遅刻する奴有能説

先日、Yutubeでひろゆきの"遅刻しない奴無能説"という動画を見た。その中でひろゆきは「遅刻しない人は時間の管理が下手」と言っていた。一日の時間には限りがあり、例えば、出勤の30分も前に来るのは時間の無駄というわけだ。準備、通勤にかかる時間を厳密に計算できない=時間の管理が下手=遅刻しない というのがひろゆきの論理だ。時間の管理が下手、だから遅刻しないというのはちょっと違和感はあるが・・

 

 私は今までの経験の中で、”遅刻する奴は有能” となんとなく感じている。ひろゆきと言っていることはほぼ同じかもしれないが、遅刻する人に焦点を当てている点で違う

 

私自身は遅刻ができない質だ。だからといって自分や遅刻しない人を無能と言っているわけではない。ただ、遅刻する人に仕事ができる人が多かったのだ。遅刻する人で仕事ができない人の方が少なかったように思う。なぜそのように感じたのかを理由を述べたい。ただし、"遅刻する"限定ではなく、遅刻ギリギリでやってくるような場合も含めたい。さらに、ここでの遅刻は通勤途中で渋滞、もしくは何かしらのアクシデントに遭遇しての遅刻は考えない

 

まず、遅刻する、もしくはできる奴と接していて感じたのは、”おおざっぱである”ということだ。別の言い方をすると、神経質ではない、肩肘張っていない、遅刻することにおいて人の目を気にしないなどなど。おそらく、気質が楽観的な人たちが多いのだろう。脱力して仕事をしている印象だ。それは仕事の場面ではプラスに働きそうだ。よく聞かれることだが、人はセーフティーネットがあるからこそ挑戦できる。彼ら遅刻常習犯は、自分自身の気質がいわゆるセーフティーネットになっているのではないだろうか。私自身が彼らとは正反対の性格だからこそ、失敗を意に介さず挑戦していく遅刻者たちには憧れを感じていたものだ

 

また、遅刻する人はクソ真面目ではないだろう。クソ真面目も状況によっては非効率を生んだり、小回りが利かなかったりする。やけに形式ばってもいる。遅刻者はこうしたクソ真面目のデメリットの影響から免れている。だから柔軟性のある振る舞いができるのかもしれない

 

 さらに、遅刻する人は面倒くさがり屋さんが多いと感じる。決められた時間にきっちりと準備をし、保険をかけて少し早めに来るというのは怠惰な人には難しいだろう。怠惰な人は仕事を早く終わらせるために効率の良い方法を考えて実践していくだろう。怠惰こそ発明の母とどこかで誰かが言っていたような気がする

 

 しかし、ただの勘違いという可能性も考えてしまう。一般的に「遅刻する奴はダメだ」と思われている。遅刻する人は遅刻しない人よりも下に見られる。だから、特別有能でなくても普通レベルに仕事ができていれば、「あいつは遅刻はするが仕事はそこそこだな」と思われるし、印章に残りやすい。遅刻しない人とする人で仕事の能力が同じならば、遅刻する人の方が有能に見えるのかもしれない。もともと評価が下がっている分、伸びしろが大きい。ヤンキーが更生して普通の人になったら素晴らしいと尊敬されるのと似ている 

 

ここでちょっと言い訳をしておきたい。遅刻する人有能説の理由を書いてきたが、遅刻が良いか悪いかは別問題だ。良いか悪いかで言えば悪いだろう。人に迷惑をかけるからそれは当然だろう。だから決して遅刻者の肩を持っているわけではない

 

 また、見方を変えるならば今まで述べてきたことは遅刻する人の特性をいくつか挙げ、それが仕事にメリットとして働くもの、その要素を述べただけとも言える。だからそれを単純化して"遅刻する奴有能説"とは言ったものの厳密に言うならば、”遅刻する人のいくつかの性格の要素が有能説に結び付く理由”と言ったほうが正しいかもしれない

 

