蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

退職代行は時代の賜物

退職代行で辞めていった人を前の会社で見たことがある。GW明けのことだったように記憶している。

退職代行は便利だけど、使われた側からすると寂しいというか、やるせないものがある。それは、そのとき辞めていった人が、休み前に特段大きな問題を抱えていないように見えたせいかもしれない。

社内で徹底的にいじめられていたり、際立った問題を露呈していたりしたら退職代行を使われるのもしょうがないよなぁと思えるけれど、当時の私がはたから見ていて、パワハラもなかったし(そういったハラスメントには敏感な会社だったので特に気を付けていた側面があった)、全然仕事ができないようにも見えなかった。だいいち、新人なら仕事はできなくて当たり前だし、こちらも期待していないのでできなかったとして問題ない。

彼の望む部署への配属だったのでこちらとしては万全だったのだが、なにか会社の性質が彼の気質にそぐわなかったのかもしれない。あるいは誰も見ていないところで、誰かに何かを言われたのかもしれない。

お金を払ってまで退職代行を使うメリットは、会社とトラブルがある場合には会社の人と会わなくてもいいというメリットがあるが、トラブルがない場合のメリットとしては引き留めの面倒を受けなくてよいところにあるだろう。逆に、それ以外のメリットはないのではないか。

次の就職先を決めてから辞める報告をすると引き留めもないので、あまりお金を使いたくないならそれをお勧めする(新卒は金もないだろうし)。無職の期間はなるべくないほうがいいだろう。とくに最初のうちは。

 

「思っていたのと違った」とか「説明会で受けた話と違っていた」という退職理由もあるみたいだ。

説明会で嘘をつくような会社や、社員との約束を反故にする会社は、きっと顧客の信用もなくなるだろうから、ただちに辞めたほうがいい。潰れるのも時間の問題だ。

でも退職者の中には本当のところは自身の「能力」が「思っていたのと違った」という人もいるだろう。「私は思っていたよりも無能だったが、それをカバーする会社の仕組みが伴っていない。これは会社が悪い」というように、会社の責任に転嫁している弱者もいるはずだ。

こういった人は、どの会社に行っても救いようがないので、会社としてはすぐに辞めてもらえてラッキーだったと思うほかない。これにおいて退職代行を使うとまでなると誠実さにも欠けているため、人間性が終了している。価値がない。

そのような人間が、退職代行を使って逃げてる時点で……。

私たちは大いなる慈悲でもって祈るほかない。

どうかその人の心がこれ以上捻じれずに、誰にも牙をむかずに静かに余生を過ごしますように。身の丈に合った職に就き、身の丈に合った幸せを享受し、身の丈に合ったプライドを大切にできますように。

すべてを赦すことはできるのか

良漫画が苦手だ。

どれだけ大義を掲げていようが、根は優しい奴だろうが、でも不良なんですけどね……と思ってしまう。

ちょい悪いほうが格好良いということはなくて、誠実で、嘘をつかず、与えられた仕事は真面目にこなしているほうが好感が持てる。そういう人種の中にも面白い人間はいる。

ジョジョの5部の主人公はマフィアだ。5部は好きだけど、最初はやっぱり「不良かぁ……」というところが気に掛かった。

まぁ、3部も4部も不良みたいなところはあるけど、不良でありながら紳士だから大丈夫。その理論で、5部も大丈夫だった。

6部の主人公もまぁまぁ不良だし、明確に前科があるのでどうしようという感じだけど、大丈夫だった。

ジョジョは例外的に大丈夫なのかもしれない。早速一貫性のない主張になってしまった。

 

東リベは序盤だけ読んでやめてしまった。主人公が不良だったからだ。仲間たちも不良だった。

不良の恋人なんて、ろくなことはないだろう、という先入観もあり、物語の序盤からまったく入り込めなかった。

不良なら何をどうされたって仕方がない。そのような断罪の気持ちで読んでいたので、まったく響かなかった。

我ながらフィクションをフィクションであると受け取れていないなと思う。

 

悪いことをした人は、どんなに良いことをしても、もう更生の機会はないのだろうか?そこからの人生は罪を償うだけの、罪滅ぼしの余生となるのだろうか?

