じゆうなブログ

日々の素朴な疑問を中心に、得た情報を自分なりに解析して文章にしています。

セララバアド@代々木上原20161119

11月19日(日)、大手町でと或るセミナーが開催され、参加をする機会がありました。

 

その際にご一緒させて頂いた方(丁度昨年の同時期に社員旅行で行った金沢の、森八の貴船弁当を食すプランをご提案頂いた方)

 

www.jiyuuna.com

 

この方に、またも素晴らしいお店を紹介していただきましたので、ここに記したいと思います。

 

この日は、丁度社員旅行から帰宅した次の日で、かなりの消化不良を起こしている状態でした。今回のお店は、そのようなネガティブ気持ちが一新されてしまうほど素晴らしく、お連れいただき本当に感謝しております。

 

消化不良であった理由の大部分は、単に好きでもない人間と旅を共にするストレスですが、それ以外にも、期待していた「食」の部分において、追い討ちをかけて裏切られたためです。現地で食べた海鮮の数々が予想を大きく下回る質、コスパでして、

 

ハッキリ言って、これなら関東に数店舗ある美登利寿司の方が、遥かに美味しいですし、安いと感じました。

 

まぁ美登利寿司が凄いだけなのかもしれませんが、、、。

 

そんなこんなで、不満足且つ、膨大なストレスを抱えている状態でしたが、今回お連れいっていただいた、「セララバアド」というお店。結論からいうと、素晴らしいお店でした。

 

食べログでも4点近く出ているお店のようでして、私自身も興味津々で、事前にどの様なお料理が出てくるのかをリサーチしました。すると、聞きなれない言葉を見つけました。

 

モダンガストロミー

 

???。ちょっと良く分からないのでWeblio辞書から引用。

ガストロノミー(仏: gastronomie、英: gastronomy)とは、文化と料理の関係を考察することをいう。日本では美食術、美食学とも訳される。美味しく料理を調理して食べることだけを指すものと、誤って理解されることもあるが、これらは分野の一部にすぎない。ガストロノミーとは、料理を中心として、様々な文化的要素で構成される。すなわち、美術や社会科学、さらにはヒトの消化器系の点から自然科学にも関連がある。

 

なにやら、難解な解説ですが、論より証拠。出てきた料理の数々をご覧になっていただければ、この説明の意味が直ぐに理解できてしまいます。

 

それでは早速お店の外観から。

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代々木上原の閑静な住宅街の中に、突如現れる異空間です。
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入り口付近まで寄るとこんな感じ。

常に満席の状態とのことで、お客の入り時間を統一し、コース料理を同時進行するようでして、この日は一番乗りでお店に到着致しました。
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そして、テーブルにつくと、黒い石板の上に何やら秋の枯れ葉をモチーフにした白い物体が。良く見ると・・・。

 

どうやらメニューが書かれているようです。
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抽象的な表現で、読んでも何が出てくるのか想像しにくいですが、それが逆に想像を掻き立てます。

 

私は酒が飲めないので、料理とマッチしたソフトドリンクをペアリングし、最初に出てきたのがこれ。
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今回のコンセプトが、「森」ということもあってか、飲んでみると口中に森林の香りが広がりました。良く信州の山中に家族旅行に行くのですが、正にその森林浴中に香る匂いと同じ香り(味)がし、しょっぱなから度肝を抜かれた次第です。

そして、前菜のデザート。
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巨峰に、炭酸が注入されたゼリーが添えてあるものです。甘さも控えめで口のなかが、とっても爽やかに。
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次に出てきたのはこれ。この真ん中の緑の物体を食す訳ですが、食べる直前にシェフが液体窒素らしきものを注入。
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こんな感じになりました。見るも涼しげで、正に秋の朝靄の森林のようでした。

肝心の緑の物体は、「ビーンズ」と記載があったので、恐らく空豆をシャーベット状にしたものかと思われます。


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続いて、落ち葉が敷かれたガラスケースの上に登場したのは、アスパラ、トリュフ、そして一番右のは何か分からなかったです(笑)

