夏、最北の地で起こったこと(1)

目を覚ました。雨が降っていた。駅舎の中に人の気配はなかった。灰色にくすんだ空から落ちてくる雨が、ロータリーで静かに客を待つ白いタクシーを濡らしていた。この朝早くからタクシーを利用する客はほぼいないのか、はなからそう決め込んでいるのか、運転手の姿は見当たらなかった。僕を深夜から見守ってくれていたあのタクシーと同じものかまでは、夜中暗かったせいもあってわからなかった。

 

 2016年8月のある日、僕は稚内にいた。野宿道具と服と本だけを担いで、北日本をめぐる旅をしていた。もうきっかけは覚えていないが、何か人とは違うことがしたかったのだと思う。苫小牧にフェリーで上陸し、札幌、旭川、美瑛と廻った後、鉄道でひたすら北上するというルートを辿っていた。幌延という吹けば飛びそうな小さな町に立ち寄った後、日の暮れるあたりで稚内に着いた。駅の横にあるコンビニに立ち寄って食料を調達し(ここで人の良いおじさんにそのコンビニのポイントカードをもらった)、寝床を求めて暗い商店街を彷徨った。ここも違う、ここもダメ。アーケードを抜けて寂れた港までやってきた時、雨風をしのげそうなとてつもなく大きい建造物を見つけた。高速道路にあるようなトンネルを半分のところで真っ二つに割り、一番高いところから無数の柱を地面に下ろしたような建物だった。強い海風から港を守るためのものだろう、と考え、その下の一角にテントを張ることにした。

 しばらくテントの中に横たわっていたが、全く眠れる気がしない。風が強すぎる。うるさいし、寒い。テントもろとも体が吹き飛ばされそうだった。おまけに野宿者(僕の他にもちらほら見かけた)の邪魔をしようとするやんちゃな連中が、ホイールエンジンをふかしながらすぐ横を車で走ったりする。そんなところで寝るぐらいならずっと起きていた方がましだった。すぐにテントを畳んで横にある芝生広場へ移った。だがそこも風が強くて、テントが張れなかった。途方にくれた僕は、何も考えずにとぼとぼ駅の方へと戻った。こんな北の端まで一人で来てこんな目に会うなんて、なんだかみじめだった(野宿しようという考え自体、まず間違っているのだが)。

 古ぼけた街並みには似つかわしくない近代的な駅舎はもう閉まっていて、周りには誰もいなかった。喜ばしいことに、軒がとても広くて雨風はしのげそうだった。よし、とすでに打ちのめされていた僕は思った。もうテントは張らずに、寝袋に包まってここで寝よう。人に咎められても謝って、目を見て話をすれば何とかなるだろう。次の瞬間には、自分の部屋で寝るみたいにこなれた手つきで、ベッドメイキングに取り掛かっていた。体の長さほどある銀のレジャーシートをしき、その上に寝袋を載せる。サブバッグを枕にし、貴重品だけは取り出して一緒に入る。そしてそのまま横たわる。するとロータリーの反対側で、客を待つ一台のタクシーが目に入った。もうその日駅を使う人はいないのに、一台だけじっと暗闇の中に佇んでいた。自分を待っていたのだ、とくだらない考えが頭をよぎった。咎められるかもしれない、そうでなくとも怪しまれるかもしれない、とは思わなかった。深く考えるより先に、眠気が襲ってきていた。もう十分疲れていた。

 

 駅舎が空いてからトイレで歯を磨き、身支度を整えた。駅にはちらほらと客の姿が見えた。出発する頃には、年をとったハゲ頭の運転手も帰ってきていて、器用にロータリーの下に入りながら車に凭れかかってタバコをふかし、半おりにした新聞に目を落としていた。何年もここで客を待ち続けているうちに、それがすっかり朝のルーティンになっているようだった。駅を出る時こちらをちらりとだけ見たが、興味もなさそうにまた日課へと戻っていった。