悪いことをした人には、どんな仕打ちをしてもいい、という考えはよくない。その心こそが本質的な悪であると思う。

とはわかっているものの不良キャラをなんだか好きになれないのは、「でもこいつのせいで誰か傷付いてるよね……」の気持ちが拭いきれないからだ。

 

一度悪いことをした人がどれだけ反省して罪滅ぼしをして更生したとしてもその人を赦せないという気持ちは、極端だけど、太平洋戦争に負けて歴史上「世界の悪」となり、その後世界有数の経済大国となって途上国に経済支援を行っている日本人は、誰一人として持ってはならない感情なのではないかとも思う。

これもまた極端だけど、人間とは多面性の生き物だから、誰しも悪の側面を持っている。結局悪人に石を投げられるような人間は本来的には1人もいなくて、ただみんな自分の多面性の一面から目を背けているだけなのだとも思う。

 

更生した人にはちゃんとそれとして評価したいし、その陰で真面目にやってきた人にはもっともっと褒めてあげたい。

不良漫画については、序盤で「この不良はかなり更生します。介護士になって地域の老人に慕われます」などと書いておいてほしい。

更生しない不良には価値がないので……。

 

 

料理のコツはいかに洗い物を減らすか

理のコツってなんですか、と問われたら、いかに洗い物を減らすかに尽きる、と答えるつもりだ。

洗い物は料理の敵だ。

洗い物があるんだよな、という気持ちが料理への腰を重くし、憂鬱にさせる。

洗い物をまったくしなくていいのなら、いくらでもどれだけでも料理は楽しくなるはずだ。洗い物なんてなくなればいい。

でもそんなことはあり得ないので、とにかく汚れたものは洗い、キッチンは常に清潔を保たねばならない。

 

洗い物を減らすということは、たとえば、菜箸を洗わずに使い回すとか、まな板を使わなくても切れるものはまな板を使わないとか、溶き卵は空になったキムチや肉の入れ物の中で作ってしまうとか、そういった貧乏性的なことを指す。

道具をなるべく使い回すとなると料理の工程の先を見通さねばならないので、結果として効率的に動くことにつながる。調味料を量る大さじ小さじは、砂糖や小麦粉など粉物から先に使い、醤油など液体はそのあとで使う、といったように。液体から使うと、砂糖をすくうときによくないことが起こる。

生肉を切ったまな板で野菜を切るのはちょっと……という人もいるだろうが、その肉と野菜が同じ料理となり、しかも火を通すのであれば関係ないので心配しなくていい。ただし、別の料理で、しかも火を通さないのならば洗うほかないだろう。洗うのが嫌なら作らないというのも選択肢のひとつだ。

溶き卵を肉の入れ物で作る、というのも同様で、火を通してしまえば関係なくなる。それに、入れ物に残った汁なんかも効率的に回収できるため無駄がなく経済だ。

洗い物を減らすということは、無駄を減らすということでもあるのだ。

 

炒め物をしているときに、もろもろ洗ってしまう。炒め物は別に火から離れても作れる。実は。放置してても焦げさえしなければいいのである。

おすすめしないが、一旦火を止めてもいい。

火を止めると時間効率を図れない場合は弱火とかにしておけばいい。

レシピに「強火で!」と書いてあっても、弱火でいい。洗い物が終わったら強火にしておけば大丈夫。

煮物作るの好きなんだよな〜!

洗い物が捗るから!

