【キャットタワー】猫は高いところがお好き【我が家のおすすめ】
どうもこんにちは。今日も朝から猫と戯れました、ふわゆらねこです。
…もう、ねこでいいですか?
うちの猫たちは4匹4様、本当に性格が違います。
朝、私を起こしにくるのは三男坊のあおくんです。
ボクです
起こし方は容赦ないです。とにかくビニール音を立てます。うるさいです。
→ 飛び起きます。
猫はやっぱりキャットタワーが大好き
あおくんが我が家にきたのは生後2か月半の時。ずっと一緒に育った妹分のナナと一緒だったとはいえ、すでに我が家には先住猫が2匹いたわけで。
普通だったら、初日くらいはおとなしくしておくもんなんです。
普通は。
それでは、あおくんが我が家に来て2時間後の姿を、どうぞご覧ください。
1枚目、上から見てるのはお姉ちゃんのララァですね。「なんだこいつ???」って感じです。
一緒に来たナナは、この時はまだケージから出てこれてないです。普通です。初日なんで。
でも、猫って本当にキャットタワーが大好きなんです。本当に。
というわけで、今日は我が家にあるキャットタワーを紹介したいと思います。
我が家のキャットタワーその1 ベッドスペース重視のもの
我が家は多頭飼いなので、キャットタワーを買ってベッド部分が1か所しかないと、それだけで喧嘩の原因になってしまうこともあります。みんな高いところがいいんだもんね。
このキャットタワーを買った時は猫が2匹いる時、それも先住猫が亡くなった直後でした。この2匹は亡くなった夏目を本当のお母さんのように慕っていて(夏目はオスだけど)亡くなった時の落ち込みようと言ったら半端なくって。
少しでも気がまぎれたらなと思って、これを選んだ記憶があります。
組み立て終わるのを待って、初めて登った時。
すっかりくつろぎモード。
我が家のキャットタワーその2 シンプルなもの
これは、本当はキッチンに置くつもりで買いました。
うちの猫たちはキッチンが大好きで、私がご飯を作っていると必ずついてきます。
ちょっとした段差を見つけてはそこに上り、ご飯を作り終わるまで待ってるんです。
かわいいんです。
だけど!
包丁使ってるときにジャンプしてきたり、足元で伸びてくつろいでたり。
とにかく危ない!
じゃあ、キャットタワー置いちゃえばいいんじゃない?(みんなそこに集まるはず)と考えて、買いました。
結果
今はリビングに置いています。
組み立てて、キッチンにもっていく前にみんな登っちゃって。
特にてっぺんの取り合いが激しいです。喧嘩はしませんけど、ちょっとでも隙を見せると奪われます。
次女ララァ(黒)と三女ナナ(グレー)は
こんなになってまで、てっぺんは譲らず。
猫にとってキャットタワーは大切な場所
人間も「一人になりたい」って思うときがありますよね。
猫ももちろんそうで、そんな時にキャットタワーに登って遠くを見つめてたりしてるんじゃないかなと感じる時があります。
猫たちにとって、少しでも居心地の良い空間が作れますように。
【保護猫出身です】我が家、猫がたくさんいますよ【現在4匹+1匹】
今、我が家には猫が4匹います。
そうなんです。猫が大好きなんです。好きすぎるんです。
物心ついた時から、私の家には常に猫がいたような気がします。
私は幼稚園の時から鍵っ子だったので、家に帰っても誰もいない生活だったんですけど、でも猫は常にいて、それが心の拠り所でした。
それは小学校に上がってからも変わらず。昔から外で友達と遊ぶ!っていうのがあまり好きではない子供だったので、家に帰っては本を読みながら猫と遊ぶ生活。
学校を卒業して、上京して。
そこからは猫と一緒に生活することはなくなってしまいました。
そこから月日は流れ。
「猫を飼いたいね」という話になったのは、今から6年くらい前の話でした。
でも、どうしてもペットショップで買うということに抵抗がありました。
ネットで検索をすると、保護猫カフェがあるじゃないですか!
