三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

「好きなこと」がないことについて

 好きなことを仕事にする/しないについてよく耳にする。正直、好きなことを仕事にできるならすればいいし、できないなら泣く泣く好きでもないことでも仕事とするしかない、それだけの話だと思う。

 

 自分の場合は、そもそも何をすることが好きかわからない。もともとは何かをするのが好きだったかもしれないが、その感覚を忘れつつある。どうしてこうも、「好きなことをしろ」という言説があふれかえっているのか。「好きなことなんかなくてもいい」と言ってもらったほうが私の場合は心が軽くなる。だから、自分で書いてしまう。

 

 最近、自己啓発系の本を数冊読んだが、「好きなことをする」という言葉が何度も目に入ってきてしんどかった。その本の作者は、子供の時から物を作ったり、絵をかいたり歌を歌ったりするのが好きだったらしく、大人になった今でもそれらをし続けることを一番に考えて生きている、らしい。好きなことをしているのが一番幸せ、とのこと。

そうなのだろうな、と思う。きっとそうだろう。違う作者の本でも、趣味の話がたくさん書かれていた。私は〇〇をしていると楽しい、と何度も書かれていた記憶がある。

 

 どうして皆さん、私は〇〇が好きだ、と書くのだろう。作家だからか。「私は〇〇が好きだ」と書いている人たちは、ほんとにその〇〇がすきなのだろうか。「私は〇〇が好きだ、と人に知ってもらうことが好きだ」と書いてくれれば私は違った受け取り方をするだろう。きっと、彼らも、「絵を描くこと」とか「歌をうたうこと」とか、仮に名前を付けて呼んでいるだけで、それらの行為のうちの、もっと彼らにしかわからないようなポイントを楽しんでいるし、好きなのだと思う。

 

 ただ、それくらい何かを好きになることが個人的なことだとして、自分には、そのポイントがいまいちピンとこない。そんなに楽しいものかね。何もしないことに勝る状態が今のところない。もちろん、何もしないでただただ時間が過ぎていくこともしんどい。一時的には何もしないことが一番楽。「わざわざ」したいと思えることがない。

「わざわざ」感がすごい。人の話を聞いていて、「わざわざ」そんなことをするのか、と思う。わざわざ絵を描いたり、楽器を弾いたり。それらを続けていけば、たしかに楽しくなってくるのかもしれないと思う。めんどくさい、ということだろう。

 

 めんどくさいの感情以上にしたいことがない。今すぐ死ねるなら死にたい、ということだろうか。何か違うかもしれないし、そうかもしれない。誰も「好きなこと」なんて言葉を使わずに、ただぼーっと生きている世界であれば今より楽に生きられるだろう。実際TVとかでプロスポーツ選手が「皆さんに勇気を与えたい」とか言っているのより、入院などして寝たきりの人が、「別に今の生活に満足ですけど」と言うほうが自分は助けられる気がする。

 

とにかく、人生のベースは食べて、寝て、動いて死ぬだけだと思う。「動いて」は人による。動いてもいいし動かなくてもいい。だから、人生は、食べて、寝て、死ぬだけ。

とにかく、書く

----2023年5月頃書いた----

 

題材はなんでもよいので、とにかく書く。

目標は5,000字ほど。適当。

 

昔の記事を読み返していると、こんなのがあった。

 

izunox.hatenablog.com

 

izunox.hatenablog.com

これを書いたのがだいたい2年前のことで、当時は、仕事もしていないのに将来経済的には何の役にも立たないであろう習い事(ピアノ)をしていることに気を病んでいた。技術的なレベルでいうとプロとは比べ物にならないくらい低くて、かつピアノを弾くことがとても好き、というわけではないのに、だらだらと習い事を続けてしまったことを恥ずかしく思っていたからこういう文章を書いた。ピアノは、技術的に伸ばしていこうとすると結構しっかり練習しないとダメだと思うけど、なんせダラダラ続けているだけだからそんなに伸びない。どうしようもないなあ、と思っていた。

 

どうしようもないな、と思っていた割には最後のほうは少し前向きなことを書いているのが面白い。結局人に見られるかもしれないというフィルターがかかっているから、真に恥ずかしい部分とかは見せられないからだな。もっと思っていることを書けばいいのに。というか、今書きたい。できるだけ本心に近い部分を。

 

ピアノに限らず楽器を演奏するときの、いちばんの障害は「自分よりも上手に演奏する人の目に、自分はどう映るのか」という意識だと思う。それこそ音大卒の人の前でクラシックなんて弾けたもんじゃない。そんな機会これまでなかったけど、考えただけで恐怖。

 

話を戻すと、「自分よりも能力の高い人に自分はどう映るか」という意識が邪魔をして、下手な演奏になることはよくあることだと思う。で、まあ、音楽的な技術なるものが存在することは否定しないのだけど、(趣味で)楽器を弾くにおいて結局一番大切なのは「その人が弾いているという事実」だと思う。

 

電子的に再現された(ミスが一つもないという意味で)完璧な演奏と、生身の人間(もちろんプロ)の演奏のどちらが良いのか、みたいな話があるけど、それは楽譜通り弾けることを突き詰めていったらロボットが最上じゃね?という話だと思う。たしかにそうで、ミスのない演奏を求めているならロボットに弾かせればいいのだ。でも、中には「ミスはするかもしれないけど人間が弾いている演奏を聴いたい」という人もいる。その判断は一見不合理なものに見えなくもなくて、あえて欠点の多いものを手に取ってる感がなくもない。で、おそらくその判断でも、結局は「その人が弾いていること」が人間の演奏を選んだ理由になっているのではないかな、と思う。

 

この「機械か人間か」という選択の場合でも、「人間」と言われたとき、具体的なピアニストが弾いている姿をイメージしていると思う。もしくは知り合いとか音楽の先生とか。もしくは自分がピアノを弾いているイメージか。いずれにしてもどのイメージにも具体的な誰かが登場するはずで、「人間の演奏する音楽」とその音楽を奏でる具体的な人間は不可分のように思える。逆に、演奏者の姿が想起されないような演奏、もしくは演奏者の姿を誰も意識しない場面では、その演奏は別に電子的に再現されたものであっても特段問題にならないし、特別注意深い聴き手でない場合以外、その音が誰(何)によって生みだされているかを気にしない。例えばバラエティのBGMで流れるピアノの演奏があったとして、それが生身の人間による演奏を録音したものであっても、ピアノの音を再現するソフトから出ている音であっても、たいていの視聴者にとってはどちらでもよいことだ。

 

バラエティのBGMの対局にあるのが、例えば恋人に曲を弾くとかだろう。まあ、明らかに、誰が弾くのかが重要。結局それが言いたいこと。

 

で、さすがに恋人の前で何かを弾く場面では、「その人であること」が重要な意味を持っているのは間違いないのだけど、趣味でやるピアノ全般にもこの話は当てはまるし、なんならプロのピアニストも同じかもしれないね、ということが言いたい。

 

ミスをしないことを「技術」と呼ぶなら*1、その最高到達点いるのは音楽再生ソフトになる。生身のピアニストはわずかでもミスをする可能性があるから、ミスをしないという観点ではどうやったって機械に勝てない。特殊な訓練を経ていない私たち「素人」は言わずもがな。皆、機械に頭を垂れないといけない?

