幻の押井守企画作品『フルムーン伝説 インドラ』がTwitterで話題になっているのを見かけたので、便乗して持ち物自慢。
パイロットフィルムのセル画。張り付きなし。オークションに「作品名不明」として出品されていたもの。没になった企画ではあるものの、この作品のことは『アニメージュ』の記事で見て知っていたので、貴重なセル画だなと思って落札した。1500円でした。
破れてます。
幻の押井守企画作品『フルムーン伝説 インドラ』がTwitterで話題になっているのを見かけたので、便乗して持ち物自慢。
パイロットフィルムのセル画。張り付きなし。オークションに「作品名不明」として出品されていたもの。没になった企画ではあるものの、この作品のことは『アニメージュ』の記事で見て知っていたので、貴重なセル画だなと思って落札した。1500円でした。
破れてます。
「ゴールデンウィークだから出かけたい。でも人混みは嫌だ」「じゃあ人が少なそうな観光スポットに行けばいいじゃない!」ということで、浜岡原子力発電所の横にある浜岡原子力館に行ってみた。期待通り、人はまばらだった。
そしたら、施設内のシアターで『ゲゲゲの鬼太郎 河童のテラフォーミング』というプラネタリウム用の短編を上映していた。「原発で鬼太郎の映画ってミスマッチすぎない!?」とか「なぜ河童!?」とか思いながら、せっかくなので観てみた。
映画の主張としては、火星に送り出す宇宙飛行士には河童が最適なのだという。なぜなら、宇宙の長旅は人間には苦痛だが、身体を「脱水」させられる河童なら、休眠している間に目的地に着く。そして、火星到着後に水を浴びて身体を戻せばよい、という理屈。「脱水」する身体を宇宙生活に活用する発想が『三体』みたい!と思ったが、影響受けてるのかな。
それで、JAXAの宇宙飛行士候補として、河童のカー助をねずみ男が発掘。カー助は、容貌にコンプレックスがあり、片思いの恋で悩んでいるのだが、宇宙飛行士になればモテるとそそのかされる。
で、さまざまな訓練を受けるのだが、とある誤解が元で「宇宙飛行士がモテるって言っても、結局は、ただしイケメンに限る、なんだろ!」とキレて暴れ出す。すると、河童の美少女ジョセフィーヌが「いやいや、別に容姿だけで判断しないから…」というルッキズム批判的な話をして、冷静さを取り戻したカー助は宇宙に旅立つ。
大傑作とかではないが、河童と宇宙の組み合わせに意外性があり、「今より宇宙開発が進んだ未来がちょっと楽しみだな」という気分にもなったので、観て良かった。たまにはこんな映画も悪くない。
絵コンテ・監督は四分一節子さん、制作協力マジックバス。
「昔のレンタルビデオ屋で知らないアニメビデオに出くわしたら、体感的に8割はマジックバス作品(四分一節子 or 出崎哲)」という感じだったのを思い出して、「久しぶりに出くわしたな、マジックバスの知らないアニメに……!」と思いながらシアターを後にした。
前期、マジアアズール(主人公の敵)のエロいシーンを期待して観続けたと言っても過言ではない『魔法少女にあこがれて』(以下『まほあこ』)ですが、その第7話。過去の場面で、幼少時の主人公がアニメを観る描写があった。
その劇中アニメでは、怪物から逃げる人たちの姿と動きが、リピートする省力的な作画で描かれ、「昔のアニメ」であることが強調されていた。
それで思い出したのは、90年代に観た『機動戦艦ナデシコ』第3話の劇中アニメ『ゲキ・ガンガー3』と、さらにさかのぼって『新・天地無用!』第11話の劇中アニメ『宇宙警察ポリスマン』でも「昔っぽさ」の演出として似た見せ方が用いられていたことだ。
(この2つは大畑清隆さんの絵コンテ・演出回)
Twitterでも同じものを連想したという感想をいくつか見かけた。ただ、確かに似てはいるのだけど、自分にとっては大きく違うのである。どこが違うのか。
画像を見れば分かるように、『ゲキ・ガンガー3』『宇宙警察ポリスマン』では逃げる一人ひとりに関して、顔の向きや腕の位置などを少しずつ変える芸の細かさがあるのだが、『まほあこ』では同じポーズのコピペが並んでいるのだ。
そのため、初見時には「いくら昔のアニメだからって、これはさすがに無いのでは……」と呆れてしまった。
構図は違うが、『鉄腕アトム』(1963)の第1話にも逃げる群衆をリピートで表現したシーンがあったけど、その時代ですら、露骨な手抜きに感じさせないような工夫はあった。あとはなんだろう、『こどものおもちゃ』第90話の巨大ヒーロー物パロディ回で逃げる人たちの姿も、やはり全員が同じポーズではなかった(断片的なアニメ知識)。
ただ一方で、僕も「昔のアニメ」に詳しくはないので、ちょっと調べてみるか……と、手探りで「人が逃げていそうな場面」を探してみた。その結果、『まほあこ』に似た表現を、とりあえず1つ見つけることができたのである。(探せばもっとあるかも)
『超合体魔術ロボ ギンガイザー』(1977)第25話。
完全に同じポーズの人が並んでいる……!!
