね。
音楽を流してるのに、全く関係ないバラエティーが流れてきたり。
そんなデメリットが無いから「孤独のグルメ」を見ているのかもしれません。
適度に情報量がありつつ、変な揺さぶりや起伏が無いから安心して見られる。
作業用にぴったりですね。
こんなに作業用としてこの作品を推しながら、あまり作業は捗っていません。
なんだかんだドラマが流れていたら見ちゃいますからね。
やっぱりこのドラマ、面白いんでしょうか。
けれど、ただ「面白い」と言うには少し違う気がする…
解き明かすためには、全シーズン制覇するしかないかもしれません。
まったく苦じゃないんですけどね。
そういう作品を「面白い」って言うのでしょうか。
勢いで物事を押し通す/一口目が一番おいしい系マンガ「合法レシピ」
先日、「合法レシピ」という漫画を読みました。
kindle版なら無料なのでぜひ読んでみてください。
内容もかなり面白かったです。
暴力団「霜降肉組」の新人組員・紺田照(こんだ・てる)、高校3年生。彼が任侠道のほかに心血を注ぐのは「お料理」! 切った張ったの世界で生きながら、硝煙にふとサバの塩焼きを思ってしまう……そんな紺田の今日の晩ご飯は!?
Amazon紹介文より
これを読んでいるときに「勢い」のようなものを感じませんでしたか?
AとBを掛け合わせたら面白いんじゃね?書いちゃおう!みたいな勢い。
いい意味であまり考えずに、勢いで突っ走って完成させた感じ。
(作者さんが本当にこの意図を持って作られたのかはわかりません)
何かをやる時って、大まかに2パターンに分かれるんじゃないでしょうか。
じっくり考えて、細部まで詰めてからやる
始めの勢いで完成させて、後から細部を詰める
こんな感じですかね、ついでに右脳とか左脳とかも結び付けられるかも。
どちらが上とかはもちろんありません。
今回のマンガは後者の、勢いで押し切ってくる動きを感じました。
例えば以前紹介した「世界第八の不思議」も、全く関係ない二つの言葉を結び付けたマンガです。
パンツ×ロンダリングみたいな。
極道×クッキングと通じる部分がありますよね。
でも「世界第八の不思議」は、どちらかというと前者の「考えるタイプ」な気がします。
話を練りに練って、一つ一つが小話として完成されている。
一方、この「合法レシピ」は勢い&勢い。
タイトルのアイデア一つだけで攻めてる感じ。
一話一話の完成度は低いかもしれないけれど、決して欠点ではない。
「勢いがあるから許される」みたいな。
(許されるというのは少し違うかもしれません。)
例えるなら味の濃いB級グルメですかね。
二郎とか家系ラーメンのようなインパクトの強いやつです。
最初の味のインパクトは強いけれど、最後は「もういいや…」ってなっちゃう感じ。
味の完成度は高級フレンチなどには劣るかもしれないですけれど、ラーメンはラーメンで良いですよね。
一口目が最高すぎて、途中の単調な味も好きになってしまう。
これもそんな感じのマンガだと思うんです。
要はどっちも美味しいし、面白いよってことですね。
ジャンルは違いますが、 以前にも似たようなことを書いてました。
デカルトのように物を分解して考えてもいいけれど、そうすると”勢い”が失われてしまう。
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
デカルト; 谷川 多佳子. 方法序説 (岩波文庫)
B級グルメを素材で分解するなんてナンセンスですよね。
大切なのは一口目の美味しさ、要は勢いです。
めちゃくちゃ味が濃くって、にんにくやスパイスが効いていて、一口目が一番おいしい。
それで「いや、ちょっと多いな…」みたいに後悔するのもまた一興です。
何の話でしたっけ。
というわけで、「合法レシピ」。
無料なのになかなか面白いので、読んでみてはいかがでしょうか。
やる気を出すためのやる気を出す
「やる気」って何なんですかね?