 

今、意識的にプロと「素人」を同じ位置に置いた。機械に比べればどっちもミスをする可能性があるからね。プロの人すみません。あえてこのままプロと「素人」を同じくくりで書いていく。同じ人間として。

 

結局、だれかがピアノを弾いているとき、その演奏を聴きたいのは、それを弾いているのがその人だから、なんだと思う。ピアニストが演奏しているのを聴いて、それが初見であってもその人に引き付けられるとき、もうその瞬間に、そのピアニストの人間としての側面に思いを馳せているのでは?音楽を音として、音単体として受け取るということとは別に、否、音単体として受け取ることと不可分に、私たちは、その演奏者について受け取っているのでは?だから、もし誰かの演奏を聴き続けたいと思うとすれば、それは、音自体を受け取りたいのと同時に、その演奏者のなにかしらの「成分」を受け取りたいということなんだと思う。

 

プロのピアニストの演奏を聴いても、誰が演奏しているのか音だけでは全然わからない、とよく思う。でも、そのモヤモヤは普通で、視覚情報も含めて聞けばいいのだ。視覚情報もだし、できるならその人の来歴・経歴、さらにできるなら話し方の癖とか、匂いとか、考え方とか、そういった諸々の癖とか手触りみたいなもの、そういったものひっくるめてその人の演奏を聴きたいかどうか感じればよいのでは?と思う。

 

美人・イケメンだから聞きたい、も別にあり。視覚障碍者の人だから聞きたい、も別にあり。俺の彼女が弾いているから聞きたい、も当然あり。

 

ありっていうか、私はそういう理由でしか物を見ていないということ。そして、もしかしたら多くの人はそういう理由でしか物を見ていない。「~自体」、例えば「音自体」を受け取れることはそれはそれで楽しいことかもしれないけど、すべてまとめて聴くことも、それはそれで楽しい。

 

そういった視点を持つと、少々のタッチミス、少々でないタッチミスも、まあ、仕方ないか、と思えるようになる。嘘。一生自分のミスタッチについては情けなく感じるだろうけど、それでも、前よりかは苦しまずに済む余裕ができると思う。

 

ここまでは、生みだされた何か(音楽)をどう受け取るかについて書いたし、若干どう生み出すか、についても書いた。「生みだす」とか書くと大層。ただピアノを弾くことについて書いただけか。

 

ここからは、どちらかというと、客体ではなくて主体について書きたい。ピアノを聴く人ではなくて、演奏する側。読み手ではなくて書き手について。

 

視点が変わるけど、ほぼさっきまでと同じことを書くつもり。要は、客体(聴き手・読み手)に許されていいと(私が)思うメンタリティは「その人だから受け取りたい」。

で、主体(演奏者・書き手)に許されていいと思うメンタリティは「私がしているのだから満足」。

 

----現在2023年8月6日、加筆----

「とにかく、書く」と題している割にはちゃんと書いている。今の自分の基準、物事をどうするかの基準は、それをしていて苦しくないか、というものなのだ。上の話を、例えばピアノを弾くときに考えすぎるのは、どうかと思う。それくらい真剣に向き合っているのだ、といえるならそれでいいし、でも、ごちゃごちゃと考えた結果ピアノをひかなくなるなら考えないほうがマシな気がする。ピアノに限らず、自分が時間を使える(つ潰せる)ものを、「余計な」考えで手放したくない。「時間を潰せる」なんてこれまで言えなかったし、言いたくなかったが、時間を潰すしかないときには、時間を潰す方法は必要だ。自分の場合、時間を潰すしかない状況においてその方法が見つからずにずっと苦しかった。ずっと苦しかったしこれからもその状況は続いていくと思っている。死ぬまで時間を、何かしらをして埋めていく必要があるが、あまりに退屈なことだと続かない。また、体力や頭を使うことだと長時間は難しい。ちょうどよいものを探している。その「ちょうどよいもの」探し自体でも時間は使える。こうして文章を書くことなどは、「ちょうどよいもの」探しに当たるといっていい。

 

----現在2023年8月19(土)、さらに加筆----

昨日、ふと、なぜ文章を書くことが今の自分にとっては苦ではないのかを考えてみた。一つには、これまでのように言葉を選びすぎないようになったからというのがある。あと、それと似ているが、文章の整合性というか、前後で話の辻褄があっていないことを、以前ほど気にしなくなったから、というのがある。ただ、その2点は結果というか、文章を書き続けていることの理由とまでは言えない気がする。それらは、文章を書こうとしてノートなりパソコンなりに向かった後に、そこから離れるのを抑止するものであって、そもそもノートやパソコンに向かわせてくれる原動力になるものではない。性能の良いエンジンについての話ではなくて、障壁が無いことの説明、とでも言えばいいか。先週よりも文章が詰まるな。先週は「~だ」とかの書き方をしていなかっただろうか。たしか「~だ」と、他の砕けた表現を混ぜていたな。それでよい。気分のままでよい。いま文章を書いているのは、内に濃縮されている言葉を、とにかく排出したいという動機からだと思う。そう感じている。自分という人間の分身を作りたいからだ、という風に昨日は感じていた。今日は、排出をしたいから、というほうがしっくりくる。分身だと、結局この自分自身の「質量」は変わらないわけで、それならあまり意味はないように思う。この自分自身の「質量」を減らしたい。あまり、人にどう読まれるかを気にしていないときは、どんどん書けるということだろう。結局、いかに伝わるかを脇に置いているから、言葉選びも自分さえわかればよいというレベルで済む。分身ではない。ただ、単なる排出でもないように思う。自分の中に日々溜まっていってしまうモヤモヤを、一応形として残していく作業。これは単に生ごみを捨てるのとは違う気がする。でも、こうして文章を書く以外に、言葉・考え・思考・モヤモヤの捨て方は存在しない気もする。だから、これは単に捨てているだけとも言える。どっちでもいいか。人と話すことでモヤモヤを捨てることができる人もいるのだろうか。自分は、人と話すと、圧倒的にごみが溜まる。モヤモヤが溜まる。モヤモヤの大半は、生への前向きさに対してだろうか。人と話していたり、会社に行くと、生への前向きさを強要される機会が多く、ひたすらにモヤモヤが溜まる。モヤモヤでもないか。「生への前向きさを強要されることからくるしんどさ」だ。自分は、放っておくと、無限に「生への前向きさを強要されることからくるしんどさ」を内に溜めてしまうから、こうして排出している。排出・廃棄...「廃棄」は違うか。生に前向きになれないことを人に話すことは、空しい作業だと感じている。だから文章にすることになったのだと思う。自分は子供を持たないつもりだから、生きた証を残そうと(無意識的に)動いた結果が、この文章を書くという行為なのかもしれない、と昨日思った。もういいか。動機なんて。なんだっていい。オナニーするのに動機もなにもない。いや、動機を考えるのに飽きた。飽きたから次に行く。それだけ。

