保育園入園
1歳半を過ぎると、私の気持ちに余裕が出てき始め、そろそろ仕事をしたいなと思うようになった。
しかし、息子は保育園に入れるのだろうか。
傍から見て、当時の息子は少し成長ののんびりな赤ちゃんに見られていることが多かった。
なので、赤ちゃんクラスの子たちと比べても、障害を持っているとは分からないほどだった。
上の子が年長さんになり、『弟と保育園に行きたい!!』と、言うようになり、本気で入園できないか役所に掛け合ってみる。
障害児保育と看板をかかげている保育園は近くにはない。
上の子の保育園の園長に、息子のことを話してみた。
その時ダウン症の子がすでに入園していたのもあり、あわよくば…という思いで、入園したい旨を伝える。障害についておそらく無知であろう園長は『リハビリ頑張って、卒園式は歩いて卒園証書受け取ろう!』と言ってくれた。
そして、手続きを終え、晴れて我が家の子たちは2人揃って保育園に通いはじめることとなる。
私も運良く仕事がすぐに決まり、普通の子育てをしてる家庭のように、朝バタバタと保育園へ送り、夕方は慌ててご飯支度をしてお風呂に入れる。
そんな忙しさがとても充実して心地よかった。
一つ違っていたことは、週に2回は保育園を休み、療育センターの通園に通っていたこと。
でも、そこで顔を合わせるお母さん方との関わりは、私のひねくれそうな心をやんわりと引き戻してくれていた。
障害について、制度について、はたまた家庭について。きょうだい児のことも。
腹を割って話せるのは通園のお母さんたちだった。
通園
1歳の誕生日を過ぎ、療育センターに併設された通園に通うことにした。
週に一度のリハビリから、週に二回の通園。一日付き添い。
上の子は保育園に通っていたが、障害児保育をしていない保育園だったので、入園できなかったし、私自身仕事をしようとする気にもならなかった。
通園では、唯一集団での保育活動の時間だけが親子分離で、あとのリハビリ等はほぼ付き添い。
はじめは、様々な障害の子がいて、正直気がひけた。
この子たちと同じなのか、と。
当時の息子は、パパ、と言えるようになり、とても可愛かった。
ミルクを持参し、眠くて給食が食べられない時はミルクを飲んで眠っていた。
通園最年少。こんな小さな頃から来る子はいないとよく言われた。…うちの子の障害の度合いがひどいといくことなのか。
幸い、医療ケアはなく、寝てればそのへんの1歳の子と変わらない。
もったいない…
なんで障害持ったのか…
早く産まれても、障害のない子がいっぱいいるのに…
どうして、辛い思いをさせなきゃいけないのか…
障害児の母親一年生の私には、到底分かることではなかった
おめでとうと悲しい顔で言った1歳の誕生日
出産〜月一の支援外来への通院〜週一のリハビリと、慌ただしく一年が過ぎ、あっという間に息子は一歳になった。
この子の産まれもった宿命って一体何なのか。
障害を持って生きるって、未知だった。
進んでも壁しかないし、ぶち当たっては砕けるだけかと思っていた。
療育センターに通うのも嫌だった。
車に車椅子マークだって付けたくなかった。
障害が残る可能性もあるし、元気に育つ可能性もあるって言ったのに、教科書通りみたいに息子の障害は目に見えて出てきた。
おすわりしたり、はいはいしない分、幼く見られていたのは、当時の私にとって救いだった。
ハイローチェアのすき間にバスタオルを詰め込んで無理やり座れてる風にして、一歳おめでとうと書かれたプレートのついたケーキを見て、美味しそうと言うかのようにヨダレをたらす息子。
最高の笑顔だった。
それなのに、ローソクを消すために電気を消した部屋でひどい顔で『おめでとう』と言っていただろう。
涙が出てもバレないように、しばらく消せないローソクを見てる息子の写真をたくさん撮った。
本当にどれもいい顔をしていた。
涙を拭いて、明るくしてもやっぱり笑顔だった。
その写真を身体障害者手帳の顔写真に使うことに決めた。
病院から、療育センターへの紹介
退院後、月に一度の予防接種を兼ねた支援外来。
脳に損傷を受けた箇所が少ないとは言えないので、障害が出るのか出ないのかは成長してみないと何とも言えません、と、何度も主治医に言われた。
ただ、こんなに足がピンピンで、動きが妙にぎこちなくて、一人目の赤ちゃんのころとは確かに違っていたと思う。
生後半年でリハビリのための療育センターを紹介された。
たくさん人がいる待合室で、『リハビリが必要かどうかは、これから成長してみないと分からないから!お母さん!頑張って!』と、大きな声で励ましてくれた看護師さん。
余計なお世話。
そして、いざ。療育センター。
学生のころ、実習へ来たことがあり、雰囲気は分かっていた。
病院から持たされたMRIデータを見ながら診察を受け、息子の体を診て、私は最悪な返事を予感した。
いつもそう。
はしゃいで大騒ぎしたい場面でも、第三者的な立場になって客観視してしまい、このあと起こる最悪な場面も想像してしまう。
ほんと、いつもそうだ。
だから、本当に最悪な返事をされた時にもダメージは低い。
ほらね、やっぱりと思えばいい。
そうなったのも、息子のおかけだ。
NICUで小さいながらも合併症なく育って優等生といわれた息子が、まさかの退院前のMRIでpvlが見つかるという、最悪の事態が起こったからだ。
きっと、この先ずっと自分はこうなんだと思う。
それが自分自身と、家族を守るためにできる防衛反応なんだと思う。
診察の結果は、やはり脳性麻痺の症状が見られる、とのことだった。
普通の子と同じように育ててください
このタイトル、告知のときに医師に言われた言葉でした。
頼りない主治医だったけれども、この一言で少しは肩の荷が降りた気がした。
子育ては二人目だったし、多少余裕のある育児が出来ると思っていた妊娠中。
しかし、思いがけない早産と障害の告知により、ほとんど何も手につかなかった。
赤ちゃんの時のことは、正直ほとんど覚えていない。
どうやって授乳していたのか。
どうやって夜泣きしていたのか。
どうやって生活していたのか。
あの頃は楽観的な私でさえ、心が病んだ時期だった。
告知
脳室周囲白質軟化症(pvl)の告知は、あっさりしたものだった。
転院先のNICUで、ヘラヘラした医者にザッと説明された。
知的にも障害が出る可能性もある、身体面ではどの程度の障害かは分からない。
ただ、子どもの脳には可能性がたくさんある。
…可能性っていい言葉だな。と。
受け止める人によって、良い可能性なのか、最悪の可能性なのか感じ方が変わるし。
ありがたいのか、ありがたくないのか?我が家、父医療系、母福祉系で、障害についてあまり抵抗はない。
ただ、このあいだ産まれた我が子が障害をもつとなると、話は全く別。
お先真っ暗を初めて味わい、胸に突き刺さるものが大きすぎて涙すら出ない。
本当に悲しいと泣かなくなるんだと実感した。
そして、告知の次の日、めでたく退院した。
『退院について心配なことはありますか?』と、よく聞かれたが、心配なことしかなかった。