生きていると諸々のタスクが降りかかってきて、逃げずに処理しなくちゃいけないこともあります。
もちろんすぐに取り掛かって終わらせるに越したことはありません。
「嫌だなぁ」ってナヨナヨしている時間も勿体ないですしね。
しかしそうは思っても上手くはいきません。
どうしたってやる気がでない日もあります。
そういう日って、起きたときになんとなく判ったりしません?
起きたときに「今日はダメな日だ…」という天啓が下りてくるんです。
セルフハンディキャッピングですかね、それでも結構。
こういう日って何しても基本変わりませんからね。
基本は「まあしょうがないしノンビリ過ごすか…」と受け入れる。
けれども用事があるとそうともいきません。
「うわー行きたくないな~」って思いながら行って、
「今日はダメだな~」って思いながら過ごして、
「今日はダメだったな~」って思いながら一日を終える。
ノンビリ過ごしても同じようなこと思いながら過ごしてるんですけどね。
しかしこういう日に無理すると翌日にも響くので、映画見たりマンガ読んで過ごしてた方が有意義です。
たまに書いているマンガとか映画についての記事は、こういう日があってこその産物だったりします。
ところで巷にはいわゆる「やる気を出す方法」みたいなので溢れていますが、実際に効果あったりするんですかね?
「”やる気を出す方法”を実践するためのやる気」が必要になってくるので、結局変わらないんじゃないかとか思うんですけど。
「タスクを小さいのに分解する」みたいなのは、必要なやる気の量が減るので理に適っているのかもしれません。
でもやる気が出ない日って、その程度のやる気さえ出ない事が多い気がします。
少しだけやって、「ここからは明日でいいか…」とか「今日くらいいいか…」みたいな。
毎日仕事をしている社会人の方には頭が上がりません。
タスクと出社は別問題ですかね?
「宿題はできないけど学校には行ける」のように出社くらいは出来るかもしれません。
これも”出社”とか”登校”みたいな小さな行為が、やる気を出すきっかけになっているのかもしれません。
そこさえ出来ないこともしばしばありますけど。
やる気をだすためのやる気が出ないわけですね。
屁理屈でしょうか。
でも”やる気”が「何かをするためのエネルギー」みたいなものだったら、やる気を出すのにやる気が必要なのはまあ当然です。
人間って、物を消化するのにもエネルギーが必要らしいですからね。
「栄養を吸収するためにも栄養が必要」みたいに「やる気を出すためにもやる気が必要」なわけです。
そういえば「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」にもこんな話がありましたね。
「○○にダイヤルして、自分を幸福な気分にしたくもない」みたいな。
しかし”やる気”っていうのは、出したくて出せるものではない気がします。
何かをやり遂げたときに「あの時はやる気があった」と理由付けして、初めてやる気があったことになるのではないでしょうか。
今持っているのが”やる気”なのか、”やりたいという願望”なのか区別はつきません。
願望に「やりとげたという事実」がついて「やる気があった」という事実になるのではないでしょうか。
そもそも本来の目的って「やる気を出すこと」ではありませんからね。
そこにこだわる必要もない気がしてきました。
「やる気がなくてもやる」、要は「やりたくないことをやる」。
なかなか大変ですな。
やりとげたらご褒美でも用意をしておけば、何とかなるかもしれません。
美味しいご飯を用意して、古典的条件付けするみたいな。
時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、つかの間、彼は自分勝手になり、自由になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わずものを食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代人に平等に与えられた最高の癒し、と言えるのである。孤独のグルメより
「これを終わらせたら美味い飯を食えるぞ」っていう目標意識は良いですね。
”やる気教”のような宗教を信じるよりもよっぽど私には合ってます。
そういう意味では、前の「タスクを分解する」のも「ご褒美を目的とする」のも”目を背ける”というのが肝要なのかもしれません。
「始める」ことに重きを置いてみたり、「終わった後」を目標に頑張ってみたり。
その点、友達と一緒にやるっていうのは理に適っているかもしれません。
友達と一緒にやれば勝手に始められますし、終わった後に一緒にご飯を食べるのが目標になりもする。
「友達と一緒にやるなんて勉強から目を背けているだけ!」って聞いたりしますが、それこそが大切なのかも。
タスクと程よい距離感を保つ。
真に受けすぎて押しつぶされないけど、目を背けすぎないような距離感。
先生の小言くらいの距離感ですかね。
なんとなく受け流していきましょう。
口当たりのいい言葉でラッピングしたくない/「思いやり」なんてクソ食らえ
「思いやり」「仁義」「人として」「大人なら」とかとか、口当たりのいい言葉はたくんあります。
「あなたのためを思って」みたいなのもよく聞きますね。
突然ですが、私はこの辺の言葉がとても苦手で嫌いです。
こういう言葉って、どういう場面で使う言葉でしょうか?
