二枚貝説(約200,000字)をKindle本として出版中

 

 

「やまなし」祈りの姿

「やまなし」祈りの姿

 

 

内容紹介
二枚貝説です。読者としては、趣味からアカデミックレベルの宮沢賢治研究者を想定しています。なるべく観念に走らない論理的な論考になるよう心がけました。が、論文というよりはライトな謎解き、というか、苦団子の位置づけかもしれません。ちなみに、二枚貝説の考察では、本書をアップロードした2016年7月31日は、銀河鉄道が飛んだ94回目の記念日になります。 
 
本文「はじめに」より引用 
 “クラムボンとはクラム(Clam)ボン(坊や)で二枚貝の子供のことである”という仮説から、クラムボン殺しの犯人と動機を明らかにします。また、「銀河鉄道の夜」「二十六夜」「やまなし」が三連作でありそれぞれ祈りの姿というべき構造をもっていることを解説します。さらに、イサド、烏瓜のあかり、ジョバンニの切符、鳥、苹果などの賢治用語の解読を行います。南十字の停車場の地上座標、銀河鉄道が飛んだ経路と日時、銀河ステーションと比定すべき星を特定します。しかし、それらの解説や解読や特定は、あるアニメ作家の作品群からの影響を多大に受けていること、オリジナルはそのアニメ作家とすべきこと。さらに進めて、ほんとうのさいわいの解読、西行の発見、「銀河鉄道の夜」の原稿の成立順序への疑義、三連作に続く第四、第五の作品が賢治により企図されていたことを解説します。これら一連の論考を二枚貝説と呼称します。 
 
【目次】 
はじめに 
「やまなし」 クラムボンとは 
  ドラマ「二十六夜待ち」 
  「やまなし」、イサドとは 
  「やまなし」、もうひとつのイサド/羅須地人協会 
  作品群としての「やまなし」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」 
  「やまなし」の初期形と発表形 
  「やまなし」の大1小2 
  カムパネルラは天上にいけたのか 
 「やまなし」のかばの華 
 銀河鉄道は南下したのか 
  北緯24度、西経150度 
  銀河鉄道は西進したのか 
  銀河ステーションはどこ 
  祈りの姿 
  鳥捕りとジョバンニ父のアナロジー 
 「銀河鉄道の夜」、「二十六夜」、「やまなし」の成立時期 
  「二十六夜」の成立時期 
  「やまなし」の成立時期 
  「銀河鉄道の夜」の成立時期 
  ジョバンニの恋 
  ジョバンニの切符 
  Cor Christ という知識 
  苹果とは 
  鳥とは 
  賢治はベジタリアンだったのか 
  7月7日は乗車記念日 
  琴の星 
  オホーツク挽歌 
  逆さ十字の天使 
  カムパネルラはどこに転生したのか 
 「銀河鉄道の夜」成立時期について(再考) 
  螺蛤とは 
 「やまなし」 祈りの姿 
 
三と十の暗合 
 龍の薬のふたつの効能 
 「千と千尋の神隠し」の中の宮澤賢治作品 
  1.「銀河鉄道の夜」のイメージ 
  2.「双子の星」のエピソード 
  3.「どんぐりと山猫」のモチーフ 
 カオナシ考 
 二郎と菜緒子 
 黒川と黒川夫人 
 飛行機と風 
 蒸気機関車の排煙と喫煙習慣 
 菜緒子がここで吸えという意味 
 スピリチュアル 
 美しい飛行機、美しい菜穂子 
 堀とはhollyではないか 
 総評 
 トウモコロシとオチャマタクシ 
 
永遠の祈り 
  “文学少女”読了 
  「とめはね!」、西行 
  山家集をあたる 
  削除された「あまの川」 
  消された手がかり 
 永遠の祈り 
  宮崎駿作品「風立ちぬ」の振り返り 
  南十字ε 星 宮崎駿2001年の予言 
 