はたらきたくない、が脳内を占領している。相変わらず。でも、ここ数日は、はたらきたくない、と意識することが、さらに日々の労働をつらくするものだと思い、できるだけ意識しないようにしている。嘘だ。意識しないようにしよう、などと考えて意識しないようにできるわけがない。ただただ、職場で余裕がなさ過ぎて、追い詰められすぎて、他のことを考えることができなかっただけだ。職場でも余裕がないし、職場を離れても次の日の職場のことを考えて余裕がない。その結果、はたらきたくない、が意識にのぼる隙間さえない。時間的隙間。観念しかけている、というもの大きい。どうせ、はたらくしかない、という。

 段落を分けて書こうか。今分けているように。そのほうが読み返しはしやすいだろうし。それも気分だ。段落を分けるのも分けないのも気分。仮に結婚したとしても子供を持つ気がないので、それほど貯金は必要ではないと都合よく考えている。いつまでたっても「一人前の大人」にはなれないのだろう。結婚して子供を持っていないと。独身でいることに対して、年齢とともに感じることは増えていくのだろう。そんな気がする。働いていることで精神を病む、という事態が起きているのが変だと感じる。中学生くらいの頃から、「はたらくということは精神をすり減らしてするものなのだろう」という漠然としたイメージがあり、実際に働いている現在もそのイメージは変わらず、なんならそのイメージ通りの現実を生きているわけだけど、そもそもなんで労働で精神をすり減らすのか。自分が「客」の立場であるとき、例えば、飲食店に入ったとき、従業員には「それなり」のサービスを求める。食べ物に髪の毛が入っていないかとか、腐ったものを出されていないかとか。そのラインを満たしたうえで、味がそれなりに良いかも求める。例えば虫歯を治療するときは、まず痛みのない状態が長く続くことが最優先で、次に治療した歯の見た目が悪くならないことを気にする。電車に乗るときには、まず、脱線せずに目的地に着くことが最優先。時間通りにつくことはあまり求めていない。タクシーやバスも同じ。ひどい事故を起こさずに目的地についてくれれば、最低限のラインはクリアしている。最低ラインは、こういったところだ。最低ラインであり、最優先事項。家なら、まず崩壊しないこと。崩壊したら即死だろうか。即死できればまだいいものの、死にきれない場合、苦しい。衣服の最低ラインは、かなり低い。というより、実質、最低ラインが存在しない。糸がほつれて、最悪半裸状態になっても、他の店で新しい服を買えばよい。というわけで、本当に「大事」なのは生命を維持できるだけのモノとサービスで、それ以上は本来贅沢ということだと思う。今の自分の生活から考えると、スマホもコンビニで手に入る軽食類も、生命維持に直結してはいないが、手放せないものなので、それらも自分にとっては「大事」なものだ。でも、無理やりに生活の幅を狭めていけば、それらも必要がないといえる。というより、精神を病むくらいなら、それらを手放すのが、本来は「ふつう」だと考えられなくもない。

 

----2023年8月26(土)、さらに加筆----

 この話の行きつく先は、今の社会が要求してくる働き方を拒否するならば今の社会が提供してくれるモノ・サービスをあきらめられるか、という点のように思う。一番望ましいように思えのは、今求められているような労働が存在せず、今と同じ水準のモノ・サービスが手に入る世の中。SFみたいだ。書いていて空しくなる。実現可能性がかなり低いし、夢を見るとダメージが大きい。ベーシックインカムさえ導入されていないのにそのさらに先にある社会を夢見ている。だから、今は、労働をしてモノ・サービスを受け取る/労働をせずモノ・サービスを受け取らないのどちらかを選ぶことになる。否。より少ない労働をしてより少ないモノ・サービスを受け取る、というように段階で考える必要がある。

 

どうでもいいな。こんな話。くそどうでもいい。実際仕事に耐えられなければこんなこと考える間もなく仕事の量を減らして物を買う量も減るようになる。ぎりぎりまでこの社会の普通に耐えて限界を超えればそこから離れる、という生き方をこれからしていきそう。

 

おわり

*1:さっきから技術という言葉に「」をつけているのは、お分かりの通り音楽的な技術を、機械がどこまで再現できているのか、そもそも機械に再現できるものを私たちが「技術」と呼んでいるのか分からないから。楽譜に書いてあること、つまり、音の大きさ・高さ・リズム等を「完全に」(くどいが、この「完全に」が何を指すのかが難しい)再現できることを「技術が高い」と呼ぶなら、たしかに機械には音楽的な技術があることになる

同じことができない気持ち悪さ

----2023年3月頃に書いていた文章----

 

毎日(毎週、毎月)同じ時間(曜日、日)に同じことをすることができない。

 

曜日ごとに筋トレのメニューを決めて、それを同じ時間に実行することができない。今日はスクワットをして、3日間やる気がでなくて体を動かさず、次の日ランニングをし、その次の日は腕立て伏せをする。1週間何もせず、次の日坂道ダッシュをする。そして、2日間スクワットをする。こういう状態で、5年間ほど経った。やっている量はすくないが、やめるわけでもない。かといって決まったメニューを実行することもしない。

 

ピアノの練習もそうで、2日間ポルノグラフィティの曲を弾いたかと思うと、1週間くらいピアノを弾かず、次はサザンの曲を弾き、次の日はハノンをちょこっと弾く。そうやって、十数年間経った。これも、弾くのをやめよう、とかはそこまで思わず、弾けるときに弾いている。技術的には、小学生か中学生くらいだろうか。意味ないか、技術レベルを云々するのは。いや、それも逃げか。どうしたらいい。ハノンとかソナチネとかは、毎日弾いたほうがいいだろうな、と大学入学以降思うようになって、21歳くらいの時は、それなりにハノンで指を動かしていた。その時でも、決まったメニューとかはなくて、その日やりたいことをしていた。そう思うとピアノに関して、自分で自分に決まったメニューを課すことができたためしがない。

 

サッカーの自主練は、それなりに決まったことをしていた。大学に入ってからの自主練は、ほぼシュート練習しかしていなかったから、別に「メニューを課していた」と言えるほどたいそうなものではない。シュート練習自体が好きで、そもそも「練習」」とも思っていなったので続いたのだと思う。これはポイントかもしれない。私は、シュートが好きで、というより、ある枠にボールを蹴るのが好きで、つまり「サッカー」という競技の中のプレーとしての「シュート」をはみ出した「ある枠にボールを蹴るという行為」が好きで、だから続いたのだと思う。「ある枠にボールを蹴ること」ならば、毎日同じ時間に(だいたい同じ時間だけ)続けられる気がする。ああ、でもそれも「同じ時間に」するのは無理かもしれない。でも、他よりは続けられそうな気がする。続けてやれそうなのはそれくらいか。「枠にボールを蹴る」こと。