 

真ん中の豚が形どられたものは、恐らく豚はトリュフを嗅ぎ分けるという話からでしょう。


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次は少し固めのライ麦パン?のようなものをオリーブオイルにバルサミコ酢が入ったソースにつけて食します。

これが、とても美味しく、何枚も食べれてしまえるほどでした。


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次に出てきたのが、左はこちらも固めのフランスパンのようなものに、濃いめのチーズがコーティングされたもの。また、右は様々な種類のキノコが入ったスープです。

このキノコのスープが本当に美味しい。素材の味がスープに染み込んでおり、大変味わい深かったです。
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そしてペアリング第2段。洋梨のドリンクですが、若干塩味を感じる不思議な味。甘さはかなり押さえられ、スッキリしていました。

しかし、画像を見ると直ぐに味を思い出すほどのインパクトの有るドリンクでした。


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続いて麦?とエビのリゾット。ここに来て若干味付けの濃いめなリゾットがとても良い。リゾットにエビの香りが染み込んでいて、非常に美味しい。
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お待ちかね、ペアリング第3段。パツショングレープフルーツらしいのですが、良く有る味の濃い安っぽいものとは、当然ですが全く違います。甘さはかなり控えめで、飲むとパツショングレープフルーツの種がいいアクセントになっており、これも素晴らしい。
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そして、謎の透明な器を、これまた透明なフィルムが覆っており、中に何と煙が注入されていました。

鶏肉を薫製にした際の煙を入れられているのだと思いますが、煙の吹き出し口にホウズキが配置されていました。

 

これをどけると、燻製独特の煙の香りがし、嗅覚でも料理を楽しめるようになっています。
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メインディッシュは泥豚をローストしたもの。中は若干赤みがあるくらいのミディアムレアな感じ。細菌の少ない健康的な豚でこその焼き加減でしょう。臭みがなくこれまた非常に美味しかったです。

そして最後のデザートです。
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なにやら、パリパリとした膜で覆われているものを崩すと、中にバニラアイスと、ベリーが。そして、カカオ?が粗びきされた絨毯の上に、マカロン、トリュフなど。

終わりまで全て完璧なクオリティ。

 

一つ一つの料理が物語の一幕を担い、全て食した段階で、このセララバアドが表現したかった「秋」か理解できるような、そんな素敵な料理でした。

 

また是非伺いたいと思います。

現代教育の大きな間違い。教育こそがそ人間の思考力を奪う元凶である。

「現代教育論は間違いだらけだ」

 

教育者達がのべつ幕無し放ってきた言葉であり、使い古された言い回しかもしれない。しかし、この言葉の意味の本質を理解出来ている人達は果たしてどの程度いるのだろうか。


私は、「現代教育が間違っている」というよりは、そもそも「教育」という行為自体に根本的な誤りがあると考えている。

 

そもそも人間がこしらえた価値観やルールに「絶対」など無い筈だ。「教育」など、たかがその延長線上に位置するものに過ぎない。


それをどの教育機関においても、絶対的なものとして子供たちへ教え込む。一部の人間はそこに疑問を持つが、

 

殆どが何の疑問も抱かず、そうして教えられた事柄をそのまま受け入れている。得た答えをさらに深く考察することなど、皆無であると言っていい。


自分のこどもの頃を振り返ってみると、幼稚園から小学生の低学年までは「学ぶ」事が本当に好きであった。

 

外で遊んでは植物や虫を捕まえ、図鑑で調べる。図鑑を横断的に見ては、植物と昆虫との関係性などを想像し、理解するのである。


一方向の「押し付け」では無く、自ら体験した事柄と、先人達が出した答えや情報とを照らし合わせて、自分の解が正しいのかどうかを考えるのである。私はこのような行為が非常に好きで、今でもずっと継続している。


しかし、そのような楽しみも早々に奪われることとなる。小学校3.4年の頃、とうとう私も学校教育という名の毒牙にかかってしまった。

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皆と同じ問題を解き、皆と同じ解を出す。それが良しとされる世界に大きな違和感があった。また、当時は語彙も少なくこの違和感を説明できる言葉を持ち合わせておらず、この不快感を第三者へ訴えかける事が出来なかった。

