危険は身近にある

交通事故のニュースを見た

 

 

 

早朝ゴミ出し当番をしていた親子をトラックが轢き逃げし死亡させた事件。

 

 

 

冬なので早朝は暗い。道幅の狭い県道での作業。推測だが地域住民が危険を感じることがこれまでにもあったのではないだろうか。

 

だからこそ被害者の親子は「2人」で当番の作業にあたったのではないだろうか。平日の早朝。会社勤めの人ならギリギリまで寝たいはず。地域の行事や仕事なんて実家に親がいれば任せてしまうと思う。少なくとも生まれも育ちも田舎の私ならそうする。親ひとりで行かせられなかったんじゃなかろうか。

 

気をつけていても事故は起こる。危険は常に暮らしの中にあり、それは刃物を持った暴漢のようにわかりやすいものではなく、本当に日常に紛れ込んでいる。

 

痛ましい事故から学ぶ教訓は多い。

 

 

どんなに歪でも日は登り一日は過ぎていく

 

緋牡丹(ひぼたん)  という植物を買った。

 

 

 

 

 

私は植物が好きで時々ホームセンターや農協の直売所なので買ってくる。妻は特に興味がなく、花や観葉植物よりも食べられる野菜などを育ててほしいそうだが家を綺麗に飾るのは悪い気はしないようで黙認してくれている。

 

 

 

先日家族で静岡の公園で行われた催事に出かけた。キッチンカーや雑貨を扱う店が並ぶ。バスケットコートではダンスバトルが行われていた。会場奥にはDJブースが設置されている。

 

その日出演するDJの一人がどうしても見たくて昼食後二時間車を走らせて来た。午前中小学校の奉仕作業で汗だくになりながらドブさらいをしてたから出かけるのはおっくうだったがそれを差し置いても見たかったので妻と息子も道連れにしてわざわざ来た。

 

クレープやビールで妻子の機嫌をとる。妻は喜んでくれたが息子は若干つまらなそうだった。人生いつもお前の思い通りにはならないんだよ、ともっともらしい講釈を垂れてその日は父のわがままに付き合ってもらうことにした。

 

 

 

お目当てのDJの出演時間が近づき、DJブースのそばに行くとその傍にアガベやサボテンなどの植物を販売してるお店があった。

 

店員さんの植物愛がとても深く販売するというより自慢のコレクションを披露してますといったスタンスで鉢一つ一つの良さを嬉しそうに伝えてくる。そういう話は聞いていて楽しい。

 

変わった植物が並ぶ中、一際鮮やかな小さな鉢がいくつかあった。

 

深い緑色の部分と色鮮やかな部分からなる植物はサボテンの一種のようで赤やピンクや黄色いものがあった。緋牡丹というそうで今まで見たことはあったが名前は知らなかった。

 

妻もどうやら気に入ったようで一つ選ぶことにした。赤と黄色のマーブル模様の個体が目についた。子株がいくつかついている。子株は黄色だったり赤だったりして店員さんもどっちの色になるかまだ分からないと言う。そんなミステリアスさも決め手となり買うことにした。

 

丁寧に梱包して袋に入れてもらったので手からぶらさげながら小一時間その日の目的であるDJの選曲を堪能してから帰宅。我が家に迎え入れた緋牡丹はキッチンの窓辺に置くことにした。

 

 

 

調べてみるとこの緋牡丹なかなか変わった植物で、本体は鮮やかな色の部分だけ。緑色の部分は接木された柱サボテンなのだ。緋牡丹は植物でありながら葉緑素がない。単体では生きていけないから接木して補う。

 

すごい進化のベクトルだと思う。進化とは基本的に必要に迫られて変化していくことだと私は考えるのだが、緋牡丹はどういう必要に迫られたのだろう?

