開けて悔しき玉手箱のブログ

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一件の大きな事故・災害の裏には、29件の軽微な事故・災害、そして300件のヒヤリ・ハット(事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例)があるとされる。重大災害の防止のためには、事故や災害の発生が予測されたヒヤリ・ハットの段階で対処していくことが必要である。ハインリッヒの法則(ハインリッヒのほうそく、Heinrich's law)は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在するというもの。「ハインリッヒの

ハインリッヒの法則

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ハインリッヒの法則(ハインリッヒのほうそく、Heinrich's law)は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在するというもの。「ハインリッヒの災害トライアングル定理」または「傷害四角錐」とも呼ばれる。

概要

一件の大きな事故・災害の裏には、29件の軽微な事故・災害、そして300件のヒヤリ・ハット(事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例)があるとされる。重大災害の防止のためには、事故や災害の発生が予測されたヒヤリ・ハットの段階で対処していくことが必要である。危険予知訓練なども参照のこと。
一件の大きな事故・災害の裏には、29件の軽微な事故・災害、そして300件のヒヤリ・ハット(事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例)があるとされる。重大災害の防止のためには、事故や災害の発生が予測されたヒヤリ・ハットの段階で対処していくことが必要である。危険予知訓練なども参照のこと。

法則名はこの法則を導き出したハーバート・ウィリアム・ハインリッヒに由来している。彼がアメリカの損害保険会社にて技術・調査部の副部長をしていた1929年11月19日に出版された論文 が法則の初出である。

傷害を伴った災害を調べると,傷害は伴わないが類似した災害が多数発見されることがよくある。潜在的有傷災害の頻度に関するデータから,同じ人間の起こした同じ種類の330件の災害のうち,300件は無傷で,29件は軽い傷害を伴い,1件は報告を要する重い傷害を伴っていることが判明した。このことは5000件以上について調べた研究により追認されている。
重い傷害とは保険業者や(米国の)州の補償委員に報告されたものをいい,
軽い傷害とは応急手当だけですむ擦り傷や打撲等をいう。
傷害を伴わない災害とは,人間や物資,光線などの移動(スリップ,転倒,飛来,吸入等)を伴う計画外の事象で,傷害や物の損害の可能性があるものをいう。
報告のある傷害(重い傷害)のうちの大多数は死亡事故や手足を切断したような大事故ではない。全部が休業を伴うものでもなく,補償金の支払いを必要とするものでもない。
傷害を伴うにせよ伴わないにせよ,すべての災害の下には,おそらく数千に達すると思われるだけの不安全行動と不安全状態が存在する。
--H. W. ハインリッヒ、D. ピーターセン、N. ルース(著)井上威恭(監修)、(財)総合安全工学研究所(訳) 『ハインリッヒ産業災害防止論 海文堂出版(株) 1987年(昭和62年)9月 2版 ISBN 430358052X p59-60』

分析

  • 人間の不安全行動と機械的物理的不安全状態が原因の災害のうち98%は予防可能である 
  • 人間の不安全行動(88%)は、機械的物理的不安全状態(10%)の約9倍の頻度で出現している 

なお、ハインリッヒのいう「災害」の定義は、

災害とは,物体,物質,人間または放射線の作用または反作用によって,人間の傷害またはその可能性を生ずるような、予想外の,しかも抑制されない事象である。 --H. W. ハインリッヒ、D. ピーターセン、N. ルース(著)井上威恭(監修)、(財)総合安全工学研究所(訳) 『ハインリッヒ産業災害防止論 海文堂出版(株) 1987年(昭和62年)9月 2版 ISBN 430358052X p21』

である。 上記の法則から、

  • 教訓1 災害を防げば傷害はなくなる 
  • 教訓2 不安全行動と不安全状態をなくせば、災害も傷害もなくなる 。(職場の環境面の安全点検整備、特に、労働者の適正な採用、研修、監督、それらの経営者の責任をも言及している)  

という教訓を導き出した。

この法則は、日本の国鉄(現・JRグループ)にも影響を与え、「330運動」(要素の合計が330であることから)と称する運動が国鉄時代に存在した(現在同じように現場において実行されているかは公表されていない)。

災害防止のバイブル

1931年に初版が発行されたIndustrial Accident Prevention - A Scientific Approachは、「災害防止のバイブル」としてNASAを初め数多くの著作物等に引用されたことから、ハインリッヒは「災害防止のグランドファーザー(祖父)」と呼ばれるようになる。

同書はその後ほぼ半世紀にわたって4回改訂された。なお、第5版のみ副題がA Safety Management approachで、Dan Peterson & Nestor Rossの2人による増補が行われている。

なお、E.R.グラニスの協力による1959年の第4版改訂から問題の重点に変化があり、労働者個人の問題から社会環境の問題へとシフトされた。たとえば「家系及び社会環境」から「管理不足」へ、「人的欠陥」から「材料・設備・作業環境・人員の不良」へ、などである。

労働者側に不利な見解に偏った理由として、本書執筆当時のアメリカ合衆国の社会的・歴史的な制約が挙げられる。

  • アメリカの労働災害補償制度は、大半を民間保険会社に依存していた。
    • 1980年の第5版出版時のデータでも州と連邦プログラムによる給付が30%という状況にある。
  • 初版刊行時の1930年前半は、「過失責任制」と「使用者責任保険」から「労働者集団保険」から無過失責任法理を採る「労働災害補償法」への移行期にあった。
    • 「過失責任制」は弁護士と保険会社の腐敗で批判を浴びていた。「使用者責任保険」はコモンロー上のいくつかの免除規定いわゆる「聖ならざる三位一体」の抗弁が存在した。
    • 「寄与過失」[被害者側の注意義務違反の場合]、「危険引き受け」[被害者側が危険性を前もって知っていた場合]、「フェロー・サーバント・ルール」[コモン・インプロイメント・ルールとも。共同雇用の準則;同僚・上司・部下が起こした過失は、雇用者は賠償の責任を免れる。]。詳しくは「コモン・ロー」の項目参照。
  • 1935年に施行された「社会保障法」(1929年10月24日の暗黒の木曜日以後、1933年3月4日フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領就任で、積極的な経済労働政策改革=ニューディールを断行する。)成立前夜で保険会社の倒産と労災保険料の高騰が社会問題化していた。

他に、当時の科学・技術分野や労働運動分野の諸側面をも反映していることは明らかである。

アメリカでの例

初版発行直前の国際労働災害統計を見ると、合理化による労働強化により、ヨーロッパや日本など他の先進工業国では労働災害は増えているのに、アメリカだけが減っている。その調査の数年前(1913年のF.L.ホフマンの推計値)では、炭鉱業でも鉄道業でも英国の約2倍かそれ以上の労災大国であったにもかかわらずである。つまり、労働安全協会等の努力を考慮に入れても逆行しているので、労働側やILOなどの批判をかわすために改竄・捏造された疑いがあることが指摘されている。

しかし細かく見ていくと、ある自動車工場4つの調査では、4年間に災害頻度率・災害強度率が各々4%、22%増加しているし、又、繊維工業でも2年間で各々2%、32%増加しているというデータが残っている。ハインリッヒがどの時期の何の業種についてのデータ何件かというデータをほとんど残していないのもその辺の事情が関係している可能性が高い。

日本国内への導入

日本国内へは、前述のIndustrial Accident Prevention - A Scientific Approachの邦訳により紹介された。同書の邦訳には、

  • 三村起一監修『災害防止の科学的研究』日本安全衛生協会 1951年昭和26年)
  • ハインリッヒ研究会編訳『ハインリッヒの事故防止』 1956年(昭和31年)
  • 井上威恭監修『ハインリッヒ産業災害防止論』海文堂出版 1982年(昭和57年)

がある。

「災害防止の科学的研究」の出版後、同協会から「安全衛生必携」('52)、「安全衛生指導集」、「安全衛生教育カード」等が次々と出版され、メーカーやゼネコンや関係団体の発行する「職長(安全)手帳」等に「安全の基礎知識」の必須項目として取り上げられた。

しかし記述内容は、労働者の安全行動面や単に1:29:300の比の値に矮小化され、企業の合理化や施設・設備等に対する安全対策費の皺寄せ等の問題が棚上げされた問題点があった。

1999年平成11年)から航空輸送技術研究センター管理運営の航空安全情報ネットワーク、ASI-NETが航空各社のインシデントつまり事故になる寸前の予兆=インシデントを収集・分析して航空機の未然事故防止のために役立てている。

他にも、かつて科学技術振興機構 (JST) が運営していた(現在は畑村創造工学研究所に移管)「失敗知識データベース」(16カテゴリー約1,100余件)や、失敗学会・安全工学会・日本人間工学会日本認知心理学会日本信頼性学会等の地道な研究・啓蒙活動も繰り広げられ、更に相当数の医療機関医療ミス根絶のために縦割りの垣根を取っ払ってインシデント収集・分析して、対策を練り上げている(IRS: Incidennt Reporting SystemまたはIRAS: Incident Report Analyzing System)。

その後の研究

ハインリッヒの法則はその後他の研究者がより多くの事例を分析して新たな結果を出している。その中で有名なものに以下のものが存在する。

バードの法則
Frank E. Bird Jr.による法則。1969年に発表され、アメリカの21業種297社1,753,498件のデータから導き出されている。ニアミス600:物損事故30:軽傷事故10:重大事故1、の比が成り立つと主張する 
タイ=ピアソンの結果
1974年1975年にイギリスの保険会社のデータ約100万件からTyeおよびPearsonにより導き出された結果である。ニアミス400:物損事故80:応急処置を施した事故50:軽中傷事故3:重大事故1、の比が成り立つと主張する 

上記の法則などを発展させたものが「保険料率表」の根拠になっている。ただし、この比率は、業種や国や時代によって、変わるものである。

その後の「ハインリッヒの法則」の再評価

その後の「ハインリッヒの法則」の再評価(現在の価値とその結論の適用可能性を精査し、調査)は、以下のように行われている。

  1. ハインリッヒの88-10-2の比率 については、88-10-2の比率を開発するためにハインリッヒが使用したデータ収集と分析方法は裏付けが取れず、危険な行為が労働災害の第一の原因であるというハインリッヒの前提は維持できない。安全コミュニティの多くは、事故(インシデント(アクシデントより軽微なもの))の割合が高いと考えており、おそらく80%から90%は行動の原因に起因し、残りは設備や施設に関連していると考えられているが、原因のこの二分法は有用ではなく、実際には有害である(88-10-2の比率に振り回されてはいけない)ことを認識している。これらの比率で表される神話は、安全の実践から外され、安全専門家によって積極的に反論されなければならないと述べている。
  2. ハインリッヒの300-29-1の比率 については、300-29-1の比率の使用は厄介で、比率は根拠の無いものであるため、比率に本質があるかどうかを尋ねなければならない。より重大な傷害を減らす機会を無視しながら、安全管理システムのベースとして300-29-1の比率を使用することは、頻繁で重大でない傷害に資源の集中をもたらすだろうかと疑問を呈している。又、著者の経験では、重傷を負う多くの事故(インシデント)は、多面的かつ複雑な因果関係のある独特な出来事であり、さらに、すべてのハザードには危害に対する同等の可能性が無いこと、いくつかのリスクは他のリスクよりも重要であることを指摘し、したがって、安全専門家は利用可能な資源の使用を優先する必要があると述べている。
  3. 間接及び直接事故(アクシデント)コスト については、間接コスト率と直接コスト率に関する文献は、一律に受け入れられる計算方法を提示していないこと、様々なシステムの違いはかなりあるということ、さらに重要なのは、直接コスト(損害又は病気による補償及び医療費)の増加が、過去数年間実質的に間接コストの増加を上回っているため、現在公表されている比率は公表されていないということ、スタンフォードの調査の更新は、間接コストと直接的な事故コストの比率が約0.8:1であることを示していること、その比率は近似値であり、1対1の比率を使用する安全専門家は、その正確さに合理的に自信を持っていると述べている。又、著者は裏付けるデータがない比率を使用しないことを勧めている。隠されたコストは非常に現実的だが、実証することは非常に困難であり、保険会社の社員が間接コストは直接的な事故コストの4倍に達すると経営陣に任意に言うと、保険料の算定根拠についての問題に発展する。経営陣が証拠を求めた場合、「ハインリッヒはそう言った」としか言えない。経営者はファンタジーではなく、事実を求めている(間接コストと直接的な事故コストの比率が4:1であるという、Heinrichの4-1の比率を裏付ける証拠はない)。証明がなければ、隠されたコストは幻想になる。又、著者は安全実践者が間接コストと直接コストの比率である場合、使用する比率を裏付ける証拠が必要で、スタンフォードの調査をベースとして、更新された計算を見積もりとして使用できるとも述べている。しかし、これは間接コストと直接的な事故(アクシデント)コストの比率に関する賢明かつ最新のデータを開発するための研究が必要な問題であると結んでいる。

その他

関連書籍

  • 航空法調査研究会編 『航空におけるINCIDENT REPORTING SYSTEMに関する総合的研究:航空機の運航をめぐって』 有斐閣、1988年
  • 航空法調査研究会編 『航空法務研究』 (Vol. 23~28、Vol. 29~37)「複雑大規模システムにおける事故防止(I)(II)」 有斐閣、1995年
  • 林知己夫林知己夫著作集4 現象をさぐる:データの科学』 勉誠出版、2004年
  • 城雅子 「INCIDENT REPORTING SYSTEMについての試行的研究」、『航空法務研究』(Vol. 16-17) 有斐閣、1986年
  • 城雅子 『大事件の予兆をさぐる:事故へ至る道筋を断つために』 講談社、1998年

脚注

  1. "Relation of Accident Statistics to Industrial Accident Prevention." H.W. Heinrich .PROCEEDINGS OF THE Casualty Actuarial Society 1929-1930 ,Volume XVI Number 33--November 19, 1929, Number 34--May 9, 1930, 1930 Year Book  , p.170 - 174
  2. 1 safety awareness”. 2018年3月10日閲覧。

参考文献

関連項目

雑誌キーワードは「友情・努力・勝利」。以前は全ての掲載作品のテーマにこの要素または繋がるものを最低1つ、必ず入れることが編集方針になっているとされていた。この標語は同誌の前身とも言える月刊漫画雑誌『少年ブック』の編集方針から受け継いだものであり、元は小学校4年生・5年生を対象にしたアンケート(「一番心あたたまる言葉」「一番大切に思う言葉」「一番嬉しい言葉」)によって決められたものである。

週刊少年ジャンプ

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1. 創刊は1968年。週刊少年ジャンプは日本で最も人気の漫画雑誌。
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週刊少年ジャンプ』(しゅうかんしょうねんジャンプ)は、集英社が発行する日本週刊少年漫画雑誌。略称は『ジャンプ』・『WJ』 。1968年に『少年ジャンプ』として月2回刊誌として創刊し、翌1969年より週刊となり『週刊少年ジャンプ』に改名した。また、2014年9月22日よりアプリケーションとして『少年ジャンプ+』を配信している。

概要 週刊少年ジャンプ, 愛称・略称 ...
週刊少年ジャンプ
WEEKLY JUMP
Thumb image
愛称・略称 ジャンプ・WJ
ジャンル 少年向けコミック誌
読者対象 少年
刊行頻度 週刊(毎週月曜日 ただし月曜日が祝日の際は土曜日発売)
売国 日本の旗 日本
言語 日本語
出版社 集英社
編集部名 第3編集部 週刊少年ジャンプ編集部
発行人 矢作康介
編集長 中野博之
メディア担当 大西恒平
雑誌名コード 993
刊行期間 1968年7月11日(1968年8月1日号) -
発行部数 113万3,846部(2023年10月 - 12月日本雑誌協会調べ)
レーベル ジャンプ コミックス
ウェブサイト 週刊少年ジャンプ 公式サイト (日本語)
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概要

1968年7月11日に『少年ジャンプ』の名称で同年の8月1日号として創刊。創刊時は月2回(第2・第4木曜日)発売、1969年10月から週刊化された。2003年5月までは毎週火曜日発売、2023年現在は毎週月曜日発売   シンボルマーク海賊マーク(ジャンプパイレーツ)の名前は「ジャーニー」 。1994年12月末発売の1995年3・4号で653万部という日本国内における漫画雑誌の最高発行部数を記録した。

雑誌キーワードは友情・努力・勝利。以前は全ての掲載作品のテーマにこの要素または繋がるものを最低1つ、必ず入れることが編集方針になっているとされていた 。この標語は同誌の前身とも言える月刊漫画雑誌『少年ブック』の編集方針から受け継いだものであり、元は小学校4年生・5年生を対象にしたアンケート(「一番心あたたまる言葉」「一番大切に思う言葉」「一番嬉しい言葉」)によって決められたものである 。しかし「少なくとも今はそんなテーマはないと思う」「少年マンガを作っていればそんなテーマは自然発生的に出てくる」という意見  を持っていたり、「一度も標榜したことはない」「大事なのは、作品が面白いかどうか。そして、対象の読者に伝わるかどうかだけ」と断言する編集者  もおり、現代では絶対的な要素ではない。なお、雑誌の名称である「ジャンプ」は同社編集者で立ち上げに関わり、のちに『トイレット博士』に登場するスナミ先生のモデルにもなった角南攻が適当に命名したものであり 、「ホップ・ステップ・ジャンプ」に掛けたものといわれる 

紙面を超えた活動にも積極的で、『週刊少年ジャンプ』関連のオリジナルグッズを販売する店舗(ジャンプショップ)やウェブコミック配信サイト(ジャンプデジタルマンガ少年ジャンプ+)、テーマパーク(J-WORLD TOKYO)、テレビ番組(サキよみ ジャンBANG!特捜警察ジャンポリス)などを擁している。

2014年9月以降は電子書籍版でも紙媒体と同日配信しており、「少年ジャンプ+」のアプリケーションをインストールすれば有料で購入することができる 

歴史

創刊

1968年 - 1969年

1968年7月11日創刊。創刊号の公称発行部数は10万5000部。「父の魂」「男の条件」「ハレンチ学園」「男一匹ガキ大将」(1968年 -)、「デロリンマン」(1969年 -)などが連載。

1968年は11号まで、1969年は28号までの刊行だった。(増刊号含まず)

最初の増刊号は1969年6月3日増刊のハレンチ学園大特集だった。

1970年代

1970年 - 1974年

1971年、公称発行部数が100万部を突破。1973年8月に『週刊少年マガジン』を抜いて雑誌発行部数で首位。「あらし!三匹」「ど根性ガエル」「トイレット博士」(1970年 -)、「侍ジャイアンツ」「荒野の少年イサム」「ライオンブックス」(1971年 -)、「アストロ球団」「マジンガーZ」(1972年 -)、「はだしのゲン」「包丁人味平」「プレイボール」「大ぼら一代」「女だらけ」(1973年 -)、「妖怪ハンター」(1974年 -)などが連載。

1975年 - 1979年

こちら葛飾区亀有公園前派出所」(1976年 -)は連載が40年続くロングラン作品となった。それ以外にも「1・2のアッホ!!」(1975年 -)、「悪たれ巨人」「東大一直線」(1976年 -)、「すすめ!!パイレーツ」(1977年 -)、「キン肉マン」(1979年 -)、「サーキットの狼」「ドーベルマン刑事」(1975年 -)、「リングにかけろ」「朝太郎伝」「ホールインワン」(1977年 -)、「コブラ」「さわやか万太郎」(1978年 -)、「私立極道高校」「テニスボーイ」(1979年 -)などが連載。

1978年、公称発行部数が200万部を突破。

1980年代

1980年 - 1983年

1980年、公称発行部数が300万部を突破。「Dr.スランプ」「山崎銀次郎」「激!!極虎一家」「3年奇面組 」(1980年 -)、「キャプテン翼」「キャッツ♥アイ」「ストップ!! ひばりくん!」「ブラック・エンジェルズ」(1981年 -)、「風魔の小次郎」「キックオフ」「よろしくメカドック」(1982年 -)、「ウイングマン」「シェイプアップ乱」「天地を喰らう」「北斗の拳」「銀牙 -流れ星 銀-」(1983年 -)などが連載。

1984年 - 1986年

1984年1・2号より、創刊以来使用されていた誌名ロゴを一新する。1983年に発売されて読者層に注目されたファミリーコンピュータのゲームソフト紹介コーナーが「ファミコン神拳」を皮切りとして登場した。1984年12月の年末最終号(1985年3・4合併号)で公称発行部数が400万部を突破。「きまぐれオレンジ☆ロード」「男坂」「ドラゴンボール」(1984年 -)、「シティーハンター」「ついでにとんちんかん」「魁!!男塾」(1985年 -)、「聖闘士星矢」「赤龍王」「空のキャンバス」「県立海空高校野球部員山下たろーくん」(1986年 -)などが連載。

1987年 - 1989年

1988年2月23日発売の1988年13号で創刊号から1000号を達成し 、この年に創刊20周年を迎える。さらには1988年12月の年末最終号(1989年3・4合併号)で公称発行部数が500万部を突破。「ジョジョの奇妙な冒険」「燃える!お兄さん」「ゴッドサイダー」「THE MOMOTAROH」(1987年 -)、「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」「ろくでなしBLUES」「ジャングルの王者ターちゃん」「神様はサウスポー」「まじかる☆タルるートくん」「ボクはしたたか君」(1988年 -)、「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」「電影少女」(1989年 -)などが連載。

1990年代

1991年のマクラーレンのF1カー。フロントノーズに「ジャンプ」のロゴが貼ってある。
1991年のマクラーレンのF1カー。フロントノーズに「ジャンプ」のロゴが貼ってある。
1990年 - 1993年