煮物は時間がかかるから、余裕を持って洗い物ができる。

もはや私は、料理をするためではなく、洗い物をするために料理をしている。

 

効率的に動いて短時間になる、無駄を減らす、労力を減らす、という3つをクリアするのが「洗い物を減らす」によって達成される。

あとは味付けとかもろもろ頑張ればいい。

料理が終わった時点で洗い物はフライパンと菜箸だけ、くらいの状態が理想だ。

シンクに洗い物が溜まるさまを見ていられない。いつ洗うの?を考えると憂鬱になる。

調理台が汚れたらすぐに拭いて清潔に保たないと、料理にまで汚れが及びそうな気がする。

食べるときにタスクは残したくない。

しかしながらまぁ、こんなことは理想論だ。

もちろんうまくいかないときだってある。生きていれば失敗ばかりだ。

ただ私たちは、理想を追求するその姿勢こそが、生きる美しさであるということを、知っている。

暇眠

月末まできわめて多忙だったのに、4月に入ってからとんと仕事が落ち着いてしまって、今月の月残業は3時間未満だった。

私はこれまで何をやっていたのだろうと言いたくなるくらい、手持ちの仕事がない。

仕事が無いわけではない。先々の予定は埋まりつつある。

ただ、さまざまな運が重なって、現状私の手持ちの仕事がないのだ。

スケジュールが先方の都合で後ろ倒しになったり、思いのほか進行が速くてさっさと終わってしまったり、仕事相手からボールの戻りが遅かったりして、私が手を動かせることが無く、とにかく時間がたくさんある。

先回りしてやっておくような仕事もすべて終わらせてしまった。

干された?と一日のうちで3回考えてしまう。

悪いことが重なるように良いことが重なる。忙しい時期が重なるように、暇な時期も重なったのだろう。

 

ガチになれば1日で終わる仕事を5日かけてやっている。できるだけやることを希釈して、丁寧に回り道をして、それなりにこなす。

Wikipediaを読む時間が増えた。

今日は「インパール作戦」「國民の創生」「マッジ・オーベルホルツァー」などを読んだ。

この記事を書いた人はどういう人生を送ってきたのだろうなどと思いをはせる。マッジ・オーベルホルツァーというアメリカ人の女性について丹念に調べてWikipediaに書く人が、この世界にはいるのだ。

でもこの人も、私よりか暇ではないだろう。

 

同僚の仕事を手伝ったらどうか?という意見もある。

そんなこと百も承知。

当然手伝ったのだが、それもあっという間に終わってしまって、1日の時間を潰せない。

だいたい私たちの仕事はあまり人に任せられる類のものではないというのもあるし、会社としてはなるべく最近入った新人に仕事を回して教育したいので、私にまで下りてくる仕事は本当に味噌っかすみたいなものなのだ。

私は本当に干されているのかもしれない、と一日に3回は思う。

 

暇でしょうがない一日の最大の敵は睡魔だ。

関係者から送られてきた長大な文章を読むのは、すこしずつ自分の尊厳を失っていくようなつらさがあり(文章がとにかく下手で読むに堪えない)、文章の端っこから発想が飛躍して気を抜くとすぐに夢うつつの世界に迷い込んでしまう。

仕事中なので、眠るわけにはいかない。Wikipediaを読んだとしても、眠るのだけはよくない。

眠い眠い眠い。

ぬるくなったコーンポタージュを小さなスプーンでゆっくりかき回しているような眠気だ。

文字がぼんやりと浮かんだり沈んだりする。ときどき、体がこわばる。

 

5月も多分そんな感じ。

暇をつぶすのはつまらないけれど、忙しくて泡を吹きそうになっていた時に比べたら気持ちは楽だ。

いずれまた泡を吹きたくなるような日々になるだろうから、いまはこの退屈を享受しよう。

桃太郎の犬・猿・雉についての簡単な考察

太郎のツレといえば、犬・猿・雉だ。

私だったらもうちょっとマシな仲間にするが(管理会計ができたり楽器を演奏できたり多言語話者だといい)、でもまぁ、結果として鬼退治はできたわけだし、動物を連れてファンシーな絵面になっただろうから、良かったんじゃないかなと思う。

 

それにしても。

犬・猿・雉。

この並びに違和感を覚える。

犬、猿、と来たら「鳥」になるのが自然ではないだろうか?