 

元々単体で生きて生きていけないから生きながらえるために他の植物に寄生したのだろうか?もしそうならば合点がいく。自分に足りない部分を他者に寄り添い補って生きるというのはなんとも美談ではないか。

 

 

 

だが私の妄想は加速し、進化の理由が別にあるんじゃないかと考えた。その鮮やかな色を手に入れる為に生命維持に必要な部分まで捨てたとしたらなんというエゴイズムだろうか。

 

もしそうだとしたらその極彩色は緋牡丹が望んだ姿なのだろうか。まるで光と影のあるショービジネスに生きるアイドルのようだ。

 

魅せるだけでなく不完全とはいえ植物として生きるための営みがある。子株もできるし花も咲く。どんなにいびつでも日常がある。

 

 

 

某芸能事務所問題のニュースが連日報道されている。華やかな部分と暗い部分のゆがみをこの小さな鉢植えに重ねて見えた。

 

 

思いつくまま書いてみる

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

息子は作文が苦手だ。




 

作文などというたいそうなものではなく、まず日記を書くこともままならない。

 

現在小学3年生の息子は2年生の時から毎週末日記を書く宿題を課されているのだがこれがまぁ進まない。

 

一週間のうちにあったいろいろな出来事の中から1つ書けばいいのだが、書けない。

 

だから日曜日は夕方まで泣きながら日記を書いて終わるという日がけっこうある。

 




なんというか、書かなくちゃいけないという重圧に書く前から負けているのである。だから鉛筆が進まない。息子にとってノート3ページ分の文章を書くことは壮大な長編小説を書くようなものなのだ。

 



 

私は言いたい。

 

いつもいつもいつまでもしゃべり続けてることをそのまま書くだけだよと。

息子に初めて会った私の知人は必ずこう言う。
「お前よくしゃべるなー」
と。

相手が誰であっても息子はひたすらに、いつまでも話し続ける。

好きな戦国武将やポケモンやマイクラや昆虫や恐竜に対する情熱を無限にぶつけてくる。

それをそのままノートに書くだけなんだよ。君なら毎週20ページくらい書けるんじゃない?と思うくらい息子はおしゃべりだが、話すのと書くのでは勝手が違うらしい。





ならば親である私が手本を見せようと思った。いや、手本なんてたいそうなものではない。一緒に文章を書く苦しみを味わおうと思った。

 

そもそも日記書かない人にそんなの早く終わらせなさい、と言われても息子からしたら書いてないやつに言われたくないよって話だ。

 

私が日記を書いても息子の担任の先生は採点してくれないのでブログに書いてみる。ブログは20年くらい前にちょびっとだけ書いてすぐやめて以来だ。

 

 

 

 

 

ブログサービスはいろいろあるけどはてなにした。活発に投稿している方が多い気がしたからだ。

 

美容や株やラーメン屋さんの紹介があまりないのがいい。ニーズが多いのはわかるが私には必要ない。

 

ブログ名はひとまず脱皮とした。自分の固定観念の殻を破る、枠を乗り越えるといったかっこいい意味はない。でも思いついたからそういう意味あいにしておこう。

 

玄関ででかい蜘蛛の抜け殻を見つけて語呂がいいかなと感じたからだ。

 

 

 

脱皮ってなんとおおざっぱな行為だろうか。字のごとく皮を脱ぎ捨てるなんて。かさぶたがポロッととれるのとは訳が違う。

 

君たちは代謝で自然と古い角質が剥がれ落ちるのを待てないのかい?脱皮直後は無防備で命を危険に晒すんだよ?できることなら蜘蛛や蛇に聞いてみたい。

 

 

 

 

こうして書いてる間にも息子と妻とのバトルが勃発した。

 

カレンダーの見方がわからないからAlexaに聞こうとする息子。現代っ子だ。

 

なんでそんなこともわからねーんだと激昂する妻。気持ちはわかる。もう何度繰り返したかわからない問答だ。

 

小学3年男子なんて女親にナメてかかるのは当然だが二人姉妹で育った妻や妻の両親には息子はまるで未知の生物らしくひどく手をやいている。

 

 

 

 

今日は久しぶりの休日なので庭や花壇の世話をしたいが洗濯もしたい。朝からビール飲んじゃって一日台無しにするのも悪くない。どこまでできるかな。

 

 

 

やりたいことや言いたいことはいろいろとあるわけだが

 

 

私が伝えたいことは一つ

 

 

 

息子よ、表現する、伝えるということはこんなにも楽しく素晴らしいことなんだということ。

 

日本語で表現する以上文法上のルールは守らなくちゃいけないが

 

何を書くのも自由

 

思うままに鉛筆を動かせ