 

今は自転車で通勤していて、行きは毎日同じ道を通るけど、帰りは同じ道を2日続けて通ることがほぼない、というくらいに毎日違う道を通って帰ってくる。前の日と大きくコースを変える(変わる)こともあるし、少し違う道を通ることもある。「通る」と言っても意識的に変えているのではなくて、気が付いたら違う道を通っている。

 

寝る時間も起きる時間も、結構日によって変わる。会社に行くようになってだいぶ波は小さくなったものの、起きる時間も寝る時間も、日によって1時間ほど変わる。休日は、2時間くらいブレる。でも大学生の頃に比べればだいぶブレが少なくなったな。

 

 

----現在2023年8月、続きを書く----

自分が決めたタイミングで、自分が決めたことをできる人に、憧れというかしんどさを感じる。落ち着かなさ、居心地の悪さを感じる。そういうタイプの人間が存在するということを耳にすると居心地の悪さを感じる。物事を継続して行える人間のほうが、この社会に適応していくだろうし、自分は「はじかれる」側の存在だな、と思うからだ。「負けているな」とも感じる。負けているのだろう、より継続して物事に取り組める人々に。勝ちか負けかでいうと負けだろう。おそらく死ぬまでこの体質は変わらないだろう。と、そんな気がしている。もう、この体質が変わらない前提で日々の生き方を考えたほうが良いという気がしている。体質を変える気で生活していて、また変われなかったと思うのがしんどいので。物事を継続できている人、というか、継続できている時、に共通することが何かありそうだ、という気にも、実はなっていたりする。いや、上の文章を読み直すまで全くなっていなかったのだけど、読み返しながら、何となくそんな気がしている。共通点とか、共通項とか、考えるだけでしんどい。どうせ漏れるものがあるから。大変だ。少し無理して共通点を探してみるとする。物事が継続できている時に共通しているのは、それをやっている時に無理をしていないということ。というか、それに尽きるか。元コンサルの勝間和代さんが、人間がある行為をし始めるかどうかの判断基準は、コストとリターンの大小でしかない、という話をしていて、その話はこの「継続」の話にも当てはまる。いや、ただ、そうするとYouTubeを見続けるくらいしか継続できることがなくなってしまう。あとはオナニーか。オナニーは継続できるな。ビジネス書で、物事を継続する例としてオナニーが挙げられていることはほぼないな。少なくとも自分はこれまで見たことがない。別にビジネス書に限らず、継続について語られるシーンでオナニーのことが言われるところを見たことがない。オナニーなんてやめたくてもやめられないくらいには継続できているな。中学生になるかならないくらいの頃から「継続」していることを考えると、かれこれ13年以上は続いている。ここで、「息をするのも継続している」とかは話が違うと思う。それをやらないと死ぬから(無意識的に)やっている度合いが高すぎる。オナニーは、呼吸よりは不要不急だ。物事の継続について考える時、大なり小なり、大なり小なり社会的な価値を生みそうな行為の継続について考えていることがわかる。それが継続について考えるとしんどい理由か。いや、違うな。やりたいことの継続について考えてもしんどいからな。とにかく物事を継続してやる、というのがしんどい。どうしようもない。実際の生活を考えるともう少しましなのだろうが、主観的にはそれくらい物事を継続することが苦手だ。自分を動物のように感じる。ただ、動物ほど目の前のことに集中できない。後先を考えるが、それが建設的な方向へは向かわず、不安と焦りだけが生まれる。先のことを考えて今すべきことをする、みたいなスタンスで生きられている人、すごい。そんな人存在しているか知らないが。ごくごく稀な気もする。どっちでもいいことだ。そんな人がいようがいまいが。物事を継続することについて考えるよりも、日々時間を何に使っていれば苦しまなくて済むのか、という方向で考えたほうが良いと思う。昨日夜に散歩しながらそんなことを思った。時間を何に使っていればしんどくないのか、という。「何をすれば楽しいのか」だと自分的にはかなりハードルが高い。「楽しむ」というのは、自分にとってはハードルが高い。何をしていてもそこまで楽しいと感じることがないので。いや、というよりも、楽しいかどうかを自問してしまうと、それを「楽しんでいる」と呼んでもよい状況であったとしても、「楽しんでいる」とは呼びたくなくなってくるから。「不幸せになりたい」みたいな心理状態似ている。だから、楽しいかどうかをあまり気にしたくない。それよりかは、苦しくない時間をどうすれば過ごせるかを考える。何をしていると苦しくないのか、を考える。まず、こんな風に目的もなく文章を書いている時はそれほど苦しくない。目的はないけど、だいたい過ぎ去った時間の分だけ文章が生まれている。時間がなにかしらの生産物になっているのがうれしい。おそらく目的がないのもポイント。なにかしらの生産物があっても、それが、売り物になるとかだと、苦しくなりそう。考えることが増えるので。だから、あまり頭を使わずに、好きなように文章を書いているのが、今は少し楽な時間の使い方、と言える。中高の部活にしても、自分にとっては、「少し楽な時間の使い方」程度のものだったのだろう、と今になっては思える。休みの日とか、放課後とか、部活がなければ何をしてよいかわからなかっただろうし。もちろん、ずっと部活をしていなければ、どこかの段階で、楽に過ごすための活動を見つけ出していた可能性もなくはないが。まあ、考えるだけ無駄なこと。とにかく今は、今の自分が少しでも楽に過ごすために何ができるかを考えることに集中。頭を使わない、がポイントなのかはわからない。でも、実際長時間何かに取り組もうとすると、あまり頭は使っていられない。仲のいい人となら長時間話していられる。ああいった会話では、あまり頭を使っていないのか。工夫とか、面倒。好きなようにしたい。ピアノの練習も、やりたいことだけをやりたいようにしたい。下手なままでもいいから気持ちよくピアノに触れていたいというのはある。というより、下手なままでもいいからピアノに触れている時間がストレスのある時間でなければいい。究極、ピアノが上手になりたいのは、ピアノに触れている時間がストレスフルでないようにするため、ともいえるかもしれない。質とかは、二次的な話なのかもしれない。自分にとっては。ただ、弾いているものが、あまりにも楽譜と違ったものになると、だんだんストレスが溜まってくるから、気持ち悪くならない程度には弾けるようになりたい。そう考えるともう少し楽だな。ピアノもそうだし、筋トレもそうだ。つまり、やること自体が目的。「オリンピックに出場すること自体が目的になってしまっている」みたいな批判があるが、自分は出場することだけを目指してもよいみたいだ。「出場」ですらないか。「オリンピックに出場できるかどうかさえ気にせずに、毎日練習する」みたいな感じか。「練習のための練習」という言葉を聞いたことがあって、試合を意識できてないダメな練習という意味で使われる。自分は、「練習のための練習を、(さらに)自分勝手にやってしまう」というのでなんとか日々を埋めていければと思う。