その時にヒットしたのが、こちら。
早速休みの日に行ってみることにしました。
でも、そんなにすぐ決めるとは思ってなくって。
どんな感じなのかな、どんな子がいるのかな、と思っていったんですけど。
行ったその日に「この子!」という出会いをして、トライアルをお願いすることになりました。
それが、この子。
夏目です。この時、生後5か月。
まだ子猫とは思えないほどの落ち着きっぷりを発揮して、一瞬にしてメロメロになった我が家。
この1週間後、お迎えすることになりました。
※残念ながら、夏目はうちに来てから1年半後に病気で亡くなってしまいました。
でも、夏目が残してくれた「猫と一緒に暮らすとこんなにも毎日が楽しくなるんだよ」っていう教えは、きちんと我が家に根付いています。ありがとう夏目。
その後、姉弟猫を2匹。(姉猫(右)現在4歳)これはまだ生後3か月くらいの時
※弟猫(左)は2歳の誕生日を翌日に控えた夜、病気でなくなりました。奇しくも夏目と同じ病気でした。獣医さん曰く、血縁もない猫が続けてこの病気(動脈に血栓ができる)でなくなるなんて稀と言われましたが、もともと心臓に疾患があったんだろうということでした。
黒猫(女子)(2歳)
わんぱく男子とちっちゃい女子(2匹とも来月2歳)
今は、4匹の猫に囲まれて暮らしています。
あ、忘れちゃいけない。
犬もいるよ(保護犬出身です)
11歳です。
にぎやか。
【出産は命がけ】私の人生観が変わった瞬間(その1)【緊急帝王切開】
私には二人子供がいます。もう大きくて19歳と15歳。
この19歳の上の子を妊娠した時は、初期から本当に体調が悪くて切迫流産になって出血するし悪阻は酷いし大変でした。結局悪阻は出産当日まで続いたし。
妊娠が発覚した時って、私は派遣社員で仕事をしていたんですけど出血が止まらなかったので退職したんです。仕事はパソコンのヘルプデスク業務ですごく楽しかったけど電話での仕事だったのでストレスが半端なかったのも事実。
そして何より、結婚5年目の待望の妊娠だったので「仕事より体が大事!」でした。
酷い酷い悪阻と戦い、実家は遠いので頼れず、精神的にもボロボロになって妊娠期間を過ごしていました。今思い出しても本当につらかった。
それでもなんとか34週を迎え、もう少しで正期産だなーと思いながら毎日を過ごしていたある日。
ちょっとだけ出血していました。その日はちょうど検診の日だったので病院で先生に相談。出血の色やお腹の張りも診てもらい「そんなに心配いらないけど、できるだけ安静にしておいてね」とのこと。その日は帰宅して何事もなく過ごしていました。
状況が変わったのは、翌日。
夫を送り出し午前の家事を終えて、ちょっとだけ…と思って横になりました。で、気が付いたらもう12時を過ぎていてテレビでは「笑っていいとも!」をやっていたのをすごく覚えています。
「あー、もうこんな時間だ」と思って起き上がろうとした瞬間「ジャー」っという音が聞こえたような気がしました。
これ、サーっとかじゃなくて、ジャー。
「あ、破水したかも」と思って足元を確認した私の目に飛び込んできたのは、真っ赤な血溜まりでした。
やばいやばいやばいやばい
めっちゃ血出てる。なんだこれ。ダメなやつなんじゃない?