 雨はその勢いを失いつつあったが、その下を歩き回るにはうっとうしい強さだった。しばらく東に歩き、前の日に僕を苦しめた漁港よりは大きめの港に着いた。霧のような雨の向こうに霞んで見える道路標識には、はっきりとロシア語の文字が見えた。ここより北の陸地は、もう日本ではない。その事実はひしひしと目の前に立ち現れてはいたが、本当にそうだとも思えなかった。朝はまだ早いはずなのに、港に集まった客の数は大勢と言ってよかった。彼らに導かれ、豆腐を並べたような、としか表現のしようがない形の建物に入り、船の切符を買った。行き先のところに、小さく「礼文島」とあった。まさに最果ての地に僕は向かおうとしていた。(続く)

 

f:id:fermong:20181005040055j:plain

 

EDMファンとして。

たまには日記みたいなものも。

先日、お台場で開催されたEDM系音楽フェスに友人と参加した。EDMは、「バカが聞く音楽」と揶揄され、「音楽ファン」の皆様からは軽蔑されることもままあるが、自分は嫌いではないし、むしろ傾倒している節もある。最近は別の種類の音楽がメインになっていたが、フェスが予想外に楽しいものだったのでまた色々と聞き始めるかもしれない。

フェス自体は非常に楽しいもので、自分も歌に乗せて手をあげたり飛び跳ねたりと存分に楽しんだ。ただ雨があまりに強く、湯船に飛び込むのと同じぐらい濡れてしまった。しかしむしろ雨によって会場の一体感は増していたようにも思う。腕時計とカバンに忍ばせていたヘミングウェイの『移動祝祭日』はお釈迦になってしまったが、それだけの価値はあったと思っている。

さてEDMは上述の通りなぜか軽蔑されやすい音楽である。それはより正確にいえば、聞く人の側に問題があるからだと思っている。フェスに参加してみて改めて感じたが、参加者のマナーはすこぶる悪い(これはご想像にお任せするが)。あの様ではEDMのイメージが悪くなるのも頷ける気がした。ただこれはEDM自体の性格でもあって、EDMは朝から優雅にコーヒーを飲みながら、その歌詞を噛み締めつつ耳を傾ける音楽では基本的になく(これは本当に色々あるので一概にはいえないが、そういったエレクトロ・ミュージックは少ない)、むしろ気持ちを盛り上げて飛び跳ねる、体を揺らすような音楽が多い。そういった曲調の音楽が好きではない人にとってみれば、昨今のEDMブームは面白くないものであろう。

しかしだからといって下に見るのは勘弁してほしいものである。先日ある黒人ミュージシャンのインタビュー動画を見る機会があって、以下のようなことを言っていた。自分にないものを持つ、自分がしないことをする人を下に見ようとする心の動きには時に抗えないこともあるが、音楽に限らず、大事にしたい姿勢だと思う。

 

Music is the one thing that I believe brings so much happiness to people. It does't matter the genre.This is why I hate when people start classifing each other based on music. They listen to and they say  "No,Don't listen to that. No, EDM is crap. No, this one is crap". For me, just music in general evokes feeling. I don't care what kind of music it is. If it evokes feeling, it is as good as the other.

北杜夫「楡家の人びと」を読んで

北杜夫の「楡家の人びと」を読んだ。

ある精神科医が一代で作りあげた大精神病院と彼の一族が、明治後期から終戦までに辿った運命を描いた傑作である。上中下からなる3部作で(その割には短いかもしれないが)、なかなか読み応えがある作品に仕上がっている。

3部作もある長編を読み終えると、読み切った、という達成感による補正(勝手に長編補正と読んでいる)がかかって本来よりかなり面白く感じてしまうのが自分の常であるが、今回も例にもれず面白い小説だったと思う。

ただ上巻と中下巻の間に1ヶ月以上の空白があり、そこでどうしても内容をすっぽかしていて、たくさん現れる登場人物それぞれに着目した読み方というのは十分にできなかった。

 