 

 

 

甘いもの

最近の気づき。主に自分のことについて。考え方、感じ方の変化も含めて。

 

<甘いものをよく食べている>

一人暮らしを始めた。一人暮らしを始めるとわざわざお菓子を買いに行くのが面倒なので、お菓子を食べる機会が減ると聞いた。わざわざお菓子を買いに行っている。会社でも仕事しながら食べている。お菓子を食べてもいい会社なので。ストレスから、ひたすらガムを噛んでいるが、たまにチョコも食べる。ブラックサンダーとか。家ではコンビニで買ってきたかりんとうとか、何ていうんだろう、あれ、油で揚げたお菓子。砂糖がまぶしてある。食生活全般について言うと、健康にも、経済的にも、後先考えることなく食べたいものを食べている。ストレスが溜まっているので。明らかに腹部に脂肪がついた。人生で一番太っている。太っているのは嫌なのだが、仕方がないと感じている。だいたい朝には希死念慮がある。ここ数日はましだ。カップラーメンをよく食べている。一人暮らしをし始めてから1か月ほど経つが、お米を炊いたのは今日が2回目だ。

会社から帰ってきてシャワーを浴びてから寝て、また朝にもシャワーを浴びて出社していたが、ここ2週間ほどは疲れすぎて、夜にシャワーを浴びずにそのまま寝ていた。せめてもの反抗。「普通」への反抗。養老孟子さんが、個性なんてものは無理に伸ばさなくても、そもそも身体が皆それぞれ違うのだから、それが個性だ、というようなことを書いていた。なるほどな、と思ったが、それでも人と違っていたいという意識から自由になれない。人と同じように働いて、人と同じ時間に同じようなものを食べる。せめてもの抵抗として、夜シャワーを浴びない。シャワーを浴びるのが面倒なだけ?わかんないよな、本人にとっちゃ、面倒なことをしたくないから言い訳しているのか、人と違っていたいという風に切に思っていることの結果なのか。本人もわからないし、他人もわからない。どうしてこんな文章を書いているのか知らない。数人に読まれるのみの文章。でも、だれかに読まれるかもしれないという可能性があるだけで、すこし気が楽になるのも事実だ。思うに、自分の人生は、いわゆるアウトプットに相当するものが少なすぎた。痛い。どうしようもないことなので。どうしようもないと思う。自分を査定される機会は、どうしたって怖い。でも、その機会を増やすことが「成長」への近道らしい。痛い。籠っていたい。最近は、セックスについての考え方が変わってきた。これまでは、女性をセックスに誘うことは、女性を利用して自分が気持ちよくなろうとしていることのように思えて気が引けた。今はそのように考える必要もないというか、結局、女性も合意してことに臨んでいるわけで、その合意の上での行為でも、どちらかに非があると考えることは、どちらかを一人の人として見ていないことの現れなのでは、などと考えるようになった。そう考えるが、女性をセックスに誘う機会は皆無だ。思いつくことを思いつくままに書くのはかなり気持ちがいいことだ。自分は人よりも、食わず嫌いをして生きているのだろう、という感覚がある。ゲームを知人に勧められるが、まったくと言っていいほどやる気にならなかった。人と同じことをしていたくないので。NetFlixも同じ理由で、2年ほど前まで加入していなかった。ファッションに対して興味を持てなかったのも、結局人と同じような恰好をするようになるだろうことが嫌だったから。先ほどの養老さんの言葉に戻るが、今でも自分は、それぞれの身体がそれぞれ違うことをもって、それぞれが個性的だとは思えていない。自分は特別でありたいと切に願っている。そして、その欲望?希望?性癖?が何に起因しているのかあまりちゃんとわかっていない。人と同じような恰好をしていて何がダメなのか。今書いていて、実際何がダメなのかわからない。一つには自分の素のポテンシャルに、どうしようもない不満足感を抱いているからだろう。要は、イケていない自分が人と同じじゃどうしたってイケてる人に勝てない、という。「勝てない」って、なんの勝負をしているのかって話で、結局はいい女の取り合い勝負だと思う。じゃあ、自分は、いい女の取り合い勝負で負けないためにゲームもNetFlixもファッションも我慢してきたのか?そんな風に言葉にしてしまうと、目的のための行動としては妙な方向に行ってしまっている感が否めない。でも違うんだよな。自分の中では合理的な何かがある。自意識過剰さは、非合理的というか、はたから見ればなんでそこまで?ってことではあるが、その人にとっての合理性はある場合が多いのでは。わざわざどんな合理性があるのかを言葉にするのはそれはそれでキモイかもしれないし、面倒なのでこれ以上書かないつもり。いや、本人にとっての合理性とかどうでもいいのかもしれない。本人にとって合理性があろうがなかろうが、人からみれば魅力がないのだ。おそらく。というか、自意識の問題でもないな。自意識過剰でも人からみて魅力的ならなんでもよいのでは。結局、人と違っていたいという、そういう「孤高のおれ」的、自分の道を進んでいる的、社会の潮流には左右されない価値観を持っている系の、ものへのあこがれが、最終的にその姿勢が人からどうおもわれるかという観点に帰ってきている場合は、結構無理な姿勢になちがちなのでは。なんか面白いな。たぶん、「人と違っていたい」と言った時の「人」に評価してもらいたいと考えてしまっていることが問題、というかどうしようもなさの原因なのだろう。もっとシンプルでいいのだろうな。書き残しているけど、「ありのままの自分を愛して」的な願望と、人と違いたい願望は、近いところにある願望に思える。ありのままの自分。知識人っぽい人が嫌う言葉だ。知識人でなくとも、「社会」とうまくやっている人が結構嫌ってる言葉、という印象がある。「そんなもんねーよ」と言われがちな概念。「ありのままの自分」。あるとかないとかじゃない。ほしい、という。あってほしい、という。あってほしい、と願っているだけ。すがっていたい、という。「<甘いものをよく食べている>」だけで終わるな。項目分けた意味なし。

 

以上

捨てる

昨日長文を投稿した後、「下書き」に入っていた文章を20個以上捨てた。

スッキリしたかったから。2年位前から下書き状態になっている文章があって、これまでにもたまに、その下書きに書き加えて投稿してたりしたけど、それをしているとキリがない。だから一旦全部捨てることにした。

 

「捨てることにした」と書くと、心の整理がついているみたいだけど、基本的に自分は物を捨てたくないと考えていて、今回も別になんとなくだ。物を捨てる時は毎回泣く泣く捨てている。

 

サッカーを10年ほどしていたためスパイク(靴)が溜まるのだけど、これを捨てるのに結構時間がかかった。5~6足ほどのスパイクを5年間ほど捨てられずにいた。この先おそらくそれらの靴を履く予定はなく、履くとしてもせいぜい2足あれば十分で、なんとなれば必要になったときにまた買えばいいのだけど、全然捨てようと思えなかった。

