筋トレ母さんのアメリカ滞在記

筋肉大好きなニ児の母、夫の赴任で子連れアメリカ東海岸生活スタートしました。

弟から学んだシニア世代との会話方法と自分が失いつつあったもの

お久しぶりです!

自宅隔離を開始してから2ヶ月半が経過しました。私の地域はいまだに自宅待機の指示が出たままです。

人は時間を無限に与えられたとき、結局は自分の本質的な欲求に従って行動してしまうのだな、と感じています。

つまり、筋トレ三昧してます。

シックスパックの作り方、とかいう体長2Mあるアメリカ人男性が教えてくれる腹筋ルーチン動画を熱心に見て自分の好きな曲にアレンジして楽しんだりしてます。

あと我ながら偉いと思うのは、トレーナー系資格試験の勉強と、韓国語の勉強を毎日コツコツ続けています。でもなんで続いてるかっていうと、ひとつにはこれらが私の今の目下の生きる希望(筋トレ&Kpopアイドル)と直結しているからに他ならず、結局は露骨なまでに人間は己の欲望にしか忠実でいられないのだな…と感動しています。

もう一つは、これだけの時間を与えられて、あとで振り返ったときに単なるTHE空白という印象にしたくないなという、謎の負けず嫌い精神もあります。

新型コロナウイルスというグローバルな感染症のおかげで何もかもが狂ってしまった2020年前半…本来ならば今日は地元のスタジアムで推しグループのコンサートが開催される予定で、本来ならばそんな彼らを1F席最前列の「神席」で観ながら号泣している予定でした。はたまた本来ならば夏休みに日本に一時帰国する予定で…

本来ならば・・・!!

でもコロナ、お前に振り回されただけの2020年にしないぞ!という、コロナに対する反骨心があります。なんか知らんけどこれからの生き方や価値観をガラッと問いかけてくるというコロナの挑戦に乗ってコロナとガチ喧嘩するためにも、この寝ても醒めても自宅にいる期間を何か意味のある期間にして、やみくもにパワーアップしておいてやるからな!という、コロナへの燃えたぎる戦闘心が自分の中にあるようです。


さてそれはともかく、こんな非常事態だからこそ生まれた新たな素敵習慣というのもあります。

実弟の提案で、毎週1回30−40分だけ、日本に住んでいる両親(田舎の実家)と、弟(東京)と私(アメリカ)をつないで、私が彼らにストレッチを教えるという回をゆるーく継続しています。

最初はLINEのグループ通話で、その後、画面がもっと大きいほうがいいということで(親のiPadにはLINEが入っていないという事情)Zoom通話に移行しました。

海外にいる家族と通話するなんて学生時代に留学していた頃は「国際電話」一択、しかもめちゃくちゃ電話代が高かったので、今の時代はこうやって海外にいても顔を見ながらおしゃべりできて、しかも無料!しかも体まで一緒に動かせる!っていうテクノロジーの進歩による恩恵が夢のようだなーと思います。

70代の父と60代の母と、週に1回顔を見ながらポツポツ話すのもいい健康チェックになるし、謎の角度で真下から見げる母の素顔には味わい深いものがあるし、ストレッチをするわけでもないのに無の表情でzoomに参加している父の様子も趣深いし、コロナでの自宅隔離がなければこんなに定期的にビデオ通話することもなかったので、弟の提案に感謝しています。

で、私が感動しているのがもうひとつあって、それは弟のすごさですw


Zoomで両親とつないで、とさらっと書いたけど、シニアな両親とそんなにさらっとアレできるわけはなく、まず私がLINEグループにZoomリンクをコピーして教えても、それをクリックしても開けないと言う(端末にアプリが入っていないから?)。

で、私がLINEに貼ったZoomの部屋にまず私と弟が入室するんだけど、親はやってこないので、すかさず弟は母に電話。そう、テレビ電話するために電話。電話しながら、私がLINEに貼った部屋情報を両親のメールのほうに送り、さらにZoomの部屋番号とパスワードを読み上げて教えてあげる。これがルーチン。

シニアには即電話。これがひとつめの私の学び。

私は大学で東京に行ってからというもの両親と2週間以上一緒に過ごしたことがないのと、特にここ最近のシニア期に突入した彼らとゆっくり話す機会もここ数年あまりなかったのですが、弟は少し前まで両親の近くに一家で住んで頻繁に行き来していた。それもあってかシニアフェーズに入った両親への説明の仕方や態度が非常に手慣れている。

それは、
・ややこしいことは即電話
・ゆっくりはっきり喋る
・焦らず大丈夫、などの心がけをまめに行う(シニアはイライラしてすぐ夫婦喧嘩になるので)
・同じことを聞かれてもイラつきを見せず、なんなら一層ゆっくりとしたトーンでもう百回説明する

などなど。。。

いや、よく考えたら両親はシニアのわりにデジタルを活用できている方だとは思うんです。父はずいぶん前からiPhoneユーザーだし古い写真をデジタルにしてLINEで送ってきたりもできる。

