俺とコロナと学部最後の3ヶ月~2020年1月-3月の個人的な記録
ショッピングモール・コンプレックス
名前しか知らない街をたずねて~スロヴァキア・ブラチスラヴァ旅行記
思い返せば、首都の名前を覚えるのが好きなガキだった。
バクー、ンジャメナ、ヌアクショット、スリジャヤワルダナプラコッテ……見慣れない文字列、耳慣れない音の連なりと現実に存在する都市の間の結びつきを見出すことができないままに、知への渇望か、はたまた有り余っていた時間のおかげか、呪文やプロレス技の名称のような首都の名前を片っ端から暗記していた。
当時好きだった首都名がある。
スロヴァキア共和国の首都……であること以外の情報は何も得ていなかったが、上品さと硬質さが同居するような音の響きを、その耳馴染まなさも含めなんとなく気に入っていた。
十数年が経過した。
ブラチスラヴァは世界史や地理の授業でもついぞ出番がなく、ドキュメンタリー番組や紀行番組、報道の類でも目にする機会はなかった。自分自身の成長の過程で目を通したいかなる文献にも登場しなかった(と思う)。当然、単語として発話する機会もなかった(仲間内で「首都名山手線ゲーム」をやっていたときに口をついて出てきたかもしれない)。
結局、ブラチスラヴァに関してはスロヴァキアの首都であることを除き何も知らずじまいだった。
今年の3月、羽田~フランクフルトとプラハ~成田の航空券を購入し、中欧旅行へ向かう運びとなった。ミュンヘン、ザルツブルグ、ウィーンを経由するルートなら、ドイツ、オーストリア、チェコの3カ国を周遊できそう。
しかし、ヨーロッパ、特にシェンゲン協定を締結している国であれば陸路で容易に国境を越えることができる。海外に行けるチャンスはそう多くはないのだし、どうせなら生涯訪問国数を1つでも増やしておきたい。ルートの途中、日帰りで立ち寄れる国はないだろうか……地図を見て見るとどうやらウィーンから隣国の国境までは数十kmしかないらしい。国境の先の街に行ってみよう。スロヴァキア・ブラチスラヴァに。
そんなこんなでウィーン中央駅から Regiojet のバスに乗って1時間、ブラチスラヴァのバス停で降り立った。首都間の距離としては非常に近い。東京鎌倉間とそう変わらないのではないだろうか。
近年のヨーロッパはじつに高速バス網が充実しているらしい。2011年創業の FlixBus をはじめとする長距離バスサービスの営業エリアは複数の国にまたがっていて、県境を越えるような感覚で国境を越えることができる。安価なうえに乗車直前であってもネット経由で予約や決済が可能で、Wi-Fiやフリードリンクといったサービス面でも鉄道に引けを取らない。市街地から外れた場所に中央駅が立地していることも多い鉄道に比べて、都市の中心部までダイレクトまでアプローチできる点も魅力だ。
どうやら目的地である旧市街地の一つ手前のバス停で降りてしまったらしい。近くにあったロードサイドの大型ショッピングセンター “Aupark” に足を踏み入れてみる。テナントは世界的に展開しているスポーツブランド店やファストフードチェーンが主で、白を基調とした明るい内装はわが国のショッピングモールとそう変わらない。普遍性の極致とでも言うべき空間だった。案内表示のスロヴァキア語と行き交う人々の肌の色が、かろうじて異国に身を置いてくれることを伝えてくれる。そういえば、幼少期は親に連れられて毎週のように近隣のジャスコ(イオンと呼ばれる前だった)に足を運んでいたが、小学校の同級生と会うのが嫌で嫌で次第に足が遠のいたことを思い出す。ここにはクラスメートはいない。
旧市街地へと通じる橋を渡る。眼下のドナウ川は美しくも青くもなく、見慣れた荒川のように無表情だった。
他の中規模以上の中欧の都市がそうであるように、トラムが走っている。地図を見ると、徒歩だけでも主要な観光地を巡ることができそうだ。ウィーンほどの壮麗さはないものの、瀟洒な建造物が並ぶ。