「それは人としてやったダメなことだよ」とか「思いやりを持て」とかありますね。
要は、言った相手に治して欲しい点があるわけです。
冗談の場合は別として、相手が自分の気に食わないことをしている。
相手を自分のいいように矯正したいから、口当たりのいい言葉で自分の意見をラッピングして伝える。
「(私が思っている)大人なら(そんなことをしないし、あなたにしてほしくないから)やっちゃダメだよ」って言っているわけです。
発話者のただの個人的な意見を、「仁義」とか「人として」みたいな綺麗な言葉で伝えているだけではないでしょうか。
「思いやりを持て」
とか言いますけど、要はあなたの思う様に動いてほしいだけですよね?
自分に対して「思いやりを持ちたい」なら、まだ解る話です。
これまでに”思いやりを持った”行動ができなかったから、戒めとして発言する。
全て自分の中で完結している行為です。
しかし他人からの「思いやりを持て」という発言。
相手が”思いやり”を持っているかどうかなんて、どうやって判別するのでしょう?
持っているかどうかは別として、要は思いやりを全面に出して”(私が考える)思いやりを持った行動”をしてほしいだけですよね?
「私の思う様に動け」って言っているのと変わらないと思っています。
むしろ、”世間”とか”思いやり”とか”仁義”みたいなのに責任を押し付けて、個人の意見を通そうとする最低の行為な気がしてしまいます。
"あなたのためを思って”言ってくれる。
もちろんありがたい話ではあります、真意なら。
しかし”人のためを思って”が何かの理由になるでしょうか?
”あなたのため”を思ったら何でも許されるし、どんな意見でも通ると思っているのでしょうか?
これも、「あなたの(私が思う”良い”方向へ進ませる)ため」ですよね?
勝手に結論を押し付けて、口当たりのいい言葉で自分の意見を隠しているだけではないでしょうか。
アドバイスを貰えるのはもちろんありがたいことです。
押し付けられているだけかもしれませんが、まあ無いよりマシでしょう。
ですが”思いやり”とかの口当たりの良い言葉で自分の意見をごまかすのは、いかがなものでしょうか。
まあ私は苦手だから使わないよってだけの話なんですけどね。
「仁義」とか「○○さんはお前のためを思っているんだよ!」とかって、どんな映画で見かけるでしょうか?
ヤクザ映画ですよね。
ちょっとは口当たり悪くなりましたか?
別に「思いやり」とか「仁義」を持つことが悪いことと言いたいわけではありません。
もはやそれが何なのかはわかりませんけど。
自分の意見を伝えるだけなら、口あたりのいい言葉を使う必要もないかなと思っています。
正直、「相手が何を考えて何をしたいと思っているか」なんて判るはずないですからね。
それなら真意を隠すんじゃなくて、口当たりの悪い言葉だったとしても、ぶつけたほうが”相手の糧”にはなるのではないでしょうか。
「私はこう思うし、こうして欲しい」
このほうが、相手にも個人的な意見ってことが伝わりやすいですしね。
勝手に思っている意見なら、聞かないのも自由。
もしこれがタメになった時にも私の意見ってことがわかりやすいので、リターンも大きいんじゃないですか?