こうして『まほあこ』劇中アニメの第一印象「昔とはいえ、いくらなんでもこれは無いだろう」は覆されたのだった。
以上、まとめると、マジアアズール(主人公の敵)のエロいシーンを期待して『魔法少女にあこがれて』を観続けた結果、意外にも新たな学びを得た、というお話でした。
アニメに関する文章を書く時に、今まで僕も使ってきた言葉、「絵コンテマン」「原画マン」「動画マン」「レイアウトマン」。ふと意識してみると、「man=男」なので、日本が男性中心社会をやめる方向にかじを切る今、このまま使い続けて良い言葉なのだろうかと気になりだした。
アニメ以外の世界だと、「営業マン」「カメラマン」「テレビマン」「サービスマン」といった言葉は、今どういう扱いになってるのだろうか。それらは、昔は主に男性が就く職業だったから「~マン」で通用したのだろうけど、今は女性の割合も増えているだろうし。……と、気になって検索してみたら、問題意識を持って「カメラマンではなく、フォトグラファーを名乗る」とかいろんな動きはあるようだ。
とはいえ、「アニメ業界には昔から働く女性が大勢いて、その時代から「~マン」という言い方をしていた歴史を踏まえると、例えば「営業マン」ほどには男性を連想させる言葉という印象は受けない」「アニメ用語の「~マン」は男女問わず「人」を表す言葉に感じられる」という実感が今のところ僕にはある。
あるのだけども、それは自分が古いアニメファンだからそう感じるだけで、まっさらな状態で目にしたら、「原画マン」も「営業マン」とかと同じ古めかしさで「男性も女性もいるのに、今どき「マン」!?」って印象を受けるだろうな~と思った。なので、(他人の使う言葉に目くじら立てるまではしないけど、)僕は別の書き方に変えていこうかな~と思ったのでした。
この記事を読んで、押井守監督のレイアウト集の話が気になった。
私の作品でも『攻殻(攻殻機動隊)』あたりはほぼなくなっているし、『パトレイバー(機動警察パトレイバー)』なんてもう影も形もない。個人的にどうしても保存したくて出版社を口説き落として出してもらったレイアウト集があるだけ。
この「レイアウト集」は、『METHODS 押井守「パトレイバー2」演出ノート』のことかと思うのだけど(※違ったらすみません)、同書あとがきの押井さんの言葉を読み返すと、出版の経緯に関して違うことが書いてある。
昨今のメディアミックスやらマルチメディアやらの風潮で、資料集やムック本の類いは数多く出版されるようになりましたが、いずれも現場で作業する人間の目には不満の多いもので、いつか自分で手掛けてみたいと思いつづけていたところ、無謀にも本格的な資料集を出版したいという申し出があり、一も二もなく飛びついた結果出来上がったのが本書という訳です。
「個人的にどうしても保存したくて出版社を口説き落として出してもらった」と「無謀にも本格的な資料集を出版したいという申し出があり、一も二もなく飛びついた」では、かなり違った印象を受ける。実際のところは知らないけれど、もしかしたら、出版の申し出を受けたあとに、「資料集」から「レイアウト集」という方向に持っていくために出版社を口説き落とす場面があったのかな、と読みながら想像した。
作品や制作素材が残らず、消えていくのはつらいというWEB記事での主張には共感するし、押井守監督の言うように作画やアニメーターももっと評価されてほしいとも思う。それと同じように、「無謀にも本格的な資料集を出版したいという申し出」をした人の存在だって忘れてはいけないと思う。あのWEB記事を読んだだけだと、そういう存在は見えづらいと思ったので、ちょっと気になってこのブログ記事を書いた。ちなみに、『METHODS』の押井さんのあとがきには、編集者の野崎透さんへの謝辞が書かれている。