 

そうしたまま、徐々に私も一般的な価値観に影響され、「勉強が出来る=人より優れている」と考えるようになってしまった。

 

そして、完全に自慢話になるが、既にこの頃、勉強は全く好きでは無く、1分も机に向かった記憶がないのだが、幼少期に自ら学んだ事柄が土台として叩き込まれていたため、学校の勉強などは造作も無く、寝ていても満点が取れるほどであった。


これを勘違いした親の勧めで、後に進学塾に入りボコボコにされるのだが・・・。


その後の人生は、散々なモノだった。やはり社会的に優位に立つ人間たちは皆勉強をしている。それは自分でも理解している。しかし、私にはどうしてもその単調な作業が出来ない。興味が無い。


次第に自分が価値の無い人間であるかのように思え、自己評価は地に落ちてしまった。


何もやる気が起きず、何も自分には成し遂げれないと思っていた。


殆どの時間を家の中で過ごし、受験勉強にも身が入らず、悶々とした日々を過ごしていた。だが、考えることはだけは、この時ばかりも止めることは無かった。


そんな中、小学生の低学年の頃からの友人で、家族ぐるみで付き合いをしている人間が、私の事を気にかけてくれ、頻繁に外に連れ出してくれた。今でも唯一親友と呼べる人だ。


彼は、意識的なのか無意識的なのか、いずれにしてもいつも私がスランプに陥っているその時、絶妙なタイミングでそっと手を差し伸べてくれるのだ。


彼と話していると、「価値が無い自分」に「価値がある」ような錯覚を覚えることが度々あった。自分自身何も変化が無いにも関わらず、何故そのように感じるのだろうか?


その時に私はこう思った。そもそも実体のない「価値」などという単なる基準の捉え方に、錯覚も何もないということ。そしてそもそも「価値」そのものが錯覚であり、それこそが自分を縛り付ける元凶であると言う事。


「教育」に対し疑問を持ち、社会に対して反発を覚えていた筈が、いつの間にかその社会の基準に到達出来ない自分に苛立ちを覚え、実は最もそれらに縛られていたのは他でもない自分自身である事。


それに気づかせてくれたのが、この親友であった。


そしてそこに気づいた時、今まで自分が受けてきた「教育」という名の「価値観の押し付け」の恐ろしさを改めて認識することになったのだ。


恐らく完全に思考停止していたのだろう。「教育の在り方」に対して疑問を持ち、そのレールから外れたつもりが、結局深い部分では「教育」という名の深い洗脳にかかり、レールから外れれば外れるほど苦しみ続けるという悪循環。


本来そんな事を考える必要はなかったのだ。

 

そもそも「教育」に価値など存在しない。所詮人間が築き上げたものだ。人間があらゆる生物の中で最も優れた存在であるという傲慢不遜の精神から「人間は人間から学ぶ」というルールを作った。

 

しかし、私はそのルールに抵抗する。そもそも不完全な人間が作ったルールなどに何故従わなければならないのか?

 

ルールとはいつの時代にもルールを作る側の都合に合わせて作られるものではないのか。

 

であるならば、教育とてその目的は同じなはず。今の学校教育が浸透していくことで便宜を受ける人間がいるのだ。

 

そんな輩達が作り上げたルールに何故従う必要があるのか?

 

本来教育というものは、「人間から学ぶ」ものではない。最も優れた教育とは、人知を超えた、自然の叡智から学び取るということではなかろうか。自然が作ったルールはこの世界を支配する根源的なルールであり原理原則とも言える。

 

今の教育は、現代社会における「成果」、これも人間が決めた定義であるが、その「成果」を生み出すために必要な要素を植え付ていく行為でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。


そこには深い思考力も必要なければ、個性も必要ない。ただそのルールを作ったもの達のために、それに従って動くロボットと同じではないのか。