 今さらかもしれないが、一口に遅刻といってもバリエーションは豊富だろう。私がこれらを書いているときに参考にしたのは、過去に遅刻、もしくはギリギリでやってくる人たちだ。彼らの性格や仕事ぶりを思い出しながら書いた。彼らは毎回遅刻するわけではないし、むしろ遅刻する方が少ない(しない人と比べたら多いというだけ。どちらかというと遅刻ギリギリでやってくることが多い )

 

 あくまでも私の身の回りの人たちがたまたまそうであっただけで、私以外の人たちには遅刻する人は無能と映っているのかもしれない。それぞれの経験則によって意見は変わるだろう。だから、“遅刻する人は有能か否か”という二者択一を議論ことは意味がない。遅刻する人の特性を挙げて、それが何をおいて有能なのか無能なのかを挙げていったほうが面白い。それが成り立つならば、遅刻する人は有能か無能かの両極端であるという結論でいいのではないか。授業中に寝てる奴は勉強ができないかできるかのどちらかしかいないというのと同じだ

 

 そもそも遅刻する奴は有能か、という議題が面白いのは(私だけかもしれないが)、遅刻する奴はダメな奴だ、という価値観が一般的になっていてそれに反するからだろう

または、よくドラマやアニメで遅刻ばかりしてるだらしない奴が実は有能で頼りになるという人物像に憧れやカッコよさを感じるからかもしれない。ヒーローは遅れて登場する。しかしヒーローは遅れても責められい。むしろ、「待ってました!」となる。遅刻というデメリットがなぜかメリットに変わっている。ただ、ヒーローの場合は”有能だから遅刻する”というお決まりがある。なので自分がヒーローのように遅刻を歓迎されると思う有能な人はどんどん遅刻をしていきましょう。きっともっとできる人と思われ、早く来ないかなと待ち焦がれる存在になるでしょう

 

 可哀そうなのは、無能な奴は30分前に来ても煙たがれる。極端になると逆に、遅刻を望まれているかもしれない。だからといっていざ遅刻すると、「お前は仕事ができないからもっと早くきて段取りしろ」とか言われる。こうなるともう詰み、ダブルバインド

 

さて、ちょっと議題から脱線するが、日本に出稼ぎに来ていたあるインド人の女性が数分遅刻をした。当然、上司に注意されるのだが彼女は「日本人は時間に厳しくて、始業は早いのになぜ終わる時間だけ遅いのか」というようなことを言ったようだ。日本にいたら気付かないが、もっともな疑問だろう。おそらく、インドなどの途上国では日本よりも時間がルーズであり来日する前に、「日本という国は時間に厳しい国だから遅刻には気をつけなさい」と聞いていたはずだ。そして遅刻に厳しいなら終わりの時間にも厳しいと思うのは当然だろう。時間にルーズな国の人から見ると奇異に映るようだ。

 

遅刻という現象は必ずしも世界共通ではないようだ。時代によっても異なるだろう。遅刻という現象が成り立つためには、一定の地域の人々に同じ時間意識が働いていなければならない。『遅刻の誕生』という本では、明治の近代化によって工場労働や鉄道ができてから遅刻という現象ができたとある。同じ日本でも時代によっては時間にルーズな国民だったことが分かる。今のキマジメな日本人からは考えられない

 

遅刻者有能説について長々と書いてきたが、結論は"どっちともいえない"みたいな元の子もないものになってしまったし、結局遅刻することに肯定的なイメージを与えてしまった感がある。しかし遅刻にも効用があるのは事実だ。私自身は遅刻をほとんどしないのだが、一度遅刻をしてしまったことがある。だが、その一度きりの遅刻で心の余裕を持てた。一度の遅刻で何百日もの通勤に心の余裕が持てたのだ。底落ち体験といったら大げさだし語弊があるが、そんなような、何か敗北の後の翌朝のような安堵感が広がっていた。毎日の通勤の緊張がほぐれたのだから一度の遅刻くらい安いものだろう。是非、一度自ら試して遅刻の効用を体験してみてはいかがでしょうか