そのままの体勢で産婦人科に電話をしたら「入院の準備をしてすぐに来てください!」と言われました。
そりゃそうだよね、と思って、すぐにタクシー会社に電話して1台配車をお願いして。その間に足についた血をシャワーで流しました。
ものすごく焦っていて、でもどこか冷静で。
結婚して5年目でできた待望の子。
もし、この子がこのままお腹の中でダメになってしまったら、夫になんて説明したらいいんだろう。
私は心の中で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返して。
お腹をさすりながら「大丈夫だよ、すぐに病院に行くからね。まだ動いていて」と我が子にお願いをして。
そして病院に向かいました。
病院に着いたら「え?一人で来たの?」と驚かれましたが、実家は遠いし夫は仕事だし、帰りを待ってるなんできないから、一人で行きました。
その時は「だって他にどうすればよかったの?」と疑問に思いましたが、今思うと、一人で行動できるような、そんな状態ではなかったということでした。
すぐに陣痛室に運ばれて「できる限りのことはやります。今日中に出血がおさまらないようであれば、今日帝王切開で赤ちゃんを取り出します。」と説明を受けました。
ただ「そうはいっても現在34週なので、できればもう少しお腹の中に入れておきたい」とも言われました。
夜になって、新しい出血は確認できず、その日の出産はなくなりました。
しばらくは点滴で子宮の収縮を抑えて、できるならば37週近くになってから出産、ということになりました。
出血がひどかったので、一気に貧血症状が悪化してこのままじゃ帝王切開の手術もできないということも理由の一つでした。
それから2週間、ベッドの上から動いちゃダメっていう絶対安静になり、ずーっと点滴つなげてる生活。
そして、結局
36週に入って、もう点滴を指す場所もなくなってきて、私の精神状態も限界で、状態も落ち着いてきてるし内服の子宮収縮を抑える薬にしましょうか、となった途端再度の大出血で、翌日帝王切開で出産、となりました。
帝王切開のオペが始まる直前には、大学病院から応援に来てくれたドクターとおしゃべりしてました。緊張を取ろうとしてくれてたんですよね。
「今日は祝日だから、誕生日が覚えやすくていいね~」と言われたのをすごく覚えています。
オペが始まるとあっという間で「赤ちゃん出ますよ~」って言われてすごく引っ張られる感覚があって。
長男、無事に誕生。
数日ですが37週に満たないので早産ということになり、それ対応の保育器も準備されていたのですが。
予定日より約1ヶ月早く生まれた我が子は、3200gという、その時新生児室にいたどの子よりも立派な体格で生まれてきました。(保育器には入りませんでした)
私は、妊娠って結婚したらすぐにできるものだと思っていたし。
出産は、妊娠したら当たり前にするものだと思っていました。
でも、結婚して5年間子供はできなかったし
出産も、自分と我が子の命をも危ぶむものとして経験しました。
でも、この出来事があって
この世の中に絶対っていうことはないし、当たり前のこともないし
なにより、いつ自分が死んでしまってもおかしくないんだということを目の当たりにして。
私が私として生きていく姿勢のようなものを、生まれて初めて突き付けられた気がしました。
と、言いつつ
この経験なんて甘っちょろかったな~っていう経験を、次の出産時にも経験してしまいました。
その話は、また日を改めて。
【精神保健福祉士】目指すことを決めた私が選んだ大学生としての生活【通信制大学】
現役の〇〇
私は年齢こそ40代半ばの、まさしく「アラフォーとアラフィフの間」なんですが、現在大学4年生です。現役女子大生です。
元々は高等専門学校(いわゆる高専)卒で、技術系会社員として仕事をしていましたが。その間に結婚・妊娠出産・育児といろいろあって、現在は某私立校で仕事をしています。
そして、そんな私のもう一つの顔が、女子大生というわけです。現役です。しつこいですけど。
国家資格を取りたい
私がなぜ大学生になることを選んだか、という理由をお話しします。
なんせ、フルタイムで仕事をしていて、子供は大きくなったとはいえ二人います。
あと、家には犬が1匹と猫が4匹。そして夫もいます。
それでも私にはどうしても取りたい国家資格がありました。
それが『精神保健福祉士』です。