資料編 
 雑誌Newton 2008年12月 
 嵐山光三郎「古本買い 十八番勝負」集英社新書2005年6月 
 石森延男 「麦三合」の思い出 1958年7月 
 入沢康夫 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の原稿のすべて 
 照井謹二郎 童話「二十六夜」が創られるまでに 
 照井謹二郎「追憶ふくろふ」 1946年 
 小沢俊郎「アルビヨンの夢と修羅の渚」四次元61年4月 
 牧野立雄 隠された恋 れんが書房新社 1990年6月 
 織田正吉 絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く 集英社文庫 1986年12月 
 織田正吉 「古今和歌集」の謎を解く 講談社選書メチエ 2000年9月 
 俵万智 りんごの涙 文芸春秋 1989年11月 
 天文年間 2005年度版 誠文堂新光社 
 竹内薫・原田章夫「宮沢賢治・時空の旅人 文学が描いた相対性理論日経サイエンス社 96年3月 
 
参考文献
 

映画「Love Letter」の四つの謎

“ご存知ですかー”って叫んでしまいたい。今、GAYO!で岩井俊二監督作品「Love Letter」が無料で見れます。

天国に出した手紙。来るはずのない返事。手紙の謎はストーリーとともに解き明かされます。しかし、エピソードの中に埋め込まれたまま解き明かされない四つの謎。その謎の存在が、わたしたちをこの作品に惹きつけてやまない秘密なのだと思います。

・氷トンボとは何か
・藤井(男)が人生の最後に歌った歌が松田聖子だったのはなぜか
・樹(女)が花瓶を割るのはなぜか
・図書カードとは何か。

謎を解くカギは「Love Letter」のパンフレットの岩井俊二監督INTERVIEWの中にありました。曰く、“途中からは「幸福の王子」の話をキーワードにしてました”。“幸福の王子”がキー(カギ)なのです。ワイルド「幸福の王子」のエピソードを下敷きにすると、それらの謎がするりと解けます。

・氷トンボとは何か

空を飛翔するもの、季節外れ、氷の中に落ちるものとは、幸福の王子の依頼の数々を運び終え最後に冬に凍えて雪の中に落ちるツバメです。

・藤井(男)は人生の最後に松田聖子の歌を歌ったのはなぜか

藤井(男)は雪の中に滑落して死にます。ツバメです。松田聖子青い珊瑚礁」。南の島に行きたいという歌。南の国に帰りたいというのがツバメの願いです。つまり、藤井(男)は“帰りたかった”のです。

・樹(女)が花瓶を割るのはなぜか

ガチャン!。樹(女)が藤井(男)の転校を知ったとき、いきなり花瓶をたたき割ります。盲目となった幸福の王子がツバメの死を知るのは、街の人たちの声によってです。幸福の王子がツバメの死を知ったとき、幸福の王子の心臓は真っ二つに割れてしまいました。割れた花瓶は、幸福の王子の割れた心臓なのです。

・図書カードとは何か。

街の人たちはみすぼらしくなってしまった幸福の王子を溶かしてしまいます。が、割れた心臓だけは溶け残ります。「幸福の王子」のラストで、神が天使に「町中でいちばん貴いものをふたつ持ってきなさい」と命じます。天使は幸福の王子の割れた心臓と雪の中に落ちたツバメを神のもとに持ってきます。「Love Letter」では、「すごいものを見つけちゃったんです」と、天使たちが図書カードを差し出します。そこにはツバメの名前と溶け残った心臓の持ち主=幸福の王子の姿が描かれていたというわけです。まさに、時を経て見いだされたLove Letterです。

四つの謎は解けたものの、「Love Letter」のラストには救われない思いが残りました。そんなとき「クレヨンしんちゃん 幸福の王子」を見ました。しんのすけがツバメで風間君が幸福の王子。最後に、ツバメは温泉ランドで越冬するという落ちです。わたしの crayon_shinji というIDは、この「Love Letter」と「クレヨンしんちゃん 幸福の王子」へのオマージュからきています。けっしてパクリではありません。

シン・ゴジラと「春と修羅」

見て参りました。日曜の14時30分の回でしたが、ほぼ、満員でした。さて、冒頭の「春と修羅」の意味とは(笑)

あれは、「春と修羅」でなくてもいいのです。映画の中に出てきた「春と修羅」の本は真新しかったですね。つまり、大正13年(92年前)に刊行されたオリジナルの「春と修羅」そのものではなく、昭和47年6月刊行の「精選 名著復刻全集 近代文学館」シリーズの一冊です。エンドタイトルにも、そうありました。

別の言い方をすると「春と修羅」の“復 刻 版”です。大声ですいません。復刻版であれば、宮沢賢治以外の作家の本でもよかったのです。その意味するところは、シン・ゴジラはオリジナル・ゴジラの復刻版であるという主張です。

