かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

文房清玩(13) 机 Ⅴ

 机の高さや「ぐらつき」、傷といった諸々の検分が終わったら、最後は忘れずに椅子の善し悪しを測らなくてはならない。

 もちろん、最初からガタついている椅子は論外であるが、学校の椅子の塩梅ほどムズカシイものはないと私は常々思っている。

 まず、膝裏にあたる「ヘリの部分がささくれ立っていないか」は重要なチェックポイントである。これは高さと「ぐらつき」に次いで、ダメだっったら即チェンジしてしまわないと、制服なりジャージのズボンにじわじわとダメージが蓄積することになる。

 ここをクリアすると今度はグッと高度な品定めがはじまる。ツルツル具合のチェックと言うべきか、あんまりツルツル過ぎてもいけないし、コーティングが剥げ過ぎているのもいけない。尻が滑るか滑らないかのあいだが、私としてはもっともしっくりくる、座り心地のよい学校の椅子なのである。

 そうして苦心惨憺して、ようやく自分の椅子となるべきものを選び取っても、ゆめゆめそこで安心してはいけない。チェンジに次ぐチェンジを経て、ようやく「コレだ!」という椅子に巡り会ったと思ったら、不慮のシャッフルが起こっておじゃんになることもある。

 だから椅子には必ず(自分の名前を書くのは流石に恥ずかしいので)自分だけ分かる目印を付けておく。もし自分の椅子を誰かがさも自分のものであるかのように座っていたら、放課後にそっと取り替える。

 そんな人間はおそらく椅子を取り替えられても、「アレ、おれの椅子替わってるし!」という具合にはならないので安心してよい。

 毎年のように教室が替わったけれど、今思えばどうして同じ机と椅子をキープしておかなかったのだろう。次のクラスも分からぬし、そんなのを取り置きなんぞしていたら、きっと先生達も煙ったく思うことだろうが、もしかすると私は次なる机と椅子との出逢いを愉しみにしていた、とは言えないだろうか。

文房清玩(12) 机 Ⅳ


三、学校の机

 四月は忙しい。なぜなら新しい教室の机をよくよく吟味しなければならぬからである。

 新しいクラスの新しい座席に着いた瞬間から、クラスメートの顔ぶれより先に気になるのは、机の塩梅である。身長も低く座高も低い人間にとって、先ず以て一発で適合する学校の机と椅子など無いと言っても過言ではない。

 机と椅子の高さをチェックするのと同時に、ガタガタ四隅を揺すってみて「ぐらつき」も精査する必要がある。ここでカッタンカッタンとなるようでは、向こう一年およそ落ち着いた勉強は出来ないのであり、たとい自分で机や椅子の脚に細工を施したところで、無遠慮な教室掃除係によって早晩どこかへ吹っ飛ばされるのがオチである。

 お次は天板を検める。これもよくよく気をつけないと前に使っていた人間が、すさまじとしか形容しがたい「記念」を遺しているおそれがある。「天才」とか書きかけの「夜露死苦」だとか、中には不断の努力でもって、天板を貫かんばかりの大穴を穿つ輩、定規でギコギコとこれの切断を試みる輩もある。

 先代が志半ばで頓挫した作品(?)を引き継いで制作に打ち込んだり、古い時代に開けられた縦穴群に一本ずつ丹念にシャーペンの芯を詰めていく人間や、アホみたいなメッセージに時を超えた返信を刻むお馬鹿さんもあって、最早こうなると検分を忘れてしばし、そんなヒマな人々の営為に見入ってしまう。

 大穴に、刀傷ならぬ「定規傷」は流石にイケナイものの、人々の手擦れのしたヘコみ跡や、指の腹に心地よいほどの傷くらいならば甘んじて許容せねばならない。いや、寧ろその学年を終える頃にはそんな傷の一つ一つが、何となく愛おしく感じられることすらあるからオモシロイ。

育児漫遊録(40) 寝返った男 Ⅲ


 両足の蹴っ張りが推進力となることを、もしかするとこの男は理解しているのだろうか。

 トムとジェリーであれば、こんな風に両足が空回りしていてもピューンと矢のように進んでいくのに、我が子の前進はいまだ仮想の域をでないようである。

 畳でこれをやると、畳だらけになるので会場をマットの上に移したり、手を引いて前進するイメージを持たせてやったりはするのだが、結局はまたその場で回転して終わってしまう。だが本人は満更でもない顔をして「どうだ?」という顔をしてくるけれど、「悪いけど、一向に進んでおらぬよ」と私も笑ってしまう。