花の慶次」「SLAM DUNK」「珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-」「幽☆遊☆白書」(1990年 -)、「アウターゾーン」「ペナントレース やまだたいちの奇蹟」(1991年 -)、「モンモンモン」「ボンボン坂高校演劇部」「BØY」「究極!!変態仮面」(1992年 -)、「地獄先生ぬ〜べ〜」「NINKU -忍空-」「とっても!ラッキーマン」「D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜」(1993年 -)などが連載。

1990年からゴールデンウィークに合併号が発刊されるようになった。また、1991年からはお盆の合併号が刊行開始。その前のお盆の合併号は1972年に34・35合併号が一度あったのみだった。

1990年から1992年までF1チーム『マクラーレン』のスポンサーになり、巻頭のカラーページに特集記事が組まれる。同時にF1を題材とした作品が数点掲載された。

1993年31号で創刊25周年を迎える。記念イベントとしてこの年の夏休みに、創刊以来最大規模となるイベント「週刊少年ジャンプ創刊25周年特別企画 ジャンプマルチワールド」を東京後楽園で開催。19日間の開催期間で約16万人を動員した。公称発行部数は1991年3・4号で602万部を突破。週刊誌が全国紙の発行部数を抜いたとして一般メディアも報道する。

1994年 - 1996年

王様はロバ〜はったり帝国の逆襲〜」「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」「みどりのマキバオー」(1994年 -)、「陣内流柔術武闘伝 真島クンすっとばす!!」「レベルE」「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」(1995年 -)、「WILD HALF」「幕張」「封神演義」「遊☆戯☆王」(1996年 -)などが連載。

1994年11号から綴じ方が変更になった。1994年10号まではホチキス止めだったが、この号より広く見やすくなった。

1994年12月の1995年3・4号で653万部の歴代最高部数を達成するが、その後1995年25号で「ドラゴンボール」、1996年27号で「SLAM DUNK」と、看板作品が立て続けに終了し、公称発行部数が減少に転ずる。1996年52号で、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が本誌初の連載1000回に到達した。

1997年 - 1999年

発行部数がこれまでの公称から印刷証明付部数(実際に発行した証明のある部数)に切り替わる。その結果、1997年48号で『週刊少年マガジン』に発行部数を抜かれる。「花さか天使テンテンくん」「I"s」「世紀末リーダー伝たけし!」「ONE PIECE」「明稜帝 梧桐勢十郎」(1997年 -)、「ROOKIES」「ホイッスル!」「HUNTER×HUNTER」「シャーマンキング」「ライジングインパクト」(1998年 -)、「ヒカルの碁」「テニスの王子様」「NARUTO -ナルト-」(1999年 -)などが連載。部数の降下傾向は続くものの、『週刊少年マガジン』についで2位は維持。また、1998年からは14年間使用した誌名ロゴの変更、経済面を考慮し表紙のギミックを廃止するなどの試行錯誤が続いた。

2000年代

2000年 - 2004年

SAND LAND」「BLACK CAT」「ピューと吹く!ジャガー」(2000年 -)、「ボボボーボ・ボーボボ」「Mr.FULLSWING」「BLEACH」(2001年 -)、「いちご100%」「アイシールド21」(2002年 -)、「武装錬金」「DEATH NOTE」(2003年 -)、「銀魂」「家庭教師ヒットマンREBORN!」「D.Gray-man」「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」(2004年 -)などが連載。

1998年(平成10年)から開設した公式サイト「POP WEB JUMP」が拡張を続け「デジタルマンガ部門」が新設、サイト上で漫画を連載させるなど新しい試みが行われたほか、2000年からジャンプフェスタが毎年開催され、イベント限定グッズの販売や連載作家を招待するなどしている。

漫画業界全体の発行部数が落ち込む中、2002年(平成14年)8月に『週刊少年マガジン』を抜いて再び漫画誌の発行部数1位となる。「ドラゴンボール」終了後から減少した実売率も、94~95%に回復した。

「少年ジャンプ」は305万部。

出版科学研究所の資料によれば、実売率は全盛期の97%には及ばないものの、94~95%に回復しているという。 「ワンピース」「ナルト」といった人気漫画が順調であることに加えて、新連載漫画のヒットが部数を押し上げている格好だ。

具体的には推理サスペンス「DEATH NOTE」がある。これは最初から大きな反響を呼び、今では牽引役になりつつある。ほかにコメディ「銀魂」などがある。こちらは単行本がヒットして本編の人気が盛り返した形。』2005年2月号
2005年 - 2009年

魔人探偵脳噛ネウロ」「太臓もて王サーガ」「べしゃり暮らし」(2005年 -)、「To LOVEる -とらぶる-」「エム×ゼロ」「P2! - let's Play Pingpong! -」(2006年 -)、「サムライうさぎ」「ぼくとわたしの勇者学」「SKET DANCE」「初恋限定。」「PSYREN -サイレン-」(2007年 -)、「ぬらりひょんの孫」「トリコ」「バクマン。」「いぬまるだしっ」「黒子のバスケ」(2008年 -)、「べるぜバブ」「めだかボックス」「保健室の死神」(2009年 -)などが連載。

2008年の34号で創刊40周年を迎え、同年48号にて創刊号から通算2000号を達成。連載作品の単行本売り上げは好調に推移している一方、グロテスクな表現、生命倫理に反するとして日本PTA全国協議会によるメディアランキング雑誌部門で『少女コミック』を抜き、ワースト1位にランキングされた。

誌面を越えた活動の一環として2009年4月3日から、テレビ東京系列毎週金曜日18:00〜18:30に『週刊少年ジャンプ』・『ジャンプスクエア』・『Vジャンプ』共同のジャンプ専門情報番組『サキよみ ジャンBANG!』を放送した(2014年3月28日に放送終了)。

2010年代

2010年 - 2014年

クロガネ」「ニセコイ」(2011年 -)、「ハイキュー!!」「斉木楠雄のΨ難」「暗殺教室」「食戟のソーマ」「新米婦警キルコさん」(2012年 -)、「ワールドトリガー」「SOUL CATCHER(S)」「磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ〜」(2013年 -)、「火ノ丸相撲」「僕のヒーローアカデミア」(2014年 -)などが連載。

2010年の2号で印刷証明付発行部数が300万部に復帰。

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響で17号が臨時休刊(発売延期)。この出来事が発行と連載作品の発表方法に大きな影響を与えたと同時に、週刊少年ジャンプの根強い人気を世に見せた。詳細は東日本大震災と週刊少年ジャンプを参照のこと。

2013年、創刊45周年を記念してテーマパーク「J-WORLD TOKYO」(東京サンシャインシティ)を開園。2013年33号(創刊45周年記念号)では史上初めてデジタル版が発売同日に電子書籍で有料配信された 

2014年9月22日、マンガ雑誌アプリ「少年ジャンプ+」を創刊 。これ以降、発売当日に電子版が有料配信されるようになる。

2015年 - 2019年

鬼滅の刃」(2016年 -)がテレビアニメ化された後に各メディアで取り扱われるなど高い人気を獲得、社会現象と呼ばれるほどのヒットになる 。他にも、「ブラッククローバー」「背すじをピン!と〜鹿高競技ダンス部へようこそ〜」「左門くんはサモナー」(2015年 -)、「ゆらぎ荘の幽奈さん」「BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-」「約束のネバーランド」「青春兵器ナンバーワン」(2016年 -)、「ぼくたちは勉強ができない」「Dr.STONE」「トマトイプーのリコピン」(2017年 -)、「アクタージュ act-age」「呪術廻戦」「思春期ルネサンス!ダビデ君」「ジモトがジャパン」(2018年 -)、「チェンソーマン」「夜桜さんちの大作戦」「ミタマセキュ霊ティ」(2019年 -)などが連載。

2016年、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が40年に渡る長期連載に幕を閉じた。少年漫画雑誌最長の連載記録であり、マスメディアにも大きく取り上げられ、最終話が掲載された42号は5日も経たず完売状態となり 、12月31日に創刊以来初の重版  が発売された。

2017年、創刊50周年を記念した「週刊少年ジャンプ」が、翌2018年に跨り全3回に分けて六本木ヒルズで開催  された他、『復刻版 週刊少年ジャンプ』が発売された。一方で、1~3月の印刷部数(電子版含まず)が1978年に突破して以来、維持していた200万部を割った 

2018年7月に発生した平成30年7月豪雨の影響により、7月9日発売分の32号の配送が被災地を中心に大幅な遅延、未配達という事態が発生した。そのため、インターネット上で同号の無料配信が7月17日から31日にかけて実施された  

2019年4月8日から6月10日の期間限定で、本誌と『週刊少年マガジン』の連載作品約150タイトルを無料で読むことができるウェブサイト『ジャンマガ学園』を立ち上げた。『少年ジャンプ+』と『マガジンポケット』との、史上初めての共同企画だった。

2020年代

2020年 -

AGRAVITY BOYS」「アンデッドアンラック」「マッシュル-MASHLE-」「森林王者モリキング」「あやかしトライアングル」「破壊神マグちゃん」「灼熱のニライカナイ」「僕とロボコ」「BURN THE WITCH」「仄見える少年」「高校生家族」「SAKAMOTO DAYS」(2020年 -)、「逃げ上手の若君」「ウィッチウォッチ」「アオのハコ」「PPPPPP」(2021年 -)、「あかね噺」「ルリドラゴン」「一ノ瀬家の大罪」「暗号学園のいろは」(2022年 -)、「キルアオ」「鵺の陰陽師」(2023年 -)などが連載。

2020年3月、新型コロナウイルスの感染拡大防止措置とし、全国の公立小中学校を臨時休校とする要請が公立小中学校に渡されたため、2020年1~13号までのインターネット上での無料配信を同月31日まで実施することを発表した 

2020年4月8日、編集部に勤務する40代社員に新型コロナウイルス感染の疑いがあることを公表 。これに伴い4月20日発売予定の21号を翌週の27日に21・22号合併号として発売することを発表した 

2020年5月11日、作家へのコロナ対策の影響により連載漫画の休載が増えることを明かした 

2020年5月15日、集英社の「週刊少年ジャンプ」「ジャンプSQ.」マンガ誌アプリ「少年ジャンプ+」の編集部は漫画家、漫画家志望者を対象とした漫画制作の講座「週刊少年ジャンプジャンプSQ.少年ジャンプ+ present ジャンプの漫画学校」を合同で創設することを発表 

2021年13号から短編読み切り枠『ジャンプ・ショート・フロンティア』がスタート 

2022年7月、『週刊少年ジャンプ』と『週刊少年サンデー』 の共同企画として 、『ONE PIECE』の尾田栄一郎と『名探偵コナン』の青山剛昌スペシャル対談が行われ、これを記念としたコラボレーション企画として、同年発売の『週刊少年ジャンプ』34号の表紙に名探偵コナンの登場人物である安室透の、同じく同年発売の『週刊少年サンデー』35号の表紙にONE PIECEの登場人物であるロロノア・ゾロのイラストが掲載されている 。なお、週刊少年ジャンプ集英社以外の他誌のキャラクターのイラストが掲載されるのは初のケースとなる。

2023年時点での原稿料(1ページ)は、モノクロが18700円以上、カラーが28050円以上としている 

特徴

読者層

さらに見る 週刊少年ジャンプの読者層(2012年) ...
週刊少年ジャンプの読者層(2012年)
         
9才 以下
 
5.1%
10 - 15才
 
63%
16才以上
 
31.9%
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編集部は小中学生男子を主な読者対象として想定している 。売上最盛期である1980年 - 1990年代は人口の多い団塊ジュニア世代が読者層の中心にあたり、この世代の男性の多くにとってなじみ深い漫画誌とされている 。2012年の調査では、読者構成は中学生を中心として小学校高学年から高校生が主であり、『週刊少年マガジン』(講談社)・『週刊少年サンデー』(小学館)・『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)よりも低年齢寄りである 。2012年9月時点では男女比が約8対2、年齢層は9歳以下が5.1%、10 - 15歳が約63%、16歳以上が31.9%となっている 。また、集英社広報によると2009年時点で読者アンケートのうち7割を10代が占めているという 

掲載作品

基本的に掲載作品はバトル漫画スポーツ漫画ギャグ漫画などの少年漫画が主流であり、競合他誌に比べてSF・冒険物などファンタジー的な作風が多い傾向にある。一方でラブコメディ、社会派・ドキュメンタリー作品なども定期的に掲載されている[要出典]

少年層が共感しにくい大人向けなどジャンプと合わない作品は編集者が良作と感じても掲載できないため、新人の持ち込みに対してはグランドジャンプの新人賞や少年ジャンプ+へ誘導するなどのフォローを行っている  。また連載中の作品でも、作風と読者対象、連載ペースなどを考慮し青年向けや月刊の派生誌へ移籍して継続する場合もある 

装丁

表紙は基本的に連載漫画作品が担当している。表紙に選ばれる作品は新連載や周年を迎えた作品が多い。2018年14号時点で表紙を飾った回数が最も多いキャラクターは『ONE PIECE』のモンキー・D・ルフィで、計336回飾っている 。2018年36・37号の表紙は、同号掲載の漫画作品のキャラクターに加え、ロックバンド・サザンオールスターズのイラストが表紙を飾る 。合併号では複数作品のキャラクターが並ぶ「集合表紙」となるが、休刊によるズレなどで通常号に使われることもある 

背表紙も基本的に表表紙の作品が飾っている。連載10周年などを迎えた作品が1年を通じて背表紙イラストを独占することもある 

かつては他の週刊少年漫画誌と同じくスポーツ選手やアイドルのグラビアが表紙・巻頭を飾っていた(1970年代後半から1980年代前半までと1990年代の一時期)が1996年を最後に 、以降は例外的に連載作品の実写化を演じた俳優やキャラクターのコスプレ姿が掲載される程度でほぼない 。本誌内では2色の情報ページなどでスポーツ選手の特集やインタビュー記事が掲載されることもある。

2012年18号では「W(ダブル)巻頭カラー」と称して表表紙と裏表紙で上下を逆さまにし、表表紙は『めだかボックス』、裏表紙は『黒子のバスケ』と2作が同時に表紙・巻頭を飾った 

編集方針

以下に挙げられている新人契約制度やアンケートシステムに関する詳細は、『少年ジャンプ』草創期に編集長(3代目)を務めた西村繁男の著した書籍「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」内に詳しい記述があるが、現在では若干異なっている。

新人の登用と専属契約制度

創刊以来、新人作家を積極的に登用し続けている。これは創刊時点で後発だったことから、当時の他誌で人気作品を連載している漫画家を確保出来ず、連載作家のほぼ全員を新人で揃えることになったことに由来する。この方針は、週刊少年漫画雑誌で最大部数を誇るようになってからも継承されており、現在でも編集部は新人育成に力を入れている 。近年ではデビューを目指す漫画家志望者に対し、現役の連載作家や編集部員を講師に招いた『ジャンプの漫画学校』を開催している 。近年では他誌で連載経験のある作家の獲得も行っている 

本誌でデビューした作家は必ず集英社専属契約を結ぶ 。この契約が結ばれている間、作家は原稿料と別に契約料を貰える代わりに、他の出版社での仕事や専属契約終了後を見越した交渉をすることすらできない 。各作品の欄外における「○○先生の漫画が読めるのはジャンプだけ!」などの煽りはこの契約によるものである。講談社でデビュー済だったが、『ハレンチ学園』でブレイクした永井豪が他誌でも連載を開始し、危機感を持った編集長(当時)長野規が発案した 。『男一匹ガキ大将』を連載していた本宮ひろ志と最初に契約が結ばれた。しかし、本来の最終回を西村により勝手に修正され、不本意な連載延長を強いられたため、本宮は専属契約を解除、週刊少年マガジンで『群竜伝』の連載を開始。更に『男一匹ガキ大将』の文庫版から該当部分以降を削除した(電子書籍版では復活)。このような編集による作品への過剰な介入や人間関係 が問題となった事例もある。

西村は集英社退社後に自著で「漫画家に対する執筆保証の項目がない他、契約期間中は他誌との執筆交渉すらできないという点で、極めて編集部に有利な契約である」と指摘している 。ジャンプと同じく専属契約制度がある週刊少年マガジンでデビューし専属契約をしていた赤松健は、作家1人につき3人の編集者が意見を出すマガジンや、専属契約制度が無く作家と編集の結びつきが弱い週刊少年サンデーと比較し、合わない編集者が当たった場合は辛いのではないかと発言している 

村上もとか甲斐谷忍、キユ(現・松井勝法)、霧木凡ケン(現・桐木憲一)、濱田浩輔など、本誌ではヒット作を出せなかった作家が契約を更新せず、他誌・他社へと活動の場を移して成功した例もある。

漫画原作者については、臨時雇いの編集者から転向して『アストロ球団』のヒットを出した遠崎史朗や、本宮ひろ志の友人で居候だった武論尊など、初期は周辺からのデビューが多かったが、漫画家から転向した者(稲垣理一郎など)や、他社でデビューした小説家(西尾維新など)が起用されることもある。また、『テニスボーイ』の寺島優を輩出した「ジャンプ原作大募集」「梶原賞」「ストーリーキング」など、漫画原作者の新人賞を断続的に開催し、人材発掘を行っている。

アンケート至上主義と打ち切り

週刊少年ジャンプは他誌と比較しても、読者アンケートを参考にして編集の方針を定める傾向が強い。アンケートによる評価は作家の実績・経歴に関係なく平等に適用され、「アンケート至上主義」と呼ばれる。このため、一世を風靡した作品・作家でもアンケートが悪いと連載が打ち切られることがある。例として『ボボボーボ・ボーボボ』の澤井啓夫、『黒子のバスケ』の藤巻忠俊、『ぬらりひょんの孫』の椎橋寛、『NARUTO -ナルト-』の岸本斉史、『トリコ』の島袋光年、『べるぜバブ』の田村隆平、『食戟のソーマ』の附田祐斗佐伯俊などはヒット作の次に連載した作品の人気が低迷し短期間で連載を終了している。ただしある程度の人気作は本誌連載が打ち切られても単行本、増刊号・派生誌、アプリ版などに完結編を掲載することも多い 。打ち切りが決定した作家にも担当の編集者が付き次回作に向けてのサポートがあることから、作品の打ち切りが作者の戦力外通告ではない。『魔少年ビーティー』が10週で打ち切られた荒木飛呂彦は連載終了後に編集者とアンケートを分析することで好評だった要素を見つけ出し、代表作となる『ジョジョの奇妙な冒険』に繋げている。

松井優征は、アンケートはグライダーのように次第に高度(人気)が下がっていき、対策を取らなければ着地(最下位)して終了(打ち切り)になるが、上昇気流(人気となる要素)を掴めば高度(人気)が一時的に回復、また下がっていく、を繰り返すと語っている 

掲載順も基本的にアンケート上位の作品であるほど前になるが、アンケート結果が厳格に運用されて構成されるわけではなく、編集部の販売戦略やデータマイニング、メディアミックスのタイミングなども加味して誌面・作品の構成が左右されることがある  

西村繁男は「アンケートが2位以下の作品はすべて終了候補である」と言い切っている 真倉翔岡野剛は「アンケートの結果に基づき作品の内容を変えたり、あらゆる創意工夫が求められ、いつ連載を打ち切られるか、常に心配していた」と言及している(『地獄先生ぬ〜べ〜』文庫版)。一方、打ち切りに備えて完結に至る展開をあらかじめ複数構想している作家もおり、和月伸宏は『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の連載前に「30週で連載終了した場合」を想定した短期間で完結する構成を用意していた(後に再構成した『キネマ版』を発表している)。武論尊は『北斗の拳』が短期間で終わる事も想定し、連載当初は17週で終了する程度での構想で開始し、それ以降はその場の流れで書き続けたと後に発言している。三条陸は『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』の連載開始当初、最悪10週で打ち切りになることも念頭において、ダイとポップの旅立ちがちょうど10話目になるように構成した 。人気が出たことによりその10話目が巻頭カラーとなり、国民的ゲームの漫画化でプレッシャーも大きかっただけに、1番胸を撫で下ろした瞬間だったという 

2018年の基準では、基本的にコミック1~2巻の売り上げが一定に達しない場合に打ち切りとなるが、紙媒体とアプリ、作家や作風などの違いも考慮されるため明確な数字は上げられないとしている 。ただし『THE COMIQ』(全1巻)や『バオー来訪者』(全2巻)のように、企画段階から短期で完結させる予定の作品(短期集中連載)も不定期に掲載されている。このような作品を除き、史上最も早く連載が打ち切りとなった作品は澤井啓夫チャゲチャ』(2008年)の8週である。

連載を開始した作家は長期的な展開よりも、アンケートによる瞬間的な人気を重視する編集方針への対応が求められ、そのためにテクニックも考案されている 。人気を維持するため突飛な設定や急展開を繰り返した車田正美は「自分の漫画に必要なのは起承転結ではなく、いかに読者を驚かせるかだ」と語っている 。また、尾田栄一郎は「『読者は5年で入れ代わるもの』それが長期エンタメのセオリーです。(中略)いつか去っていく人達だと自分に言い聞かせてたからです。『おごるな』と」と語っている 

アンケートが連載のみならず内容にも影響を与える方針が合わないと感じる作家もおり、週刊少年ジャンプでデビューし2度の連載経験がある濱田浩輔は専属契約を解除して他社の月刊誌へ移籍、ヒット作を生み出している 

ジャンプナイズ

「友情」「努力」「勝利」のテーマや少年漫画らしい画風が求められるため 、画風やストーリーを誌面に合わせる「ジャンプナイズ(ジャンプ化)」が行われることもある。

イラストレーター出身の出水ぽすかは、『約束のネバーランド』の連載にあたり絵柄をジャンプ作品に寄せようとしたが上手くいかず、初期は普段イラスト投稿サイトに上げるようなタッチで描いていた。しかし『ハイキュー!!』や『鬼滅の刃』など、同時期に連載されていた作品を参考に徐々にジャンプナイズしていったという  