まあ、わかってみれば、うふふと微笑んでしまう程度のなぞなそです。

ヒドリとは忌日のことか

 ヒドリノトキハナミダヲナガシ

ヒドリはヒデリ(日照り)の誤記であろうというのが通説です。しかし、その通説には違和感があります。日照りに涙(水)の対応ではテクニカルすぎるように感じます。ここの「ナミダヲナガシ」には賢治の生の情感があふれ出ているように感じるのです。「雨ニモマケズ」が詩であるとするならば、「雨ニモマケズ」の詩情はこの一文にあると思います。ヒドリを未解明の賢治語と仮定することで「雨ニモマケズ」はより情感にあふれる詩になるように思えるのです。

ヒドリとは方言で忌日のことだと書いたのは嵐山光三郎氏です。(「古本買い 十八番勝負」集英社新書2005)記述はそれだけで、いったいどこの方言か、ほんとうに忌日の意味で使われるのか、その真偽については、いまだに裏付けが取れていません。しかし、別のアプローチからヒドリ=忌日にたどり着きました。

今日、なにげなく電子辞書の広辞苑で「ヒドリ」を引いたところ「日取り」がヒットしました。その意味のひとつに「期日」がありました。ほかの辞書もあたりましたが「日取り」の意味として「期日」をあげているのは広辞苑のみでした。それでも、おおかたの辞書は意味として「日を決めること、日程」、用法として「結婚式の日取りを決める」を挙げていました。

忌日(きじつ)→期日→日取り→ヒドリ、賢治の作品中でだけ使われる賢治語としてのヒドリ、忌日からの連想とし、また、「~の日取りを決める」という用法で、その日程(日取り)を決めるときに涙することがありそうなのは忌日くらいです。「忌日の日取りを決める」とき、涙してしまうことは自然なことだと思います、すこし苦しいかもしれませんが。

南十字ε星 宮崎駿2001年の予言

真の芸術家は、時にその作品中でやがて到来する未来を予言することがある、というのを聞いたことがあります。

千と千尋の神隠し」(2001年7月公開)の釜じいの天丼を思い出してください。あれはエビフライ丼だという声があることは承知しています。が、あれは天丼でなければ無意味になってしまうのです。どのくらい無意味かというと、菜穂子がイザナミでなくベアトリーチェである、というくらいの無意味さです。

ススワタリたちに配られたのはさまざまな色のコンペイトウでした。ススワタリたちが黒いことも相まって、コンペイトウはまるで夜空に輝く星々のように目に映りました。コンペイトウと同様に、釜じいの天丼も星のメタファをもっています。“丼”という字は、“井”と“ヽ”とに分解できます。すなわち、天丼とは、“天井の点”、転じて“天上の星”のアナグラムになっているのです。

2009年に発見された宮沢賢治作品があります。詩「停車場の向ふに河原があって」がそれです。

   停車場の向ふに河原があって
   水がちよろちよろ流れてゐると
   わたしもおもひきみも云ふ

   ところがどうだあの水なのだ
   上流でげい美の巨きな岩を
   碑のやうにめぐったり
   滝にかかって佐藤猊[嵓]先生を
   幾たびあったがせたりする水が

   停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
   運転手たちは日に照らされて
   ものぐささうにしてゐるのだが

   ところがどうだあの自働車が
   ここから横沢へかけて
   傾配つきの九十度近いカーブも切り
   径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
   そのすさまじい自働車なのだ
    (新校本 別巻「補遺・索引 補遺編」筑摩書房2009.3.10)

詩は、河がモチーフの前半と自働車がモチーフの後半に分けられます。さらに、動きの穏やかな“静”の部分と、動きの激しい“動”の部分の2種類が繰り返されます。都合、4つです。二枚貝説で“4”とは心臓の構造をあらわします。この詩の4つの部分は心臓の構造にあてはめられるのでしょうか。静→動→静→動。大静脈→肺動脈→肺静脈→大動脈、右心房→右心室→左心房→左心室。この詩は心臓と同じ構造をもっていると言えます。

また、径一尺の赤い巨礫の道路など走れるものではありません。それこそ、道路の上を飛ぶしかありません。であれば、河とは銀河=天の川のこと、自働車→飛ぶ乗り物→銀河鉄道のこと、さらに、わたしときみはジョバンニとカンパネルラのことになりますし、三台の運転手たちとは来迎三尊のことと解釈できます。