犬とか猿という呼び方は種族、概念としての動物を示している。猫とか魚みたいに。

好きな乗り物はなんですか?という問いに対してクルマ、電車、ボーイング747、と答えてるみたいなもんだ。

だから本来は、「雉」ではなく「鳥」であるほうが犬猿に対してフェアだ。

それなのに「雉」とかいってさ。

雉っつーのは概念じゃなくて特定の具体例でしょうが。「科」のレベルでしょうが。

どうして雉だけ、鳥ではなく、具体例として示されたのだろう。

 

いろいろ考えた結果、ひとつの結論が導き出された。

結論👉『桃太郎』が成立した当時、犬も猿も特定の種まで分けて認識されていなかった。

 

犬といえば日本には柴犬とか土佐犬とか秋田犬とかいろいろいるけれど、『桃太郎』の成立した大昔は雑種の野良犬とかムク犬みたいに、そこら中にいる犬に対しては犬種を特定していなかったのではないだろうか。

血統書なんてない時代だ。

今のように人権を獲得しつつある犬はいなくて、犬といえば犬でしかなかった。

犬=そこらにいる犬だった。

猿はおそらく日本猿しかいなくて、チンパンジーとかオランウータンとかボノボは日本にいないので、猿といえば日本猿を指し、それ以上でもそれ以下でもなかったのだろう。

犬は犬。猿は猿。

 

では鳥はどうだったかというと、当時から多様性を重んじられていたと考えられる。

カラスとか鳩とか、メジロとかウグイスとか、ホトトギスとかトンビとか、知らないけど万葉集とか古事記にも出てくると考えられる。たぶん。

そういった多様性があったため、鳥、とだけにしてしまうと読者(聞き手)は「どの鳥?」と疑問を呈してしまう。

大きい鳥も小さい鳥もいる。スズメを仲間にするのとダチョウを仲間にするのとでは話も変わってくる。

そのような経緯があって「雉」と明記したものと考えられる。

 

では、どうして雉なのか?

それは知らないけども、雉って鍋にしたりご馳走の象徴なんですよね。たぶん。良い鳥ってイメージある。

「高貴」のイメージもある。

羽根は美しく、尾は長く凛として、高潔だ。

こういう時代に言うのも何だけど、ルッキズムです。見た目が良かったから、に尽きる。すみません。

だから、日本にクジャクがいたら、雉の座はクジャクになっていた。そのほうが明らかに盛り上がるから。

 

以上、桃太郎の仲間に関する簡単な考察でした。

いかがでしたか?(感想の強要)

現代版にするなら、犬と猿も具体的にしたほうがいいのか、それとも雉を鳥として、読み手が感情移入しやすいように抽象化したほうがいいのか。

そもそも、仲間の種類を特定してしまっているのがよろしくないという見解もある。

n、n+1、n+2くらいの表記にとどめておいたほうが親切ではないだろうか。

 

andymori解散から10年

andymoriがTikTokの女子高生に流行っているらしく、喜ばしいことだなと思っている。

好きなものが自分以外の誰かによって不当に消費されてしまうのは悔しいし、ノスタルジーが汚されるような感覚に陥るのもわかるけど、単純に、andymoriを好きな子が増えたら嬉しい。とっかかりはなんであれ、自分がそうであったように、聴き継がれていってほしい。音楽は再生(play)されるたびに再生(rebirth)される。

いつか自分よりも10コ年下の子に、andymori好きなんです、って言われたい。

その子も、私と同じように、10代をandymoriと共に過ごしていてほしい。

10代の時間を共に過ごした音楽は故郷の景色と強く結びついていて、その頃よく聴いた曲を今聴くと、故郷の街の風景とか、灯りとか、においまで、頭の奥のほうで明滅し始める。