作品のメディアミックス

集英社は自らメディア化に関与をすることは少なく、特に映像化に関しては良い条件でオファーが来て初めて映像化する方針を採っている 。一方で小説化・VOMIC化などは自社媒体で行われている。

テレビアニメ化

人気作品の大半はテレビアニメ化され、2010年代以降から地上波に代わる全国放送として衛星放送(BS・ CS)でも放送されている。

劇場映画OVAで展開される作品もあり、『ドラゴンボール』『ONE PIECE』『NARUTO -ナルト-』『BLEACH』などのように日本国外でも高い人気を誇る作品もある。

最初期を除く1970年代までのジャンプ編集部は、作品をテレビアニメで無料放送すると、読者が満足して雑誌・単行本が売れなくなると懸念していた 。しかし、連載作品の『Dr.スランプ』に対して複数のテレビ局からオファーがあり、フジテレビ編成局長 (当時)・日枝久が何度も集英社を訪ね、その熱烈な要望に集英社が折れてアニメ化が許諾された。『Dr.スランプ アラレちゃん』(1981年放映開始)の放送により販売促進・版権など予想を超える収益を得たため、これより集英社は自社作品のアニメ化に積極的になる。

他誌のアニメ・ドラマ化作品に比べて全日帯アニメが多い。しかし、2000年代になると少子化の影響で全日帯アニメ枠 が減り、2010年代以降は内容を問わず深夜枠での放送が多くなっている 。特殊な事例として『斉木楠雄のΨ難』はシーズンごとに放送形態が異なり、1期は『おはスタ』で放送され、翌週に5話まとめて深夜に放送するという変則的な放送形態を採っていた 。2期は深夜のみの放送になり、完結編は朝に放送され、Ψ始動編はNetflix独占となった 

全てのキー局で作品をアニメ化した実績があり、2010年代に入るとTBSの在阪局であるMBS制作でのアニメ化が増えているが、一部はUHFアニメとしてTOKYO MXなどの地方局やBS11にて放送される作品もある。『ハイキュー!!』や『食戟のソーマ』のように、第1期はTBS系で放送されたのに対し、第2期はUHFアニメとして放送されたりと、シーズン毎のネット形態が異なることもあるが、BSでは全国放送が可能であるため、ネット局や時間帯の変更はあまり問題にならない。

NHKでは2010年に初めてジャンプの新作アニメ作品である『バクマン。』が放送された。

2012年、週刊少年ジャンプのテレビアニメ第1話だけを収録した『ジャンプスーパーHEROESスペシャルコレクションDVD』が発売された 

放送中の新作テレビアニメ

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2024年4月現在
作品 放送開始日 アニメーション制作 備考
ONE PIECE 1999年10月20日 東映アニメーション  
遊☆戯☆王ゴーラッシュ!! 2022年4月3日 ブリッジ 原作の連載は既に終了。
キャプテン翼 2023年10月1日 スタジオKAI 第4作第2期
原作は『グランドジャンプ増刊・キャプテン翼マガジン』にて続編が連載中。
夜桜さんちの大作戦 2024年4月7日 SILVER LINK.  
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放送予定の作品

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2024年4月現在
作品 放送年 アニメーション制作 備考
僕のヒーローアカデミア 2024年 ボンズ 第7期
鬼滅の刃 2024年 ufotable 第4期
原作の連載は既に終了。
ライジングインパクト 2024年 Lay-duce Webアニメ
原作の連載は既に終了。
キン肉マン 完璧超人始祖編 2024年 Production I.G 第3期
原作は『週プレNEWS』、『週刊プレイボーイ』にて続編が連載中。
逃げ上手の若君 2024年 CloverWorks  
ドラゴンボールDAIMA 2024年 東映アニメーション 原作の連載は既に終了。
アオのハコ 2024年 テレコム・アニメーションフィルム  
るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 2024年 ライデンフィルム 第2作 第2期(京都動乱)

原作は『ジャンプスクエア』にて続編が連載中。

BLEACH 2024年 ぴえろ 第2期(第3クール)
原作の連載は既に終了。
Dr.STONE 未公表 トムス・エンタテインメント 第4期

原作の連載は既に終了。

呪術廻戦 未公表 MAPPA 第3期
BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS- 未公表 studioぴえろ 第2部。
原作は『Vジャンプ』にて連載中。
北斗の拳 -FIST OF THE NORTH STAR- 未公表 未公表 原作の連載は既に終了。
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過去にアニメ化された作品

アニメ放送開始が早い順に記載する。
休養期間を挟んでアニメ放送された作品については、一般に認知されているシリーズ名である場合を除き、放送時期ごとに作風の独立性が強いものについては「第1作、第2作…」と表記し、短期間の休養を挟みつつ同一シリーズを放送したと判断されるものについては「第1期、第2期…」と表記する。
なお、週刊少年ジャンプ公式で初のアニメ化作品と称されている『紅三四郎』は実質的にはコミカライズ作品であるため除いている。
さらに見る 作品, 放送年 ...

天狗党の乱は、1864年から1865年にかけて日本で起こった一連の争乱です。この争乱では、新政府を支持する勢力と旧幕府を支持する勢力が対立しました。天狗党と呼ばれる一団が暴動を起こし、激しい戦闘が行われました。最終的には新政府軍が勝利し、この争乱は鎮圧されました。

天狗党の乱

1864年から1865年にかけて日本で発生した一連の争乱 / ウィキペディア フリーな encyclopedia 

 

親愛なるWIKIWAND AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:

 

トップの事実と統計を挙げていただけますか 天狗党の乱?

1. 天狗党の乱は幕末の日本で発生した重要な争乱です。
2. 1864年から1865年にかけて、京都や大坂で激しい戦闘が行われました。
3. 天狗党尊皇攘夷派の一派で、外国排斥を主張していました。
4. 薩摩藩長州藩なども関与し、幕府と対立しました。
5. 幕府軍は最終的に勝利し、天狗党は壊滅しました。
あなたが考えていることを私に伝えてください
最後の更新: 2024/4/30. 続きを読む

この記事を 10 歳向けに要約してください

天狗党の乱は、1864年から1865年にかけて日本で起こった一連の争乱です。この争乱では、新政府を支持する勢力と旧幕府を支持する勢力が対立しました。天狗党と呼ばれる一団が暴動を起こし、激しい戦闘が行われました。最終的には新政府軍が勝利し、この争乱は鎮圧されました。
あなたが考えていることを私に伝えてください
最後の更新: 2024/4/30. 続きを読む
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テレビアニメ
作品 放送年 アニメーション制作 備考
男一匹ガキ大将 1969年9月-1970年3月 東京テレビ動画  
ど根性ガエル 1972年10月-1974年9月(第1作) 東京ムービー  
1981年9月-1982年3月(第2作) 東京ムービー新社
マジンガーZ 1972年12月-1974年9月 東映動画  
荒野の少年イサム 1973年4月-1974年3月 東京ムービー  
侍ジャイアンツ 1973年10月-1974年9月 東京ムービー  
Dr.スランプ 1981年4月-1986年2月(第1作 東映動画 アニメタイトル:Dr.スランプ アラレちゃん
1997年11月-1999年9月(第2作 東映アニメーション アニメタイトル:ドクタースランプ
コブラ 1982年10月-1983年5月(第1作) 東京ムービー アニメタイトル:スペースコブラ
2010年1月-3月(第2作) マジックバス アニメタイトル:COBRA THE ANIMATION
キン肉マンアニメ 1983年4月-1986年10月(第1期) 東映動画  
1991年10月-1992年9月(第2期)
ストップ!! ひばりくん! 1983年5月-1984年1月 東映動画  
CAT'S EYE キャッツ・アイ 1983年7月-1984年3月(第1期) 東京ムービー新社  
1984年10月-1985年7月(第2期)
キャプテン翼アニメ 1983年10月-1986年3月(第1作) 土田プロダクション  
1994年10月-1995年12月(第2作) スタジオコメット アニメタイトル:キャプテン翼J
2001年10月-2002年10月(第3作) グループ・タック  
2018年4月-2019年4月(第4作第1期) david production
ウイングマン 1984年2月-1985年2月 東映動画 アニメタイトル:夢戦士ウィングマン
よろしくメカドック 1984年9月-1985年3月 タツノコプロ  
北斗の拳アニメ 1984年10月-1987年3月(第1期) 東映動画  
1987年3月-1988年2月(第2期)
ハイスクール!奇面組 1985年10月-1987年9月 土田プロダクション
スタジオコメット
 
ドラゴンボール 1986年2月-1989年4月(無印 東映動画  
1989年4月-1996年1月(Z
1996年2月-1997年11月(GT
2009年4月-2011年3月(・第1期)
2014年4月-2015年6月(改・第2期)
東映アニメーション ドラゴンボールZ』のデジタルリマスター
2015年7月-2018年3月(  
銀牙 -流れ星 銀- 1986年4月-9月 東映動画  
聖闘士星矢 1986年10月-1989年4月(無印 東映動画  
2012年4月-2014年3月(Ω 東映アニメーション
きまぐれオレンジ☆ロード 1987年4月-1988年3月 studioぴえろ  
シティーハンターアニメ 1987年4月-1988年3月(第1期) サンライズ  
1988年4月-1989年7月(第2期)
1989年10月-1990年1月(第3期)
1991年4月-10月(第4期)
ついでにとんちんかん 1987年10月-1988年10月 スタジオコメット  
魁!!男塾 1988年2月-11月 東映動画  
燃える!お兄さん 1988年3月-9月 studioぴえろ  
まじかる☆タルるートくん 1990年9月-1992年5月 東映動画  
DRAGON QUEST -ダイの大冒険- 1991年10月-1992年9月(第1作) 東映動画  
2020年10月-2022年10月(第2作) 東映アニメーション
幽☆遊☆白書アニメ 1992年10月-1995年1月 studioぴえろ  
ジャングルの王者ターちゃん 1993年10月-1994年9月 グループ・タック  
SLAM DUNK 1993年10月-1996年3月 東映動画  
とっても!ラッキーマン 1994年4月-1995年3月 studioぴえろ  
D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜 1994年10月-12月 スタジオディーン
マッドハウス
 
NINKU -忍空- 1995年1月-1996年2月 studioぴえろ  
るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-アニメ 1996年1月-1998年9月(第1作) スタジオぎゃろっぷ
スタジオディーン
 
みどりのマキバオー 1996年3月-1997年7月 studioぴえろ
概要 天狗党の乱, 交戦勢力 ...
天狗党の乱

武田耕雲斎筑波山之図」『近世史略』のうち
歌川国輝明治24年9月
戦争天狗党の乱
年月日元治元年3月27日 - 12月17日
1864年5月2日 - 1865年1月14日
場所水戸筑波山敦賀
結果幕府軍の勝利、天狗党の降伏
交戦勢力
幕府陸軍
水戸藩兵(諸生党
高崎藩兵、笠間藩兵ほか
天狗党
宍戸藩兵(大発勢)
指導者・指揮官
大日本帝国の旗田沼意尊
大日本帝国の旗市川三左衛門
大日本帝国の旗徳川慶喜
武田耕雲斎
藤田小四郎
山国兵部
松平頼徳
戦力
不明 1,000
損害
- 降伏(352人が斬首)
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背景

天狗党の発生

文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江戸越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭(藩主となり敬三郎から斉昭と名乗る)の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。

こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845年)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している 。とはいえ、天狗党という集団はその内部においても盛んに党争と離合集散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する「勅書」返納問題において鎮派激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢潮来などの集団があってそれぞれ独自に動き回っていたことから、『水戸市史 中巻(五)』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に限定して使用している 

この時期において天狗党への反対派の中心人物となったのは門閥出身の結城朝道(寅寿)であった。もともと朝道は斉昭に重用されていたが、穏健な政策を志向する結城の下には次第に斉昭の藩主就任に反対して弾圧された門閥層や、かつて東湖の父・藤田幽谷と熾烈な党争を繰り広げた立原翠軒派の残党など、天狗党主導の政策に反発する者達が集まり、次第に勢力を増していった。斉昭と親密であった水野忠邦が失脚すると、後任の阿部正弘は、天保15年(1844年)5月に斉昭を強制的に隠居させ、朝道に水戸藩政の修正を命じた。斉昭はその後一時復帰した忠邦によって謹慎を解かれ、第10代藩主徳川慶篤の後見として復権嘉永6年(1853年)の黒船来航を期に斉昭が幕府から海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊王攘夷派が形成された。

「勅書」返納問題

安政5年8月8日1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇から直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。

先に朝廷から水戸藩に下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り、天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋らは水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。

この激派の動きに対し、正志斎は2月28日に、長岡宿に屯する輩は朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊であるからこれを討つとして、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、3月3日江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(桜田門外の変)。8月15日の斉昭病没後も激派の行動はやまず、さらに第一次東禅寺事件坂下門外の変などを起こすに至った。

横浜鎖港路線の成立

小石川邸から京都へ出発する徳川慶篤の一行(国立国会図書館蔵『御上京道記』より)
小石川邸から京都へ出発する徳川慶篤の一行(国立国会図書館蔵『御上京道記』より)

水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは文久2年(1862年)である。この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、慶喜の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩徳川慶篤には、武田耕雲斎山国兵部藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が追従し、小四郎らは京都において、長州藩桂小五郎久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。

文久3年5月、小四郎は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった 。小四郎は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、耕雲斎の強い慰留にもかかわらず、遊説や金策に奔走した。この頃、小四郎は武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の尊攘派豪農であった渋沢栄一とも、江戸で2度にわたり会見している。

文久4年(1864年)1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、参預会議を構成する諸侯と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸侯と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷から禁裏御守衛総督に任命された慶喜は、元治元年(文久4年2月改元1864年)4月には水戸藩士の原市之進梅沢孫太郎を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発したのである。

挙兵とその後の経過

筑波山挙兵

幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。小四郎は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。

挙兵の報を聞いた藩主徳川慶篤は、田丸の兄である山国兵部に説得を命じたが、山国も逆に諭されて一派に加わることになる。その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。この一団は筑波山で挙兵したことから筑波勢波山勢などと称された。筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜万国に輝き候様致し度」と記すなど、表面的には敬幕を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮徳川家康)の遺訓であると称していた。

藤田らの行動は藩政府の方針に反する行為ではあったものの、武田耕雲斎ら藩執行部は筑波勢の圧力を背景に幕政への介入を画策し、4月には慶喜や在京の藩士と密に連絡をとって朝廷への周旋を依頼する。幕閣側も宸翰が「無謀の攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、朝廷に対する周旋を強化する一方で、筑波勢討伐と事態沈静化のために小笠原長行の復帰を求めたが、慶喜・直克の妨害により果たせなかった 

日光参拝と田中隊の活動

藤田小四郎ら筑波勢は、元治元年4月3日1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきる予定であったが、日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、小四郎らは日光から太平山(栃木県栃木市)へと移動し、同地に5月末までに滞在した。

一方水戸城下においては、保守派の市川弘美(三左衛門)が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派排除を開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に一味は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となったため、筑波勢は攘夷を口実にしてまたも府中・筑波・柿岡など近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発し、少しでも抵抗すれば放火して殺害した。とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木宿栃木県栃木市、6月5日-6日)・真鍋宿(茨城県土浦市、6月21日)をはじめ、足利・桐生・大間々・結城などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した 

中でも惨劇が展開されたのが栃木宿であった。6月5日、栃木宿に到着した田中らは、たまたま通りかかった町人らを殺害し、家々に押し入って町民を恫喝し金品を強奪した。駆け付けた栃木陣屋の役人が町人殺害の下手人を差し出すよう命じると、田中は賠償金として150両を支払ったが、なおも宿場内に居座り続けた。このため、陣屋側は急いで武器を調えるとともに近くの猟師達を召集し、町に対しては天狗党の強請に応じないよう命じた。同日夜、田中は町に対し軍資金30,000両を要求し、町側が5,000両しか出せないと答えると田中は宿場に火を放たせ、さらに火を消そうと集まって来た町民らを殺害した。この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失した 

幕府の対応

幕府は、水戸派の川越藩松平直克政事総裁職)らの妨害により、北関東における筑波勢の横行に対して直接に追討・鎮圧に乗り出すことができず、水戸藩や周辺の諸藩に鎮撫を要請するのみで、6月までこれを放置していた。水戸藩も激派が藩政を握っていたため、藩主慶篤は「幕府が横浜鎖港を実行しない限り筑波山に立て籠る激派の鎮撫はできない」と主張していた 

4月20日、参内した家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、松平直克及び慶篤がその実行者に指名された。一方で老中板倉勝静牧野忠恭らは、筑波勢による恐喝・殺人によって関東一円の治安が極度に悪化していることを問題視しており、5月に家茂の江戸帰着を機に、すみやかに水戸藩に対し筑波勢を追討するよう求め、筑波勢の侵入に備えて厳重な警戒態勢をとっていた松戸宿千住宿を通過できるよう、市川に身元確認用の「竜」字の印鑑を送った。これに呼応する形で、市川ら諸生党と鎮派の一部の計約600人余が藩主・慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸に急行し、藩執行部から激派を駆逐して藩邸を掌握した 

6月3日早朝、登城した直克は板倉勝静酒井忠績諏訪忠誠松平乗謨の4人を排除するよう家茂に迫り、彼らを登城停止に追い込んだが、翌日には諸生党および鎮派の意を受けた慶篤が登城して直克を激しく非難し、直克もまた登城停止に追い込まれ、10日間余にわたって江戸城に主要閣僚が誰も登城しないという異常な状態が続いた。18日には直克の要求通り板倉ら4人が罷免されることになったが、20日に家茂の御前で行われた評議において、直克が筑波勢の武力討伐に反対したことで牧野忠恭井上正直から厳しく批判され、奉行・目付らも直克に猛反発したため、22日に直克は政事総裁職を罷免され、翌日には水戸派の外国奉行・沢幸良らも罷免された 。直克の失脚によってようやく筑波勢鎮圧の方針が定まり、7月8日、相良藩田沼意尊若年寄)が追討軍総括に任命された。

また、7月19日には長州藩尊攘派武装上洛し、警衛にあたっていた会津藩薩摩藩の兵らと京都市中で交戦し敗走した(禁門の変)。このため7月23日には長州藩孝明天皇によって朝敵に指定され、朝廷も幕府に対して「夷狄のことは、長州征伐がすむまではとやかくいわない」との意を示し、鎖港問題は棚上げされた格好となった。鎖港問題が棚上げされたことで筑波勢は挙兵の大義名分を失い、この騒乱は水戸藩の内部抗争としての色彩を強めていくことになった 

追討軍との開戦

元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員した  7月7日に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走する。水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった 

諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、小四郎ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。小四郎らは水戸城下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊ひたちなか市)の近くまで退却する。小四郎ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近において幕府軍に敗北した。

幕府軍による筑波勢追討が開始されると、激派の恐喝・暴行に苦しめられていた領民たちが次々と天狗党への反撃を開始する。7月10日には茨城郡友部(笠間市友部)、7月13日には結城郡中妻(常総市中妻)、7月21日には那珂郡諸沢(常陸大宮市諸沢)と、各地で恐喝に来た天狗党員が相次いで村民の反撃によって殺された 。こうした散発的な天狗党への反撃は次第に大きな地域連合へと変化し、7月25日には茨城郡鯉淵村水戸市鯉淵)など近隣四十数か村が幕府軍に呼応して挙兵した。また7月26日に諸生党が激派追討のため水戸城周辺の村々へ足軽の動員をかけると領民が続々と参加を願い出た。両者は合流して7月29日に茨城郡下土師(茨城町下土師)で田中愿蔵の部隊を攻撃し、これを撃破した 。この動きに並行する形で、各地で激派およびこれに同調していた郷士・村役人・豪農等への打ち壊しが行われた 

大発勢の出陣と那珂湊の戦い

江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は山横目を使って領内の尊攘派士民を小金宿千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ、水戸藩邸を再び掌握した 。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった 。そこで、在府の慶篤の名代として支藩宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という  。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。

大発勢は8月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。頼徳は市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。大発勢はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊ひたちなか市)に布陣した。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。8月20日、頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、22日に全面衝突となった。大発勢は善戦するが、意尊率いる幕府追討軍主力が25日に笠間に到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊へ後退した。

筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった耕雲斎も筑波勢と行動を共にする事になる。

幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍の「黒龍丸」が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に棚倉藩を中心とする軍勢に八溝山で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。

10月5日、「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ切腹させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に佐倉藩古河藩などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。常陸宍戸藩改易に処されたが、これは江戸幕府最後の改易となった。また大名改易切腹宝永6年(1709年)に江戸城内で刃傷事件を起こした前田利昌以来、約155年ぶりであった。

天狗党の乱最大の激戦地となった那珂湊は、民家、社寺、その他大半を失う大打撃を被った 。この結果、鉄製大砲を鋳造していた那珂湊反射炉の煙突が大破し、使用不能となった 那珂湊反射炉藤田東湖の尽力で建設された経緯があることから、父が造った反射炉を息子(藤田小四郎)が破壊する結果となった 

天狗党の西上

大発勢の解体と那珂湊での敗戦により挙兵勢力は大混乱に陥るが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結する。ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛し禁裏御守衛総督一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した 。耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった 

天狗党11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野上野信濃美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。田沼意尊率いる幕府軍本隊 は、天狗党太平洋側への侵入を防ぐため東海道を西進する一方、天狗党の進路上に位置する諸藩に対して天狗党追討令を発した。ところがこれらの藩はそのほとんどが小藩だったこともあって、天狗党が通過して行くのを傍観したばかりか、密かに天狗党と交渉し、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩が出る有様で、結局追討令に従い天狗党を攻撃したのは高崎藩などごく一部の藩のみであった。武蔵国岡部藩は11月11日に天狗党の接近を察し、藩兵数十人および大砲二門を配備して領内に本陣を構えていた。13日、中瀬村(深谷市中瀬)に渡河してきた天狗党に対し、岡部藩は夜襲を仕掛けて撃退し、佐藤長次郎を捕縛し数名を討取った。翌14日の戦闘も岡部藩が勝利し、天狗党は逃走した。佐藤は12月17日に処刑された。