しかし、この間はなぜか「両親宅の巨大TVの画面にZoomを映し出す」という大プロジェクトに取り組むことになっていて、前半のセッティングを弟2号がやってあげたらしく、結果的に成功していたのですが(すごい)、両親ともめっちゃイライラしておりw 私はより一層あの環境で遠隔で指示しつづけられる弟の忍耐強さに感動したのでした。

文字情報だけだと正確に打てないらしいからパスワードを音読して伝えるけれど、「ゼロ」だと言ってるのになぜかアルファベットの「O」を入力する父…

あるはずのログインボタンをなぜか無いと言い張る父…

両親とも別の端末で入っているためハウリングしまくる音響…

何度管理者がミュートにしてもなぜか自力でミュートオフしてくる父…

そして30分予定のセッションのうち20分ぐらいこの設定サポートに費やしているのに、もう一歩で解決のところで「もう時間がもったいないから前の方法でやろう」とイラつきはじめる母…

そんな常軌を逸したオラツキフェスティバルみたいな環境で、なぜか弟はずっと落ち着いた口調で別のやり方で同じ説明をしたり優しくなだめたりしている。

保育士か?と私は思った。

というか2歳下のこの弟のことも、「部屋が汚い」「理屈っぽい」「お腹が弱い」などの高校生時の記憶がそれ以来ほとんど上書きされてないので、

いつの間にかそんな大人になっていたんだね!すごいね!
という感動があった。

 

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(無事zoomでストレッチできてよかった)

「子供と接するときも同じやん」と弟は言っていた。そうか、もはやシニアな両親と接するときのコミュニケーションの基本はそれなのか・・・。つまりリスペクトの気持ちを持ちつつも、わからないことはキレずになんども説明してあげる。あちらがイライラしてキレ始めてもこっちはつとめて同じトーンでいる。

弟にはまだ幼い子供が二人いるから、という理由も大きいかもしれない。

私は、我が家の12歳と16歳の子供たちに根気強く何かを教えるみたいなことはほとんどなくなってしまったし、もはやいつも彼らに「母ちゃんiphone10年以上使っててなんでそんなに無知なのw」「母ちゃんネットリテラシーないよねw」「プラグインソフト入れるとき間違ってスパムソフト入れないでよw」などと常にバカにされている。子供たちはもはや親より頭の回転が早く、ことデジタル機器周りでは親に教える立場になっている。

つまり私は子供の成長とともに、またコロナでの隔離生活の中で、第三者の「わからない」という状況に寄り添ってともに乗り越えるという機会が激減してしまっているんだと気づいた。(むしろ自分の「わからない」におつきあいしてもらう側になってしまっている)

わかりにくいことを根気強く教えたり繰り返したりする「辛抱強さ」と、相手がイライラしまくってても冷静さを失わない「平常心」などのスキルをかなり失くしてしまっている気がする・・・

でもそれはつまり、子育て真っ最中に強化できる「人としての性質」っていうのがあるんだということで、それに気づけたのは素敵なことでした。

これまで、「子育ては自分育て」とか「子育てで身につく新たなスキルもある」などの論説をあまり深く検証したことがなかったんだけど、両親に辛抱強くZoomの橋渡しをする弟の様子を見ていると、子育てにしっかりコミットすることでこんな新たな特技(?)が身につけられて人間性が向上するんだとしたら、子育てってやつはなかなかすごいなあ…と思わされた。

というかなにも子育てに限った話ではなく、理解のスピードとか理解する上での前提常識が自分とは違う属性の人とつきあうことが、寛容さやコミュニケーションスキルを磨く上ではやはり必須なのかなと思った。同じ集団で同じような日々を暮らしていたらいつの間にか「わかりあう」ことにかけるエネルギーを確保しなくてよくなり、その代わりいつの間にか失っていく資質のようなものってあるんだろうな。そう思うと海外暮らしの自分は、まだ成長できる機会はこれからたくさんあるのかもしれないです。

また本題と少しずれるけど、デジタルディバイドというのは端末とネットワーク環境さえ整えば解決できるわけじゃないんだろうなーという、今話題の問題についても考えさせられました。例えばオンライン教育でも、環境によってはZoomで授業を受けるまでたどり着くために何層ものサポートが必要なケースがあるんだろうなと。


なにはともあれ、私に新たな発見をくれた弟に感謝だし、そんな発見があったと感動のあまりその場でこれを話しても爆笑してくれた両親リスペクトだし、コロナがくれた貴重な時間というのは確かに存在するのかな、と思いました。



怒りについて。内省の円環で閉じたくない。

お久しぶりです!