 進んでる感は満載。実際のところ、回った時の何らかの誤差で初期位置よりは二三センチ進んではいるものの、そんな効率の悪い前進で満足してほしくはないものである。

 そんな親子の前進特訓は突発的にはじまり、唐突に終わる。二周も回って疲れると彼はがくんと頭をマットに埋めて、そこにある手をしゃぶりはじめる。父はプロレスのレフェリーみたいに、彼の前に這いつくばって「ギブアップか? ギブか?」と問うている。

 そんな様子を見かねた母親が「ギブだよ、ギブ。」と彼を救出してゆく。それでも最近分かったことが一つある。

 彼が疲れてくると、宙に浮いてブンブン空回りしていた両足が次第に接地してくるのである。すると一瞬如何にも理想的な太ももの運動が表れ、彼の上体がぐんと前方に押し出されるのだ。それ故に私としてはもう少し特訓を続けたいのであるが、「いやいや、この子のHPはもうゼロだから」と言われるとグウの音も出ないのである。

 まぁ、放っておいても前進が可能になるのは分かっているのだ。前進が可能になれば、そこでまた「大変な事」が増えてくることもまた分かっている。だけれど、いち早く彼の寝返りも見たいし、ずんずんこちらへ向かって這いずってくる姿も見たい。

 親心(親バカ)というものは、誠に仕様のないものである。あんまりバカを発揮しすぎて、いつか我が子にホントの意味で寝返られないことを祈るばかりである。

育児漫遊録(39) 寝返った男 Ⅱ


 さて、寝返ったはよいものの周りを見渡す以外に、この男、別段何をする様子でもない。ただ時折、突っ張っていた両手を離して腹でバランスを取ろうとする様子が見られる。その拍子で両手同様、両足もまた宙に浮いてバタつく姿は、虚空を泳ぐようでもあり、もっと分かりやすい例を用いるならば、「ミッションインポッシブル」におけるトム・クルーズと言ったところである。

 五分と経たぬうちに、彼の体力は尽きてしまったらしく「如何ともするなし」という顔をして、畳に顔を埋めてぐずりだしてしまう。これを助け起こして額に付いた畳を払ってやると、今度は腹が減ったの泣きが始まる。

 こんな感じで我が子の寝返りは開始されたのであるが、はじめのうちはせいぜい一日に二回ほど、気が向いた時にやる程度であったのが、一週間と経たぬうちにどんどんのべつ幕なしに寝返りを打つようになってきたものだから、こちらもウカウカしていられない。

 途中、何度も潜入するトム・クルーズの体勢を挟みつつ、まず回転が始まった。これは仰向けに寝ている頃もやっていた動作ではあるけれど、うつ伏せでやるのとではきっと筋肉の使い用も違うことだろう。

 その場で地団駄でも踏むようにして、ゆっくり一回転して戻ってきたあたりを捕まえて、頭を元の位置へ倒してぐるりと仰向けに戻す。すると本人はまだ回り足りなかったのか、直ぐさま腹ばいに戻って二周目の回転に入るので、もうこうなったら彼の気の済むまで回らせてやる。

 しかし、ここ数日はどうも違うのである。回るのに飽きたというのではなしに、回りそうなそぶりを見せながらも、どこか前方に進もうとする気配を見せ始めたのである。

 腕を突っ張ったまま両足を虚空にバタつかせて、ほんのちょっと届かない位置に設置した「舐められ太郎」の方へ、一歩ならぬ一手を繰り出そうとしているではないか。「ススメ、ススメ」と声を掛けつつ、激しく空回りしている彼の足を、なんとか接地させたいものだと気を揉む私がある。

育児漫遊録(38) 寝返った男 Ⅰ

 畳の上へ転がしておいたはずなのに、いつの間にか腹ばいになって、ニヤニヤ得意そうにこちらを見ている。両手を突いてぐんと頭を伸び上がらせる様子はまるで、どこかの展望台にはじめて上がった人の風情である。

 この男、ついと昨日までこんな芸当は出来なかったのであるが、つい先刻、突如として出来るようになったらしい。早い赤ん坊では生後半年も経たないうちに、もうころころ転がっている児もあると言うが、果たしてウチのはいつになったらいっぱしの寝返りを打つようになるのだろうと、ちょっと・・・いささか、いや、けっこう気を揉んでいた矢先であった。

 寝返りを成功させた当の本人はというと、急に自分の視界が変わったのが面白かったか、得意げに辺りを見回して、それを見せつける相手があることを確認するとこちらを向いてニヤニヤ笑っている。