11月16日、上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した(下仁田戦争)。また、11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利した(和田峠の戦い)。天狗党一行は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み美濃の鵜沼宿岐阜県各務原市)付近まで到達するが、彦根藩大垣藩桑名藩尾張藩犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。

天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜であったが、慶喜は自ら朝廷に願い出て、加賀藩会津藩桑名藩の4000人の兵を従えて天狗党の討伐に向った。揖斐宿(岐阜県揖斐川町)に至った天狗党は、警備の厳重な琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し蠅帽子峠(岐阜県本巣市福井県大野市)を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選んだ。12月2日(1864年12月31日)に圓勝寺(岐阜県本巣市金原)に宿泊した際には、薩摩藩士の中村半次郎と面会している 。越前の諸藩のうち、藩主が国許に不在であった大野藩は関東の諸藩と同様に天狗党をやり過ごす方針を採ったが、鯖江藩間部詮道福井藩筆頭家老府中領主本多副元天狗党を殲滅する方針を固め、兵を発して自領に通じる峠を厳重に封鎖し、天狗党敦賀方面へ進路を変更するとそのまま追撃に入った。

投降

12月11日天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。

永原は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処した 。しかし、田沼意尊率いる幕府軍敦賀に到着すると状況は一変する。関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。

この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。

乱後

天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって女児・幼児を含む天狗党の家族らをことごとく処刑した。那珂湊反射炉の関係者は、直接戦闘に参加したわけではないが、尊王攘夷派であるという理由で、自刃や獄死に追い込まれる者が多かった 

一方、遠島に処せられることになった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名の身柄は敦賀を領していた小浜藩に預けられていたが、家茂が死去して慶喜が将軍位に就くと、配流は中止されて謹慎処分へと変更されることになった。小浜藩酒井忠氏は、先代の忠義南紀派の中心人物の一人として安政の大獄を主導したことを怨む慶喜小浜藩に復讐するのではないかと警戒し、金次郎らを若狭国三方郡佐柿福井県美浜町)の屋敷に移して厚遇した。

慶応2年12月(1867年1月)、天狗党の残党・中村勇吉相楽総三、里見某ら複数名が乾退助(のちの板垣退助)を頼って江戸に潜伏。当時、江戸築地土佐藩邸の惣預役(総責任者)であった乾退助は、参勤交代で藩主が土佐へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、独断で彼等を藩邸内に匿う  

「薩土討幕之密約紀念碑」密約が締結される前段階として京都東山「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑京都市東山区(祇園)
薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都東山「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区祇園

慶応3年5月21日(太陽暦6月23日)、中岡慎太郎の仲介によって、土佐藩乾退助薩摩藩西郷隆盛の間で締結された薩土討幕の密約では、この浪士らの身柄を土佐藩邸から薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれた 。翌5月22日(太陽暦6月24日)に、乾は薩摩藩と締結した密約を山内容堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士を江戸藩邸に隠匿している事を告白。土佐藩の起居を促すと、容堂はその勢いに圧される形でこの軍事密約を承認し、退助に軍制改革を命じた。土佐藩は乾を筆頭として軍制改革・近代式練兵を行うことを決定。薩摩藩側も5月25日(太陽暦6月27日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。慶応3年9月9日(1867年10月6日)、土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)は、乾退助が江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(筑波浪士)を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てていると、土佐藩重役・寺村左膳に対し密告を行った。行秀は乾退助が水戸浪士・中村勇吉に宛た書簡の写しを証拠として所有しており、退助の失脚を狙って左膳に密告したものである 。「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろう」と言う話を漏れ聞いた清岡公張(半四郎)は、土佐勤王党の一員であった島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟で、瑞山の義弟)に乾退助を脱藩させることを提案。島村が退助に面会して脱藩を勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役・西野友保(彦四郎)に対し、水戸浪士を藩邸に隠匿していることは、既に5月22日(薩土討幕の密約締結を報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟は出来ており御沙汰を俟つのみであると返答している。果たしてこれに対して容堂は「退助は暴激の擧(きょ)多けれど、毫(すこし)も邪心なく私事の爲に動かず、群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも余(容堂)は彼(退助)を殺すに忍びず 」と答えたため事なきを得る 。慶応3年10月、この浪士たちが、土佐藩から薩摩藩へ移管されると、西郷の意を受けて庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦となる江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展した 

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いを緒戦として戊辰戦争が勃発すると、金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した  )は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。また同年2月には、改易されていた常陸宍戸藩の復旧が朝廷より認められ、切腹していた松平頼徳の父の松平頼位が宍戸藩主に再任した。

水戸を脱出した諸生党は北越戦争会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、金次郎らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。

山川菊栄は、金次郎について「無知で幼稚な彼を支配するものは、空虚な名門の思い上がりと、朝廷からの、まるで復讐をあおるような甚だふさわしからぬお言葉だけであった。五カ条の御誓文などよめもせず、読んできかされてもわかりはしなかったろうともいわれた。彼のひきいるならず者部隊のなかには、バクチですった恨みをはらすため、または酒の上のケンカから、相手に「天誅」を加えたのもあるという」と記している 

水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材のことごとくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることはなかった 

行程

元治元年11月1日大子発 -2日 川原 -3日 越堀 -4日 高久 -5日 矢板 -6日 小林 -7日 鹿沼 -8日 大柿 -9日 葛生 -10日 梁田 -11、12日 太田 -13日 本庄 -14日 吉井 -15日 下仁田 -16日 本宿 -17日 平賀 -18日 望月 -19日 和田 -20日 下諏訪 -21日 松島 -22日 上穂 -23日 片桐 -24日 駒場 -25日 清内路 -26日 馬籠 -27日 大井 -28日 御嵩 -29日 鵜沼 -30日 天王 -12月1日 揖斐 -2日 金原・日当 -3日 長嶺 -4日 大川原 -5日 秋生 -6日 中島 -7日 宝慶寺 -8日 薮田 -9、10日 今庄 -11日 新保

処刑対象

名前、処刑日(旧暦)、辞世の句の順に記載。

斬首の後、水戸にて梟首

首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日新暦4月20日)から3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。

武田耕雲斎 2月4日
新暦3月1日)
かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪
雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪
田丸稲之衛門 2月4日
新暦3月1日)
 
山国兵部 2月4日
新暦3月1日)
ゆく先は冥土の鬼と一と勝負
藤田小四郎 2月23日
新暦3月20日
かねてよりおもひそめにし真心をけふ大君につげてうれしき
さく梅は風にはかなくちるとてもにほひは君が袖にうつして

斬首

  • 大島官壽
  • 本田佐久之介
  • 澤田信之介
  • 片岡源次
  • 楠帯次郎
  • 高瀬秀之介
  • 津久井衛門七
  • 白須権次郎
  • 堀江一壽
  • 小泉虎次郎
  • 小泉芳之介
  • 津村雄二郎
  • 栗田源左衛門
  • 平野重三郎
  • 荘司与次郎
  • 寺門左太吉
  • 鈴木秀太郎
  • 関雄之介
  • 黒澤新次郎
  • 相田健之介
  • 松崎熊之介
  • 安藤正之介
  • 飯村慎三郎
  • 安島鉄次郎
  • 篠原造酒
  • 北川元三郎
  • 藤田秀五郎
  • 小田部重平
  • 高橋辰三郎
  • 森荘三郎
  • 阿久津蔵之介
  • 小林蘆左衛門
  • 大高要介
  • 小林貞七郎
  • 加藤木総吉
  • 加藤木勇之介
  • 川澄善兵衛
  • 堤三之助
  • 谷島福次郎
  • 中崎貞介
  • 中庭直三郎
  • 川津丑之介
  • 梶山敬介
  • 青木源之允
  • 青木源吉
  • 安掛藤十
  • 安清四郎
  • 小沼義太郎
  • 登戸佐兵衛
  • 幡谷善七
  • 小貫藤介
  • 皆川亀松
  • 小澤弥一郎
  • 森山勝蔵
  • 浅野善十郎
  • 前島竹次郎
  • 加藤卯之介
  • 栗又鉄之介
  • 内藤利兵衛
  • 卯月七之介
  • 飯島喜介
  • 山澤啓介
  • 長峰寅松
  • 藤田理兵衛
  • 坂本勝次
  • 鈴木荘三郎
  • 岡野亀太郎
  • 小松崎荘之介
  • 小沼栄介
  • 田村長衛門
  • 山田才介
  • 金澤啓蔵
  • 坂本啓介
  • 樽井総吉
  • 滝平主殿(瀧平主殿)
 

逸話・伝承

  • 田中愿蔵は、代官所から処刑場である久慈川の河原まで連行される道すがら、馬上で下記の歌を繰り返し高唱したという。
みちのくの山路に骨は朽ちぬとも猶も護らむ九重の里 
  • 諸生党によって斬首された田丸稲之衛門の次女・八重は、まだ17歳の若さながら下記の句を残した。
引きつれて死出の旅路も花ざかり
  • 天狗党に参加した常陸久慈の僧侶・不動院全海は、その剛力から「今弁慶」と呼ばれていたが、和田峠の戦いで討死した 。この時、高島藩士・北沢与三郎(東山一作とも)はその力にあやかろうと全海の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして炙って食べた 。それを聞いた同じ高島藩士の飯田守人は、「人肉を食らうとは以ての外」として北沢と絶交したという 。のちに二人は和解して、赤報隊の援助をしている。
  • 渋沢栄一は、藤田小四郎を筆頭として天狗党員には知己が数多くいた。その中の一人、信州飯田郷士の薄井龍之は藤田から命を受けて、京都で一橋慶喜の家臣を勤めていた渋沢にひそかに面会に行ったが、天狗党との関係が露見することを怖れた渋沢に追い払われた 
  • 敦賀の古老が身近な人々に語った(戦時中頃か)ことによれば、天狗党の処刑は公開で行われたので見物に行ったが、引き出された党員は逃亡を阻止するためか両足を竹に括られていたという。
  • 天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君・直弼の無念を晴らした。またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、後々の報復を恐れた春嶽が命令して役目を辞退させた。
  • 永原甚七郎は明治5年(1872年)に、自らの菩提寺である金沢の棟岳寺に天狗党の供養碑を建立した。これは今日「水府義勇塚」と称されている。なお、天狗党処刑の報に接した永原が、自分の説得がなければ天狗党を無残に殺させずに済んだと激しい自責の念に駆られ、精神を病んで死んだという話が後に創作されたが、実際の永原は明治2年1869年)から学政寮・軍政寮の副知事を務めるなど、引き続き金沢藩の重臣として政務に奔走し、明治6年1873年)に61歳で死去している。
  • 水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。
  • 慶応3年(1867年)に起きた出流山事件では、挙兵した浪士たちが天狗党を連想させたため、当時の周辺住民により「出流天狗」と呼ばれた。
  • 天狗党の処刑地である敦賀市は、昭和40年(1965年)に水戸市姉妹都市となっている。悲惨な待遇や処刑は幕府軍が行ったもので、地元の小浜藩は当時から同情的であったとされている。

慰霊碑等

水戸烈士追悼碑
水戸烈士追悼碑
  • 福井県敦賀市松島町には、天狗党員353名が処刑後に埋葬された塚があり、「武田耕雲斎等墓」として国の史跡に指定されている。塚の近くには「水戸烈士追悼碑」や耕雲斎の像が建てられている。また、明治7年(1874年)には、刑死者353名に加え、戦死・戦病死者も合わせた411名の天狗党員を祀った松原神社が、市道を挟んで、塚の西側に建立され、毎年10月10日には例祭が行われている。さらに、昭和29年(1954年)には、天狗党員が監禁された鰊蔵が境内に移築され、水戸烈士記念館となっている。
  • 群馬県甘楽郡下仁田町には、下仁田町歴史館に「元治元年水戸天狗党下仁田戦争懐古碑」及び、天狗党の変145年記念として植樹された「烈公梅」があり、山際稲荷神社(山際公園)に小松宮彰仁親王揮毫による「義烈千秋の碑」、及び「維新之礎碑」が、本誓寺等に天狗党員、高崎藩士の墓がある。町内下小坂には勝海舟揮毫による「高崎藩士戦死之碑」が建てられており、高崎藩本陣が置かれた里見家の蔵には下仁田戦争時の弾痕が残っている。
  • 長野県諏訪郡下諏訪町和田峠古戦場付近には天狗党戦死者を供養する「浪人塚」がある。
  • 岐阜県中津川市には、和田峠の戦いにおいて銃撃により負傷し、敵に首を奪わまいとして切腹した横田元綱首塚がある。
  • 埼玉県深谷市血洗島の薬師堂には、同所に葬られた天狗党員2名を供養する渋沢栄一書による「水藩烈士弔魂碑」がある。

茨城県

  • 昭和44年(1969年)、水戸市松本町に天狗党員を祀った回天神社が建立された。昭和32年(1957年)に敦賀市から水戸市常磐町の常磐神社に移築された鰊蔵が、平成元年(1989年)に回天神社境内に再移築され「回天館」として天狗党資料の展示が行われており、扉や板壁などには天狗党員の絶筆が残されている。
  • 天狗党員の家族らが処刑された水戸赤沼牢跡には慰霊碑が建てられている。
  • ひたちなか市には那珂湊の戦いに関しての石碑等が多く存在し、鶴代地区には、部田野原での戦闘の戦死者を葬った「首塚」及びこれを供養した「忠勇戦士の墓」と「天狗党員墓」があり、三反田地区の百色山見本林には「天狗党百色山戦場供養碑」がある。中根堂山墓地には幕府側で戦った福島藩士を葬った「元治甲子乱戦死墓」があり、田彦地区には田彦宿の戦闘で戦死した宇都宮藩士9人を葬った「宇都宮藩士九人之墓」および役夫2人の「宇都宮藩役夫両人之墓」がある。また、天狗党本陣があった聴法寺には「筑波勢本陣跡」の碑が、和尚塚古墳には、部田野原での戦闘における天狗党の陣跡として「天狗勢稲荷山陣地跡」の石碑が建てられている。
  • 鹿嶋市には天狗党の一隊大平組に所属し処刑された23人の「天狗党の墓」がある。
  • 笠間市池野辺には天狗党員の「首塚(天狗塚)」や「胴塚」がある。同市大田町の養福寺には天狗党殉難碑がある。
  • 行方市には麻生藩に処刑された天狗党員を供養する「天狗塚」、大宮神社境内には天狗党の忠魂碑がある。
  • つくば市筑波山神社には天狗党の顕彰碑及び藤田小四郎の像がある。また、栗原地区には土浦藩によって当地で討伐された19人を供養した天狗塚がある。 

栃木県

福島県

関連作品

小説

山田は天狗党の上洛行と毛沢東長征とを比較し、天狗党に武士階級以外の階層を含む水戸藩領以外から多数の参加者がいたことや、行軍中に政治的な宣伝を行っていることなどを類似点として挙げており、加えて乱の初期から過酷な行軍の間にかけて意識や思想に何かしらの変容があった可能性を指摘している。
1994年度の大佛次郎賞受賞作。

映画

三好十郎の戯曲「斬られの仙太」を原作に高岩肇 、稲垣俊が脚色。仲代達矢加藤剛若尾文子十朱幸代らが出演した映画。

TVドラマ

楽曲

脚注

注釈

  1. 元治元年(甲子年)に起こったことから。
  2. 幕府陸軍約3300人、高崎藩・笠間藩兵約2000人に、諸生党が結成した追討軍数百人が追従した。
  3. 大挙して水戸に進発した一団を「大発勢」と呼ぶ。
  4. 昭和16年1941年)に作られた『明治維新水戸風雲録』では、この軍議の際に耕雲斎は最期の一戦を仕掛け討ち死にする事を主張したが、小四郎が反対し上洛する事に決まったという。
  5. 天狗党が諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことは、島崎藤村の代表作『夜明け前』にも記述されている。
  6. 大目付黒川盛泰らが従軍。
  7. ただし、加賀藩側の天狗党に対する評価は「是に於てか、尊王も佐幕もなく、攘夷もなく開国もない。唯有るものは一藩内の勢力争奪の為めにする交刃と砲火とのみであった」というものであった。(『水戸浪士西上録』218頁。石川県図書館協会、1934年)
  8. 細布(さいみ)と呼ばれる麻の、官軍支給品の陣羽織を着用していた。
  9. 水戸藩出身で維新の功労で唯一爵位を受けた香川敬三文久3年の上洛後に水戸に帰還せずに京都で尊皇攘夷運動を続けていたために結果的に一連の水戸藩の争乱に巻き込まれなかったことによる。
  10. 「九重の里」とは宮中のことだとされる。
  11. 但し横瀬夜雨の『天狗塚』では、討伐されたのは12人のはずが昭和の改葬の際に掘り出したところ19人分の骨が出てきたとされ、素人の数え間違いか古い塚か墓に投げ込んだからではないかと推測している。

出典

サイコロジカルオペレーション  人間の持つ認識力、想像力、情報量、中立性には常に不完全性がある。また社会や国際情勢という実生活と比べて間接的な状況というものは、おおむね間接的な情報を材料にし、自らの世界観や前提、心理的な無意識などの、ある一定の虚構性に基づいて形成、強化されていく。そのために現実との齟齬が生じる可能性が常に存在するため、ここに宣撫工作、情報操作などの手段によって心理的な影響を及ぼす余地がある。

心理戦

ウィキペディア フリーな encyclopedia

 

心理戦(しんりせん、: psychological operations, PSYOP, psychological warfare, PSYWAR)は、対象目標となる国家、組織、個人などの意見、態度、感情、印象、行動に影響を及ぼすことを目的として、身の周りや情報に計画的な活用・応用・操作・宣伝・防止・観察・分析などの行為を施す、視野を広くすることにより、政治的目的あるいは軍事的な目標の達成に寄与することを狙った闘争の形態をいう 。場合によっては神経戦、宣伝戦、思想戦、情報戦プロパガンダなどとも言う。

ボードゲームにおける心理戦については盤外戦を参照のこと。

概要

人間の持つ認識力、想像力、情報量、中立性には常に不完全性がある。また社会や国際情勢という実生活と比べて間接的な状況というものは、おおむね間接的な情報を材料にし、自らの世界観や前提、心理的無意識などの、ある一定の虚構性に基づいて形成、強化されていく。そのために現実との齟齬が生じる可能性が常に存在するため、ここに宣撫工作情報操作などの手段によって心理的な影響を及ぼす余地がある。 例えば人間は未知の出来事や理解不能な行為に直面すると、自身の経験や偏見などに基づいた印象しか喚起することができない。つまり人間の思考力はしばしばその保有する情報によって規定されることがある。 心理戦においては外国または自国の国民世論や政策決定者の思考、軍隊士気など心理的な対象への心理行動(Psychological action)の実行が行われ、様々な政策軍事作戦の遂行を助けることが出来る。心理行動は心理的媒体を使用して潜在敵国や中立国での潜在的・現実的な敵国の正当性や影響力を低下させ、また同時にこれらの国々と友好的気運と態度を助成するように企図されているものである。心理戦は周囲を観察しながら行うものでもある為、応用力と観察力も鍛えられる。

分類

情報戦

心理戦は情報戦の中に位置づけることができる。情報戦において、敵の情報活動に対抗した対情報は「攻勢対情報」と「防勢対情報」の作戦行動に大別が可能であり、これに従って電子戦、軍紀、心理攻撃、情報攻撃を指す心理作戦と防諜、電子的防護を指す対心理作戦と大別できる。

国家心理戦

国家心理戦は敵国・中立国・友好国・自国民・自軍を対象とする。平時・戦時を通じて心理的に働きかけることで国家政策をより有効化することを目的とし、政治的・経済的・軍事的・外交的な手段を計画的に行使することを言う。

軍事心理戦

軍事心理戦とは、軍事的な活動において軍隊の作戦目標の達成に寄与するために、敵軍・敵国民の世論感情、印象、態度などに影響を与えることを目的として、宣伝などを計画的に行うこと及び敵の同手段への対策を行うことをいう。自衛隊においては、心理戦は通常この軍事心理戦をいう。また軍事心理戦もその作戦目標から戦略心理戦と戦術心理戦に分類して考えることができる。

原則と基礎概念

  • 明確な目標を定義する。
  • 対象への分析を基礎とする。
  • 聴視者に対して適切なメディアを使用した上で心理作戦を立案する。
  • 作戦目標と密接な関係をもつ結果とその価値を見極める。
  • 心理作戦に抵抗する敵を最小化するように企図する。

心理作戦は、作戦目標となる対象により、必要な分析や運用するメディアが異なる。また一般状況が戦争か、戦争以外の軍事作戦かによっても異なる。

  • 心理主題(Psychological theme)とは心理作戦の基本となっている理念または構想である。
  • 基礎的心理作戦研究(Basic psychological operations study)とは、心理作戦に関係の深い国や地域の特性を簡潔に記述した、心理作戦の計画と実行に直ちに参考となる研究。
  • 鍵象徴(Key symbol)とは心理作戦における単調で示唆的な反復的な要素を指す。
  • 対象聴視者(Target audience)とは心理作戦の目的を達成するために設定される対象。
  • 心理状況(Psychological situation)とは目標観衆の感情状態・精神的傾向・動機の現状である。
  • 心理媒体(Psychological media)とは目標とした聴視者とのあらゆる種類の交流を確立するための技術的・非技術的な手段。
  • 心理作戦アプローチ(Psychological operations approach)とは目標聴視者の一部に目標の反応を引き起こすために用いられる技術。
  • 宣伝(Propaganda)とは情報・理念・教義などを直接的または間接的に対象の意見・感情・態度・行動にも影響を及ぼす訴え(プロパガンダも参照されたい)。
  • 広報業務(Public affairs)は諸機関による一般国民や地域社会への広報活動。