久しぶりなのですが、今日は怒りのブログを書きます。なぜなら私は今怒っていて、物心ついてからは初めてそのまま、怒りという感情のままブログというソーシャルメディアに文字を書こうと思うからです。

安倍首相が昨夜ツイートした、星野源の「うちで踊ろう」と、首相自身がソファでお茶や読書してる様子を並べた動画に、しばらく言葉を失いました。最初はよくできたネタ動画かな?と思ったんだけど、何度見ても公式だし。1分程度あると思うんですが最初の10秒で頭がおかしくなりそうになったので無理でした。

翌朝もう一回見直して、しみじみと、これはディストピアかな?って思います。

まず星野源さんのこの企画って、詳しいことはよく知らないけれど、Covid-19による「自粛」の中、個々人への経済的な補償の内容もはっきり見えず未来への不安が募るけれど、家にこもりながらもそれぞれが自分の表現を媒体につながっていこうよ、というクリエーティブなお誘いだったと思うんですね。

私の日本の友人たちも連携してコラボ動画をあげて盛り上がっていたし、それは(あくまで私の解釈ですが)Covid-19という感染症への恐怖はもちろん、政治の無策がかきたてる不安に飲み込まれそうになる毎日に少しでも鮮やかさと明るさを取り戻すための自然発生的な動きで、音楽や踊りや表現というアートの本質的な意味も感じさせてくれるものだと感じていました。それだけに、一国の首相がここに無邪気に乗っかってきたことが、もうありえないぐらい気持ち悪いと感じます。

私は外国から日本のニュースを見ているのでいろんなバイアスがあるのかもしれませんが、これまでの日本の施策を見る限りでは自国の文化を軽視して文化を担う人たちを不安の渦に陥れているにも関わらず、その当の政策執行の責任者である首相が、自分のイメージアップのために「文化」にただ乗りしようとする。そのあさましさに、気持ち悪さを通り越して怒りが込み上げてきました。

しかも、「友達と会えない。飲み会もできない」って?国民が感じている不満や不安って、そんなレベルじゃないですよね。私自身がフリーランスで働いていた身の上なので、今日本で仕事をしていたらどうだっただろうと考えます。外に出れず、仕事ができず、収入が途絶え、しかも収束の見通しもつかないとなれば、自分や家族の将来だけでなく、生活費など毎日の暮らしにおける出費にも一喜一憂しているんじゃないかと思って、でもそうした不安を飲み込んで、「感染しない」「感染させない」ことを通じて自分と他者の命を守るためにできるだけ家にいようとしているんですよね。

日本の国民が(世界中のほとんどの人もそうだけど)いま耐え忍んでいるものは、「友達と会えない。飲み会もできない」という社会的な孤独感だけじゃなくて(この問題も重要だけど)、「働けない、収入がない、明日の請求書が払えない」という、生存に関わる圧倒的な不安かもしれないのに…。

星野源さんの動画に便乗したこのツイート、もしかして首相なりに「若者層」をターゲットにしたメッセージのつもりだったのだろうか。でもそれだとしてもリアルな国民の生活や悩みをあまりに理解してなさすぎて泣けてくる。こんなに庶民の感覚とかけ離れたところにいる人が国のトップなんだなーって。それと、この動画を企画した人も、この動画をそのままGOした人も、いったいどうなってるんだろうって思いました。

アメリカの大統領もかなりやばい人だけど、そんな彼でもさすがに緊急事態宣言が出たあとに、高級ソファで犬を撫でてお茶を飲んでリモコン操作する動画を漫然と1分間に編集して国民に呼びかけるなんてことはしないと思う。アメリカで一番被害の大きいNY州の知事は毎日朝11時台に、そしてホワイトハウスも毎日夕方に会見の場をつくり、感染者数や対策などのアップデートを日々行ってそれがリアルタイムでTVで放映されている。そういうスピード感を持って仕事をしている人たちには、そもそもこんなにも内容のない動画を撮るという発想が生まれようもない気がする。


以上、いろいろ書きましたが、怒りました。そしてこうして怒ったぞ、というのをきちんと書き綴っておこうと思ってブログ画面を開きました。

というのも、これまで私は怒りの感情をあえてそのまま書いたことがほとんどなかったんです。怒りという感情の扱い方に慎重だったし、それを吐露することで、冷静さを失った人、中立性や理性を失った人だと見られることに対する恐れが大きかった(今は中立性ってなんやねんって思いますが)。感情豊かでいたかったけど、アウトプットはいつも冷静な人だと見られたかった。みっともないと思われたくなかった。

頭の中に、いつの間にか育ててしまった自己啓発系キャラがいるんです。で、怒りを表現しようとするとそのキャラが現れて、「怒ってばかりいても何も解決しないよ」「人を批判する前に今できることをやろうよ」「ネガティブな感情を外にぶつけるのはよくないよ」「そんなことより自分の内面を見つめてみようよ」みたいに一気に語りかけてくるんです。だからいつも怒りの感情の扱い方に苦戦していた。もっと深堀りすると、「怒り狂う女=ヒステリック」という、ミソジニストな見方をいつのまにか内在化させてしまっていて、そんな女に見られたくないという恐れも大きかったんだと思う。