内容以前にこの小説を通して感じたのが、視点が何人にも切り替わる作品というのはあまり自分の好みではないということだ。特に長編小説とあらば、語り手たる人物に時間をかけて感情移入していく読み方を自分は好む。コロコロと視点が変わってしまうとそれが難しくなる。

ただこの作品のテーマの一つが「明治から終戦までの激動の時代を生きた人々を描き抜く」ということにあると思われるから、抗えない社会の流れや潮流に対して、ある人物は◯◯と捉えたが、別の人物は××と捉えた時、そこに生まれる齟齬(徹吉と龍子の対立などは、性格の違いもあろうがこの部分も大きかっただろう)や同調、そしてそれが複雑に織り成す人間模様を巧みに描き切ったという点で、この作品は傑作と表すべきであろう。

 

また個人的に強く思いを馳せざるをえなかったのが、かの夏目漱石が言うところの「外発的発展」と「内発的発展」の話である。これはまた別の機会に何かくしゃくしゃと書ければと思うが、要は「西洋ではAという言説がその域内で完全に否定され、意義を失って初めてBという言説が誕生し普及する一方、欧米からの輸入で急速に近代化を成し遂げた日本の場合は、Aという言説が否定される前にすぐさまBという言説が舶来し、Aが否定されないままにBが普及してしまう」という議論のことだ。漱石は近代化真っ只中の浮わついた時代にすでにこの状況を見抜き、前者を内発的発展、後者を外発的発展と名付けたわけである。まさに偉人である。

 

楡基一郎や長女の龍子、院代の勝俣は、旧来の古い価値観を有しながらも、次々に取り入れられていく西洋的価値観・風習を無理に取り込んでいた印象を受けた。そしてそのような呉越同舟的な状態は、前の時代になれば進歩的と捉えられ、後ろの時代になれば時代遅れと評される。それだけ時の流れは早く、だからこそその流れに乗り切れない、徹吉や桃子のような旧来の(古き良き)価値観を軸に据えたままの人、西欧における挫折を経験した人の存在をより際立たせ、話をより深みのあるものにしていたと思う。

 

読む小説小説ごとにこんな真面目腐ったことを書くのも無粋ではあるが、読みながらぼんやり思っていたことを文字に起こすのは楽しいものである。

 

あれから6年半経った被災地を巡ったので紀行文を書きたい(目標)

自分が書いたとは思えない「はじめに」の記事を見て恐々としている(仰々しい…)。ただむしろ、これぐらい胡散臭く長ったらしい記事をはじめに据えておけば、後に続く記事もそこそこ長く(胡散臭く)書けそうである。ものは捉えようである。

 

先日をもって東日本大震災から7年半が経った。この節目に待ってましたとばかりに身を乗り出して何か語れるほど、東北の被災地に対して一家言持ち合わせているわけではないが、ちょうど1年前、私は三陸をめぐる旅をしたことがあった(タイトルが1年ずれているのはそれである)。それは1週間ほどで、寝泊りもネットカフェか野宿、そこで何か広い知見を得たとか、深い思索にふけったとかそういうこともない、いろいろと寂しい道中であった。ただそういうことがしたくて現地に赴いたわけではもともとなかった。単に「自分の中で風化させない」、それが目的であった。だから、見聞きした「掛け値なしの被災地」に自分の薄ぼけた思索を乗っけることは、今回望むところではなかった。

 

以上言い訳であるが、あまり思索を巡らせない、とぼとぼ歩くだけの旅になったので、いわゆる紀行文みたいなものも書きやすいと思う。それ自体継続性が予定されている紀行文というジャンルに筆をおくこともできなければ、ブログ自体続けることも向いていないという何よりの証左になろうから、今回はブログ登竜門として、三陸の紀行文をつらつらと最後まで書いていきたいと思う。途中、日々の雑感などが挟み込まれるかもしれないが、ご容赦頂きたい。

 

今回の記事はこれで終わりという体たらくであるが、次回以降に紀行文に手をつけていきたいという所存は間違いなく持ち合わせている。おわり。

はじめに(2度目のブログにあたって)