 「寝返ったな」と言うと、最近生えてきた二本の歯を覗かせて「へへっ」と不敵な笑いを返してくる。昨日まであれほど横を向いたままウンウン呻っていたのが、まるでなかったことのような顔ではないか。

 足を返してすっかり横向き寝の体勢にはなるのだが、あと一歩のところで力尽きる。腕の位置が悪いのか、頭の上がりが今ひとつなのか、本人は瀕死の悟空みたいな声を喉の奥から絞り出しながら畳の上に這いつくばっていたわけであるが、いったいぜんたい如何なる拍子で出来るようになったものか。

 それは自転車に乗れるようになる時のようなもので、どこかの筋肉が規定値以上に発達したと言うよりかは、どこの筋肉をどう使えばよいのかのコツを掴んだという感じなのかも知れない。

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文房清玩(11) 机 Ⅲ

 そんな不遇の机に転機が訪れたのは、それこそ大学を出てからであった。あの地震で以てやられた家を建て替えて、新しい部屋を拵えるとなったときに、わが学習机にようやく白羽の矢が立ったのである。

 折角の新しい部屋であるから、私は是非とも垢抜けのしたデスクを所望したのであるが、「自分のがあるだろう」と言われてしばし思案した。学習机の最大の特徴にして、座る人間に最も圧迫感を与えるのが、あの棚なり抽斗なりではあるまいか。あそこが鬱蒼としているお陰で、折角大きな机であるにも拘わらず何となく手狭な感が否めなかった。

 となると、あの付属品の棚を取り去ってしまえばわがワーキングスペースは十二分に確保されるし、それこそまさに社長室の机然と新しい部屋のど真ん中に鎮座ましましむることが出来るのではあるまいか。

 いま学習机を処分しようとしている読者諸氏があれば、ぜひとも一度あの鬱蒼たる棚を取り去ってみてほしい。足元に憚っていたキャスター付きの抽斗を机の脇に安置して、その上に洋酒の瓶を並べてみるもよし。余力があれば小気味のよい椅子を宛がうもよし。(デスクが大人びても、椅子をどうにかしないと、隠し得ぬ学習机感が溢れ出てしまう気がするのは私だけであろうか。)

 結局全集やら文庫やらノートを堆く積み上げるうちに「すっきり広々」は秒で喪われてしまったわけであるが、作業台はやはり広いに越したことはない。おかげで部屋はベッドと机にほとんど占領された形となってしまったが、時を超えてようやく私は学習机の世話になっている。

 現在は積み上がった本に加えて、赤ん坊のミルクセットやら鼻吸い機がこのデスクの上に駐屯していて、晩には夜泣きの前線基地として機能している。「ほら、三十を超えてもまだ使っているよ」と他界した祖母に一つ報告したくもある。

文房清玩(10) 机 Ⅱ


二、学習机
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 幼稚園を卒園する間際、離れて暮らす父方の祖母と一緒に家具屋で選んだことを覚えている。ランドセルと諸々の小道具はこちらで選んだから、机はそちらで・・・という了解が成立していたのやも知れない。ともかくも、小学校準備のキーカードはじいちゃんばあちゃんなのだろう。

 初孫ということもあってか、子供ながらに随分と立派なデスクを選んでくれたものだ、と驚いたのを覚えている。(ちなみに、弟の時は少々コンパクトになった。)

 ボクはこれでいっぱい勉強する! と硬く決心した私ではあったが、前回も述べたように私は物心ついて以来、根っからのお茶の間派の人間であったため、当初は目を輝かせて勉強部屋の真新しい学習机に齧り付いてはみたものの、元の鞘に戻るまで左程の時間は掛からなかった。

 それから長きにわたって私の学習机はいわゆる教科書置き場として活用されるところとなり、活用されるのは怒られたり何なりでお茶の間に居づらくなった日ぐらい・・・。これはよもや私に限ったことではないだろう。そこで勉強するクセというものが付かないと、鉛筆を持つ手もそわそわするようで、どうにも心持ちが悪いのである。

 結局のところ私がこの学習机に帰還したのは、受験期をよっぽど飛び越えて二十歳を過ぎたあたりである。流石に受験期はお茶の間学習を卒業した私であるが、お籠もりする場所に選んだのは、私の勉強部屋より陽当たりが良い祖父の小さな書斎だった。

 角張っていて無骨であったけれど、広々とした机が高校受験から大学受験に至るまでの私の主戦場となり、哀しきかなわが学習机はしばらくの間、私の意識の俎上から取り去られてしまっていたのである。