第72回ベルリン国際映画祭にて金熊賞を受賞した『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』から3年。世界が今一番新作を待ち望む映画監督、ラドゥ・ジューデ監督による最新作『Do Not Expect Too Much From End of the World(映画祭邦題:世界の終わりにはあまり期待しないで)』は、ウクライナ戦争に突入した東欧の今を、メディア批判を通じて描き出す怪作であるといえよう。拙ジャーナルでも第28回釜山国際映画祭報告記事などですでに話題に取り上げた作品でもあるが、本作品は今改めて観直すことがより重要な作品であるともいえるのかもしれない。本記事は、本年度から拙ジャーナル編集部に加入した専門記者による重厚な報告である。(編集部註)
また、本作では度々『Angela merge mai departe』(Lucian Bratu、1981年)というルーマニア映画が引用されることで参照される。1981年に撮影されたこの映画の主人公は女性のタクシー運転手であり、劇中内では主に主人公の女性がタクシーを運転している部分が中心に切り取られている。そのフッテージはアンジェラの「運転」のイメージと重なり合い、1981年と2023年のルーマニアが映画内で反復し合う。渋滞、「運転」=男性性の意識などの1981年にも見られる交通的・性差的問題は2023年になっても解消の気配を見せず、むしろ悪化の一途を辿っていることを『Angela merge mai departe』とのコラージュによって明らかにしている。
劇中、ルーマニアの交通状況について言及される。 「道路の距離よりも道路の横断中に轢かれて亡くなる人の方が多い」というセリフの後突然映像は切り替わり、無音で墓の数々がスライドショーのように提示される。その墓は交通事故によって亡くなった人の墓であり、そのスライドショーは鮮烈に私達の脳に焼き付けられる。墓に刻まれた名前、写真の一つ一つが私達に何かを訴えかけるように、そこに佇んでいる。 ラドゥ・ジューデは過去作『アンラッキー・セックス』『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』の中でアーカイブ資料を映画内に取り込み、ホロコーストや戦争によって亡くなった人々の写真を映し出した。彼のドキュメンタリー映画である『The Dead Nation』『The Exit of the Trains』ではホロコーストの被害者の記録を主題に置き、歴史に埋もれた被害者の声と生を映画という形で記録した。 本作はこれまでとは異なりホロコーストが主題となった映画ではないものの、この後に続く過重労働や交通問題など、現在進行形の問題によって「被害を負った者の声」を映画内に記録するという点は共通している。唐突に挿入される墓のスライドショーはまさにその映画の主題がよく現れた場面だろう。
幸いなことにそのような中で開催されたベルリン国際映画祭の審査員たちがとった立場は、文化的ジェノサイドに対抗するというものであった。今回受賞した作品は、奇跡的にもCinema du réel2024の上映作品+受賞作品でもある。ここから先簡単に作品内容に関する報告を行いながら、戦争情勢の中で開催された本映画祭を振り返っていきたい。
もっとも鮮烈な記憶を残した作品は、国際長編賞を受賞したクムジャナ・ノバコワ『Silence of reason』である。戦争は、女性の尊厳を傷つけることは自明のこととして理解されるが、その中で本作は収容所におけるレイプ収容の悪辣な事例をフッテージのみで示そうとする。重要なのは、監督本人によるインタビューが加わったり新規に撮影されたもので構成されるのではなく、あくまで彼女たちの肉声とわずかばかりの映像フッテージのみで構成されることである。4:3で映し出されるフッテージは、大きな感覚やビデオの青画面による不在をも強調する。しかし不在こそが映像の持つ力となる。
日本からの受賞作品として、短編スペシャルメンションを受賞した、西川智也『LIGHT, NOISE, SMOKE, AND LIGHT, NOISE, SMOKE』を挙げておきたい。西川はアメリカを拠点に実験映画作家・研究者(ラリー・ガットハイムの研究で知られる)、キュレーターとして恵比寿映像祭やアナーバー映画祭のキュレーション、実験映画を見る会(日本映像学会アナログメディア研究会)などに関わり精力的に活動していることで知られているが、本作は花火の打ち上げをフィルムで映し出すことで、映像がいかなる変容を編成していくかを考察したドキュメンタリーである。アヴァンガルドとフィルムの関係を再考させる6分の充実した短編であったといえる。
ほかに主要賞の受賞は逃したが、印象深い作品を2,3本挙げるならば、日本でも知名度が高い映画監督ジャン=クロード・ルソー『Where are all my lovers?』は、2カットのみで構成された短編でありながらカットのトランジションにおける照明の使い方が一級の芸術である。小田香『GAMA』は、山形不参加のため見損ねていた中編だが、沖縄戦という悲惨な歴史的事象をめぐって証言と振舞の関係性を考察する重厚な作品であったことは言うまでもない。またフィリッパ・セザールの新作『Resonance Sprial』では、劇中でギニア・ビサウ「最初」の映画監督Sana N‘Hadaにクリス・マルケルが送った手紙が引用されることが特徴的である。マルケルのアーカイブ構築への深い関心を垣間見ることができるだろう。