突如、淡いブルーが目に飛び込んできた。カトリックの聖エリザベス教会だ。
サマルカンドやイスタンブールのブルーモスクなど、青系の宗教建築物といえばイスラム系が思い浮かぶが、青色がメインカラーのキリスト教の教会は珍しいはずだ。それにしても、アリスの衣装のような可憐な青だ。旧市街地の建物はおおむね赤屋根だから、いっそう青が引き立つ。入り口にあしらわれている五芒星も心憎い。清純なブルーにうっとりしていたその刹那、犬にすごい勢いで吠えられてびびる。
路上に屋台のようなものが停まっている。近づいてみると、ビールバイクだった。11時台でありながら、大勢の若者たちで賑わっていて、スロヴァキアのピルスナーを提供するらしい。すっかりできあがっている兄ちゃん連に飛び込む勇気は持ち合わせておらず、その場を後にする。あと一歩が踏み出せない。旅行者としてはまだまだ三流だ。
それにしても、観光客はあまり多くなさそうだ。東洋人と思われる外見の旅行者の姿をほぼ見かけない。フランクフルト、ミュンヘン、ザルツブルグ、ウィーンとこれまで周ってきた都市では興が削がれるほど日本語を耳にしただけに、安心して旅情に浸ることができる。そんな街にもスシレストランはあった。“bamboo restaurant”、イラストに描かれた竹を見て、竹がアジアの表象として用いられていることをはじめて理解した。スロヴァキアには竹は自生しないのだ。
少し歩くと、看板にイルカのキャラクターが描かれた“SUSHI+”。イルカをキャラクターに据える寿司屋は世界中探してもスロヴァキアにしか存在しないのではないだろうか。内陸国だけど海の魚を食べるのかな。
書店に立ち寄る。異国の文化を理解するのには観光スポットよりも書店かスーパーマーケットに入るほうが手っ取り早い。店頭に並んでいるのは世界的にヒットしている文学作品やスポーツ情報誌ばかりで、川端康成や村上春樹は置いていなさそうだった。カフカやクンデラを輩出したチェコに比べ、スロヴァキア文学の印象はまったくない。海外に行くとその国で発行された書籍を買うようにしているが、言語を理解できないために漫画ばかり買ってしまう。しかしどうやらスロヴァキアオリジナルのコミックはないらしい。悩んだ挙げ句、スロヴァキア国内のシナゴーグを紹介する写真集を買うことにした。ここブラチスラヴァにもユダヤ人街が存在したそうだが、共産主義期の橋梁建設により消滅したらしい。
石畳の道と旧市街地の建造物群は、隣接するウィーンと似通っていた。
ウィーンとの相違点を上げるとすれば、こちらには共産政権時代に建設されたと思しき画一的な集合住宅群が存在する点であろうか。ゴシック様式のミハエル門からモダニズム風公共施設、共産圏らしい団地、現代的な高層オフィスビルに至るまで、さまざまな時代の建築物はこの国の持つ歴史の重層を雄弁に物語っている。
ひとしきり市街地を歩いたあと、小高い丘の上のブラチスラヴァ城を目指す。テーブルをひっくり返したような形で、つるんとした白い外壁は質素だが、シンボリックでもある。西洋風城砦を見るとインターチェンジ沿いのラブホテルをまっさきに思い浮かべてしまうのは、郊外育ちの悲しい性なのかもしれない。こじんまりとした城内の庭園でたたずんでいると、目鼻立ちのくっきりした背の高いブロンドヘアのスラブ系の女性グループに声をかけられ、写真を撮ってくれないかと頼まれた。なにぶん内向的な人間なので、一人旅のあいだは極端にコミュニケーションの回数が減ってしまう。そのぶん内省が捗るのだが……話しかけられたのがなんとなく嬉しくて、つい2回シャッターを押してしまう。
バスターミナルに移動し、ウィーンへ戻る便を待つ。3時間のブラチスラヴァ滞在。一刻の首都とは思えないほど市街地がコンパクトであるため、観光情報サイトに掲載されているような見所はあらかた抑えることができた。とはいえ、刺激的な体験をしたわけではない。せいぜいが都市の表層に触れた程度だろう。高名な名誉教授の講演を聞きに行ったら、ありきたりな雑談に終始していたときのような、安堵と感動と少しばかりの物足りなさが入り混じった感覚を抱いた。それでも、特段思い入れのなかったブラチスラヴァという音の響きが以前に比べどこか温和に、親しげに感じられるようになった……気がする。