精神保健福祉士(せいしんほけんふくしし、英: Psychiatric Social Worker)は、精神保健福祉士法で位置づけられた、精神障害者に対する相談援助などの社会福祉業務に携わる人の国家資格である。PSWと略称されている。
そしてそもそもなぜ私がこの資格を目指そうと思ったのか、という大きな理由。
それは「夫がアルコール依存症になってしまったから」なんです。
アルコール依存症とは
アルコール依存症(アルコールいそんしょう、アルコールいぞんしょう、英: Alcoholism)、アルコール使用障害(Alcohol use disorder、AUD)とは、薬物依存症の一種で、飲酒などアルコール(特にエタノール)の摂取(以下、飲酒とする)によって得られる精神的、肉体的な薬理作用に強く囚われ、自らの意思で飲酒行動をコントロールできなくなり、強迫的に飲酒行為を繰り返す精神障害である[2][3]。
依存症については、また別の機会に詳しく書きたいと思っていますが、簡潔に言うとこんな感じです。「自分の意思とは関係なくアルコールを欲してしまう」病気。誤解されている方も多いと思うんですが、精神疾患です。「お酒を飲むことを我慢できない人」ではなくて、疾患なんですよ。
夫は若い頃からお酒が大好きで、でもとても強くて「お酒に飲まれる」ということはなかったんですよね。だから、依存症だと診断された時に、たぶん一番驚いたのは私で。だからこそ、早くに気づいてあげられなくて申し訳ないなという思いもあったり。
でも、精神保健福祉士を目指したのは↑のようなことが理由ではなくて。
「依存症当事者の家族としての無力さ」をひしひしと感じてしまったから、です。
家族が依存症って、なかなか人に言えないんです。
人に言えないっていうことは、誰にも相談できないんです。
相談できないってことは、医療機関に繋がらず、ただただお酒を飲む本人を見てることしかできないんです。
でも、うちの場合は、なんだかんだで病院に繋がり、一時は休職に追い込まれた夫も現在は復職してバリバリ仕事をしています。(これもまたの機会に)
回復し始めた時に「このままだったら、夫が依存症になって苦労をしました、めちゃくちゃ大変でした。これって私の人生の黒歴史です。」っていう出来事になっていまうと思ったんですね。
私、転んでもただでは起きません。
絶対にこの経験を良きものにしてやる!と思って。
そして「精神保健福祉士」の資格を取って、きちんとした知識を身につけて依存症当事者と家族の支援をしたい」と思いました。
精神保健福祉士になるための長~い道のりの始まり
調べてみると
- 精神保健福祉士になるためには国家試験に合格しなければならないこと。
- 国家資格を受験するためには、受験要件を満たさなければならないこと。
がわかりました。
私の場合、そもそもが大卒ではないので、そこが大きな壁になりました。
受験資格を得るために「福祉系の大学を卒業すること」「必要単位を修得すること」が必要だったんです。
ここで話は最初に戻るんですが。
この時点で私はフルタイムで仕事をしているし、子供もいます。
とにかく忙しい毎日を送っていました。
「ちょっと冷静になって、考えてみよう」と何度も思いました。
勉強する時間は取れるのか? 学費は? 家の事もちゃんとできる?
結局、どんなに考えたところで何も変わらなかったんですけどね。
「勉強をするなら今しかない」と思った直感を大事にしようと思って、具体的に学校を選びました。
そして、2018年4月に大学3年次に編入学をしました。
正直な気持ちは
「大学生ってこんなに勉強すんの?」っていうことでした。
とにかく、勉強は大変。課題、レポートもひっきりなし。常に締切に追われる日々。
でも、大変だけれどそれ以上に楽しいなって思っています。
まだまだ知りたいことがたくさん。
最初は依存症分野に進みたいと思っていたけれど、今はスクールソーシャルワークにも興味があるし、司法分野にも興味がある。
来年の今頃は、私はどこでどんな仕事をしているのかなと考えるとワクワクします。
「ふわっとゆらゆら」
久しぶりにこんなに悩んだ
ブログのタイトルって、みなさんどうやってつけるんでしょうか。
かなり悩みますよね。私は子供の名づけでもこんなに悩んだかなっていうくらい悩みました。
特に、独自ドメインを取得するって決めてからは
「独自ドメイン 決め方」とか
「ブログ URL 決め方」とか
そんなのばっかり検索しては記事を読み漁りました。
だって、全然良いのが思い浮かばない!