アメリカに住み始めて数年経って、何をあんなに、怒りを見せることを恐れていたんだろうと思うようになりました。人間だから生きていて腹が立つこともあるし、役所やホテルで理不尽なことがあって憤慨することもある。でもむっとしたときはむっとした顔のまま話していいし、率直に表現して訴えることで誤解が解けることも多々ある。まあ、そもそも英語にはしっかり怒りを出すための「用語」と「表現」が豊富にある…。

今思うのは、私たち、もっと物分りが悪くていいんじゃないか、恐れず怒っていいんじゃないかということ。怒りを表明したり声をあげることからしか始まらないことがたくさんあるし、また怒りというのは誰かを追いやるためというよりも、自分の尊厳を守るために発露されることがある。もちろん怒りという強い感情を持ち続けるのは疲弊するし、怒ること以上に大事なのは、その偽らざる感情から見えてくる自分が守りたいものの正体に向き合い、それを守るために逃げずに行動することだと思うけれど。

ただ腹がたつのは、知識人といわれる人たちや教養がある人たちが、「批判していても始まらないから、自分のことをしよう」と、巧みに内省の世界にリードしようとすること。ここに私自身の反省も大いに絡んでくるんだけど、もちろん内省も必要だと思う。政府が、社会が、上司が、と周りを見渡して不安になってばかりではなく、この異常な状況下で自分がどうしたいか、どういう生き方がしたいかを考えるということ。

でも、果たしてその内省の円環の中で閉じていて、本当に未来を変えられるのかなと思う。極論だけど、仮に我々が戦時下にいたとして、「国を批判してないで自分を見つめよう」とか「がんばっている政府のみんなに前向きな言葉をかけようよ」とか言われたらと思うとぞっとする。だからやっぱり、民主主義国家に住んでいて私たち一人一人が主権者である限り、自分たちの代表であるはずの権力者を監視して、権力の行使に関して不正があれば声を上げて、自分の「内」を見つめるだけでなく、自分の「外」に明白に存在する枠組みをきちんと学び、向き合って、必要があれば構造を変えていこうとする姿勢を見せていきたいと思う。それは、人を責めるとか責めないとか悲しいとかネガティブだとかの情緒的な話ではなく、民主主義国家の中で生きる大人としての責任の話だと思ったんです。

私の反省は、安倍政権の7年間、もちろん選挙には行っていたが、権力の監視を積極的にしてこなかったし、政治に対しての自分の意見も公の場で言わないようにしてきたこと。政府の予算の使い方や施策をチェックし、他国と比較して検証する、そういう当たり前の主権者としての責任を果たしてこなかった。アメリカに住みながらアメリカのニュースで知る日本は国民を大事にしていないように見えて悲しい気持ちになったけど、こんな政権を長きに渡り継続させてしまったことに大人の一人として責任を感じるから、せめて自分はこれから変わっていきたい。というのが、最近の私です。

お恥ずかしながら基本の基本、「勉強する」ことからやっていきたい。民主主義や参政権、女性の権利などを人類がどう獲得してきたか、その歴史も学び直さないといけないと感じます。そして必要なときは声を上げる、また勇気を出して声を上げた人に恐れず連帯する…ということをやっていきたい。

ああ、もっと怒りに満ちて書き散らかしたかったのに、やはり長年の癖で理性的「風」にコーティングして書いてしまう…。まあこれも自分だと受け入れて、でも今回鮮やかに湧き上がった自分の怒りについてはしっかりと記憶に残して、次の一歩に進んでいきたいと思います。

 

↓自宅隔離中の猫。

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以上、ブログだから当たり前ですが、すべて個人の見解です!

『パラサイト』を観て考えた、計画を持つことと責任を持つこと

こんにちは!

 

少し前に、『パラサイト』がアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞・国際長編映画賞を取りましたね。

 

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私はその前に2回見ていて、amazon primeでストリーミングも購入していたのですが、受賞したことで16歳の長男にも「巷で噂のパラサイトとやらを見たい」と言われ、映画館に連れていきました。

血とかアレなシーン(アレなシーン)があるからどうかなーと思ったけど、「高校の先生に絶対見た方がいい!見てきて!」と言われたというので…。ちなみにその先生は韓国系アメリカ人の先生で、長男が非常に尊敬している先生みたい。もう少し保守的な州に住んでいる友人からは、「パラサイト観てきてなんて、そんな素敵な先生がいるんだね」と言われたな。


映画での彼の反応はというと、ちょっとバイオレントなシーンでは怖すぎて手で目を覆っていました…かわいい。そういえば「ゲット・アウト」観に行ったときもそうなってて映画館出たあと気持ち悪くなって、最終的にはなんで連れてきたと怒ってたことを思い出し…。でも今回はさすが高校生、「うっ」となりつつも最後までしっかり鑑賞し、いい意味で作品にショックを受けていました。
 

ところで、いきなりですがどうやら私はすごく「ネタバレ」が嫌いです。どうでもいいと思っていることについてのネタバレは全く何にも思わないのだけど(そりゃそうか)、自分が楽しみにしてきた作品について意図せずネタバレを踏んでしまうと、憤怒、のち、虚無の気持ちに襲われます。