多くも少なくもない残り時間。旅をするなら、名前しか知らない街を訪ねたい。そう思った。
中央防波堤~東京最後のフロンティアを歩く
東京湾の埋め立てによってその領域を拡大し続けた江戸・東京。数ある埋立地のうち、お台場に代表される臨海副都心や豊洲にはショッピングモールやタワーマンションが立ち並び、休日にはそれなりの賑わいを見せている。
一方で、東京湾上には道路や廃棄物処理施設などのみが立地し、工事関係者以外がほとんど立ち入ることのない埋立地が存在する。
「中央防波堤」。
内側埋立処分場(1973年埋立開始)と外側埋立処分場(1977年埋立開始)からなるエリアを指す名称である。エリア内には商業施設はおろか公園、トイレも存在しない。むろん居住人口は0人である。
中央防波堤は島外との唯一のアクセス路である自動車専用の「第二航路トンネル」によって臨海副都心方面と結ばれており、歩行者が到達することはできない。公共交通機関で訪れる場合、りんかい線東京テレポート駅やゆりかもめテレコムセンター駅から中央防波堤停留所まで向かうバス路線を利用する必要がある。
大型連休最終日の昼下がり、そんな陸の孤島、いや、海上の埋立地だからたんに孤島と呼ぶべきだろうかーに行ってきた。
お台場エリアの最寄り駅の一つである東京テレポート駅からバスに揺られること12分程度。祝日ということもあってか、私たち以外に乗車したのは軽装の中年男性のみ。
テレコムセンターを過ぎたあたり(下黄色円内)からは観光客が立ち入らない、東京の物流を支える無機質な倉庫群や流通施設が続く。乗車し始めてから10分程度でトンネルを通過する。
内側処分場上の終着地、中央防波堤停留所で降りる。近辺には清掃工場や廃棄物処理施設が立地し、歩行者の気配はまったく見えない。リサイクル工場の敷地内に並ぶプレスされたペットボトルの塊は、廃材アートのような趣がある。
いちおう歩道は整備されているものの、歩行者用信号はエリア内に1箇所しか確認できなかった。完全に自動車交通がメイン。
歩道はさほど管理されていないのか、ところどころ雑草が伸び放題になっており、生命力の強さを感じさせる。
ふと上空を見上げると、羽田空港への着陸態勢を取る飛行機がゆっくりと降下していく。体感では3分に1本くらいのペースで飛行機が通過しており、東京の空の変換口のダイヤの過密さがうかがえた。飛行機ファンにとっては格好の撮影スポットなのではないだろうか。
それにしても空が広い。
江東区と大田区が帰属を主張しているものの、いまだにどこの区に属するかは確定していないようだ。東京最後のフロンティア。
東京都内(離島部を除く)に3基しか存在しない風力発電用の風車のうち、2基がここ中央防波堤に存在する。関係者以外の歩行者が移動可能なエリアは制限されており、風車の周辺までアプローチすることはできない。
中央防波堤では、2020年の東京五輪のカヌー・ボート会場として「海の森公園」が建設されている。ゴミと建設発生土で埋められた島に作られる海の森。どことなくロマンチックな名称は、殺人事件の現場としても名を馳せた夢の島のように誇大にも滑稽にも思われる。公共交通アクセスも極端に悪く、五輪終了後は人も疎らな負の遺産として残されるのではないか。
外側埋立地では現在進行系で埋め立てが行われており、内部に歩行者が立ち入ることはできない。現在では国際海上コンテナターミナルの整備が進められている。
バス停への道を引き返す。
約30分の散策の道中、歩行者とすれ違うことはなく、工事関係者と思しき大型トラックの運転手からは怪訝な目を向けられた。現在の中央防波堤は、都市博開催が決定した頃のお台場や豊洲市場建設段階の市場前駅周辺にも匹敵するような巨大な無なのではないだろうか。