手段

政治宣伝

心理戦における主要な手段は政治宣伝(Propaganda、プロパガンダ、広報)である。これは主に政府の情報機関、省庁の広報室、軍隊の心理作戦部隊などにより行われるものであり、戦時の国民指導、政府発表、報道検閲、出版物や各種通信への調査及び関与、映画演劇音楽での思想動向調査、外国語報道の指導、ポスタービラパンフレットの配布などが具体的な方法として挙げられる。その宣伝はその内容からブラックプロパガンダ英語版(Black propaganda)、グレープロパガンダ(Grey propaganda)、ホワイトプロパガンダ(White propaganda)に分類して理解される。ブラックプロパガンダは事実以外から生じる宣伝であり ホワイトプロパガンダは当局によって普及される宣伝であり 、グレープロパガンダ情報源が不明な宣伝を指す 。これらは一方的な宣伝としてだけ用いられるのではなく、敵の宣伝内容を中和するための中和宣伝(Counteracting propaganda, Counterpropaganda)としても使用される場合もあり、その運用は多様である 

軍事宣伝

戦場における宣伝活動は通常の宣伝とはその内容が異なる点が多い。これは国家心理戦における対象が世論である一方、軍事心理戦における対象は士気であるからである。軍事宣伝の形態には敵の一般的な士気や団結を低下させることを目的とした戦意作戦(MO, Morale Operations)と呼ばれる宣伝と、敵に降伏・逃亡・対上官犯罪などの利敵行為を行わせる宣伝の二種類がある。あらゆる宣伝は事実に基づいていることが必要であるが、対軍隊の宣伝は特に軍事情勢に根拠付けられた適切な情報を用いることが必要である。これは一般的に戦闘を経験することによって兵士の思考が現実主義化する傾向が認められるという見解から考えられている。故に適切な対軍隊の宣伝は、対象となる兵士の思想や心理の動向を個別に把握した上で、その兵士にとって受容しやすい宣伝を企図しなければならない。 ちなみに対軍隊の宣伝の内容としては、敵がより降伏しやすくするような情報、敵が徹底抗戦することの非合理性や無意味さについての主題、敵の絶望的な状況についての情報、敵が直面するであろう将来の絶望的な戦況、降伏のための具体的な行動要領の情報などが含まれていることが適切である 

教育

教育は機能的に観察すれば、人間に対して一定の知識規範技能を付与する過程であり、心理戦においては敵性の宣伝工作に対する準備の意味を持つ。人間は発達心理学によると幼児期、児童期、青年期に渡って段階的に知的能力を発展させていくが、特に青年期の知的発達は顕著である。青年期以降の合理的思考方法は「形式的操作」と呼ばれ、抽象的・論理的思考を司る。これは特に学校教育の影響が強く影響され、ロシア心理学者ルリアによると学校教育の未経験者は実体験に基づかない命題を前提に推論することが困難であることが観察されている 。知的能力の欠如は高次思考力の低下による敵宣伝の効果の増進や、理解力の低下による味方宣伝の効果の減衰などが生じる可能性がある。団結を阻害し、士気を減退させるような味方にとって有害なステレオタイプを解消することや、利敵行為を防止するための精神教育なども行うことができる。

検閲

検閲とは、政府の情報機関などによって、新聞などの出版物や放送・映像・郵便などにおける表現や内容に対し、強制的に関与することである。これは敵の諜報活動を防止する防諜の意味もあるが、心理戦においては敵の宣伝を宣伝対象から隔離して防止する機能もある。国民の防衛意識の低下や反乱、利敵行為の阻止などが目的で、防衛的手段として行われる。

宣伝外交

宣伝外交(Propaganda diplomacy)は政府当局によって外国の国民世論に親善的・友好的な影響を及ぼすために行われるあらゆる対外活動である。広報外交(Public diplomacy)ともいう。文化教育科学技術芸術スポーツ観光、親善などの分野における活動として行われることが多い。市民による民間交流とは区別して理解される 

テロリズム

テロリズム(Terrorism)は心理戦において対象に継続的に恐怖を与えることによって政治目的の達成に接近する手段である。その具体的な方法としては、破壊工作・暗殺・爆破・狙撃・放火・誘拐・虐殺・襲撃・宣伝などが挙げられる。テロリズムの対象としては、政府・国民世論・国際世論があり、その対象によって手法も応用される。テロリズムの手法は予測不能性を十分に発揮されるものが使用され、その心理的な影響力が重視される 

脚注

  1. ウォルタ・リップマン、掛川トミ子訳『世論 上下』(岩波書店)13-18頁
  2. ウォルタ・リップマン、掛川トミ子訳『世論 上下』(岩波書店)27頁
  3. パウル・ラインバーガー著、須磨彌吉郎譯訳『心理戦争』(みすず書房、昭和28年)233頁
  4. パウル・ラインバーガー著、須磨彌吉郎譯訳『心理戦争』(みすず書房、昭和28年)227-228頁
  5. パウル・ラインバーガー著、須磨彌吉郎譯訳『心理戦争』(みすず書房、昭和28年)228頁
  6. 山内弘継、橋本宰監修、岡市廣成、鈴木直人編『心理学概論』(ナカニシヤ出版、2006年)53頁
  7. 松村正義『新版 国際交流史 近現代日本の広報文化外交と民間交流』(他人館、2002年)9-13頁
  8. 佐渡龍己『テロリズムとは何か』(文藝春秋、平成13年)

参考文献

  • ウォルタ・リップマン、掛川トミ子訳『世論 上下』(岩波書店
  • パウル・ラインバーガー著、須磨彌吉郎譯訳『心理戦争』(みすず書房、昭和28年)
  • 眞邉正行『防衛用語辞典』国会刊行会
  • Air Force Doctrine Document 2-5.3. Psychological Operations. (Secretary of the Air Force 27 August 1999)

関連項目

外部リンク

典拠管理データベース

ゾロアスター教は、古代ペルシャで生まれた宗教です。この宗教では、善と悪の二つの力が存在し、人々は善を選ぶことが大切だと考えられています。また、火を神聖なものとして崇めることも特徴的です。今でもイランやインドなどで信仰されている宗教の一つです。

ゾロアスター教

古代ペルシア起源の宗教 / ウィキペディア フリーな encyclopedia

 

親愛なるWIKIWAND AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:

 

トップの事実と統計を挙げていただけますか ゾロアスター教?

1. ゾロアスター教は古代ペルシア起源の宗教であり、紀元前6世紀に創始されました。
2. アフラ・マズダ最高神とし、善悪二元論を信じます。
3. 火を神聖視し、火儀式が重要な要素です。
4. ファルヴァルダエ(四大祭)が年間行われます。
5. ゾロアスター教徒は「善行」の実践を重視します。
6. 古代ペルシャ帝国では公式宗教として広まりました。
7. 現在でもイランやインドなど一部地域で信仰されています。
8. 聖典『アヴェスター』には詩篇や法典が含まれています。
9. 人々の
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ゾロアスター教は、古代ペルシャで生まれた宗教です。この宗教では、善と悪の二つの力が存在し、人々は善を選ぶことが大切だと考えられています。また、火を神聖なものとして崇めることも特徴的です。今でもイランやインドなどで信仰されている宗教の一つです。
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ゾロアスター教ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت Dîn-e Zardoštドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra英語: Zoroastrianism)、祆教(けんきょう、拼音xiān jiào シェンジャオ)または拝火教(はいかきょう)は、古代ペルシアが起源の、ネオペイガニズムを除く現存する宗教の中では最長の歴史を持つとされる宗教である。聖典は『アヴェスター』。

概要

聖火台跡(イラン)
聖火台跡(イラン)
チャクチャク (ヤズド州)
チャクチャク (ヤズド州)

イラン高原に住んでいた古代アーリア人ミスラヴァーユなど様々な信仰する多神教(原イラン多神教 )であった 。この原イラン多神教を基に、ザラスシュトラゾロアスターツァラトゥストラ)がアフラ・マズダーを信仰対象として創設したのがゾロアスター教のルーツである 

紀元前6世紀アケメネス朝ペルシア成立時、既に王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている 。これに対し、3世紀のサーサーン朝成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある 紀元前3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは国教とされ、王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた 。サーサーン朝期には聖典アヴェスター』が整備された。また、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジア中国へも伝播していった。

7世紀後半以降、アラブ人イスラム教徒の支配でゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降、イギリスアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒の関係が深まり、現在も少数派ながらインド経済社会で少なからぬ影響力を持つ 。聖地はイラン、ヤズド近郊に位置するチャクチャク 

ゾロアスター教(善)の象徴としての純粋な「」(アータルアヴェスター語: ātar)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全神殿には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、神殿内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する 。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パールシー(パースィー、パーシー)」の語を用いて、パールシー教ないしパーシー教とも称される。

今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている 。インド・イラン・欧米圏などにも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派にとどまっている。

その来世観・終末論セム的一神教仏教などに影響を与えたという説もある 二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。「世界最古の一神教」とも言われることもある。

教義

ザラスシュトラの教え(原ゾロアスター教)がどのようなものだったのか、聖典アヴェスター』が極めて難解なことから、今日では正確には分かっていない。様々な宗教の影響を受けて、6~9世紀にようやく教義が確立したとする向きもある。

ここではゾロアスター教の主な教義を記述したのち、その教義史について概観する。

儀式

ゾロアスター教で最重要の儀式とされるのがジャシャンである。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質界・精神界に平和秩序をもたらすと考えられている ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することで生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる ゾロアスター教祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む 。ここでは清浄さが求められる。

7歳から12歳ころまでにかけてゾロアスター教入信の儀式「ナオジョテ(ナヴヨテ)」が行われる。儀式で入信者は純潔と新生の象徴である白い(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義・道徳とを守ることを誓願する 

守護霊

ペルセポリスにのこされたゾロアスター教の守護霊フラワシ像
ペルセポリスにのこされたゾロアスター教守護霊フラワシ像

ゾロアスター教守護霊は、を表し、善のために働く「フラワシ」である 。フラワシはこの世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として神の神髄を表し、助けを求める人を救うであろうと信じられている 

礼拝

ゾロアスター教礼拝は、「拝火神殿」と称される礼拝所で行われる。神殿は信者以外は立入禁止で、信者は礼拝所に入る前、手・顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げる 

葬送

ヤズド(イラン)の「沈黙の塔」
ヤズド(イラン)の「沈黙の塔」

ゾロアスター教の葬送は、今日では珍しい鳥葬風葬である 。この葬送は、遺体を埋納せず野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるもので、そのための施設が設けられることもある 。この施設は一般に「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむ構造となっている ゾロアスター教の教義上、人間はその肉体もアフラ・マズダーなど善神群の守護のもとにあるため、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされないよう、鳥葬・風葬がされると説明されている 

最近親婚

ゾロアスター教聖典アヴェスター』のヴェンディダード(除魔の書)などでは、自分の親・子・兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼び、最大の善徳と説いた。アケメネス朝期の伝承を綴った『アルダー・ウィーラーフの書』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが7人の姉妹と近親婚したこととされる 。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、平民など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。

善悪二元論ゾロアスター教の神々

ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論終末論である 。世界は至高神アフラ・マズダー率いるスプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユ(アフリマン)、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と悪神群(ダエーワ)の両勢力が互いに争う場で、生命との闘争とされる  

最初に2つの対立するがあり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は・虚偽を選んだ アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手として天・水・大地・植物・動物・人間・火の7段階からなるこの世界を創造した。各被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された 。対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、歴史を創造された「この世界」を舞台とした2大勢力の戦いと理解した。

アフラ・マズダーと善神群

アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝のアルダシール1世(左)のレリーフ(ナクシェ・ロスタム)
アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝のアルダシール1世(左)のレリーフナクシェ・ロスタム

アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神。みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空大地植物動物の順番で創成した、世界の創造者である 

アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。

アンラ・マンユと悪神群


悪神アエーシュマの影響で成立したと考えられる。 善神と対峙する悪魔は、以下の通り。

終末論と三徳

ゾロアスター教歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年とされ、3000年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界だったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。全人類は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つよう神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできた者は、自分自身の意識が形となった美しい少女ダエーナーに導かれて 楽土(天国)へ渡り、悪を選んだ者は橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には善悪は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。

ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争後、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられ、その後、新しい理想世界への転生が説かれる 。そして、そのなかで人は、生涯において善思・善語・善行の3つの(三徳)の実践を求められる。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国地獄のいずれかへか旅立つと信じられた 。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる 

自然崇拝的要素

ゾロアスター教自然崇拝の原イラン多神教を母体とし、ザラスシュトラがそれを体系化したと考えられる 。原イラン多神教の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている 

教義史

ゾロアスター教の教義 
ザラスシュトラアヴェスター語の口伝『アヴェスター』の『ガーサー』部分を遺しているが、その正確な意味は現在では失われている。また『ガーサー』は世界に秩序をもたらす呪文に過ぎず、まとまった思想内容を見出すのは困難である。以下にザラスシュトラが説いたと思われる思想を記述するが、これがどこまでザラスシュトラ本人によるものかは分からない。紀元前500年ごろ(アヴェスター語が口語として機能していたと考えられる最後の時期)、神官たちによって口伝アヴェスターが一貫したストーリーとして編集され、以下のストーリーを成立させたとする説もある
最高神アフラ・マズダーから善の霊スプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユが生まれ、相争う。アフラ・マズダーは、混沌とした宇宙に秩序をもたらそうと苦労する存在として描かれ、スペンタとアンラの争いも傍観しているだけである。原イラン多神教の神々は善側と悪側に再編され、それぞれスペンタとアンラに仕える存在とさせられた。人間はそのどちらかにつく自由意志であり、善につけば天国、悪に就けば地獄へ死後向かうと定められた。
なお、ザラスシュトラアフラ・マズダーのみを崇める拝一神教的な教えを説いたが、弟子たちによって原イラン多神教の神々が取り入れられたとする説もある 
マゴス神官団の影響(後述
イラン高原に住んでいたメディア王国では、マゴス族(マゴス神官団)が祭儀を担っていた。ヘロドトスストラボンによるとマゴスは鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物の殺害、最近親婚など独自の儀式を持っていた。これらの教義がゾロアスター教に混入した可能性が指摘されている
ズルワーン教の教義(参照
サーサーン朝時代には狭義のゾロアスター教ザラスシュトラの教え)が国教となるが、外国語資料ではズルワーン最高神として描かれる。アフラ・マズダーはスペンタ・マンユと混同し、善神オフルマズドとして悪神アフレマン(アンラ・マンユ)と同格になった。ズルワーン教にはヘレニズムやインド思想の影響が指摘されている。
二元論的ゾロアスター教の教義 
6~9世紀、ゾロアスター教から中立な最高神が消滅し、善なる最高神オフルマズドと悪の最高神アフレマンが並立する純粋な二元論が成立する。この教義は豊富なパフレヴィー語資料によって現代まで詳細が伝わっており、善悪二元論として一般的にイメージされるゾロアスター教もこれに近いと思われる。
また、近年ではマニ教から二元論を取り入れたとする説もある 

ゾロアスター教聖典は『アヴェスター』である。ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分で構成され、サーサーン朝期に編纂されたと考えられる。全21巻とされ、そのうち約4分の1が現存する  。書籍化にあたり、古代アヴェスター語パフラヴィー文字に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字やギリシア文字を借用して、新たにアヴェスター文字が作られた。アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのはパフラヴィー語の後塵を拝した 。しかし、『聖書』や『クルアーン』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。『アヴェスター』が書かれたペルシア州の遠方では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず(または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも(少なくとも預言者としては)認識されていなかった。さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある 

メソポタミア神話エジプト神話ギリシア神話の信仰が失われた今日、ゾロアスター教ヒンドゥー教と並び現存する世界最古の体系的宗教・経典宗教とも言われる 。ただし、聖典の確立と明確な教義の整備という点では、後発のキリスト教・仏教・マニ教などに数世紀の遅れをとった 

歴史

資料

ゾロアスター教に関する資料は以下の3時代に偏って存在する 

このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、『アヴェスター』その中でも特にザラスシュトラ直伝と思われる「ガーザー」の解釈については決定的な説が存在しない。ズルワーン主義についても内部資料が少ないため正確なことは分かっていないが、現代にまで伝わる二元論的ゾロアスター教とはかなり差があると考えられる 

分類

アーリア人の宗教には様々な形態があり、時代によって大きな変化を遂げ、また地域差も大きかったと考えられている   。ここでは、アーリア人の諸宗教について想定される宗派を一覧化する。

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崇拝対象による分類
名称 崇拝対象 備考 出典
原イラン多神教 アフラ・マズダー
ミスラ
ヴァルナなど
古代アーリア人によって信仰された宗教
マズダー教・原ゾロアスター教などの源流として想定されている
後述
マズダー教 アフラ・マズダー アーリア人の宗教のうち、特にアフラ・マズダーを崇拝した宗教
ゾロアスター教の源流としても想定される
アケメネス朝の国教とする説もある
 
ミスラ教 ミスラ アーリア人の宗教のうち、特にミスラを崇拝した宗教
パルティア・アルメニアなどの国教とする説もある
後述
ズルワーン教 ズルワーン アーリア人の宗教のうち、特にズルワーン最高神として崇拝した宗教
サーサーン朝の国教とする説もある
 
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地理・時代・民族による分類
名称 崇拝対象 備考 出典
ゾロアスター教 アフラ・マズダー ザラスシュトラによって開かれたゾロアスター教のルーツ
ナオラタ部族国家の国教
狭義のゾロアスター教はこの流れを汲む宗派のみを指す
後述
アケメネス朝の国教 アフラ・マズダー アケメネス家に信仰されたマズダー教
狭義のゾロアスター教であるかは議論がある
後述
インドのイラン系宗教 ミヒラ(ミスラ?)など インドのイラン系アーリア人によって信仰された宗教
パールシー以前2、3の集団について記録が残っている
後述
パルティアの国教
パルティア的ゾロアスター教
ミスラなど? アルサケス家に信仰されたアーリア人の宗教
アルメニアの国教と近縁とされる
狭義のゾロアスター教であるかは議論がある
後述
アルメニアの国教
アルメニアゾロアスター教
ミスラなど 前1世紀 - 後4世紀にアルメニアの王族達に信仰されたアーリア人の宗教
ミスラの地位が高いため、ミスラ教ともされる
アルメニアキリスト教化に伴い衰退
ミヒラ教 ミヒラ(ミスラ?) アーリア系遊牧国家エフタルの王ミヒラクラが信仰した宗教
太陽崇拝を伴うミスラ崇拝と思われる
インドに残った集団はガンダーラ・ブラーフマガと呼ばれた
 
サーサーン朝の国教
ペルシア的ゾロアスター教
アフラ・マズダー サーサーン家に信仰された狭義のゾロアスター教
ペルシアのイスラム化に伴い衰退
後述
二元論的ゾロアスター教 オフルマズド 一神教的要素を排除したゾロアスター教
善の最高神オフルマズド(アフラ・マズダー)を崇める
サーサーン朝後期に成立したと思われる
後述
メソポタミアゾロアスター教 ズール(ズルワーン?) サーサーン朝期にメソポタミアで信仰されたと思われるゾロアスター教ズルワーン教?)
ズールなる神に生贄を捧げる
 
ホラーサーン的ゾロアスター教   イスラム統治時代初期にホラーサーンで信仰されたと思われるゾロアスター教
預言者も啓典もないとされるため、二元論的ゾロアスター教とは異なる
 
パールシー アフラ・マズダー イスラムの支配を逃れインドに移ったゾロアスター教徒のグループ
狭義のゾロアスター教の国教の流れを汲む
後述
ソグド的ゾロアスター教   ソグド人に信仰されたアーリア人の宗教
中国では祆教と呼ばれた
中央アジアから唐代の中国まで広がった
中央アジアイスラム化により衰退
後述
宋代漢民族ゾロアスター教   ソグド的ゾロアスター教が宋代までに漢化したもの
引き続き祆教と呼ばれた
後述
クルド人ゾロアスター教   クルド人に信仰されていたアーリア人の宗教
詳細不明
後にイスラム教と混濁してヤズィーディーに変化する
後述
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原イラン多神教

ザラスシュトラは全く新しい宗教を創設したわけではなく、既存宗教(原イラン多神教)の祭司として『アヴェスター』で描かれる。この宗教は、「インド・イラン人の宗教」や「アーリア人の宗教」、「ヴェーダ型の多神教」、「先ガーサーの宗教(pre-Gathic religion)」などとも呼ばれ、多神教で太陽・火・水・雷・嵐などを崇拝していた。インド古代宗教との類似点も指摘される 。そして「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた  

メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱の「主」は、極めて倫理的な存在で、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、自らもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる 。そのため、単にアフラ・マズダーやミスラを信仰するだけでは、厳密にはゾロアスター教徒と言えない。

異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教信仰告白フラワラーネ」にあらわれる。そこでは5条件が挙げられた 。すなわち、

  1. アフラ・マズダーを礼拝すること
  2. ゾロアスターの信奉者であること
  3. 好戦的で不道徳な神ダエーワと敵対すること
  4. アフラ・マズダーが創造した偉大な7つ(ないし6つ)の存在アムシャ・スプンタ(「聖なる不死者」)を礼拝すること
  5. すべての善をアフラ・マズダーに帰すること

である。

この5つに加え、アフラ・マズダー創造主と捉えたことが、原イラン多神教と著しく異なる。 

原イラン多神教がいつどのようにザラスシュトラの創設した「原ゾロアスター教」へ引き継がれたのかは学説が分かれている。「2段階説」では、原イラン多神教ザラスシュトラに直接引き継がれたことになっている。これに対してザラスシュトラ以前からアフラ・マズダーを崇拝したマズダー教が存在したとして、原イラン多神教→マズダー教→原ゾロアスター教の順に成立したと見る「3段階説」もある。この説に従えば、ザラスシュトラ以降、3者が並存した時期がある可能性もある 