 

結局それらのスパイクを捨てたのも、母が何度も捨てろ捨てろと言ってきて、さすがにそれがうるさかったからだ。実家に住まわせてもらっている以上実家のルールに従うべきなのだろうな、と思って観念した。あと2か月で一人暮らしだ。それは素直にうれしい。

 

スパイクを捨ててみて、たしかに少しスッキリした気分もあったので、今回文章も捨ててみようと思えたのかもしれない。スッキリした、と書くとなんか違うな。捨てることのダメージが思ったより大きくなかった、と書いたほうが近い。スパイクを捨てるまでは、自分にとって大事な物を捨てると、それが後まで尾を引くのではと思っていたけど、実際はそこまでではなかった。

 

スパイクを捨てる時に、一足ずつスマホで写真を撮っておいたのがよかったのかもしれない。最悪その写真を見れば、思い出は甦る的な安心感。今のところスパイクを捨てなければよかった、とは一度も思っていない。というかそもそも日常生活の中で捨てたスパイクのことを思い出すことがほぼない。それもそれで寂しいな、と思いつつ、止まっていないかんじがしてうれしくもある。

 

本を捨てるのは、スパイクを捨てるよりもハードルが高い。まだ読んでいない本だと、なんで買ったんだと思ってしまうからだろう。というか、本を捨てるって、やっぱり他の物を捨てるのと話しが違う。

 

昔、学校の先生って、生徒が提出した大量の作文をどう処理しているんだろうと不思議に思ったことがあった。全部の作文を生徒に返却していたわけではなかったはずだから、ほとんどの作文は先生が捨てていたのだろう。慣れるんだろうな、作文を捨てるというのも。自分は、なかなか人の書いたものを捨てられる気がしない。いや、教師という仕事をするようになれば、これは仕事だからと割り切って捨てるしかないのだけど、モヤモヤは残るだろう。

 

「汲み尽くせていない」という感覚が残りやすいのだろうか。本とか作文は。そこに書かれていることを受け取り切っていない、まで受け取れる、という感覚。やはり、文章が書かれている物を捨てるというのは、大げさに言うと、その文章を書いたある時点の作者と、もう二度と会えないような感覚になる。

 

じゃあ、本を捨てるにあたって、例えば夏目漱石の本を一度捨てたとしてもまた買うことができるからそれでいいのか。上に書いたことからすると、捨ててもよさそうだけど、自分は抵抗がある。だから「それを書いた人と会えなくなる」という理由だけではない、自分が本を捨てられないのは。

 

もっと物質的なものにたいするこだわりとか執着がある。本の表紙の汚れ具合、本の横のいつもページをめくる部分がどれだけ汚れているか、色褪せ方...

 

これは結構性癖とかに近い部類の感覚なんだろうな。合理性を欠いているというか。アンティークの良さ、ともちょっと違うというか。自分自身アンティークを良いと感じる完成は持ち合わせていなくて、基本的に自分が使用したものの経年劣化に対してグッとくる。靴もそうだし、本もそうだし、ピアノの教則本、辞書、文房具もそうだ。

 

ノート(紙)を取るのが結構好きなのは、本と文房具の組み合わせが生じているからだろう。「板書を取るのが面倒」という感覚が自分にはほとんどなくて、少なくとも高校を卒業するまでは、先生の話はほとんど頭に残っていないが板書だけはちゃんととっている生徒、だった。*1数学とかはその最たるもので、見返しもしないのに、板書ノートを採取する、「自分の書いたもののコレクションを増やす」という気持ちで一行も漏らさず板書ノートを取っていた。やっぱりそれも、ノートを取る→数学ができるようになる、ことへの淡い期待がないわけではないから、文字を紙に書きつける行為のみを楽しんでいたのかというとそういうわけではなくて、多少なりともその先に実利的な利益を見込んではいる。そのバランスが必要なのかもしれないと思えてきた。その先に経済的・社会的な利益があるかも、と思うから何かの行為を必死に行うことができて、そうして必死で行った行為を保存している「ノート」という媒体は、だいたい面白い。大学の講義の時に使っていたノートのように、その先にわかりやすい利益がなく、かつ個人的な興味さえもその講義に見いだせないでいるときは、そのノートはつまらないものになってしまう。

 

一回切る

 

おわり

*1:大学に入ってからもノート(板書)はとっていたけど、高校の時よりも自分の考えなどを書くことが増えたのかな、と思う。いやそんなことないか。なんで高校の時よりも「板書を書いていて楽しかった」、という感覚が薄いのか。板書を取るよりもスマホを見ているほうが楽しいと感じたからだろうか。結局、その授業・講義に対しての熱量の問題な気がする。受験という目標があったときには必死で授業を理解しようとするから、その熱が板書ノートにも乗り移っていて、後から見返しても面白みがあるのだけど、大学の講義に関しては、特別目的意識がないから、「フワっと」書いてるというか、例えるならファミリーレストランにたまに置いてあるアンケートに答える時のような、その人の核の部分が全然出ていない筆致(筆跡?)になってしまう気がする。そういう「フワッと」した筆致で書かれたものは基本的に面白くない。筆致もそうだし、そういう筆致で書いた紙、ノートというものへの扱いって、だいたい雑になるわけで(アンケート用紙にコーヒーがこぼれても大して何も思わないけど、板書ノートとか日記にコーヒーがこぼれたら落ち込む)、どうしても無個性な汚れ方・傷つき方になる気がする。いや、もちろん雑に扱った時の汚れ方にも個性はあるのだけど、なんか違うのだよな。「雑に扱う」云々が問題ではないようなきもしてきた。問題は、その物を使っていた時間の長さ。

趣味的な、居心地の悪さ

山崎ナオコーラ氏の『趣味で腹いっぱい』を読んだ。

 

主人公の鞠子は、夫の小太郎との二人暮らし。鞠子は趣味に生きるため専業主婦になる。小太郎のモットーは「働かざるもの、食うべからず」。でも、鞠子のことは好き。だから、鞠子の生き方に少し疑問あり。でも、あこがれもあり。

 

思ったことは、こういった「趣味人」としての暮らしは女性のほうが始めやすいだろうということ。そして、趣味に生きることを社会的な挫折の結果としてしか考えられない自分のどうしようもなさについて。

 

女性のほうが社会的地位を求める浅ましさから自由だな、とは常日頃から思う。ただしそれが、どうせ出世を見込めないだろう、という絶望を人生の早い時期から味わった結果だとすると、気軽に羨ましいとは言えなくなる。このことについては宮台真司氏が書いていただろうか。その文章を読んだときハッとした。女の子のほうが精神的発達が早いとはよく言われるが、社会的成功の可能性が男子に比較して小さいという絶望が彼女らを「大人」にさせているとしたら、何となく悲しいなと思った。小太郎は高卒であることが昇進のスピードを緩めている、もしくは昇進の壁を作っていると感じている。もし小太郎が社会的な成功を信じ続けられていたら、鞠子の生き方を肯定できただろうか。