最終的には「なんとなく」「ピンときて」っていう感覚的なもので決めてしまいました。
懐かしのmixi
その昔、mixiの全盛期だった頃にハンドルネームを「ゆら」としたことがきっかけでリアルママ友にも「ゆら」と呼ばれるようになりました。今思うと恥ずかしい。
本名は全然違いますよ。全然ですよ全然。一文字も被ってないです。
でもずっと呼ばれていると、間違いなく「ゆら」も私なんですね。もうね、10年くらい呼ばれてるんでね。しっくりきちゃってるんですよね。不思議ですね。
で、独自ドメイン取得する人たちの味方「お名前.com」で検索すると割と埋まってる。あーでもないこーでもないって考えながら、これもいいんじゃない?みたいな感覚で検索してみたら空きがあって、よしこれで行こう!的な。
ふわっとゆらゆらって、私が目標としている生き方を表している感じで気に入っています。
この歳まで来るとね、肩に力を入れた生き方なんてできなくて、力抜いて、でも軸はぶれずに生きていたいと思ってね。
ふわーっと生きていければいいなって思います。
アラフォーとアラフィフの狭間で
はじめまして
はじめまして。ゆらです。
アラフォーとアラフィフの狭間で生きています。
子供は二人生みまして、育てています。
昔から文章を書くのは好きで、小学生の頃は国語が一番好きでした。
中学生になって進路を考えた時に、何を血迷ったか理系の道に進んでしまい
一気に苦手になりました。
難しく考えすぎてしまって、あいまいな表現になってしまうんですよね。
もっと「話すような文章が書けないかな」といつも考えています。
口喧嘩では負けない方です。
末っ子の悲哀
子供の頃の家族構成は、両親と兄2人と姉1人。4人兄弟の末っ子です。
末っ子といえば聞こえはいいですが、上3人と微妙に歳が離れているのでなにかとハブられていたような記憶があります。
上の3人からすると、私はただのガキだったのでいろいろと口を出したかったんでしょうね。
私がやりたいと言ったことはことごとく否定されていたように思います。
「そんなことは意味がない」とか「どうせ続かない」とか。
例えば、○○ゼミとかも私は勉強が好きだったのでやりたかったし、あのなんとも言えない子供心をくすぐるシステムというか、もう○○ゼミすべてが魅力的だったのでどうしてもやりたかったんですけど。
兄たちの部屋には、○○ゼミ高校生講座の、まったく手が付けられてない教材とかがあるわけで。
そしたら母からは「お兄ちゃんたちもやってないから、あんたも続かない」と一掃されました。
しょうがないよね、と今なら思います。親としては、失敗した前例が目の前にあるんだから、と思います。
でも、こういう出来事が重なって、私は親にも兄弟にもあまり自分の思いを話すことはなくなっていきました。
話をしたって、どうせ否定される。どうせ反対される。
その頃から大人になるまで、私の心の中には「どうせ」っていう単語が大部分を占めていたような気がします。
そんな私も結婚をして、母になりました。
子供は息子が二人です。二人とももう10代後半です。子供が大きくなるのは早いです。
拾った命だと思っている
さて、この子たちを出産するとき、私は二回死にかけました。
上の子の時は、臨月を目前に大大大出血。
下の子の時は、帝王切開の時に麻酔が効かず、そのままオペになりました。
大出血をしながら胎動を感じるお腹を抱え、「まだ動いていて」と祈ったあの日。
麻酔が効かないままオペ進行、人生の走馬灯とお花畑を見たあの日。
間違いなく、その二度の経験から、私の、自分の人生に向かう合う姿勢というものは変わりました。
なんであんなにも人の目を気にしていたんだろう。
なんであんなにも人から嫌われることが怖かったんだろう。
たくさんの「なんで」が私からこぼれ落ちていったような感覚があって。
そこから、好きなように生きる私の人生が始まりました。
自分が好きなように生きるようになってから
子供たちの人生に口出ししなくなったし
なんといっても、実家と縁を切りました←めっちゃ重要!
あー、自分の人生を生きるってこんなに楽しいのかっていう、発見。
だから、ココも私が好きなものだけにしたい。書きたいものだけ書きたいというわがままな場所になります、たぶん。