2009年、この詩は梁の上の荷物の中から発見されたそうです。梁というのは天井の構造物のことです。この場合、荷物がちょうど肉体に相当するようです。となれば、この詩は、肉体の中の心臓の位置に置かれていたはずです。そう解釈をすすめてゆくと、この詩は、意図的に天井(天上)に置かれたもので、かつ、その意図をもって置く動機のある人物は賢治以外には考えられないことになります。

天井の心臓=Cor Christ、釜じいの天丼と同じレトリックです。まさに、南十字ε星のこと、この詩が「銀河鉄道の夜」、「二十六夜」、「やまなし」、「春と修羅」に続く5番目、ε星の作品だと思います。

おわり

宮崎駿作品「風立ちぬ」の振り返り

第五作品を検討する前に、宮崎駿作品「風立ちぬ」の振り返りをしておきます。

ベアトリーチェ問題。宮崎監督は引退会見(2013.9.6)でラストシーンに言及し、あの草原は実は煉獄で、菜穂子はベアトリーチェだから堀越二郎もすでに死んでいると発言されていたのが引っ掛かっています。ダンテ「神曲」を読んだことないため、わたしには、菜穂子=ベアトリーチェという発想はまったくあるはずもありませんでした。

わたしは、「風立ちぬ」を見て菜穂子=イザナミと解釈していました。菜穂子が泉(黄泉)のそばにたたずんでいました。ですから、菜穂子=ベアトリーチェ=死者であるという設定には納得がいきません。九試を開発中の二郎の傍らにいたのは生きた菜穂子でなければならないはずです。そうでなければ菜穂子の“時が止まる”はずがないからです。死者は時の流れに対してもはや不変の存在です。生者だけが時の流れとともにあります。“時よ止まれきみは美しい”、“一時に一度だけ”、わたしが勝手に誤ったメッセージを受け取った、つもりになっていたと言われればそれまですが…。

未練がましいようですが、菜穂子=ベアトリーチェは嘘(韜晦)だと思います。なぜなら、黄泉から引き戻された生きたイザナミは、しばしの時を生きたイザナギとともにいたのでなければ、そこに生存する意味を見出せないからです。逆に、イザナミをカンパネルラに、イザナギをジョバンニに重ねると「銀河鉄道の夜」のモチーフが導出できます。生者と死者の狭間にいるカンパネルラと生者のジョバンニです。

風立ちぬ」の感想で「宮沢賢治の匂いもしない」と書いたのは嘘です。本当はかすかに匂いを感じていました。でも、確かかと問われると自信はありませんでした。しかし、引退会見の菜穂子=ベアトリーチェという発言を聞いて確信しました。演出家の口から出る言葉はたいてい嘘(韜晦)です。演出家による真実は作品中で語られるのです。だから、菜穂子は、生きたイザナミであり、生者と死者の狭間にいるカンパネルラであるべきなのです。

すなわち、「風立ちぬ」は、「銀河鉄道の夜」のモチーフとオマージュを内在した宮崎駿監督11作目の劇場用長編アニメ作品ということになるのです。ここでは、11作目というのが重要です。漢字で書くと十一。1作目から10作目までは大きくふたつ、前後5作ずつに分けられます。前5作と後5作の違いは、後者では主人公のどちらかに呪い(魔法)がかけられていたことです。五と五なので十なのです。サツキとメイです。さらにプラス1。

「やまなし」初期稿の第2章の章題が「十一月」でした。では、“一”とは…。自明です。“十”とは南十字の4星が形作る十字。プラス1は「Cor Christ(キリストの心臓)」の位置にあるといわれるε星ということになります。ε星はとしがその意味を賢治に教えた星でもあり、「銀河鉄道の夜」にとって特別な星です。天上に生まれる者はここで降り、降りられない者は地上に転生してゆく、偽十字ではない真の南十字たるを象徴する星、終着駅たるを象徴する星です。

すなわち、「風立ちぬ」はε星に比定されるべき位置にある作品です。宮崎駿監督による劇場用長編アニメ作品の終着たる作品ということになります。

宮崎駿作品「風立ちぬ」をよりどころとするならば、“南十字の終着駅たる象徴はε星である”。この命題が真となる作品が「春と修羅」につづく5作目であると想定して探してみようと思います。