 

何かをやり始め、挫折し、だからこそ優しくなれたというものの見方が嫌いで、それなら挫折を知らない(と思っている)人は優しくなれないのかなと思う。「挫折」って何なのかイマイチよくわからないけど、優しくなるために挫折を経験しないとダメって、幼稚園児は挫折してないけど優しいだろうって思う。

 

苦労した分だけ強くなれる、優しくなれるっていう考えが嫌いなのかもしれない。強くなるのも優しくなるのも、別に「特定の何かを経験した」という条件付きのものではないだろう。その「特定の何か」が、「正社員」だとか「部長」とか「東大卒」とか「フォロワー1万人」とかそういうものなのかなと思う。それじゃ世の中の人全員が優しい世界というのは存在しなくなる。何かの条件を措定した時点で。

 

「2段構えのアイデンティティー」みたいなことを友人が言っていた気がする。客観的・主観的の2つの観点で、自分を見る。自分のイメージは、「主観的」のほうは、「無根拠に」に近い。無根拠に自分の存在を肯定できること。無条件に、と言ってもいい。無条件に自分の存在を肯定できるからこそ、客観的な指標で測られることにも耐えられる。

 

じゃあ、客観的な指標によってアイデンティティーを構築する割合を減らして、無条件な肯定をメインに生きていこう、と思えばいいのかと言うと、多くの人には難しいだろう。ほんと、どうしようもない。鞠子はすごく強い人間だと思う。

 

おわり

流す

前にここで文章を書いたのがいつか分からなくなるくらい放置していた。

 

理由は、パソコンの液晶が壊れて新しいパソコンに替えていたから。

別にスマホでもここに書き込めるのだけど、パソコンの画面から打つのと、スマホのキーボードで打つのとは感覚が違う。じっくり書くには、やはり前者のほうがいい。

 

買い替えたパソコンで文字を打つのは、実は今がほぼ最初なのだけど、かなり打ちづらい。パソコンを選ぶときの観点が軽さと大きさくらいしかなかったが、キーボードの打ちやすさってめちゃ大事だ。

 

・「backsapce」キーが会社のより小さい。

・矢印キーが「enter」キーの右斜め下(右手の小指の右斜め下)にあってほしいのに、無い。

 

カッコだけは、一丁前だね。

 

本を捨てられないでいる。かなりたくさんの量。大学1回生の時から買い始めて、去年くらいまで読みもしないのに買い続けていた。7年間くらい買い続けていたことになる。

 

家族には、「本を整理しろ」、「処分しろ」と言われる。自分にとって本は「整理」したり「処分」したりするものではない。ただただ置いておくもの。

 

ただ、そうはいっても、物を置いて置き続けると、たしかに精神的に良くないとも思う。部屋の広さに対しての許容量を超えている。やはり減らすべきだ。

 

一度買った本を「いつか読むかもしれない」と思って置いておく。ずっと死なないつもりでいるからそうしている。あと2年で死ぬとかなら捨てられるのか。それはそれで、あと2年だし置いとこ、となるだろな。ほんと、積み残して積み残して死んでいくな。本に限らず。これだけ多くの人が、気が変にならずに日常生活を社会生活を、それなりにつつがなく送っているのが変な感じがする。それぞれにそれぞれの心の休ませ方、騙し方を知っているのでしょうか。まあ、病んでいる人もたくさんいるだろうし、そもそも、適応できなければ消えていくだけだから気が変になっている人は普段は人の目に触れないのだと思う。さみしいことだなあ、と感じている。自分自身も、ほんとの自分(?)、自分自身が気持ち悪いと感じている自分の側面を、ひた隠しにして生きていくのだろうし、でも人の「その人自身が気持ち悪いと感じているその人の側面」を知りたいとは思う。生活する、というときの、そういう緊張関係が、すべて面倒で、はやく終わらないかなあ、と感じてしまう。「知りたいのに知られたくない」というような微妙さを楽しめる人が、残っていけるように思う。

 

卑怯だな、と我ながら思う。自分の恥部は隠して、人のは見たいという。と、同時に、皆そんなもんだと思う。そして、いつまでこれを続けるのかと思う。「思」ってばかりいて大変だなあ。一昨年、昨年くらいの2年間は、意識があることが苦しさの原因と考えていた。今、そう書いてみて、間違ってないな、と思った。だから今でもその考えに変わりはない。ただ、あまりその考えが意識に上ることがなくなった。違うことで頭が占領されているから。おもに仕事のこと。はたらく。しごと。おしごと。ことばにすればかわいいのに。実際はいろいろとたいへんだ。小学生の低学年くらいから両親が大喧嘩していたが、それは、父のコンプレックスが原因だと小さいながらに感じていた。父はよく学歴についての話をしてくれた。どの大学が良い、とかを聞いた。「旧帝大」という言葉も知った。父の話を聞きながら、別に嫌な気はしていなかった。それさえすれば社会的に認めれられる、というルートがあらかじめ用意されているのは、自分のように外見がいいわけでも、筋肉の質がいいわけでもない人間には、ありがたいことに思えた。ただ、やっぱり、学歴にこれだけこだわっている人(=父)が存在してしまう、ことが恐ろしくもあった。なんでだろうね。結局、ルートに乗れればそれでいいのだけど、"敗け"たときのことを考えて、「こうはなりたくないな」と思ったのだろう。まあとは言いつつ、父のそういった話は、まだ"勝ち負け"の決していない、かつ、割と勝算のあった自分にとっては、総じて自尊心をくすぐる要素を持ってはいた。

 

ただ大学に入ったくらいで、自分も"闘って"いかざるを得ない、ということをリアルに感じ始めて、やっぱ嫌だな、と毎日絶望するようになった。

 

なんでこんなこと書いているのか。父が学歴および役職のヒエラルキーコンプレックスの持ち主で、それを忌み嫌っていた自分は、そのヒエラルキーの中でできるだけ高い位置につこうとして努力したけど、結局空しくなっているという話だ。まとめると。

 

なんか、もうめんどくさいんだよな。全部。いつまで続くんだって感じで。ほんと、役職がなんだとか、年収がなんだとか、ほんとはどうでもいいはずじゃないのか。

ChatGPTが開発されて、嬉しいのはもちろんなんだけど、整形技術とか遺伝子操作技術のほうも、もっと早く発展してほしい。ぶっちゃけ、少なくとも男がラットレースを頑張れるのって、形の良い異性とエッチしたいからでしょう。エッチだけでなくて、「侍らす(はべらす)」場合もあるだろうけど、いってみれば形の良い異性の獲得競争をしているように見える。もちろん自分も、付き合うならできるだけ形の良い人がいい。形の良い異性に、形の悪い自分が差しだせるものはお金しかないと思ったから勉強していたけど、もうやめたいと思っている。