そのことについて考えてるんですけど…あれって「人の体験そのものを奪う行為」ですよね??そもそも私たちが映画や本や演劇やドラマなどの作品に向けて期待していることは、単なる「筋書き」ではない。この人がこうしてこうして…へぇーそうなるのかっていう、そういう話の流れを知りたいというだけじゃなくて、そこで喜んだり悲しんだり驚いたりする自分の生きた感情を味わうこと…それがエンタメの醍醐味じゃないですか。ネタバレってその、物語とともに生き生きと変化するはずの感情をある程度あらかじめ殺してしまうようで、よろしくない!怒!なので期待している作品については全力でネタバレを避けようとして生きています(よく失敗してネタバレ踏むけど)。

 

というわけで、何が言いたいかというと『パラサイト』についてもネタバレするつもりはないし、したくないのですが、そうすると途端に何について語っていいかわからなくなるような映画でもある。ひとつ、映画に出てくる印象的なセリフについてこんな風に感じたよーというのを書きますので、「それもちょっと読みたくないわー」という方はここでダッシュでおかえりください!

 

『パラサイト』には、雨、光、高低差、におい、人の善悪と貧富、象徴、境界線、演技、ブランドとしてのアメリカ(!)など理解を深めるにあたって印象的なテーマがいくつかありますが、3回目に観たあとにずっと考えていたのは、お父さん役が息子に向かって言う、「無計画こそが最高の計画だ」という言葉でした。それ以降、「計画」ということについてずっと考えている感じ。

半地下に暮らす主人公一家は「計画」を持たず、その日暮らしで、でも家族仲良くやってきた。とあることをきっかけに息子が「計画」を持ち、その計画に家族を引き込んでいく。計画通り順調に進んでいたように見えたけど、ある晩すべての計画が崩れる。そして息子は呆然とした顔で父に次の計画を聞くんですよね。その答えがこれ。

「計画を立てると必ずうまくいかない。だから無計画が一番だ」
(うろ覚えなのでセリフその通りじゃないと思われ)

 

まず思ったのは、「計画」というのはもはや特権階級だからこそできることで、持たざるものは「計画」することすらできないということが描かれているのかな、ということ。

主人公の一家は自分たちの状況を変えるために計画を持とうとするのだけど、結局この格差と階級社会という揺るぎのない構造のなかで、下層に住む者が何かを計画したって簡単にうまくいくわけがなく、それは「失敗」になり「敗北」になり、計画立案者は「無力感」を募らせて終わる。だったら初めから計画なんて立てないほうがいい。立てない計画に失敗はない。たとえ犯罪を犯すことになっても、国を売ることになっても、そのほかに計画があったわけではないのだから、それは失敗ではない。

みたいな、やや詭弁的な理論にのっとった父親のセリフではなかったかと推測するんですが…どうでしょうかね。勉強とか努力や勤勉さといった意思に則った「計画」が確実に報われていた時代から、それだけでは決して乗り越えられない壁の質量がどんどん増してくる時代の中で(韓国だけでなく日本も同じように格差社会が進行しているように個人的には感じています)、計画を放棄するという生き方が示される。
 

でもそれで社会が何か変わるかというとそうでなく、下層に位置するとされる人たちが計画を持たず、自分の意思を持たなくなり、生き方を他者に委ね、社会や政治や構造に振り回されて生きていくことで、格差やその構造はむしろ強化していき、社会の上層部にいる人たちは計画を持ってより豊かになっていき、下層部の人はより奪われていくという分断の強化が起こるという皮肉。もちろんポン・ジュノ監督の意図ははっきりとはわかりませんが、そういうことまで表現したくていれたシーンのような気がしています。

あとこれは、とある特徴的な登場人物のセリフにはっきり描かれているのですが、計画を持たなくなり、「上にあがろう」という意思を徹底的に放棄した後には、「上」つまり持つ者に対して「下」として徹底的に依存して服従して隷属する未来が待っているんですよね。心も体も。上っていこうとは思わないし、底辺で暮らすこと自体に安寧を感じていたりして、むしろ変化を好まなくなるみたいな…。

なるほど格差というのはこうやって構造化されて強化していくし、それを個々人の「計画」や「意思の力」で風穴を空けて変えていくのがどれだけ難しいか…。というのが、『パラサイト』3回目鑑賞後にしみじみ考えさせられたことでした。

でも、これだけだとなんか他人事みたい。そうじゃなくて、この映画をすごく自分に引き寄せて考えられるようになったのは、この映画に出てくる「計画を持つ・持たない」ということを「言葉にする・しない」に近いものとしてとらえている方をTwitterで見かけたことからなんですよね。
 

計画を立てることって何から始まるかって、言葉にすることからだと思う。ノートに書いたりソーシャルメディアでつぶやいたり家族や友達に話したり。朝起きて仕事して家事して寝てみたいなそういう生活に必須の「実務用の言葉」ではなくて、自分が今どう感じているかとか、自分が置かれている社会や制度に対してどう思っているかとか、何を望んでいるかとか、そういう「表現する言葉」。