ゾロアスター教

ゾロアスター教最高神と二元論 

 

 
 
 
 
 
善の霊スプンタ・マンユ
 
 
 
叡智の神アフラ・マズダー
 
 
 
 
 
 
悪の霊アンラ・マンユ
 
 


太字最高神

中立的なアフラ・マズダーが宇宙を秩序化
その下で善の霊と悪の霊が争う
ザラスシュトラの肖像(3世紀)。「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その生涯は今となっては不明な部分も多い[6][8]
ザラスシュトラの肖像(3世紀)。「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その生涯は今となっては不明な部分も多い  

ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ・スピターマゾロアスター教の成立に関しては、不明な部分が少なくない ザラスシュトラの誕生地は、アゼルバイジャン説・スィースターン説・中央アジア説などがある。活動時期は言語学的見地から紀元前1000年以前とする説と伝承などから紀元前1000年-前6世紀とする説がある。ザラスシュトラは、原イラン多神教を改革し、倫理的要素を付加した二元論・終末論を軸とする新宗教(原ゾロアスター教)を創設した 

ハエーチャスパ族の神官一家に生まれたザラスシュトラは、20歳で放浪の旅に出た 。彼は、唯一神アフラ・マズダーの啓示を伝える使者を名乗り、この世界は善悪二神の争いの場であると説いた 。このような世界観は、一神教二元論とも言われる 

ザラスシュトラが42歳の時、ナオラタ族の王カウィ・ウィーシュタースパに登用され、宰相とも婚姻関係を結び権力の後ろ盾を得た。ザラスシュトラの死後、娘婿(宰相)のジャーマースパ・フウォーグワが教団を引き継いだ。教祖が死んでも国家権力を背景としていた教団が揺らぐことは無かったと見られている ゾロアスター教発祥の地と信じられているアフガニスタン北部の古代バルフ(Balkh、ダリー語ペルシア語بلخ)に、ザラスシュトラが埋葬されたと伝えられている。この地はゾロアスター教徒から神聖視されてきた。

ジャーマースパ以降、教団指導部は教勢拡大のためにザラスシュトラの急進的な教えを軟化させ、原イラン多神教の神々に独自の機能とそれに捧げる伝統的呪文を認めた。これにより原イラン多神教と原ゾロアスター教の融和を図ったが、両者の区別はあいまいになった 

その後、ナオラタ部族国家は歴史から姿を消した。ゾロアスター教団は権力基盤を失い、弱い立場に立たされたと見られている。歴史資料にザラスシュトラが登場するのは、前5世紀のギリシア語文献に「偉人ゾロアストレス」として言及されるまで待たなければならない 

アーリア人の諸宗教の展開

他宗教への影響と同様、ゾロアスター教政治への影響力の大きさも、研究者によって意見が分かれる。一般に古代の政治-宗教関係は密接であったため、他宗教への影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝下でゾロアスター教は常に国教的役割を担ったと考える者もいるが、見解は統一されていない。青木健は、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧で、サーサーン朝成立まで、そのどちらとも取れるような諸宗教が人々に幅広く受容されていたとしか言えないと指摘している 

マゴス神官団の台頭

ギリシアの歴史家ヘロドトスによるとアーリア系のメディア王国(前715年頃 - 前550年頃)にはマゴス族とよばれる神官たちがいた。彼らは拝火儀礼、鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物(カエルサソリヘビなど)の殺害、最近親婚、の犠牲獣祭といったメディア人の宗教行為を担っていたが、拝火儀礼・犠牲獣祭以外は原イラン多神教に見られない独自の風習であるとされる。非インド・ヨーロッパ語族的な名称を持ち、独特な風習を持つことから、マゴスはアゼルバイジャン付近の土着民族であったとする説もある。東方からメディアに来たと思われるゾロアスター教団はマゴス神官団の権勢に圧倒され、爬虫類殺害や最近親婚を取り入れ、葬式は土葬から鳥葬、犠牲獣祭もから牛に転換したとみられている 

メディア王家の血を引くペルシア王キュロス2世(大王、在位前550年 - 前529年)は紀元前550年にメディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシア(前550年-前330年)を建国した。キュロスは小アジアから中央アジアに至る空前の大帝国を建設し、史上初めてイラン高原メソポタミア平原の両方を支配した 

キュロス王家の信仰は不明なところが多い。ボイスはキュロスがゾロアスター教徒であったと主張している。また、考古学的な見地からはキュロスの建造した拝火壇やキュロスの墓バビロニア的要素が含まれているとされる。一方、キュロスの息子カンビュセス2世(在位前529年頃 - 前522年)は実姉アトッサ実妹ロクサーナと近親婚しており、マゴス神官団の影響がうかがえる。また「マゴス神官団ガウマータ」が王族スメルディスに成りすましたとされていることから、キュロス王家ではマゴス神官団が重用されていたとみる向きもある 

ただしキュロス王家は臣民たちに改宗を強制せず、キュロスがバビロンを征服した紀元前536年には、バビロン捕囚にあっていたユダヤ人たちを解放している。また、進んだ文明を持つメソポタミアエジプトの信仰を尊重し、政治的な中央集権と文化的な地方分権を敷いたとされる 。このようなことから、キュロス王家がゾロアスター教徒だったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。この結果、シンクレティズムが促されてユダヤ教エッセネ派が隆盛し、キリスト教に継承されたとも言われる 。アケメネス朝期のギリシアにおけるピタゴラス教団オルフェウス教、さらにペルシャ高原東部では大乗仏教伝播にともなう弥勒菩薩信仰と結びつき、マニ教ゾロアスター教の影響を強く受けたとされる イスラム教もまたマニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、啓典クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。

マズダー崇拝の台頭

ダレイオス1世によるベヒストゥン碑文。自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている
ダレイオス1世によるベヒストゥン碑文。自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている

キュロスの後継者カンビュセス2世は妹で妻のロクサーナを「殺害」、その後「自殺」した。後継者として王の弟スメルディス(にそっくりの神官ガウマータ)が即位するも、カンビュセスの元親衛隊長ダレイオスに「偽物と見破られ」、殺害される。その後、アケメネス朝傍流を名乗るダレイオスは、9人のライバルを倒し、ダレイオス1世(在位前522年 - 前486年)として大王(皇帝、諸王の王)に即位した。これによりアケメネス朝直系のキュロス王家は途絶え、ダレイオス家に王位が移った 

ダレイオス王家の大王たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。なお、アケメネス朝の碑文にはアフラ・マズダー(正確にはアウラマズダー)のほか、ミスラやエラムメソポタミアの神々の名が登場し、諸民族の多様な宗教に配慮していたことがうかがえる。仮にザラスシュトラの教えがその中に含まれていても、数ある中の一つに過ぎなかったと考えられる 


ダレイオス王家の歴代大王たちが、狭義のゾロアスター教に帰依していたとする根拠には以下のものがある。

これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。

ダレイオス1世の孫・アルタクセルクセス1世(在位前465年‐前424年)はダエーワ崇拝を禁止した。これについてはペルシア人の崇拝対象をアフラ・マズダーに限定したと解釈できる 。この政策はアルタクセルクセス2世(在位前404年 - 前358年)の頃に変更され、アナーヒターやミスラへの崇拝も奨励されるようになった アルタクセルクセス3世(在位前359年‐前338年)の代にはアナーヒター崇拝が省略され、アフラ・マズダーとミスラへの崇拝が奨励された 

なお、歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している 。しかし、古代メソポタミアイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰と同一視されたのもこの時期である。アナーヒター像を置いた神殿が築かれ、それまでの火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシア人も、メソポタミアの偶像・神殿を伴う信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火・建物が神聖視されるのである(ただし、ゾロアスター教で寺院・偶像崇拝が認められたのは、ギリシア文明インド文明の影響とする説もある )。

ミスラ崇拝の台頭

名前にミスラを含むパルティア大王、ミトラダテス1世のコイン
名前にミスラを含むパルティア大王、ミトラダテス1世のコイン

紀元前4世紀後半、マケドニア王国アレクサンドロス3世(大王、在位前336年 - 前323年)によってアケメネス朝が滅ぼされた。後世の資料ではアレクサンドロスによって『アヴェスター』と『ザンド』の写本が焼かれたとされているが、アケメネス朝では文字の使用が一般化していなかったため、創作と思われる。またギリシア神話アーリア人の宗教が混濁し、ゼウスアフラ・マズダーアポロンとミスラなどが同一視された。大王の死後、その王国は四分五裂し、セレウコス1世によって小アジアからペルシアに至るヘレニズム国家セレウコス朝シリア(前312年-前63年)が建国された。セレウコス朝の歴史は、東方におけるギリシア政治勢力の後退の歴史でもあった。なお、ギリシア人によると、この頃のマゴス神官団はゾーロアストレース(ザラスシュトラ)、ヒュスタスペオス(カウィ・ウィーシュタースパ)、オスタネス(正体不明)の教えを奉じていたという 

紀元前3世紀ペルシア人と同系であるパルティア人の族長アルサケス1世セレウコス朝の支配から自立し、ミフルダートキルト周辺にアルサケス朝パルティア紀元前247年-紀元後226年)を建国した。5代目ミトラダテス1世のときに東西に領土を拡げ、共和政ローマの侵攻やマカバイ戦争に忙殺されていたセレウコス朝からメディアとメソポタミアを奪った。そしてセレウコス朝の中核都市だったセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設した 

パルティアの君主たちはアーリア人の宗教を信仰していた。しかしパルティアの宗教資料は乏しく、「ゾロアスター教」と称しうる宗教が信仰されていたかは、なおも見解が分かれる アルサケス朝にはティリダテス、ミトラダデス、アルタバノスなど、それぞれ「水星」、「ミフル(ミスラ神)」、「天則」の意味を持つ、原イラン多神教的な名がみられる。また、アレクサンドロスの影響でアルサケス朝の君主たちは神を自称するようになり、後世のサーサーン朝にも影響を与えた。ただし、アルサケス朝は自らの信仰を住民たちに強制せず、その影響は王族の私的領域に留まったと考えられている 

紀元前1世紀以降、アナトリアカッパドキアティアナなどで諸言語によってミスラ神に捧げた碑文が残されている。古典的な説によれば、アナトリアに侵攻したローマ兵たちがミスラ神を持ち込みミトラス教に発展した 

アルメニアゾロアスター教の神々

すべての父アラマズド
アフラ・マズダー
 
貴婦人アナヒット
アナーヒター
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナナイ
(ナネー)
 
ミフル
ミスラ

太字最高神

神々の家族関係が強調
特にミフルが崇められた

パルティアの宗教が隣国アルメニア王国では神々の一族関係が重視され、「すべての父」と称されていたアラマズドアフラ・マズダー)とアナヒット(アナーヒター)が夫婦、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子・娘とされた。ミフルは特に重要な地位を占めていた。アルサケス家のアルメニア国王ティリダテス1世(在位52年 – 58年、62年 - 82年)は、3000人のパルティア兵に護衛されながらローマ皇帝ネロ(在位54年 - 68年)と謁見したとき、跪いてギリシア語でミフルを崇めるようにローマ皇帝を崇めると演説した。また、終末にはヴァン湖に潜むミフルが救世主として表れると信じられていた。ヴァハグンウルスラグナ)にはミフルと同じ太陽神の役割が与えられたため、混同が生じてしまった 

青木健は、パルティアの宗教がアルメニア王国の宗教と非常に近いものであったと指摘している。アルメニアの宗教にはパルティア語の借用が多用され、66年以降はアルサケス家がアルメニア王位を占めていたからである。また両国では、後のゾロアスター教では避けられる偶像礼拝や土葬が行われていたと見られている 。青木はアルメニアの宗教を分析し、アフラ・マズダーが尊崇対象となっている点ではゾロアスター教のようにもみえると前置きしつつ、ヤシュトの段階でやっと復権したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝対象になっていると指摘した。特に宗主国ローマの皇帝をミスラになぞらえた点を重視し、アルメニアゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、厳密には「ゾロアスター教」でなく「ミスラ教」と称すべき信仰であったと論じている 

4世紀にアルメニアキリスト教合性論派(アルメニア使徒教会)を国教化して、アルメニアゾロアスター教は衰退したが、近親婚などの風習は20世紀まで残っていたと言われている 

ゾロアスター教の国教化

ナクシェ・ロスタム(イラン)に所在する「ゾロアスターのカアバ(英語版)」と称される遺構。建物の用途は不明だが、下部の壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語(中世ペルシア語)碑文がある
ナクシェ・ロスタム(イラン)に所在する「ゾロアスターカアバ英語版」と称される遺構。建物の用途は不明だが、下部の壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語(中世ペルシア語)碑文がある

ペルシア州エスタフルの拝火神殿神官であったサーサーンは、ペルシス王国の有力豪族バーズランギー家と婚姻関係を結び、興隆の基礎を得た。その息子パーパクはパルティアに反乱を起こし、さらにその息子のアルダシール1世(在位226年 - 242年)はクテシフォンを征服してサーサーン朝ペルシア226年-651年)を建国した 。。

サーサーン朝はアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教正統性を求めた。そして非ペルシア的な異邦人王朝パルティアを倒して伝統的信仰を復興したと主張した。実際にはパルティアの貴族階級・政治機構・文化・社会は多くの点でサーサーン朝に引き継がれていたが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を与えた。なお、この時代の口語はパフラヴィー語に変質し、古代ペルシア語の口伝『アヴェスター』「ガーサー」は既に解読困難だったと考えられる。この時代、隊商などペルシア商人の活発な活動で、中央アジア中国ゾロアスター教が伝播し、西方に対してはローマ帝国など地中海世界との交流・抗争により、教義面などで互いの影響を受けたと考えられる。

サーサーン朝では実際に機能したかは定かではないが、神官たちは上から順に「神官」「軍人貴族」「農民」「商人・職人」の階級を想定していた。この中で神官は官僚層である上級のモウベド神官、神殿の管理や庶民の宗教教育に携わる下級のヘールベド神官に分けられた。農民たちは大地を耕すとして称賛されていた一方で、商人・職人たちは神官から蔑視されていた。そのためアーリア人ゾロアスター教徒からあまり商人・職人が輩出されず、セム系やローマ人、ソグド人などに頼っていた。また、このことが商人・職人層のキリスト教改宗を促進した面もある 。260年、サーサーン朝はローマ帝国からキリスト教文化の中心都市エデッサを奪い取り、国内に多くのキリスト教徒を抱えた。キリスト教会は長い歳月をかけて培われたセム人の書籍文化とギリシア人の活発な知的活動の成果を受け継いでおり、聖典の書籍化、神学の発展、知的水準などの面でゾロアスター教神官団は劣勢に立たされ、ゾロアスター教徒キリスト教改宗が相次いだ(逆にローマでキリスト教徒がゾロアスター教徒に改宗したという記録は存在しない)。 。このことが国教であるゾロアスター教にとって大きな脅威であり、4世紀(ローマでのキリスト教公認)以降、国家権力を背景とした迫害(339年-379年、420年-484年)やゾロアスター教の改革などが行われた。

皇帝崇拝の台頭

ナクシェ・ラジャブ磨崖レリーフのカルティールの肖像
ナクシェ・ラジャブ磨崖レリーフのカルティールの肖像
70年に渡り君臨したシャープール2世の胸像
70年に渡り君臨したシャープール2世の胸像

サーサーン朝はアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に一貫して帰依していたかはなおも異論がある。少なくとも初期においてはザラスシュトラに関する記録が残されていないが、アルダシールが「マズダー崇拝者の神なるアルダシール、アーリア民族のシャーハンシャー、神々の末裔」と刻んだコインを発行した ことから、マズダー崇拝者(詳細不明)のシャーハンシャー(皇帝、諸王の王)を神としていたことは分かっている 

アルダシール1世と大神官タンサールの元、ゾロアスター教は体系化されたとされる。サーサーン朝君主が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印され、ゾロアスター教が世俗支配でも重要な役割を担っていたと推測される 

アルダシールの息子・シャープール1世(在位242年 - 270年)はアルサケス朝と同じく首都をメソポタミアのクテシフォンに定めた。しかしメソポタミアではセム系が多数を占め、ユダヤ教キリスト教マンダ教グノーシス主義といった様々な宗教団体が乱立していた(結局メソポタミアセム系庶民にゾロアスター教が定着することなかったと思われる)。穀倉地帯で政治的経済的重要性も高いメソポタミアを安定的に統治するため、シャープールは穏当な宗教政策をとった。そしてニシビスのユダヤ人指導者や新興宗教(後にマニ教と呼ばれる)の教祖マニを招き、彼らの宗教活動を容認した 

サーサーン朝シャーハンシャーたちは先祖伝来の地ペルシア州に磨崖レリーフを造り、叙任の儀式を行っていた バハラーム1世のリレーフにはオフルマズド(アフラ・マズダー)から支配権を委ねられた姿が描かれている。バハラーム2世の造ったリレーフには、叔父のアルメニア国王ナルセ(ナルセ1世)らサーサーン家の面々と並び、神官に過ぎないカルティールが、それもかなり高い席次で描かれていた。このことからシャープールの死後、カルティール率いる神官団が台頭していたことがうかがえる。権勢を増し加えたカルティールは「バハラームの霊魂を救済するオフルマズド・モウベド神官」「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号を得た。シャーハンシャーの霊魂を左右し、サーサーン朝の祖先が務めていた神殿の神官職を名乗るようになったのである。また、彼はマニを処刑するなど異教弾圧に熱心で「ユダヤ教徒仏教徒ヒンドゥー教徒・シリア系キリスト教ギリシアキリスト教徒・洗礼教徒・マニ教徒」を駆逐したとする碑文を帝国各地に建てた。そして帝国各地に聖火と神官たちを派遣したと書き記しているが、具体的にどのような教えを信じていたのかは記録がない 

ナルセがシャーハンシャーになるとカルティールは失脚したとみられる。「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号はナルセに引き継がれた 

カルティールの死後もゾロアスター国教化路線は維持された。9代目シャープール2世(在位309年 - 379年)の時代には、大神官アードゥルバードのもと、口伝アヴェスターの結集と教義の確立が行われた 。また、シャープールは見る人が限られるレリーフを造るよりも、自身の描かれた銀食器や胸像を帝国各地にばらまくことに積極的だった。これによりサーサーン家とペルシアの関係性は薄れ、シャーハンシャーの神秘性はかえって失われたと考えられている 

ズルワーン崇拝の台頭

ゾロアスター教ズルワーン主義の最高神と二元論 

 

 
 
 
 
 
善神オフルマズド
アフラ・マズダー
 
 
 
 
時間の神ズルワーン
 
 
 
 
 
 
悪神アフレマン
アンラ・マンユ
 
 


太字最高神

アフラ・マズダーが善神に降格
中立的な最高神ズルワーンのもと善神と悪神が争う

ただし国教化によっても、古来から続く帝国内の多様なアーリア人の諸宗教は均一化されなかった。周辺の外国語文献によれば、サーサーン朝初期~5世紀頃まで、時間の神ズルワーンが崇拝されていた。このズルワーン教と呼ばれるアーリア人の宗教の一派は、9~10世紀のゾロアスター教文献に記述がなく、両者の関係は分かっていない。インド思想カーラギリシア思想アイオーンの影響も指摘される。完全に独立した宗教であるという説から、サーサーン朝初期~中期の国教であったという説まで様々な見解が存在する 

ジャーヒリーヤ時代以降に書かれたアラビア語古詩には、バタバタと独特な歩き方をしながら、ズーンなる偶像神に牛を捧げ、熱心に祈るメソポタミアゾロアスター教神官の姿が描写されている。ズーンとはアラビアで信仰されたの神、またはズルワーンアラビア語で省略された形であるとみられる。いずれにしろペルシア的ゾロアスター教とはかなり異なる「メソポタミアゾロアスター教」が信仰されていたと思われる。その他の地域にも独自の宗教が存在したと考えられ、ペルシア州の官団を頂点にアーリア人の諸宗教をゾロアスター教の名で緩やかに統合していたとする説もある 

ザラスシュトラ伝説の台頭

紅門はもともと天地会と呼ばれていましたが、後に紅門会として知られるようになりました。清朝の主要な秘密結社で、主に中国南部で活動し、福建省、広東省、湖広市などの地域でより繁栄しました。歴史家は、青鋼などの反清の秘密結社をすべて表すために「紅門」という用語を呼ぶことがあります。その後、さまざまな名前を持つ複数の地下社会や政党に発展し、華僑が東南アジアに移住するにつれて東南アジアに広がりました。

紅門

反清秘密結社/フリー百科事典ウィキペディア 

 

紅門はもともと天地会と呼ばれていましたが、後に紅門会として知られるようになりました清朝主要な秘密結社で、主に中国南部で活動し、福建省広東省湖広市などの地域でより繁栄しました。歴史家は、青鋼などの反清の秘密結社をすべて表すために「紅門」という用語を呼ぶことがあります。その後、さまざまな名前を持つ複数の地下社会や政党に発展し華僑が東南アジアに移住するにつれて東南アジアに広がりました     

19世紀末のアモイ紅門三方腰カード[1]
19世紀末、広東省紅門市の別荘の腰札

清朝末期、戴君連の革命党は満州族清朝を打倒するために紅門運動に参加した。 1911年の中華民国の建国後、天帝会と三合会のメンバーの多くが中華人民共和国地位を獲得した。国民革命軍。 1949 年以降、香港の三合会組織の 2 人の指導的ボスである葛兆皇と項祥はどちらも中華民国陸軍の階級を持っていました。

ソース

紅門の起源については、鄭成功陳晋南が創始した説、方儀之が創始した説、康熙嘉陰説、雍正嘉陰説、万雲龍が紀元前に創始した説など、十数の説がある。乾隆26年、雍正治の初期に英雄たちが天地協会を再設立したという説、その他多くの説がある。   