1年間の留学に旅立たんとする友人が、出発前、彼が書き綴っているブログの存在を教えてくれた。彼とは1ヶ月以上、2人きりでヨーロッパを旅して回ったことがあった。パリから始まり、ブリュッセル、ウィーン、プラハブダペストをまわって折り返す。ベネチアリュブリャナマルセイユを経てマドリードで発ち、アブダビを経由して東京で別れた。ブダペストバルセロナで彼の友人と行動をともにすることもあったし、ベネチアジェノバでは単独行動を取ることもあったが、それも数日だけで、基本的には男2人の旅だった。彼は聡明で、教養も語学力もあり、少なくともうわべの(これは彼自信が言うところであるが)コミュニケーション能力は十分にある。私が尊敬する数少ない人物でもある。

 

ただ旅行中、彼とはうまくいかないことも多々あった。それはその時の自分にどう考えても落ち度があることもあれば、その逆も同じぐらいある、と言いたいところだが、その時の自分は過去最高に落ち込んでいて、原因は自分にあると考え、くよくよ鬱々としていた。その消極的な態度がさらに2人の関係を、悪い方向にごろごろと転がしていってしまっていたのである。ただブダペストベネチアマルセイユといった都市で決定的な経験を重ねるに従って、むしろそれはどちらか一方に帰責されるとか、どちらかに優劣があるとかそういう問題ではなくて、結局差異の問題であるという考えに思い至った。字面で追うとありきたりな結論でしかないのだが、人から言われるのと、自分で0から結論をひねり出すのでは雲泥の差があるし(ここだけは優劣の問題かもしれない)、説得力も違う。この辺りはまた、おいおい書いていきたい。

 

帰国後は、彼とはむしろうまくやっていたと言っていいだろう。旅行中に感じ取ったその差異が帰国後の彼に映り込むこともままあったが、むしろその差異を理解できたことで、そこは割り切って考えられていたように思っていた。

 

ブログを遡ると、彼は帰国して1週間後、最初の記事を書き始めていた。 彼らしいと思うところもあれば、知る限りの彼に照らして、意外に思える箇所もあった。いずれにせよ、見知った友人の考えが文字として浮かび上がるのは新鮮で、興味深いものであったことは言うまでもない。すらすらと読み進めるさなか、一人の登場人物として私が現れたのは、7月末、彼と別の友人と3人で飲み会をした数日後の記事だった。名指しでは当然なかったが、すぐに私のこととわかった。そこでの自分は、かぎかっこつきの「友人」として描かれていた。私は「自分のことに精一杯」と評され、「その程度の友人しか作れなかった自分の自業自得」と彼は綴っていた。

 

感情は文字にならないが、文字にならない感情はそのまま消えていく。それを目にした時に頭に浮かんだことはよくわからないが、友情への信頼が裏切られ悲しいとか、自分も全く同じことを思っていたとか、そういう類の、至極簡単に手中に収まるものではなかったことは確かだ。そうであったならば、一度手をつけて全く続かなかったブログを再び始めようとは思わなかったし、詮無い思索を走らせることもまたなかっただろう。その時湧き上がった感情はいったいなんだったのか。「言葉にできない」「複雑な気持ち」。そういった判を捺して封をし、奥底に畳みこんでしまってよいものであったか。

文字にしなかったその答えは、もうおそらく浮かんでこない。感情や思考は脳みそのある場所から別の場所へと止め処なく、二度と同じ形を成すことなく流れているのに、それをせき止めず、すくい上げる努力もしない。果たしてそれで良いのだろうか。

 

突き詰めてしまえば、「自分の思いが霞んでいってしまう前に文字にしたい」というありがちな集束点に滑り込んでしまうのかもしれない。そして今回もまた、三日坊主で終わってしまうのだろう。ただ自分のケースにおいて間違いなく言えるのは、感情を文字にする、それこそが唯一の(あるいは最善の)、自己を知り、そして他者を知る道であるということだ。