「僕が白人だったら」とか「ゴールデンハンマー」とか「楽園」とか「ナツメグ」の話をしながら、いつまでも10代を思い出していたい。

 

andymoriが解散して今年で10年が経つ。

2014年の私はまったく冴えなくて、浪人して予備校に通い詰めていた。

2014年の思い出は、予備校の蛍光灯の眩しさと効き過ぎたエアコンの寒気と、andymoriの解散だけだ。

解散コンサートの日本武道館に行きたかったけど、チケットが秒速で売り切れて、転売の価格もすごいことになっていて、行けなかった。

動画配信がされていて、その日は勉強をせずに、スマホの前で固唾を飲んで見守っていた。

解散コンサートだったけど、悲しさよりも、なにか興奮が勝っていたと覚えている。ライブの間は繰り出される音の波に夢中だった。

ライブが終わったあと、バンド仲間とLINEをしたように思う。すごかったね、解散した気がしないね、と。

でも、終わっちゃったね、と。

 

あれから10年。

もう10年。

 

この10年の間を思い出すと、苦い思いもあるけれど、大学に入ったり、卒業したり、就職したり、結婚したり、転職したり、じつにさまざまなことがあった。

そして私はandymoriを聴き続けている。

andymoriを聴き続けて10年以上が経っている。

聴くたびに心の中にあるふるさとに帰る気がしていて、自分を取り戻すような感覚になる。

 

普通に邪悪な地球温暖化

ギリス・ロンドンを流れるテムズ川では毎年、大学対抗のボートレースが行われていて、優勝チームは川に飛び込む恒例行事があるのだけど、今年は飛び込み禁止になったらしい。

信じられないくらい汚染されているからだ。

川で吐いた学生もいたという。ふつうに、人糞が浮かんでいるらしい。ほとんど下水なのだ。

そんな川でオールをばしゃばしゃ漕いでどのチームが1番になれるかを競うなんて、やや滑稽ですらある。これにはブリティッシュ・ジョークもきかない。

どうしてこんなことになっているのか。

イギリスの下水法では、浄水施設の許容量を超える雨量の場合は、浄水せずに川に垂れ流してよいと決まっており、最近は例年の倍以上の雨が降ったため処理が追いつかなくなり、ロンドン市民のとんでもない量の汚染物質がテムズ川に放流されているのだ。

実際に大腸菌は命に関わるレベルで増殖していて、ひどいニオイで体調を崩す人もいるらしい。

菌は皮膚粘膜からも浸透するため、安易に手で触れるのも御法度だ。

そもそもテムズ川は汚い川として昔から有名だ。1850年代には悪臭により病気が蔓延したとも言われている。

 

それにしても、こんなひどい雨が降るのも、地球温暖化に端を発する異常気象のせいかもしれないと思うと、恐ろしい。

ドバイでも2年分の雨が1日に降ったりするし、日本の夏には集中豪雨で災害が起きるのが恒例になりつつある。

地球温暖化のせいで大量の雨が降り、それによってテムズ川を人糞が流れ、その水に触れた者のお腹を壊す。大規模なことが、ある民家のトイレにまで繋がって、一人のお腹をぶっ壊している。

こうなると地球温暖化は他人事ではない。

まぁまだ平気だろう、とたかを括っていたが、もう取り返しようのないところまで来てしまっている。

これが人間のせいなのかわからないし、どうにかできるのかもわからないけれど、なんか馬鹿にしたりするのはやめようと思う。

環境活動家が歴史的絵画にトマトスープを投げつける気持ちもわかる。でも私が真に地球を愛する環境活動家だったら、ただちに自身の呼吸を止めて絶命を図るだろう。もはや人間一人間引くのが、温暖化抑止には手っ取り早いと考えられるから。

私たちはこの星を汚染せずにはいられない。

 

クソみたいな天気(春なのに30度を超えるなど)になると「令和ちゃんはまだ天気のコントロールに慣れてない!」みたいなネタがあるけど、この期に及んでまだそういうことを言うやつがいたら、そいつに向かってトマトスープを投げつけようと思う。

現実逃避してる場合か?と。

お前の言う令和ちゃんの正体は、ただひたすらに邪悪な、地球温暖化なんだぞ、と。