 

中世ヨーロッパで活版技術が発明されて教会が聖書の権威を独占できなくなったように、21世紀でも遺伝子操作技術の発展で、"良い"遺伝子を持っていることの"権威"が突き崩されればよいと思う。というか、そうあるべきだろう。父は、身長が低いことや頭髪が薄いこともコンプレックスに感じていたようだけど、そんなことで悩む人間が減ればいいなと思う。もちろん自分もその一人で、形の良い異性と近づきたいがために、興味もないラットレースに参加しなくてよくなるならそれが一番だ。

 

「愛」とか「正義」とか、あと最近だったらchatGPTが出てきたことで「人間の真価は」みたいなことが言われているけど、まずは、このコンプレックス地獄をどうにかするべきだろう。愛も正義も、人間の真価も、ラットレースをうまく生き抜いた者だけが育める、守れる、得られる、ものにしか見えなくてどれもこれも嘘っぽい。それに、その愛とやらにたどり着くために、性欲を持て余している人間は、どれだけ愛を裏切る必要があるんだろう。まあ、正義、人間の真価とかも同じようなものだと思う。はなから人類全員がたどり着けるかどうかなんて考えもしないで吐かれていることばだと思う。別に人類全員が美男美女になって、IQが150になって、食べ物に困らなくなったとしても、愛とか正義とかがわかるようになるかは知らんけど、スタートラインも、積んでるエンジンも全部違う中で、めっちゃ極端な物差しでしか自分を測ることができないのは不自然だと思う。それだったら、皆能力を上げまくって、その状態で好きにしたらいいやん、って。どうせそういう、今の人間からしたら理想的な状態でも、人間は戦争するかもしれんし、不倫するかもしれんし、足の引っ張り合いをするかもしれんけど、それがようやく「人間の真価」であって、今はまだ「人間の真価」とか言える状況じゃないだろう。chatGPTにやってもらえる仕事は全部やってもらうべきだし、ロボットに代替できるものは代替してもらえばいいし、その時に食べられない人が出るなら、AI税でもロボット税でも導入してベーシックインカムを始めるしかないだろう。なんて言うか、GPTに取って代わられる仕事は、さっさと取って代わられたほうがいい。自分のその一人かも知れないから、さっさと取って代わられたい。そして、仕事がなくなるまでできる仕事を(転々と)していきたい。社会に対して提供できる機能がなくなったときに、なんで個人が責められるのか分からない。というか責めるべきではない。現状「責め」てもいないのかもしれないけど、生かしもしていないのは、まあ間違っているなあと思う。個人ができることをやって、そのうえで社会に「あなたはもう働く必要がありません」と言われること、もうあなたの労働力は必要ありません、と言われることは、まったく悪いことではなくて、むしろ人間はそこを目指してもいいのでは。Twitterおよびネットではどうかあまり詳しくないけど、ベーシックインカムがメディアでもっと取り上げられていいのに。というか、友人とかとももっとそのことについて話をしたい。ま、浮くね。ベーシックインカムの話とか、遺伝子操作の話なんて。いい感じに「流す」ことができた。たまには流していないとオカしくなっちゃうよ、自分。

 

キーボード、もう割と慣れた。けっこうすぐ慣れる。鍵盤の位置を感覚的に掴むのはあれほど難しいのに、キーボードの位置を掴むのは割と簡単。腕と手のひらの付け根のあたりを動かさなくて済むからかな。つまり後者は単に手の移動量が小さい。あと、鍵盤のほうが、それぞれの鍵盤が「無機質」な感じがする。キーボードで「S」と打つとき、次の「A」とか「I」とかと結びついている感じがするけど、「レ」の鍵盤は「レ」の鍵盤単体でそこに存在している。「無機質」とは違うか。イメージも別に関係ないか。ピアノを思い通りに演奏できるというのは、キーボードで思ったように文字を打てるのに近いのかな。「わた」と打った後に、だいたい「し」と打つような、でも時々「がし」とか「あめ」と打つときがあって、でも、気まぐれに「きぢ」と打つときもある。最後の遊びが出るのは「し」、「がし」、「あめ」等のレパートリーをちゃんと知っているから。そんなことが音楽にもあるのかしらね。自分は、「わた」と聞いてもその次に何が来るのか全然わからない。楽譜に「し」と書いてあるから、その通りに「し」と打つ(弾く)と、確かにそこになにかしらの意味があるように聞こえる。自分で意味のある文章を作っていくなど、到底無理だ。

 

最近はしごとでデータベースをよく触る。別に専門的な知識が要るわけじゃなくて自分みたいなITの素人でもできるやつ。ただただ。データベースに検索をかける、みたいなことをしている。データベースって、面白い。難しいけど。これまでも、「すべての情報を網羅している大きなもの」が欲しいと思っていた。人間が作ってきたものの中では、データベースがそれに一番近い。「すべての情報を網羅している大きなもの」は、オカルトというか、都市伝説的な扱いをされる「ワールドレコード」?みたいなのの話を聞いたときに、自分のイメージに一番近いと感じた。この世界の始まりから、すべ手の現象を記録している記録媒体がある...みたいな話。その記録を誰が読むねん、で、その記録を読んでいることはどこに記録されるねん、みたいなツッコミはあるかもしれない。別に本気でそんなものがあるとは思ってない。あればいいなあとは思う。「お天道様が見てるよ」というのも、地獄で閻魔大王が罪業の書かれた帳簿を読みあげる、とかも「ワールドレコード」に似ている。あとの2つは悪い行いを監視されているという意味で一見窮屈なものだけど、それでも人は見られていないよりかは誰かに見られていたいと思う生き物かもしれない。ほんま知らんけど。良い行為とか悪い行為とか、そんなのはどうでもよくて、とにかく「自分」という存在が生まれて消えた、という事実がどこかに残ると何となくうれしい。結局意味を求めている。何かに繋がっている、という感覚が欲しい。そういうことだと思っている。文字を書きつけることが禁止されたら、さらに生きるのが苦しくなるだろうなと感じる。情報とか、事実とか、一方通行的に増えていくだけで、気持ちが悪い。もっと、同じようなものをまとめてほしいし、要らなくなったものを削除してほしい。個人の話をすると幼少期の記憶、小学生の時の記憶は、記憶だけにとどまらず、知恵・知識のようなものもまとめたり、削除できたり、もしくは、自由に取り出せるような場所に圧縮して置いておきたい。削除はそんなにしたくないな。「圧縮して置いておく」が一番近い。「ワールドレコード」は、この世界のシミュレートを初めた存在にとっての「フォルダ」のようなものなのでは?と思ったりする。この世界は、「幸福:不幸=3:7」と名付けられたフォルダかもしれない。とにかく、自分の一生が、1ミリでもこの世界を、クリエータにとって興味深いものにすることに寄与していると嬉しい。この世界を見てクリエータは何を感じるんでしょうか。

 

おわり