よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

Asobi

ブラック企業におわすハラスメントのロイヤルストレートフラッシュ上司から開放され、有給消化に入ったのはついこの前と思っていたのに、気がつくともう残すところあと僅か。現在人生初の無職。学生や社会人といった肩書から逸脱ないよう、存外真面目に生きてきた。怖いから。有給消化に入る前には(あれもこれもやってしまおう。いや、あんなこともできてしまうかもしれない…!)と鼻息荒くしていたのだけれど、進捗は3割に届かない有り様。わたしの心残りだけを盛大に残すことになりそうである。

 

買い出しに行こうと新しい靴を下ろす。ネットで買ったスニーカーはつま先が少し窮屈だ。わたしの足は大きさもさることながら、親指の爪が上を向いていて、ちょうどいい大きさのものが製造されていないことが多い。大きさだけでなくつま先の遊びを必要とする足だ。

つま先をかばうように歩きながら考える。さて、では貴重な春休みに一体何をしているのか。自らの生活を省みると、今まで忙しくて見られなかった動画やB級クソ映画を何本か見た程度。忙しかった反動なのだろう。我ながら非建設的。小人閑居して不善を為すとはよく言ったものだ。

引っ越したこともあって、家具を新調したり棚を最初から作ったりしている。ビス選びから木材選定と、本当に最初から。あとは家事。料理、洗濯、掃除、書類整理…。以前無職の友人にどんな生活をしているのか聞いたところ、「家事をしているうちに日々が過ぎていく」と言われ、(よほど丁寧な暮らしをしている生活人なのだな)と思ったのだけれど、なるほどまったくその通りだった。余裕もなく、驚くほどに日々は過ぎていく。

 

NBAが好きで、YouTubeでスーパープレー集を見ていると、彼らの身体能力には毎度驚かされる。空中を歩くようなシュート、予測不可能なオシャレなパス。果たしてそれらは練習の賜物なのだろうか。いわゆる『真面目な』練習からは生まれない閃き。わたしにはあれらは、緊迫した試合においてなお発揮される余裕、あるいは遊び心なのではないかと思う。勝利のためにミスの許されない状況下にあって、真面目な練習からは生まれない遊び心。果たしてわたしの生活には、真面目な生活には、その『遊び』はあるのか?

 

ナビのいう通りに進み、ナビが予測した通りの時間に目的地に到着した。昔は到着予定時刻がよく前後したが、最近はほぼ最初の予定通り。便利でとても助かるこの無駄の無さが、果たして楽しいかと言われると否定せざるを得ない。このただタスクを消化するだけの日々から脱却するために、少し迷ってみる遊び心が、あと数日だけ無職のわたしが楽しめる遊びなのかもしれない。