そういうのって別にしなくても健康に楽しく毎日を過ごせるかもしれないし、下手に何か発言して炎上したり問題を引き起こすよりは…と思って、感じたことをあえて言葉にしないまま胸の中に閉じ込めている人も多いのかもしれないと思うし、その気持ちも理解できる。

だって言葉にすることで責任が生じるし、言葉にすることで、そうしなければ他者に見えるはずのなかった自分の内側の思いが可視化されてしまって、それは共感を呼んで自分の力になるときもあれば他者が自分を攻撃する武器になるときもある。言葉にすることは、本来すごく怖いことでもあるんだと。

でも、言葉にすることは責任を伴うと同時に自分の意思表示であり、意思表示の繰り返しから「計画」が生まれて、計画を持つことから少しでも「自分の人生」と言えるものに近づけるのかなと思うと、やっぱり私は言葉にすることをたゆまなく続けていきたいなと思った。ということが書きたかったんです。

これは実は、日本で仕事をしているときにもよく言ってはいた。仕事のクライアントのみなさんに、アウトプットしましょう、言葉を紡ぎましょうと。ただ私自身、恥ずかしながらそのときは、社会や、政府や、仕組みについて物申すことには及び腰だった。それはスマートなことではないとどこかで思っていた自分がいるし、自己表現というコンセプトと、社会の構造的な部分への言及とが結びつかなかった。わかりやすい例でいうと、例えば政治について公に語ることを巧妙に避けていた気もするし、それがスマートな大人だと思っていた。

でも、これは今自分がアメリカで暮らしていることも大きく影響していると思うけれど、自分の内側の思いを言語化するという内省の一貫の表現だけでなく、自分の住む社会について、政権について、制度について、仕組みについて、おかしいと思うことはきちんと声をあげていくという意思表現も大切な自己表現のひとつであり、ひいては自分を大事にすることなんだと確信できるようになってきた。なので、おかしいんじゃないのと思うことについては声をあげたり、また勇気を出して声をあげてくれた方にしっかり「連帯」の意思表示をしたり、そういう風に自分が住む社会に対して意見と計画と責任を持つ大人へと、もっと成熟していきたいと思う。

まあこうやってブログに書いても、数日後に恥ずかしくなって取り消したくなったり、数日後に書いたことと違う考えに変わったり、はたまた書いたことが原因で厄介ごとが起こったりしなかったわけではないけど、それでも責任感を持って外に対して発信して、それが生む他者や自分の反応を受けて、また新たに発信する…その繰り返しで、なんとか自分の人生の梶取りを他者(社会、国家)に委ねっぱなしにせずに済むのではないかと思っています。今は。

だから、この映画は「韓国の格差社会って大変だね」「まだ半地下に住んでいる人がいるんだね」みたいなお隣さん大変だねっていう類のものじゃなくて、自分の内側にあるかもしれない、「計画を持つことを拒んで、大きなものに巻かれているほうが楽だとどこかで思っている」自分の中の被支配者体質みたいなものと向き合わざるを得なくなるような映画だと思いました。

 

映画の終盤で主人公がひとつの計画を立てることがとても意味があると思った。無駄なように見えても、奪われ続けても、計画を立てることを諦めない、意思を持つことを諦めない、ほんの小さな光だけどそこに希望を見たような気がする映画でもありました。いや本当に、ポン・ジュノ監督…RESPECT!!!

 

 

 

ルッキズム考察続き…容姿にまつわる情報の優先順位の高さ??

こんにちは!

いま、次男のtutorが来て学校の宿題を見てくれているんですが、さっき二人に淹れたお茶を、どちらかがこぼして次男のノートパソコンが壊れるのでないかという言いようのない恐怖にかられています。次男にお茶なぞ淹れるのではなかった!奇跡的に気配りをしてしまったことを後悔しています…。

さて前回のブログを読み返してみて、なんかすごく結論が急でわかりにくいな…と思いました。日常に潜む自分自身のルッキズムの呪いについて、もう自分が感じている小さな違和感を補足として掘り下げていきたいなと思います。

こっちに来て気付いたのは、
知らない人についての話をするとき
もしその人がとても美人もしくはイケメンであれば
その情報はあらかじめ教えておいてほしい。
もしくは、当然教えてくれるはず。

という意味のわからない期待というか予測が、明らかに自分の中に存在することでした。笑


というのも、あくまでこれまでの私の経験によると…ですが、日本では第三者の話をするとき、その人が美人もしくはイケメンであれば、その情報はなんらかの形で事前に知らされることが多い。と思うんです。

一方、私の周りにいるアメリカ人の友人の場合、第三者の話をするとき、いやもちろんその場に相手がいるときはもちろん、「美醜」という意味でその人の容姿の情報を付け加えるのを聞いたことがありません。今のところ。