というか、口当たりの良い言葉で相手をねじ伏せようとしてること自体が怖いですね。
この辺の言葉を使っている時点で、もはや相手に議論の余地は無いのではないでしょうか。
勝手に神の視点を持って、”人として”みたいな評価を作り上げているわけですからね。
これに歯向かう私たちは、神や社会に歯向かうテロリストみたいになってしまいます。
そりゃ敵いませんわな。
ちゃんと対話しましょうよ。
そのために、まずは神の視点から引きずり落して、個人vs個人にまで持ち込むことが大切です。
たとえ口当たりが悪くても、相手の糧になるような言葉を発したいですね。
栄養サプリみたいな。
ちょっと有難みが強すぎますね。
そんなに素晴らしい意見はできないですし、気に食わなかったら無視して欲しいくらいの意見ですから。
「弁当に入ってる謎のプチトマト」みたいな位置が私の理想でしょうか。
消費者のためを思って入っているのかはわからないし、謎に温まっている申し訳程度の野菜。
けど好きな人は好きだし、食べたら栄養にもなる。
私の理想のポジションですね。
プチトマト、目指していこうと思います。
活躍している人がみんな年下
むなしく馬齢を重ねてきてしまいました。
「学生だから」とか「まだ若いから」みたいな最強の言い訳も、失いつつあります。
現実世界は、レベルが上がってもスキルポイントは貰えないみたいですね。
魔法剣士には慣れずにクリアしてしまいそうです。
しかし世間には、まだレベルが低いのに魔王を倒して最強のジョブに就いている人がたくさんいます。
若いころは、レベルが高い人を見て「大きくなったらこうなれるのかな~」みたいな淡い希望を抱いていられましたが、今では私のほうが高レベルです。
いつのまにか、前線に立つ勇者たちは、私よりもレベルが低い人たちばかり。
クライマックスシリーズで大活躍してる投手が同い年だったり、新進気鋭の科学者みたいな人が同世代の人間だったり。
ちょっと昔の例でいえば、宇多田ヒカルは15歳でデビューしたそうですね。
それよりもだいぶ年上なのに、私のメジャーデビューは夢のまた夢。
まあ、「歌も歌えて野球も出来て研究もできる人間になりたかったのか」と聞かれれば答えはNOではあります。
しかし、「上級職じゃなくても、あなたはあなたの人生の勇者なんだよ」みたいな綺麗ごとで終わらせていいのかなという疑問もあります。
上を見たらキリがない、しかし下を見てもどうしようもない。
なかなか難しそうですね。
実際問題、上で挙げた例はかなり極端ですよね。
宇多田ヒカルなんて世紀の大天才ですし、「にんげんだもの」って言って同一視するのは何か違う気がします。
しかしこの、劣等感だか憧れを抱く対象を選ぶのはなかなか難しいです。
「私も人間だから、15歳でメジャーデビューできる!」っていうのと、「私も同じ学生だから、隣の人より良い点数取れる!」みたいなのは同じ話な気がします。
「犬も私も哺乳類だから、犬よりも早く走れる!」みたいな。
共通点なんていくらでも錬成できますしね。
変な目標を抱いて、劣等感に押しつぶされないようにする必要はありそう。
いわゆる”成長”するためには、無理な目標と劣等感は必要なんでしょうけどね。
そこまで成長して何を目指すんだか。
神とかでしょうか。
憧れと劣等感は紙一重です。
目標となる人がいて、その人と私が違うからこそ、憧れにもなる劣等感も抱ける。
両方を程よく持つのはなかなか難しいですね。
魔法剣士になってしまったら、プリーストにはなれない。
白魔法と黒魔法を両方覚えることはできない。
「みんな違ってみんな良い」みたいな言い訳は、ある程度のジョブになってから使う言葉なんでしょうね。
中途半端な魔法剣士よりも、上級職の剣士のほうが強いみたいな。
でも剣士になったらなったで、魔法使えたらなぁって思っちゃいません?
薬草持ち歩くのもめんどくさいし、ホイミとかで回復したい。
でも魔法使いになったらなったで、戦闘のたびにMP減るの嫌だなぁって思うんでしょうね。
魔法剣士は魔法剣士で、どっちつかずな能力で使いづらかったり。
どのみち、何かしらに劣等感は抱くことになるのでしょうな。
やっぱり目標は「神になること」にしておきましょうか。
完全なら劣等感を抱くこともないでしょうし。
まずは教祖になることから始めてみようかな。