グループ名

漢代、紅門、天帝会の伝説

陶承章の著書「教会の起源に関する研究[2]には、「崇高な理想を持ち慈悲深い人々が中原の荒廃に耐えられず、祖国を取り戻すために秘密結社を結成した」と述べられている。 、そして紅門会議が設立されました。 紅門とは何ですか?明の時代の太祖が統治名であったため、名前が付けられました。 それを始めたのは鄭成功であり、それをフォローして修正したのは鄭成功です。 「一人は天を父として崇め、二人は地を母として崇める」3]ので、これが省略されています。「天の父と地の母」は清王朝と戦い、明王朝を再興すること誓った、それで彼らは「天地協会」と呼ばれました。   

5つの舵

紅門への暗示

  • 明代の太祖の治名は紅武であり、紅武の家門は紅門と呼ばれた。
  • 「漢には中図がない」 - 漢字を「漢」に分割し、真ん中の「中」と「土」の 2 文字を削除します。これは、漢が中図を失ったことを意味します。
  • 「マンエルには頭がない」 - 単語を分割し、「マン」の頭を取り、「エル」の足を残して「ホン」という単語を形成します。これは満州清朝の破壊を意味します。

紅門の秘密コード

  • 「私は天を父として崇拝し、地を母として崇拝します。」
  • 切り込みは「Yi Xin Fu Da Ming」の反対の「Ming Da Fu Xin Yi」です。
  • 決して口から離れず、決して手を離れないでください。
  • ムリは世界と戦い、シュンティアンのルールと契約を知っています。
  • 5人は別れて詩を書きましたが、誰もホン・インのことを知りませんでした。この出来事は兄弟全員に伝わり、後に再会しました。

主枝

格老匯

曽国帆が太平天国を破った後清朝が不審に思うのではないかと懸念し、一部の湖南軍が長江海軍に再編され、多くの人々が反戦隊に加わった。清天帝会は湖南蜀市パーティーを開催しレンジャーズ・グリーン・フォレストとして知られていました。同胞団のメンバーの中には、詐欺誘拐賭博売春宿強盗アヘン密売などに関わった者もいた。劉坤は両江省と広東省の総督を務めていた間、治安を正し、広東省広西チワン族自治区の総督だったとき、ギャンブルは悪であると信じ、1892年にギャンブルを禁止した。彼は両江の葛老会を排除した。湖南軍の「葛老会」 はさらに「潘氏」、別名「潘家」などに分かれた。                  

トライアド

「トライアド」とは、「天と地」に「人」が参加するという3つの才能の統一を表しており、実は「天帝会」のメンバーのコードネームである。

三合会は天帝会の名前の変更または支部であり、嘉慶 16 年 (1811 年) には、葛老会よりも早くに登場しました。三合会の内容と性質は天地協会と全く同じです。 1840 年のアヘン戦争の前後、広州仏山肇慶での三合会の活動がより頻繁になりました。道光末期から咸豊時代にかけて、広東省広西チワン族自治区では党と人民による反乱が絶えなかった。広東三合会は清朝に対する「ホンビン」蜂起に参加した。咸豊の治世 4 年 (1854 年)、さまざまな三合会が仏山肇慶で反乱を起こし、まず広州を占領しようとしました。広東省広西チワン族自治区の知事葉明チェンは三合会のメンバーを虐殺した。多くのトライアドは香港、東南アジア、アメリカに移住しました。 1857 年に広州がイギリス軍とフランス軍に占領された後、貴族や近隣の町の人々が団連公局を再建し、仏山に総局が設立されました。その後、一部の集団訓練は三合会の影響を受けて次々と紅門集団となった。

清末には三合会などが積極的に革命に参加し、孫文黄興陶承章楊曲雲、鄭世良其美らが入党した。現代中国本土中国志功党は、現代天地協会の海外支部である志功党から発展しました。 20世紀初頭に米国で設立されました

現代では、一部のトライアドはトライアド組織に変わっており、香港ではトライアドのメンバーであることを公表すると刑事罰を受ける可能性があります。

ジー・ゴン・タン

Zhi Gong Tang はもともと「Hong Shun Tang」と呼ばれ、1848 年にサンフランシスコで創業されました。 1898年、サンフランシスコ市庁舎に「非営利」公共福祉団体のライセンスを登録する際、清の大臣からの抗議を避けるために名前をZhi Gong Tangに変更した。 Zhi Gong Tang の主な職務責任は、鉄道労働者と金鉱山労働者の生活権を守ることです。その結果、組織は 60 年以内に急速に拡大し、鉄道沿線に発展し、南北アメリカの主要都市に支部を設立しました。アメリカの鉄道路線東海岸と西海岸から同時に建設されたため、ニューヨークのチークンホールはその「本店」です。

ファン・サンデは当時、サンフランシスコの志功教会の指導者であり、メキシコと南米の2つの支部教会の指導者も務めました。指導者の役割は、本教会の管理上の方向性と政治について連絡し、情報を提供することですが、分教会の内政には干渉しません。 1903年孫文は長兄の孫梅に加わるためにホノルルへ行き、資金集めと知名度を上げようとしたが、象山(中山)出身の子立は、彼が清の宮廷の囚人であり、彼の立場を理由に、ほとんど彼を無視した。仕事は何も進まなかったので、彼はアメリカ大陸で発展したいと考えました。しかし、アメリカは清朝と国交があり、アメリカの主要都市では「王党派協会」が活動していた。したがって、私たちは軽率な行動をするつもりはありません。

孫梅と黄三徳は旧知の仲で、孫文アメリカでの発展を助けるために黄三徳に手紙を書いてアドバイスを求めた。紅門組織は南北アメリカ全土に広がっていたため、孫文を守ることができるのは紅門だけだった。唯一の条件は、孫文が紅門の会員であること。孫文の反清の野望とホンメンと同じ目的を考慮して、ホノルル「国家安全協会」の黄三徳の養叔父鍾水は、黄三徳自身が保証人となり、孫文に60人以上の会員を推薦した。それは、同じ家族の兄弟姉妹が将来お互いに敬意を持って挨拶できるようにするための「赤い棒」です。そのため、1904年5月に孫文がタンダオからサンフランシスコに到着した際、王立忠誠協会の通報により清朝の捕虜として税関に拘留された。法廷に行って初めて、彼はホンメンの規則に従い、全財産を使い果たし、裁判所の財産を担保にし、ワシントンの弁護士に「仲間の弟子」を救出するよう招待したのだが、17日後に孫文は釈放された。

1925 年 10 月 10 日、米国サンフランシスコで開催された五大陸紅門約束会議は、中国志功党の設立を決定しました。1925 年 10 月、中国志功党の第 1 回大会で陳敬明が党首相に選出されました。 。 12月、陳京明は香港に引退し、陳京明と唐継耀は主に中国本土首相として選出され。中国志公党は中華人民共和国の設立に参加し、 1949 年以前は中国本土の8 つの民主政党の 1 つでした。   

1946年7月、中国の上海で開催された五大陸紅門約束会議では、9月1日に紫都美堂と趙瑜を主席・副主席とする中国紅門民主党の設立が決定され、中央党本部が上海に置かれた。現在は主に海外で流通しています。

2010年5月21日、正式名称「紅門」を持つ最初の政党が中華民国台湾内務省に登録・設立された、中国紅門志功党(党証第167号)である。台湾の紅門の二番目の支部であり、「常に国の発展と人民の幸福を第一に考える」という目的に基づいており、シャオ・ミンインが率いています。台湾の紅門志功堂の館長である袁宝氏と、台湾高雄市のが正式に設立され、太陽を讃えられました。中華民国の建国の父である(中山)氏が首相に、台湾の紅門志功堂の館長である蕭明英氏が会長に選出され、中国の紅門春宝山の指導者である李鳳山(鳳格)氏が選出された。グループは常任名誉会長に選出され、その本部も台湾の高雄市にあり、現在の党員は主に台湾および国内外に分布しています。     

紅門の発展

東南アジア

清朝中期および後期には、紅門山塘支部江南と中国全土に広がり、さらには東南アジア、ヨーロッパ、米国にまで発展し、数百万人の会員を抱えていました。清朝に対する粘り強い抵抗により、紅門回党は太平天国1911 年の革命の重要な同盟者となりました。孫文秋瑾陶承章ら1911年の革命家たちは次々と紅門関連の組織に加わり、孫文氏は直接紅門を国民旧革命党、中国唯一の革命団体である天帝会と呼んだ。

清朝の弾圧下で、紅門社会党は海外開発組織に目を向け、常に新旧植民地主義の搾取と抑圧に抵抗する各国の中国人実業家や華僑の先頭に立って、憎悪と憎悪を呼び起こした。初期の西側植民地政権の注目。清朝の隆帝は紅門社党を撲滅するため、南東部の諸州を動員して紅門社の歴史を調査したが、それでも「決定的な証拠は無い」と感じていた。

紅門は清朝を打倒した革命に多大な貢献を果たし、1911年革命の指導者の一人である譚仁峰は「社会改善協会の意見」で次のように書いています 200年前に植えられた「紅門党」 「運動の初期には、紅門兄弟だけが秘密を守ることができた。運動が始まった後は、どんなに遠くても、命令に従うことができたのは紅門兄弟だけだった。」近くの人々は、どんなに危険な状況であっても、誰もが勇敢に率先して行動し、武昌蜂起が起こり、地方はそれに応え、数か月以内に実際に共和国が完成しました。紅門兄弟の。」

台湾

紅門の革命的な性格とその神秘的な雰囲気のため、中華民国の中央政府が台湾に移転してから長い間、紅門は開かれた市民社会になることを申請することができませんでした

戒厳令解除後、すべての紅門教会は1989年に「中華民国社会事業建設促進協会」という法人を設立し、対外交流を始めたが、当時は「紅門」という言葉は存在しなかった。公的に使用することが許可されています。

2004 年 1 月 11 日、紅門南華山教会は中華民国内務省に登録し、法人の地位を有する一般市民団体である「中華民国国際紅門協会」を設立しました。 。

中華民国内務省登録されている紅門関連の政党には次のものがあります。

  • 当初の名称は中国台湾志功党(党証書第098号)であったが、2017年12月16日に中国国民志功党に改名された。
  • 2010年5月21日、正式名称「紅門」を持つ最初の政党が中華民国台湾内務省に登録・設立された、中国紅門志功党(党証第167号)である。Zhi Gong Tangの首席ホールマスターである台湾のホンメン・シャオ・ミンイン氏が公選され、その使命は「常に国の発展と人民の福祉を第一に考える」ことである。  
  • 中国清蓮党(党証書第 184 号)、紅門清蓮堂システムは、世界的に認められた清蓮堂教会首席指導者、ホン・ガン・何・ジュンユアン氏が議長を務めています。
  • 中国新紅門党(政党証明書第200号)、台湾紅門共産党(政党証明書第262号)など

現在、台湾のほとんどの丘は葛老匯によって占められています。

中国本土

中国志功党は 1925 年に設立されました。
中国志功党は 1925 年に設立されました。

1925年10月10日、米国サンフランシスコで開催された五大陸紅門約束会議では、中国志功党の設立が決定された。 1925 年 10 月、中国自公党の第一回党大会は陳敬明を首相に選出した。 1925年12月、陳京明は香港に引退し、中国志公党中央党本部が香港に設立され、陳京明と唐継耀が首相および副首相に選出された。

1949 年の中華人民共和国の設立後、中国志功党は中国共産党の多党政治参加政策に応え、中華人民共和国の 8 つの参加政党の 1 つとなりました。 2007 年 4 月、中国志功党中央委員会副主席の万剛氏は中華人民共和国科学技術大臣に任命され、第 13 代中国志功党中央委員会主席に就任しました。党に所属し、第11回中国人民政治協商会議全国委員会副委員長を務め、傅作儀の死後30年以上で初めて祖国に帰国した海外のホンメン華僑団体と接触した非中国共産党の閣僚となった。

他の紅門支部組織については、そのほとんどが現実逃避を追求しており、現在中国本土に存在する紅門支部のほとんどは、1911年革命時の紅門組織の名残であると言われている。

カナダ

  • 中国の紅門民主党カナダ本部はバンクーバーのチャイナタウンにあり、1888 年に設立されました。
トロント紅門民主党
トロント紅門民主党
  • トロント紅門民主党1894 年に設立され、トロントのチャイナタウンに本部を置いています。 1911 年の革命中、孫文の反清蜂起を支援するために資金を提供しました。

1840 年以前には、北米に移民した中国人はほんのわずかでしたが、19 世紀半ばまでに中国人移民の数は急速に増加し、当時は数十万人の中国人移民がいたと推定されていました。そこには、太平天国の乱の将軍楊福清が反清蜂起が失敗した後、秘密結社を設立するために米国のサンフランシスコに亡命したという噂も含まれている。 20世紀までに、中国人移民は北米の主要都市に広がり、チャイナタウンを発展させ、サブカルチャーの「タン」(ギルドや官公庁)を組織した。サンフランシスコは中国の秘密結社が最初に出現した都市であり、1882 年に設立されました(その他のより有名なギルドは次のとおりです)。     

他には謝益堂、金蘭事務所、翠英堂、英端堂、広徳堂などがあります。

他の

整理する

紅門組織の利点は、縦横の制度があることです。例えば、役職で言えば、指導者座間幹部腹心、巡回といった縦割りの制度もあります。 「話し方」と「身振り」。たとえ初めて会ったとしても、ホンメン兄弟は、そのジェスチャーを見て、「春の暗号の隠された言語」を聞いて、「華亭の誓いの兄弟関係」と言った瞬間に、彼らは兄弟、つまり生死の友人です。元々の憎しみも翡翠の絹に変わった。この垂直方向と水平方向のシステム、専門用語、ジェスチャーはすべてホンメンの学識ある人々によって捏造されたものであり、世界中の他のどの秘密組織もこれに匹敵するものはありません。紅門組織は入会資格がなく、入会後はお互いに兄弟のように扱われるため、秘密組織でありながら台湾から中国本土、そして海外まで急速に発展しています

ラオホイ兄弟、パオ兄弟

以下の組織は、四川省と長江流域の格老匯法格格志山堂の組織構造 です。

  • 忠義本殿(「山、殿、水、香り」の四文字)
    • 山の主。「村の主」または「ドラゴンヘッド」の叔父としても知られています。
    • 副山のリーダー。「副村長」または「副リーダー」とも呼ばれます。
  • 内八殿(内八殿はいずれも王朝の「都官」や閣僚)
    • 「聖殿」の叔父とも呼ばれる香道長、香道を開くときに香を手にする人が客人です。
    • 同盟証明書、または「中殿」の叔父、香殿を開くときに誓いを立てる人がゲスト牧師です。
    • 「左首相」としても知られる叔父は広間に座って村の政務を担当している。
    • 館に同行し、村の政務を補佐する「右宰相」とも呼ばれる。
    • グアンタンは「将軍閣僚」の叔父としても知られ、人事の昇進、賞罰を担当します。
    • 尚書」としても知られる最高経営責任者は、人材の組織と訓練に責任を負います。
    • 講堂。「ドンゲ」とも呼ばれ、叔父が礼儀作法を教育する責任があります。
    • シンタンは「シゲ」としても知られ、叔父は刑法を担当しています。
    • シールプロテクター
    • 剣の鍔
  • ワイバタン(ワイバタンは「軍隊」であり「支部」です)
    • 腹心、「懲罰の代理」、叔父であり指導的な将軍。
    • 賢者; 「賢者」の第二マスター、軍事顧問、企画(企画)担当。
    • 恒侯(ヘンホウ) 家を管理する3番目の主人で、財政、食事、給与などの内務を担当し、赤い服を着て花を生けることも担当します。
    • ジンフェン; 「ジンフェン」の四番目の妹。
    • Steward; 「Steward」は対外および総務を担当する 5 番目のマスターで、事業、法執行、赤旗、青旗、黒旗、青港に分かれています。
    • 巡視;「華関」六代目師範が巡視を担当し、内部巡視、外部巡視、山城(広口)に分かれる。
    • インフェン; 「インフェン」の7番目の妹。
    • Xian Pai; 「Xian Pai」は功罪を登録し、他人のために執り成すために使用され、白衣と8つの徳に分けられます。
    • 江口; 「江口」 九業の正式名は、新人や昇任者を育成するために寺院を設立し、口をチェックする、口を揺さぶる、口を守ることに分かれています。
    • モマン; 「モマン」の叔父、または「元門」、雑務を担当する兵士は、一般のモマン、法執行機関のモマン、元門、大男、小男、大男、小男、銅メダル、鉄印に分けられます。
    • 「シャオバオ」または「タイバオ」とも呼ばれるシャオバオは、組織内での階級は半分に過ぎず、メンバーは通常、最初に社会に登録され、組織内で仁義を実践します。

トライアド

以下は珠江流域と南東部沿岸地域の三合会の組織構造であり、地理的関係は南陽地域の官公庁やギルドと比較的似ています。

  • リーダー (489) は、「座っている人」または「話す人」としても知られ、社会全体の最高のリーダーです。
  • 第 2 路元帥 (438)、別名「香師、先駆者」。通常は各ホールの入り口に 1 人以上がいます。第 2 路元帥はホールに座っていない限り権限を持ちません。
  • レッド スティック (426) は通称「フィットマン」[注 1]と呼ばれ、そのほとんどが金メダルを獲得しており、426 の中で最も優れた選手は「礼儀正しさ」を意味するダブルフラワー レッド スティックとして崇められています。そして軍事的誠実さの才能。
  • ホワイト ペーパー ファン (415)、「ミスター」および「ホワイト ファン」とも呼ばれます。事務業務、数学の指導を担当し、クラブの財務、統計帳の管理、およびクラブの軍事顧問も担当します。
  • わらじ(432)は「鉄板」とも呼ばれ、九底(九底以上を一般に大底といいます)と呼ばれます。 「メッセンジャー」として内外との連絡を担当。
  • 四十九(フォーティナイン)、別名「馬」(紅門式典開始時の馬集め)、入会式後に入会する人は四十九であり、一般会員である。
  • 時主は「主主」とも呼ばれ、通常は会の財務やデータブックの管理などを担当する事務職であり、「白書ファン」と兼務することが多い。
  • 式典を経ずにクラブへの入会を希望する非公式会員全員に青い提灯を吊るします。

南陽秘密結社党

以下は、シンガポール・マレーシア華人民間協会の当事者、企業、事務所の組織構造です。

  • ビッグ・ブラザー: シンガポールとマレーシアの民間政党会社では「首相、元帥」とも呼ばれ、いずれも指導者を指し、党の精神的な象徴です。
  • 二番目の兄と三番目の兄は、民間の党会社の副リーダーとアシスタントリーダーです。長兄、次兄、三兄の下に、それぞれ白扇、財務副官、虎将(先駆者)などを率いています。
  • 卿: 紳士はパスワード、詩、エチケットに精通している必要があり、通常は年長であり、特定の会社に属しておらず、入学式を主宰する場合にのみ出席するよう招待されます。
  • レッドスティック:「裁判官」とみなされ、氏のように特定の会社に所属せず、当事者間で紛争が生じた場合の仲裁人としてのみ機能します。
  • ホワイト・ファン: 各党の芳香館の戦略家および指導者は、指揮官を派遣し、対外交渉で党を代表し、内政を処理する権限を持っています。
  • 財務副官: 党の財政管理を担当する財務副官の多くは長兄またはバイ・ファンが兼任する。大きな組織の場合は、ロッカー (会計士) やロッカー (レジ係) などの専門職の称号もあります。
  • タイガー ジェネラル: 「先駆者」 (ダ ボ ゴンなど) としても知られる彼は、領土を維持するために軍隊を率いたり、料金を徴収したりする責任を負う、党の凶悪犯で小さなリーダーです。
  • 麦わら靴: 「鉄板」としても知られる彼は、党内の「メッセンジャー」の小さなリーダーとして機能し、諜報メッセージや命令を伝え、軍隊を率いて任務を遂行する責任を負います。
  • 馬載:一般会員の中で最も多い。より上級で、新しい人を会員に引き入れることができる人は、「老馬」または「連れ馬」と呼ばれます。

天地恵

伝統的な天帝会には通常、長兄と師父(軍事顧問)の二つの称号しかなく、儀式を行う者が長兄であり、儀式に精通している人が師長となる。労働と専門職の肩書はますます詳細になります。ただし、設立時期や設立場所が異なると、同じ職名であっても意味が異なり、「氏」と「香主」は職名は異なるものの、立場や地位が似ている場合もよく見られます。しかし、天地が成熟期に達すると、一般に「三花迪」(八重の龍眼、一重の牡丹、二重の鳳凰の花を総称して「三花迪」と呼ばれる)主要な位置は3つだけになります。彼らの立場には次のような共通の特徴があり、それぞれ権力の「棒」、戦略の「扇」、行動の「靴」を象徴しています。

  • ホンゴン(426、地上 12 枝)最高司令官、炉の所有者、首相であり、舞台を開いてすべての事柄を統括する責任があります。 
  • 紙扇(415、十天茎)は軍事顧問、医師、学問の達人であり、軍事力、金銭、食糧を担当します。
  • わらじ(432、第 9 宮殿) は将軍や指導者を導き、礼儀と軍事戦略の特徴を持ち、情報を伝え、命令を伝え、任務を遂行します。

3 つの主要な「パッシング」義務の下に次のようなものがあります。

  • 会員(四十九、三十六天港、陰十八、陽十八、四十九点)は一般会員及び兵士である。

また、後に「役職はあるけど役職がない」という象徴的な役職は、特定の機会(開会式など)にのみ現れる、いわゆる「舞台上にはあるけど役職がない」ということが導き出されました。ステージの外には誰もいません」というもので、おおよそ次のとおりです。

