カミは万人を愛しているのか?
母が癇癪をおこして室内の家具を
ひっくり返しモノを投げつけている
ロクに生活費をウチに入れずに今も
何もしないで酒びたりの日々を過ごしているバカ亭主へのイライラが募り
ストレス溜まって限界を越えたようだ
不条理なこの世界でカミは愛なり、と
断言する基督信徒たちの感性が
分からん
何より今、この瞬間にも苦しんで
いる人達をカミは一人残らず
愛している、と言うのか?
あまりにも不条理な現実を
見ずして真理とはいえまい
疲れた者、重荷を背負う者
母の尿失禁が顕著である
朝夕、深夜と、時を問わずして
本人或いは私が対応に追われる💦
聖書には介護に関する記述は全く無いと記憶しているが、介護疲れして
いる者も「疲れた者、重荷を背負う者として」基督は、或いは教会は受け入れてくれるのだろうか?
礼拝を守っているかどうか…
そういう話ではないですよ
聞いていますかK牧師
ひさしぶり
久しぶりに更新する
久しぶりと言えば、基督教会に
ひさしぶりに通い始めている
熱心に賛美歌を歌う信徒の女性が
いるが、彼女は心からカミを信じ
愛しているのだろうと思う
基督教会の特異性
どんな関係であれ「言ってはいけない言葉」「状況」があると思う。
聖書には「人は食物ではなく、口から出た言葉で汚れるのだ」というのが
あったと記憶している。
私も、とある基督教会のK牧師の心ない言葉で教会を去る決心をしたが
それは自分の中で教会の、いや基督教信仰のイメージを著しく悪くしてしまった。
一般の宗教を持たない人間同士では、まず考えられない中傷非難の言葉が
牧師→教会員の関係性の中では「権威」をもってしまうのは何故なのか?
基督教会のこの特異性は牧師自身を汚し、教会員の信仰も誤った方向へ
導いてしまわないだろうか?
宗教に関わる時は指導的立場の人間と信者の関係性を、まずチェック
するべきだ、と学べた点では教会に通ってよかったと思っている。
目を見開いて本質を見極める事、すべてにおいて大事な事であろう。
クリスチャンへの違和感
教会は言う。
「あなたはカミから愛されている、守られている」と。
ニュースで世界各地の災害による甚大な被害が報じられる度に
私は思う。
「カミは何故、ここまでされるのか・・・?」
そして被災者への祈りもそこそこに讃美歌を高らかに歌い
交わりの時を楽しむクリスチャンたちに違和感を覚えるのだ。