お台場の商業空間を支配する記号の過剰や喧騒、茶番臭さに吐き気を催したときは、ぜひ中央防波堤まで足を伸ばしてほしい。新しいトーキョーの原風景がここにある*1。
*1:見学を申し込めばもっといろいろ見られるそうです
2018あの街この街3 雨の尾道
2018年に初めて訪れた街のうち、印象深かったものを数回に分けて取り上げる。
今回は、瀬戸内の坂の街。
初めて訪れた街の印象は、天候で決まる。広島県内に大雨警報が発令され、市内で開催される予定だったポルノグラフィティの野外ライブが中止された日に、尾道を訪れた。
駅を降り、山側をうかがう。近くに見える天守閣は、戦後に建てられた観光用の建築物、「尾道城」。現在は廃墟らしい。
アーケードの尾道本通り商店街をゆく。
路地から山側を望めば、ひしめき合う家々を目にすることができる。
麻雀牌と花札のイラストがすき
千光寺公園を目指す。
階段、踏切、傘
上を見ても下を見てもエモい
天寧寺三重塔の上から眼下を見渡す。思わず「アッ、尾道!」と叫びたくなる。
千光寺へ。
千光寺公園頂上展望台から対岸の向島を望む。尾道水道は川のように狭い。
尾道を舞台にした作品は数多い。中でも映画『東京物語』とアニメ『かみちゅ!』における尾道描写は旅情を掻き立ててくれる。新アニメ『ソラとウミのアイダ』は、それらに並ぶような作品となるのだろうか……
ロープウェイで再び市街地へと下る。
「趣味の小さな博物館」という名に惹かれたものの、どうやら閉館してしまったらしい。館長のコレクションを展示する知る人ぞ知る観光名所だったとのことで、惜しまれる。
無心になって写真に撮りまくっていると、濡れた石段に足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
高低差にくわえ、路地空間の豊かさも目を楽しませてくれる。
細い尾道水道を挟んだ向島へとフェリーで渡る。5分間隔で運行される住民の足。
この平穏な島は、今年4月、一躍有名となった。松山刑務所から脱走した平尾龍磨がこの島に潜伏している可能性が高いとされたのである。取材班が押しかけ、数百人体制での捜索が行われた。警察を煙に巻いた平尾は最終的に、広島市内で確保される。
駅側へと戻る。家々の密集度合い、質感が尾道らしい。
石段、坂、海。数歩で劇的に変化する景色。ふらふらとさまよいながら、必死になって自分だけのアングルを見つけたくなってしまう。低く垂れ込めた曇り空は、この街の狭さと妙にマッチしていた。
2018あの街この街2 阿波川島〜エル・カンターレを生んだ町
2018年に初めて訪れた街のうち、印象深かったものを数回に分けて取り上げる。
徳島駅から徳島線の特急に揺られること20分。のどかな山間の駅で下車する。
駅周辺にはそれなりに人家があるものの、商店らしい商店はほぼ見当たらない。そんな何の変哲もないこの町は、不世出のスターを輩出した。大川隆法。エル・カンターレこと、幸福の科学の創始者だ。大川は誕生から高校時代までをこの町で過ごしたのである。彼の生誕を記念した巨大建築物が、徳島の片田舎に存在するらしい―ネットで情報を仕入れた私は、四国旅行の行程に急遽「聖地」阿波川島への訪問を組み込んだ。
「四国三郎」の名で知られる吉野川沿いに形成された町。どこにでもありそうな家並みが続く。
道中、家々に貼られている政党ポスターの多くが、幸福実現党のものであることに気づかされる。
山間に向かう長い坂を登ること約20分。ダラダラと代わり映えしない風景にやや飽きてきた頃合い。周囲の田園風景とは不釣り合いな真新しい建造物が目に飛び込んできた。
「聖地エル・カンターレ生誕館」。2016年11月20日に落慶したばかりの建造物であり、「魂の新生の地であり、救いと許しの場所*1」である。
真ん中に立つとテレポートできそう
PL教本部をはじめ、信徒以外の立ち入りを禁ずる新宗教の建造物は少なくないが、ここ生誕館は誰でも立ち入り可能である。