クロージング作品は、2025年に生誕100周年を迎える思想家・精神科医・革命家フランツ・ファノンについての伝記映画『Fanon(True Chronicles of the Blida Joinville Psychiatric Hospital in the Last Century, When Dr Frantz Fanon Was Head of the Fifth Ward Between 1953 and 1956)』であった。ファノンについての詳細は割愛するが、1952年に代表的な著作(論文)『黒い皮膚・白い仮面』を書きあげたファノンは、1953年にアルジェリアに渡りブリダ=ジョアンヴィル精神病院で医療主任として勤務し(1956年)、Institutional Psychotherapy(フランスでマルキシズムやラカンの精神分析から影響を受けて確立された心理療法)の手法を用いた治療実践に励むことになる。その中でアルジェリア戦争捕虜たちの治療に従事したファノンは、自らもFLNに参加し、独立運動闘争へと身をささげていくことになる(1961年に『地に呪われたる者』を執筆)。映画作品は、その流れを堅実に描いていくが、さすがに「植民地的暴力」の力を感じ取ることはできなかった。
3月23日にGreen Stageで開催されたトークショーの中で黒沢ともよが言及する「こたつ」(第二期)は、初歩的ではあるものの、文化資本格差の中で「他者のハビトゥスを共有しようと試みる」という点で極めて興味深く、また花守ゆみりによる第一期一話への言及も本作品における一つのブリューゲル的なもののポイエーシスとしての立ち位置へと回帰しようとする点では重要である(cf. J. Rancière, Mallarmé : La politique de la sirène, Paris, Fayard, coll. « Coup double », 2012)。トークショーには彼女たちの「ゆるい」トークの振舞ではなく、一つの政治学が存在していた。
さてこの作品、制作会社がMaster Mind(つまりユニクロの系列会社)、制作支援もユニクロ、ローソンといったいわゆる資本主義お抱えの会社、舞台も渋谷再開発によって設置されたおしゃれなトイレ、役所広司の演じる平山という男は下町に住み、渋谷まで首都高を走っておしゃれなトイレの掃除を仕事にしているという設定であり、巨匠ヴェンダースに金を与えて新自由主義の「日本」らしさを演出させる困った映画であったのは事実。男優賞を受賞した役所広司の演技(とくにニーナ・シモンを聞きながら運転する役所のラストの顔演技)と音楽のセレクトは素晴らしいのだが、畳の部屋の意図的な造形など小津安二郎の神格化が極端であり、浅草の地下の居酒屋などはもはや『東京画』の繰り返しでもありゲンナリさせられる。また短編映画『Somebody comes into the night』は、ホームレスを演じた田中泯がそのままの格好で舞踊をするという短編であるが、田中泯の素晴らしい舞踊はさておき映画としては完全にミュージックビデオで、映画ではなかったのも残念。
この日から二日間にかけて今年度の三大映画祭(ベルリン、ベネチア、カンヌ)の最高賞受賞作品を見ていくことになる。しかしその前に、まずは一本目にこの作品のために釜山に行ったといっても過言ではない、ビクトル・エリセの31年ぶりの新作『Close your eyes』を大スクリーンで見る。エリセの新作は、ある映画のシーンから始まる。月日が経って、その作品に出演したものの後に失踪した俳優の友人を探す映画監督が、取材を受け倉庫で映画にまつわる物品を探す。俳優が別の場所で労働者となって生きていたことを知る映画監督は、その俳優の記憶の奥底にある写真や事物、そしてフィルムと向き合うことになる。映画と対話するラストシーンは、もはや言葉ではなく映画が語り、目をつぶることでイメージが溶着する。過去の作品に比べて、言葉も多く映像のフェードアウトも早くなったものの、複製芸術としての映画史を引き受けたともいえるエリセの重厚な大傑作であり、文句なしに拍手を送りたい。
そしてCGV Stariumという、韓国最大級のシネコンのスクリーンへと移動し、満員の中でジュスティーヌ・トリエが見事カンヌ映画祭のパルムドールを受賞した『Anatomie de la chute』を見る。父親(夫)が殺された連れ合いと子供という二人の家族の逡巡と裁判の様子を描くサスペンスドラマ。要所要所で、父や夫に死なれた彼らのもつ緊張感は描かれているが、裁判シーンは全くと言ってよいほど迫力がなく、あまり思考されて撮られていない映像が羅列されていることによって、映画を運動の迫力の無い中途半端なものへとしてしまったと言える残念な作品であった。
実質の最終日。この日は午前のプレス試写が再度復活したため、一本目にクロージング作品であるニン・ハオ『The Movie Emperor』。アンディ・ラウ演じるダニー・ラウという超有名俳優が自らのイメージを変えるために風変わりなインディペンデント映画に出ようと奮闘するさまを描くが、中身の無い内容の引き延ばしとリアリティの無い物語で失笑し、豚が死ぬシーンで激怒。ファン・ビンビンしかりアンディ・ラウに関しても、俳優だけを前面に押して中身の無い内容の映画になってしまっているのはなぜなのだろうか。
2本目にアンドレア・ディ・ステファノ『The Last night of Amore』。これもイタリアが誇る名俳優ピエルフランチェスコ・ファヴィーノを主演に、ある刑事の引退前の最後の10日を描く映画なのだが、あまりにだれる演出に爆睡してしまい、ファビーノが車で最後の挨拶をしているところ以外は記憶になし。