もちろんこちらにも美しい人はいるしハンサムな人もいる。恋人関係になったら四六時中「君の瞳の色が好き」とか「君のお尻が好き」とかそういうこと言い合ってると思います。しかし十分親密な関係にならないうちに、不用意に他者の容姿について言及するのはルール違反だという雰囲気が確実にある。


いつまでその話しとるねん、と思われたとおもうんですがw

つまり、

日本で我々が扱う他者についての情報において、「容姿の評価」を、無意識のうちに優先順位が高いものとして扱っているのではないかと思ったんです。

で、もしかしたらアメリカ人の友人たちがひときわ倫理観が強いというわけではなく、単純に生まれ育った環境の中で「容姿の評価」の優先順位が(我々に比べると)低いので、自然と会話の中にその形容が入ってこないのではないかという仮説を立てました。

あと、人との間の「境界線」の意識が日本人よりはっきりとあって、容姿についての言及をすることも、ある種ボーダーラインを越すことになるから、一般的なおつきあいの中でその情報が出てくることはない、ということなのかもしれません。

本当に微妙な、地味ーなことをいつまでも考えているのは自分でも承知なのですが、「気づかないぐらい深く刷り込まれた固定概念」って実は派手な形ではなくて、こういう日常の会話の当たり前に潜んでいるような気がして、こうやって書きながら掘り下げてみています。


考えすぎている気もするけど、どうなんだろうか?
たとえば昔、親戚やお友達の親御さんが、「⚫︎⚫︎ちゃんは色が白くて可愛くて、一方…」みたいにいうのを聞いたことがあるし、実際に自分の娘ちゃんが「二重まぶただったらもっと可愛かったのにね」と親御さん(娘ちゃんにとってはおばあちゃん)に言われて激怒していたお友達も知っている。

「残念なブス」と自称していた人も知っているし、体型についての自虐ネタで笑いをとっている女芸人も、頭髪についての自虐ネタで笑いをとっている男芸人も知っている。

容姿についてプラスの判断を他者に対して押し出していくことは一見害がないようだけど、実は我々のほとんどが個々に経験したことがある、容姿についてマイナスな経験を生み出している何かと実は根っこは同じだったりしないだろうか?それを自虐として昇華しないと向き合えないと思ってしまうほどに、我々は容姿の良し悪しの判断を優先順位の高いものとして扱っているのではないか?

と、考えたところで何を書いてるかよくわからなくなったので、今日はこれぐらいにします!(いつものパターン)


でもまあ、アメリカももちろん同じようにいろんな人がルッキズムの呪いに苦しんでいて、そういう背景があるからこそ、新しい世代を象徴するBillie EillishやLizzoなどの歌手が今ここまで支持されているのだと思う。彼女たちの歌を聴くと、旧世代のいろんな呪いから解放された力強いメッセージを歌っていて、「いびつな私だけどそのままでいい」という健全な自己愛をすごーく感じます。


Lizzo - Good As Hell (Official Music Video)

 

大好きなLizzoの曲MVを貼っておきますー!!


ではまた。

自分の中のルッキズムの呪いに気づく

新年あけましておめでとうございます!

アメリカでは1月2日から普通に学校があるので、「三が日」という概念はなさそうですね…。あと、年の終わりにも始まりにも特に「神聖さ」や「荘厳さ」は感じていないようです。アメリカ人に初日の出のことを説明したけれど、「日本人にとっては自然が神様なんだねー」とピンとこない顔でつぶやいてました。確かに初日の出になんで荘厳さを感じるんだと問い詰められるといまいち説明できないw でもきっと文化的に理由があるはずなので勉強しておこう…。

あっ、アメリカは日本と違ってお正月に門松を飾る的な風習もないためか、クリスマスのオーナメントは各家庭にて余裕でピカピカ光ってます。

入場料を取れるのでは?というぐらいイルミネーションがおしゃれで素敵なお庭もあれば、パチンコ屋なのでは?とおもわず耳を澄ませてしまうぐらいドギツい色とりどりのイルミネーションのお庭も、巨大なスノーマンが光る家、トナカイがソリを引いている家、はたまたイエスキリストがこの世に誕生した瞬間を祝うリアルな木製の像が置かれているお家(夜中に薄暗い光の中で見た時ちびりそうになりました)・・・まあとにかく、ほとんどのおうちで今だに現役でピカピカ光っています。って我が家もリースが飾られたままですけどw

というか、クリスマス来る直前まで、というか来たあとも、ハロウィンのカボチャが普通に玄関前にある家たくさんありました・・・つい昨日もサンタが普通に出てくるCM見たばかりです。カボチャとサンタの夢の共演。なんていうか、季節感が「ゆるい」?いや、クリスマスが終わった翌日には儚い夢バブルがはじけたように一気にツリーとイルミネーションを撤去する日本人の切り替えと真面目さのほうがもしかして変わっているのでしょうか?(ちなみにそういう切り替えについていけてなかったタイプなので、このアメリカの緩さに許されたような気がしている日本人です…)。

 