左の大きな建物が礼拝堂
内部は撮影禁止であるため、以下の記述は記憶に依拠している。実際の空間配置は異なる点もあるだろうが、了承いただきたい。
入ってすぐのところに受付。受付の奥にはちょっとしたミュージアムショップ。大川の著作やキーホルダーやお守りなど、土産として買うには高すぎる幸福の科学関連のグッズが販売されている。また、隣接するスペースでは大川本人が幼少期に用いた机、鉛筆なども展示されている。
法話などが行われる研修用の部屋を横目に廊下を進むと、礼拝堂に到る。廊下の途中には寄付を呼びかける文言が貼り出され、寄付用の封筒が設置されていた。礼拝堂には300ほどの椅子が設置されており、講堂を彷彿とさせる。
礼拝堂前方には「7.77mの大エル・カンターレ像*2」が設置されており、その威容に驚かされるが、成金趣味といったところで聖性はイマイチ伝わってこない。午前8時ころに訪問したこともあってか、広い礼拝堂には信徒とおぼしき男性5人が礼拝しているほかには人影が見当たらず、静寂に包まれていた。観光客の姿は見えない。
礼拝堂の外に出ると、澄んだ空気に吉野川対岸の阿波市の山々が映えている。山向こうは香川県である。
礼拝堂から伸びる階段を下り振り返ると、やはりその佇まいに言葉を失ってしまう。披露宴なんかにも使えさそうだ。
ところで、生誕館のように、幸福の科学の精舎にはギリシャ風のモチーフが採用されている例が多い。しかし、成立してからさほど年月の経っていない宗教団体が、このように堂々たる面構えの建造物を建てることは非常に珍しい。建築評論家の五十嵐太郎によれば、「普通、教祖の存命中にすぐれた建築は完成*3」しない。これは、伝統宗教のみならず創価学会や霊友会といった新宗教にもあてはまる。草創期の宗教は信者数も少ないうえ、圧倒的なカリスマ性を持つ開祖が君臨している以上、壮大な建築物によって宗教的権威を誇示する必要性が薄いのである。ではなぜ、幸福の科学は精舎においてギリシャ風巨大建築を採用しているのだろうか?
大川はギリシャ神話に登場するヘルメスの生まれ変わりだと自称している点や、巨大建築の視覚への訴求力はその要因たりうるだろう。しかし、幸福の科学の広報戦略と関連が深そうである。大川はこれまでに説法や著作を通じて信者を拡大している。とにもかくにもその著作は売れに売れ、毎年のように年間売上20位以内のベストセラーにランクインしており、そのカリスマ性は否定できないだろう。ただ、何より幸福の科学が世間の耳目を集め、信者の心をつかむ理由は、大川が古今東西のありとあらゆる著名人―釈迦やアリストテレスからブルース・リーや本田圭佑まで―を降霊させることでインパクトのある「霊言」を語ることにある。大川の著作の多くは「霊言本」であり、その中身は教団や大川に好都合な記述で埋められている。大川はいうなれば他者の権威を借りる形で、自らの正当性をアピールしているのである。
同様の現象は建築にも当てはまる。すなわち、幸福の科学がわざわざ各種施設の設計にあたり古代ギリシアの建築様式を採用する背景には、伝統や格式を想起させることで宗教団体としての権威を印象づけることにあるのだ。教団が次々とキッチュな擬古典建造物を生み出す背景には、ギリシア建築に付随する聖のイメージを借りるという意図が存在するといえよう。
もっとも、ギリシャ風味の新宗教建築は幸福の科学の専売特許ではない。東京駒込の天心聖教本部聖堂は、パルテノン神殿を明確に意識したつくりとなっている。
閑話休題。駅に戻る。
空地に「仕事のコツ」などと題された掲示があり、歩くだけで教義に触れることができる親切設計。
駅のそばで、往路では見落としていた目を引く建物を発見する。
掲示に目を向けると、「聖地・川島特別支部」とある。生誕館より古く、2003年より存在する精舎である。生誕館が建つ以前は、信徒はこちらに聖地巡礼していたのであろうか。
近隣には、地域住民と教団の対立を示唆するような看板がかかっていた。