「春と修羅」 永遠の祈り

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春と修羅」には復刻版というのが存在します。昭和47年6月刊行の「精選 名著復刻全集 近代文学館」シリーズの一冊です。オリジナルは時折宮沢賢治展で展示されることがあり目にすることもありますが、いかんせん稀覯本の類であり古書の素人には手に取ることもページをめくることも許されません。だからといって、復刻版を入手できるかというと、それすらもなかなかに困難な状況です。が、さいわいなことに私の手元には復刻版が一冊あります。

復刻版を含め「春と修羅」の入手は困難であっても、それ以外の資料は比較的入手あるいは図書館での閲覧が容易です。新校本、宮沢賢治資料集成、それ以外にもたくさんの研究者による資料が出版されています。また、「銀河鉄道の夜」の原稿にいたってはカラーで原稿の裏表がそのまま写真製版された資料が宮沢賢治記念館で安価に入手可能です。この状況は、市井の研究者にとってかなりフェアな状況だと思います。とくに新校本の注釈の数々の精緻さを見るにつけそう感じます。

春と修羅」を手に取るとまずはカバーの手触りに、さらに開いてみると、その構成の特異さに気づきます。特異さとは、通常の出版物では巻頭にあるはずの目次が「春と修羅」では巻末に配置されているという点です。さらに「無声慟哭」の章と詩の目次が見開きの右側に、「オホーツク挽歌」の章と詩の目次が見開きの左側にあります。この見開き構成は二枚貝説では重要な意味をもってきます。

春と修羅」の挽歌詩が5詩づつ都合2章の10詩から構成されること。それぞれ5詩ずつの挽歌詩は、「無声慟哭」では成立時期の違いで、「オホーツク挽歌」では挽歌性の違いで3詩と2詩に分割できる、と指摘したのは吉見正信氏です。(「宮沢賢治の道程」挽歌詩その≪二章≫ 昭和52年、八重岳書房)。

二枚貝説では、さらに進めて、5詩とは北十字と南十字の5星のことであり、かつ、その意味するところは右手と左手の5指であると解釈し、「無声慟哭」と「オホーツク挽歌」が連続する意味を“合掌”であると解釈します。さらに、3詩の“3”については来迎三尊の意味であると解釈しています。

すなわち、「春と修羅」目次における見開きの5詩と5詩、これは5指と5指の意味であり、そのまま合掌を意味します。本を閉じた状態の「春と修羅」は、常に合掌している状態にあるといえます。

春と修羅」の発行日は大正13年4月20日。西暦では1924年ですので、すでに100年近い年月を合掌し続けていることになります。また、さらに長い長い年月を経ると復刻版も含めてオリジナルであっても紙という物質的な素材による合掌は朽ち果ててしまうことでしょう。しかし作品解釈上の合掌は朽ち果てることはありません。いったん書籍という物理的な存在を経ることで、この観念上の合掌は永遠の命を与えられたことになるのです。

さて、巻末に、合掌があるのなら、巻頭にある序文にもなんらかの意味を託されている可能性があります。抜粋すると“せわしくせわしく明滅しながら…”と序文のテーマは“輪廻転生”であることは明白です。二枚貝説の用語でいえば“螺(巻貝、指を組んだ合掌)”に相当します。目次は同様に“蛤(二枚貝、指を伸ばした合掌)”です。そして作品本体があり三尊構成になっていることが判明します。

銀河鉄道の夜」、「二十六夜」、「やまなし」が来迎という同じモチーフを持つ3連作であるというのは二枚貝説の主張するところです。さらに、「春と修羅」に作品単独で三尊構成が内在することが判明しました。おそらく、賢治の初期構想では、来迎3作品だけの構想であったろうと推測します。そこに追加で4作目となる「春と修羅」をわざわざ三尊構成に仕立てたのには何か意図するところがあったのではないでしょうか。“4”というのははなはだ中途半端です。この“4”は、5作目が存在することを暗に示しているのではないでしょうか。賢治構想で終着駅を象徴するのは南十字駅です。賢治ならば、“4”を“5(南十字駅)”にする工夫をしたはず。わたしはそう信じます。

ならば、“5作目”とはどの作品になるのでしょうか、5作目にふさわしい作品は現存しているのでしょうか。

つづく