溝江八男太(みぞえやおた)という、知る人ぞ知る人物がいます。
溝江は、『広辞苑』の編者として知られる言語学者・新村出の教え子で、その『広辞苑』の前身である辞書『辞苑』(1935年)の実質的な著者であったとされる人物です。『辞苑』以前の編著書には、『青年文化読本 参考書』(1923年、金港堂)、『女子文化読本 教授資料』(1926年、永沢金港堂)、『公民文化読本 教授資料』(同)といった教師向けの指導書がありました。
新村出が著した『広辞苑』の自序にも「『辞苑』の出版改訂時代の〔中略〕忠実なる編集主任たりし溝江八男太翁」と実名が挙げられており、一般には無名でも、辞書好きの間ではよく知られた存在です。
溝江が『辞苑』の編集主任を依頼されたのは昭和6(1931)年4月以降と推定されており*1、すでに50歳を超えていました。ところが、それ以前の経歴については、だいたい以下のような程度しか明かされておらず、詳しい職歴について述べられることはありませんでした。
『辞苑』に百科項目をと主張した溝江八男太が長年中等学校で国語の教師をしていた
――倉島長正(2003)『日本語一〇〇年の鼓動 日本人なら知っておきたい国語辞典誕生のいきさつ』小学館 p.182
〈長く勤めていた女学校〉というのは、京都府立宮津高等女学校(現・府立宮津高校)である。溝江八男太はそこの校長として約一〇年五か月在任した。退任したのは昭和六年四月、五三歳のときだった
――石山茂利夫(2004)『国語辞書事件簿』草思社 p.223
溝江八男太の経歴は断片的に、東京高師を出て、福井方面で女学校などの教師をしていたこと、辞典編纂にかかわった時代は東京に居を移していたことなどがわかっていますが、あまり詳しくはわかりません。
――倉島長正(2010)『国語辞書一〇〇年 日本語をつかまえようと苦闘した人々の物語』おうふう p.203
京都府立舞鶴高等女学校の教頭を退いて福井に隠棲している溝江君
――新村恭(2017)『広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡』世界思想社 p.159
溝江は『辞苑』に携わる前、教師としてどのように過ごしてきたのでしょうか。
さて、話は変わりますが、2022年12月に「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジコレ」)がリニューアルされ、全文検索が可能な資料が5万点から247万点に爆増しました(その後も順次追加予定)*2。
この「デジコレ」の全文検索を用いて、溝江の足跡を辿ることができそうです。なお、私は人物調査に関しては全くの門外漢でありますので、この記事は、「デジコレ」を使えば誰でもこれだけのことが調べられるというサンプルとしてご覧いただければと思います。
*1:石山茂利夫(2004)『国語辞書事件簿』草思社 p.223
*2:「国立国会図書館デジタルコレクション」をリニューアルします(令和4年12月21日)|国立国会図書館―National Diet Library https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2022/221202_01.html