そんなこんなで不可思議な建築を目にしたせいでせいで妙にスケール感が狂ってしまい、気持ちの整理もつかないまま阿波川島を後にすることになった。生誕館は徳島県の新たな観光名所となるのだろうか。はたまた、平穏そうなこの町に軋轢を生むのだろうか。少なくとも、阿波川島が天理のように宗教都市として名を馳せる日はすぐには訪れそうもない。教団とこの町の今後の動向に注目したい。
カッスカス標語
2018あの街この街1 西四国編
2018年に初めて訪れた街のうち、印象深かったものを数回に分けて取り上げる。
タオルで名高い愛媛第2の都市。今年世間を大いに賑わせた加計学園岡山理科大学獣医学部(今治キャンパス)が立地する。
駅から私道のような細道を抜け、延々と続く坂を登ること徒歩40分、訪問時点では開校直前だった今治キャンパスに到着した。
今治出身の知人に尋ねたところ、キャンパス前の真新しいOUSのロゴは地方都市には珍しいちょっとしたインスタ映えスポットとして有名らしい。「OUS前」で自撮りする女子高生の姿も見られるようだ。
そんな今治の象徴とも言えるのが、今治ラヂウム温泉。1919年建築の国登録有形文化財であり2014年まで入浴施設として営業していたようだ。戦災を免れたレトロモダンな佇まいと、「ゆ」の文字のギャップがなんだか可笑しい。
赤線跡の廃スナックビル「15番街」。
しまなみ海道の開通によってフェリー需要が減少しつつある今治港周辺には、やたらと猫が多い。
かの夏目漱石が『坊っちゃん』において、「温泉だけは立派なものだ」と評した松山の街。名湯・道後温泉は松山の市街地から市電でアクセス可能。どっしりとした和風建築の道後温泉本館は街のシンボルで、中国人観光客の姿も多い。
本館やホテル群の裏手の一角には、10前後のソープランドが位置する。熱海や別府にも見られるような、典型的な温泉風俗である。表通りの賑わいとは売ってかわって静かな一帯には、客引きの空元気な声が響く。
怒られが発生しそうな店名をいくつか見かけた。
昨年訪れたすすきのの無料案内所を彷彿とさせる。
伊予の小京都とも称される、小さな城下町。
城を望む
昭和30年代をイメージしたレトロな商店街「ポコペン横丁」には、日曜日限定で昔遊びを体験できるコーナーがあり、高度経済成長期の情景を再現した空間も設けられている。昭和ノスタルジーの押し売りというか、いささか興醒めといった感もなくはない。
ポコペン横丁
「横丁」周囲のシャッターを下ろした店舗群のほうが、雄弁に過ぎ去った時間の重みや町の記憶を物語っているような気がした。
スナック横丁「栄小路」。地方都市にあって、スナックは地域住民たちの稀少なコミュニケーションの場であり、地域コミュニティを保つ上で重要な役割を持ちうる。
そんな大洲には名建築が存在する。「臥龍山荘」。明治期に別荘として建てられ、背後を流れる肱川と調和した、数寄屋建築の傑作である。小京都の名にふさわしい落ち着いた佇まいに心洗われる思いがする。
月と雲の見立てらしい
7月の西日本豪雨で肱川は氾濫し、町の一部は浸水被害を受けた。自然の恐怖と麗しさは表裏一体であることを思い知らされた。
高知県南西部の港町。
須崎駅前はあまり活気がない。中心市街地は隣駅の大間駅周辺らしい。
リアス式海岸の須崎港周辺はどこか三陸海岸の港町を彷彿とさせる。1960年のチリ地震発生時、1mを超す津波が到達したことを伝える碑が残されていた。
「荘」の字が2つもついてて、なんだか嬉しくなってしまった。
ロードサイド型店舗に客足を奪われた須崎駅からほど近い商店街にあって、古商家をリノベーションした「すさきまちかどギャラリー」はアートインキュベーションの舞台としての可能性を感じさせた。
Girls
ニホンカワウソをモチーフにした「しんじょう君」はここ須崎のゆるキャラ。
城山から見下ろす市街地。この質感というか、コンパクトさがどことなく三陸っぽい。
猫もいる。
何屋だったんだろう。