  • 香主の陳金南氏 (489)は独断的な作法に精通しており、入門式を主宰しています。この詩は、式典を主宰する役割 (489) が依然として、特定の機会に炉の所有者によって招待された上級および地位の高い教師や医師 (415) によって実行され、その任務が式典の終わりに完了することを暗示しています。そして彼は組織の業務に直接関与することなく報酬を受け取ります。
  • 先鋒 (438) は神の祝福を受け、率先して軍を率いる人物であり、特定の機会に、主要な将軍の中で最も優れた者がストーブの所有者に推薦され、儀式を手伝い、回復されます。式典後のオリジナル部分。

上記の立場は、「天の茎と地の枝、九つの宮、太極拳易経」などの隠語や歴史詩と組み合わされています。

会議録(広東三合会の海の下)

組織の極秘会員名簿は組織のトップのみが所有するもの。内容としては、組織結成の歴史、現在の組織一覧、構成構成、会員形態、宣誓、組織違反に対する刑法、暗記(隠蔽)言語、手話、組織の一員として公の場で表現する方法などが含まれる。場所。専門用語では「海の下」、「金は交換できない」とも呼ばれます。

石朗が台湾を攻撃したとき(1683年)、鄭克祥は祖父の成功が金台山に設立し教会(明元堂)を設立した紅門天帝会に関する文書、名簿、印章などを鉄の箱に入れて封印した。そして海の底に沈んでしまいました。

トライアド協会の本

中華民国の紅門の会員、范松福はかつて次のような記事を書いた。1848年(道光28年、166年後、太平天国の初期段階)、永寧の郭永台が中山山を開き、福建省の漁師から入手した『金台山記』から「海の底」という意味で名付けられました。未来のトライアド会議の本はこれから発展しました。

遺跡と歴史的研究

『紅門志』陶庭図は、「鄭成功は台湾を掌握し、漢人移民の組織化を推進し、山を建立して堂を建て、金台山、明倫堂と名付け、蔡徳忠方大紅胡徳迪馬を派遣した」と述べている。朝興李世凱など、中原に向かって発展した「金台山」明倫堂は最初の山岳教会であり、その基本原則は次のとおりです。

彼は文武両面で優れた人物である成功と協力し、漢王朝を建国し 、彼の軍隊が清と勇敢に戦いました。金台山堂の指導者が設立され、 軍は仁義の同盟を誓い、漢王朝を維持するために協力した。
  

多大な影響力

紅秀全は広西チワン族自治 区金田村清朝に反逆する軍隊を起こしその軍隊は太平天国軍と呼ばれ、太平天国を建国しました。  

孫文はホノルルにいたときに革命活動に参加し、三合会の指導者から三合会に紹介され、山堂を設立し、自公堂を再組織し、興中協会を設立しました。 「コンチネンタルマウンテン」と名付けられました。孫文の『孫文学論』には次のように書かれています。「…康熙の時代までに、清朝は最盛期に達し、明朝の忠誠者も全員死亡した。生き残った2、3人の長老たちは、次のように述べています。事態は終わって取り返しのつかないことになったので、ナショナリズムを利用してそのルーツを後世に伝えたいということで、清朝に抵抗し、明朝を再興することを目的として団体を結成し、それを財産として利用しようとしたのです。後世の人々、これがホンメンの本来の意図だった。」

その他の影響

党(結社)と宗派

現代中国の秘密結社は、「教」と「会」の 2 つのカテゴリーに分類されます。「ティアオ」は宗教的信念を組み合わせたもので、中国北部で一般的に普及しています。主に中国南部で人気があります。天帝回の発祥の地である福建省の張と泉は、長年武器を使った戦いが盛んであった。田舎の人口の少ない苗字が別の苗字で団結して人口の多い大きな苗字に対抗するのが「異姓同盟」の社会的起源です。人口は清朝初期から乾隆時代にかけて大きく増加した。福建省広東省東部には人口は多いが土地は少ない。乾隆帝の治世中期までに、土地を持たない農民が多数浮遊人口となった。彼らは全国の都市や町に集まり、小規模な商人、労働者、あるいは放浪者、失業した浮浪者として働きました。秘密結社への参加は、主に生活上の保護を求める必要性に基づいています。協会に参加する人々にはいくつかの理由があります。いじめを避けるために助け合い、ホームレスを集めて強盗をし、逮捕に抵抗し、身代金を求めて誘拐し、武器を持って戦い、復讐を求め、保護費を集めて協会を広めることによってお金を集めます。


清朝の乾隆時代には、紅門は何度も包囲され、乾隆は漢民族を重用し、広興文人刑務所を設け、大規模な反満州軍や文学団体の存続が困難となった。代わりに、地域社会や組織が登場しました。

1911 年の革命の初めに、革命家たちは三合会が清王朝に対抗し、明王朝を復興する」ために設立されたものであり、それは政治的必要性に基づいていると述べた。国内の回族政党と海外の華僑の支持を得る必要があるため、協力できる回族政党はすべて紅門組織とみなされます。なぜなら当時の回党は海外からの経済支援も相まって、既製の強力な組織だったからである。同盟は「革命的な小隊編成」を呼びかけるだろう。

清朝時代の秘密の言葉には、「瓶がいっぱいになったら水を抜く必要がある。葉は緑、花は赤、蓮根は白い」というものがあるが、これは「満州族の清朝に反対した暴力団には緑人が含まれていた」という意味である。 「紅門派、紅門派、白蓮宗」という諺もありますが、「紅花、緑葉、白蓮根(紅門派、青崗派、白蓮宗のこと)」という言葉もあり、この三派はもともとある家庭。"

白蓮宗

白蓮宗は南宋時代に初めて現れました清朝中期、耕作地の不足と農民の出産と子育ての困難のため、白蓮宗は四川省陝西省湖北省の清朝の地方政府に農具を使って抵抗したと主張した。 「神聖な戦いに熟達し武器や弾丸に対して無敵である」ため、清政府は彼らを白門教団と呼び後期に東南アジアに発展した。 「二思赤宮」「二思老君」とも呼ばれる。長い間、紅門の勢力範囲は拡大し続け、白門は多くの信者が私的に紅門に加わった末期を迎えている。

青港と紅門

対立を避けるため、両宗派は依然として自らを「清紅家」と呼んでおり、いわゆる「紅門、青崗、白蓮の根宗教は本来一つである。家族。"特に革命党の思想が隆盛を極めた清朝末期には、多くの青年団弟子も清朝に反対するようになり、両派間の敵対関係は徐々に薄れていった。

神様を祀る会

1843 年に洪秀全によって設立され、太平天国の前身であり天帝会衆も参加しました。

広東三合会

台湾での林双文の蜂起後、天地協会は清朝の法律で明示的に禁止され、指導者とそれに参加する意欲のある人々は全員処刑される予定だった。政府の調査を避けるために、彼らは名前を「スリーポイント協会」と「トライアド協会」に変更しました。道光治世 10 年(1830 年)、彼はこの事件の際に劉光三の追悼文を書き、次のように述べている:「人民に最も害をなす広東の山賊には 3 つのポイントがある。諺にあるように、彼らはすべきである」話すときは決して自分たちのルーツを逸脱してはならず、手を挙げるときも決してその 3 つのポイントから逸脱してはなりません。広東省東部の原住民は誰もが知っています。」当時の広東省では三合会社会が広く普及していたことが分かる。 1848 年以降、福建省の漁師が海底で発見したという三合会書(紅門会書)の伝説が残されました。

 太平天国の乱(1851 年) の後、広東省広西チワン族自治区の紅門組織は互いに連絡を取り合い、同盟を結び、三合会を組織しました。彼らは広東省と広西チワン自治区大衆運動を開始するために瓊華ギルドホール赤い船で会合を開きました。広州佛山などの大都市では)、ホンビンを訓練するために武術グループに唐口が設立されました。    

1854年太平天国が金陵に首都を置いたことを知った後、李文茂紅冰、三合会グループが反乱を起こし清朝は瓊華ギルドホールとすべての紅船を焼き払った。その後、三合会は、当時のさまざまな南泉宗派はすべて福建省少林寺の少林寺五老から派生したものであるとして、南少林寺を焼き払ったという伝説を広めました。その目的は、もともとバラバラだった武術グループを組織することでした。清朝と共同で戦う。 

広東・広西三合会は次のように記録している:「当時、(南部)少林寺の武術は非常に強かったので、清王朝は嫉妬していた。彼らは軍隊を送り込んで一斉攻撃したが、攻撃できなかった。」陳氏新しいチャンピオンであるウェンウェイは好意を寄せ、アドバイスを提供し、寺院の僧侶である馬寧と共謀しようとし、内部と外部を団結させようとした子供たちと少林寺は破壊され、僧侶たちは散り散りになりました。宗禅師智山(ホン・クァンの指導者)、道士のパク・メイ(パク・メイ宗の指導者)、五梅師泰(春拳創始者)、ミャオ・シェン(広州華)の5人。)そして馮道徳も逃げた。    

フォームの背景

賈道時代、福建省広東省広西チワン族自治区などの人口は急激に増加し続け、破産した農民や浮遊人口も増え続け、秘密結社が発展する余地が多かった。清朝初期から道光まで、福建省の人口増加は12倍、広東省の人口増加は24倍、広西チワン族自治区の人口増加は30倍でした。流動人口と移民により、トライアドは福建省広東省から広西チワン族自治区貴州省雲南省江西省に広がった。道光時代、広西チワン族自治区には何百もの三合会があり、「兄貴のいない村はほとんどない」ほどに発展した。三合会は地元の山賊と団結し、同盟を結んで訪問し、盗作で生計を立てていた。あるいは、「集団訓練」やボディガードなどの名目で、さまざまな業種から現地みかじめ料を徴収することもある。

アヘン戦争の 10 年前、道光 11 年 (1831 年) には、三合会が中国南部の 5 ~ 6 省に広がり、無数の人々がいて、役人や兵士のほとんどが三合会であったという報告があり、頻繁に殺人が行われていました。トライアド関連。

則徐は、1839 年の虎門でのアヘン撲滅アヘン戦争への報復として、イギリス軍が軍艦を使って広東を攻撃するだろうということを知っていたため、すでに広東省のさまざまな鎮や町、特に三江流域と三江流域で民兵組織を組織していた。海岸、沿岸警備隊を駐屯させる。

1843 年に南京条約が締結された後、貿易のために5 つの港が開かれ、イギリスは広州に入る権利を持ちました。広東市の貴族や民衆は断固として反対し、野蛮人が市に入ってきたら太鼓で攻撃するだろうと述べた。皇帝の遺言に従い、斉英は締結された国際条約を遵守し、英国との平和を維持した。国際情勢に無知で無知だった原住民の怒りは満州族と清族の地方政府に向けられた。かつて彼らはナイフや武器で武装した数千人の人々を集め、知事のヤメンを焼き払った。

五港貿易の後、広東省は対外貿易の独占を失い、経済は衰退し、失業者の数は大幅に増加した。戦時中、広東各地で林澤忠が設立した民兵組織は落伍者と化し、三合会の温床となった。三合会および他の宗派は広東省広西チワン族自治区で急速に成長し、太平天国の乱を含む反乱を続けました。 1854 年、広東省広西チワン族自治区のさまざまな三合会が同時に反乱を起こし、大城王国を設立しました。当時の紅門人のほとんどは広東省の三江流域の出身でした。大成王国は指導者を失い、広州市の占領に失敗し、葉明チェンによって次々と敗北し、紅門の弟子たちを虐殺しました。イギリス軍とフランス軍が広州に侵攻したとき、葉明チェンは民間連隊訓練の利用を主張しなかった。

イギリスはエルギンを派遣してフランス軍と協力し、1857年12月中旬に広州占領戦争を開始した。葉明チェンはイギリス軍とフランス軍が陸上から攻撃することはなく、防衛する計画もないと信じていた。南海、番禺のあらゆる分野から地元の英雄を募集するという提案を無視すると、広州市はすぐに倒れた。それどころか、イギリス軍は途中のさまざまな町から来た勇敢な兵士たちによる自発的な抵抗に遭遇しました。広州は12月29日に陥落した。英国とフランスは、満州族役人の白桂氏の復帰を監督する委員会を設置した。白桂が広州を統治していた時代、イギリス軍は多くの連隊訓練施設を襲撃したが、この動きにより、各地の町や村の紅門住民の清朝廷とイギリスに対する不満が高まった。   

1858年にイギリス軍が市内に入ると、関係団体や政党は自らを守るために三合会の地下活動に参加し、後に革命党に加わった。

上海広東港-リトルナイフクラブ

1849 年、砂糖の商いに従事していた香山出身の劉立川が上海に来て、村民の仲間で広照協会を設立しました。彼は有名なシャオダオ協会のリーダーでした。当時、香山族は広兆族の中で最大の民族で、その数は2万人を超えていた。小道匯の蜂起が失敗した後、清政府によって焼き払われました。広東省暴力団が上海に導入されたことがわかる。

他の

天地協会は広く普及しており、他にも「清水協会」「短剣協会」 「格老協会」「協会」「リトルナイフ協会」「赤旗協会などがあります。 Jianzi Society」、「Bagua Society 」、「 Tim Brother Club」、「Triad Club」、「Chi Kung Tong」、「Red Gang」、Pao Ge ClubRed Spear ClubHuang Sha Clubなど の名前。

太陽と月の出会い

太陽も月も明るい

満州紅門回党

 三民主義のナショナリズムに関する第 3 回講義で、孫文は次のような記事の例を挙げました。 

それによると、紅門回党は王党派になって満州皇帝を守るために行ったのであって、もともと清王朝と戦って明王朝を再興した紅門回党ではないということだ。

Sun Wen はさらに次の一節を続けました。

それによると、紅門馬頭はすでに左宗棠によって破壊されており、孫文が革命を起こそうとしたときは代理店がなかったという。孫文は、正統的な中国の「先祖伝来のヘルオ」ナショナリズムタタール人の混血によってずっと前に敗北していたことを証明するために2つの例を挙げた。

小説における紅門天地協会

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参考文献

研究参考文献

外部リンク

各山岳会館の現状へのリンク

天地会すなわち洪門の創立は、福建省漳州府漳浦県雲霄の高渓廟である。これは洪門伝承秘書にも記載されており、その信頼性は符合する。この高渓廟は、1761年(乾隆二十六年)万雲龍大師哥(洪棍)により正式に創立としており、清の康熙年間において天地会の五祖が結盟を結んだ場所とされ、そして房(五房)へ発展する。【洪門誕生の聖地】として1991年3月20日第三省級文物保護に認定されている。ネット上では、鄭成功(ていせいこう)が興したと論評するところもあるが、近年歴史家の研究などでこれに異論が多く出ている。そもそも洪門す

天地会

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天地会(てんちかい、:天地会ピンイン:Tiāndìhuì、Tiandihui、Tian Di AssociationあるいはHeaven and Earth Society。欧米圏ではChinese Freemasons、又はFreemasons)は明末清初に民間で結成された秘密結社。これは対外には天地会と呼び、内部では洪門(洪門.HUNGMUN)と呼ぶ。中国で明朝末期から清朝初期に興った秘密結社。

民の相互救済組織はやがて“反清復明”《清朝女真族/満人」異民族支配を倒し明朝「漢民族」を復活させる》を主旨へと変わってゆく。

天地会の別称

天地会の別称は時代や地方により異なり洪門と天地会は同一組織、三点会三合会添弟会三河圏子会等など50種類以上の別称が確認されている。これらの別称は各地へ伝播していった際に、清朝を欺くために使われた名称である。

歴史

起源

天地会すなわち洪門の創立は、福建省漳州府漳浦県雲霄の高渓廟である。これは洪門伝承秘書にも記載されており、その信頼性は符合する。この高渓廟は、1761年(乾隆二十六年)万雲龍大師哥(洪棍)により正式に創立としており、清の康熙年間において天地会の五祖が結盟を結んだ場所とされ、そして房(五房)へ発展する。【洪門誕生の聖地】として1991年3月20日第三省級文物保護に認定されている。ネット上では、鄭成功(ていせいこう)が興したと論評するところもあるが、近年歴史家の研究などでこれに異論が多く出ている。そもそも洪門すなわち天地会に鄭成功の話は存在しない。鄭成功を掲げたのは哥老会(天地会と違う組織)である。

天地会の性質

~洪門の性質~ 天地会すなわち洪門は、民衆と親密な関係下にある。その性質は以下から垣間見ることができる。

●誓約の性質

■洪門すなわち天地会は、もっとも初期では宗教性をもとにしていた。その名を「天地会八卦教」といい、宗教形式が基本要素に含まれている。例えば、「神話」「伝説」「宗教信仰」「思想信仰」「出家的な要素」さらには、「日常生活の模範」「規律」「礼節」。また、説くは「人生の未来目標」や「厳かな入会儀式」にその宗教的性質があることが分かる。

●集団の性質

「互助集団」 互助集団:天地会の人員はもともと社会の下層人士あるいは苦力(クーリー)である。農民が組織的に創った互助集団。初期は力はなく小さな集まりだったが、地方の強欲な政府官人によって極貧の生活を強いられていた人々が、それへ対抗するために集団化していった。つまり当初は明確な「反清復明」の主旨よりも、成長に連れて変化したと言える。これが洪門源流の天地会である。

「起義(革命)集団へ」 起義(きぎ)集団:天地会即ち洪門は、四川や長江流域にいた別の幇会「哥老会」(または袍哥会)に対し共闘の申し出をする。これを同会は受け入れ、やがて明朝(漢民族)を復興させようとする革命集団へ変換していく。この頃の主旨は明確に「反清復明」であり、北方から侵略してきた満人を倒し再び漢人の国を復興させるのが目的。

天地会の基本的職位

正統系統の天地会すなわち洪門、正確な名称は、「洪門天地会」長房の組織内部の職位について、天地会の組織には棍(こん)、扇(さん)、鞋(がい)この三つの職位である。これを三花(さんか)三つの花と例えられている。

●洪棍(426十二底) 「洪棍」(ほんこん)は元帥(げんすい)である。または炉主、総理、洪門最高階級の統帥にあたる。頭上の龍眼双花が印である。 白扇に対し指示する。全組織の総体的な主導権・指示権を持ち、目標指針の決定や議会の開催、監査あるいは視察等の権力がある。中華民国の国父である孫文はこの職位にあたる。

この職位により漢民族の起義(革命)、清国からの解放活動やその資金の調達が可能となり後々の辛亥革命に繋がった。のちの中華民国国父 孫文は1904年に鐘木賢の紹介を受け、アメリカホノルルの洪門客家団体の國安會に入会し、「洪棍」の職位を授かる。そして洪門源流の天地会系統からの絶大な協力や扶助を受ける。

●白扇(415十底) 「白扇」(ぱいさん)は文職軍師である。宰相、書房職も関連する。頭上の牡丹花が印である。 白扇は能力者である事が必要。何故なら白扇は財政的な管理や、兄弟らの管理、知的で聡明であり、洪門五房配下の山頭に貢献できる人物。管轄下には「草鞋/432」が控える。

一般的に白扇は一般会員の関知はしない。会員らに問題等が発生した際には会員らが「草鞋/432」に報告を上げ、草鞋が対応しきれない場合は白扇に指示を仰ぎ、その処理方法を受け対処する。 白扇は有言実行であり書房職により規律規則の一切を伝承する重要な立場にある。 白扇に対する認識は、一つの組織。例えば一つの山頭や山主の階級がこれにあたる。

それぞれの山頭や山主は与えられた地区や区分を統括し、決められた総体的な目標達成に向け運営権限を持つ。 ただし、この職位は「洪棍」にはなれない。

●草鞋(432九底) 「草鞋」(そうがい)は文武職である。将軍職も関連しており管轄は旗下の会員らである。ならびに組織任務に従事する。 草鞋は、見識があるほかに会員からも尊重される人物。人望が厚く尚且つ胆力が必要であり決して自分勝手や私利私欲、強権強欲であってはいけない自己に対し戒めができる人物。

配下に部下が付き日常の小事は自己判断で処理し、大事の場合は上層幹部の「白扇」に報告し指示をうかがう。 なお、この職位は「洪棍」になれる。

●四九(49四九底) 「四九」(しく)と呼ぶ。これは一般会員を指し草鞋の指示を受け、行政関連やその他の業務に従事する。

●香主(489二十一底) 「香主」(こうしゅ)と呼ぶ。洪門の儀式の一切を取り仕切る職位である。白扇は香主(489)までしか昇級はできない。つまり、洪棍(426)にはなれない。香主は洪棍が適任者を選任でき、洪門伝統規定として香主の職は一人にのみに伝承されていく。489は21底、洪字を代表する。 崇高な修行者であり、洪門の発展に務めるが職責である。ただし、山頭・堂には越権して干渉してはならない。 草鞋は、将軍・武将の職位であるため洪棍に職位昇級ができる。


なお、洪門/天地会の昇級職位制度においては、以上三花(さんか)の職位・四九・香主は兄弟らの推薦(公推公挙/満場一致の可決)により、申請後洪門の各五大房(五祖堂⋯青蓮堂、洪順堂、家后堂、参太堂、宏化堂)により承認を受けたのちその職に就く。 なお、これらの重要職位においてその継承はその職位に就くときに初めて教授される。つまり、その職位に就いた者だけがさらなる具体的な内容や活動を知り、ほかの職位の者は知ることは出来ない。

現在の天地会(日本)

天地会と洪門(ほんめん)は、両者同一組織である。日本においてほかに洪門を掲げた組織があるものの、洪門天地會青蓮堂日本總會(英語表記 Japan Lotus Chinese Freemasons , JLCF)が、洪門五房(五祖)の伝統を受け継いでおり、その長房の役割を果たしている。また、日本でのアジアフリーメーソンチャイニーズフリーメーソンの名称もすべて洪門である。

関連項目

外部リンク

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