人をよく褒めるアメリカ人

さて、いきなり本題なのですが、アメリカ人は人をよく褒めます。友人同士はもちろん、通りすがりの見も知らぬ他人も気軽に褒めます。例えばファストフードのお店で注文したとき、「あらそのネイルええやん」「そのジャケットすてき」「そのヘアカラー似合ってるね」みたいに褒めます。目について「いい感じ」って思ったからついでに言葉にしましたよ、みたいなライトな感じ。その小さな幸せをおすそ分けしあう軽やかな雰囲気が好きで、私も素敵と思ったことはその場で声に出して相手に伝えるようにしています。


こないだはスーパーで会計のときに私が着ていたセーターをみて男性の定員が「素敵なセーターだね、手編み?」って聞いてきて、そんなわけはないので(←小6以来編み物してない)買ったやつだよーと答えると、「僕編み物大好きなんだけど、そういう色の組み合わせで友達にマフラー編んであげたんだよ」と話してくれて、まじで?すごい!他にどんなもの編むの?みたいに会話が盛り上がって、「ときどき自分の手編みニット着てるからこんどまた見せるねー」みたいな流れになりました。

日本でこんな展開って…服を買うとか化粧品を買うなどのある程度長時間のエンゲージメントが発生する環境ならありえるかもだけど、普通のスーパーマーケットではなかなかない気がする。店員と客というよりは、あくまで人間と人間っていう関係性が背景にあるからこその軽やかな展開なんだろうな。


なんでも褒めるわけではない

でも、よく褒めるからといって何がなんでも褒めるのではないところがポイントだと思われる。つまり、「ネイル素敵!」とはいうけど、「指が綺麗ですね」とは言わないし、「ジャケット素敵!」とはいうけど、「グラマーなので似合いますね」とか「痩せているから似合いますね」とは言わない。

つまり、一般的な良識的なアメリカ人の場合、相手の容姿については勝手にコメントしないのが一種の最低限のモラルになっている感じがする。

ルッキズムって言葉がありますよね。インターネット上の辞書だと、「外見的な美醜を重視して人を評価する考え方。容姿による差別をいう」とありました。こうやって読むと、ほとんど全員が「私はそんなことをしない」って思うと思います。容姿による差別なんかしない!容姿がいい人にへつらって、容姿が悪い人をdisって、そんなことしないって思うんじゃないかな。

でも私がアメリカに住み始めて気付いたのは、自分自身もルッキズムの呪いにしっかりかかっていたし、きっと今も解放されてはいない。(もちろんアメリカ人であれ何人であれ、完全にルッキズムから自由でいることは簡単ではないと思いますが)

どうしてかというと、ルッキズムとは、「当事者がいないときにその人をどう表現するか」という場面で顕著に露呈するということを発見したんですね。

もちろん、「あー、あのすごく太ってて目が細い人だよね」なんていう人はいませんが、でも、「ほらあの、スリムで色が白くてめちゃくちゃ美人の人!」みたいに言うことありませんか?私は言っちゃってました。つまり会話の相手に第三者についての描写をするとき、自分の判断による外見的な美醜の情報を手渡していたんです。それってまさにルッキズムなんじゃないかなと思ったのです。


たとえプラスの意味でも容姿の判断を入れない

美醜について、「プラスの情報だからいい」のではないんだと気付いた。自分以外の誰かについて、たとえ良いことでも悪いことでも、本人が求めてもいないのに何かしらのジャッジメントをしてさらにそれを会話に入れてしまうのは、立派なルッキズムなんじゃないかなと思うに至りました。

例えばいまやアメリカの職場では「美人だね」とか「スレンダーだね」みたいな一般的には褒め言葉とされていることを女性に声がけすることもセクハラの範疇に入ります。(いまだに「褒めているのに何がいけないのかわからない」という絶滅危惧種的な中年男性も存在するようだけど…大統領とか)

 そう考えたら、たとえば私たち女性が女性を描写するときも、たとえ褒めているつもりでも、不必要に容姿への言及をする必要はないのではないかと最近考えています。

ではアメリカ人はどのようにその場にいない人の描写をするかというと、あくまで私の周りの友人たちの話になりますが、「すっごくいい人だよ!」とか「めちゃ面白いやつ!」とか「静かだけどいい人」とか「クラスに毎日来る人」とか、つまり容姿ではなく性格とか行動を描写するという印象です。正直、それだと事前に曖昧な印象しかわからないことが多いんですがw が、だからといっていざ会ってみて困ることは実はほとんどないなあという発見もあり。

もちろん第三者の容姿についてまったく言及しないわけではなく、背が巨大だとか小さいだとかヒゲがすごい、みたいな情報は聞いたことがあります。でも痩せているとか太っているとか美人だとか、間違っても肌が白いとか黒いとかは、もちろん言いません。


容姿を褒めなくても人は褒められる

私の友達にものすごーく人を褒めることが上手な女性がいるのですが、彼女はよく私に「運動後の血色が最高だね!」とか「そのウェアあなたの髪の色にめちゃ似合ってる!」とか「エネルギッシュにサンドバッグを殴りまくってるあなたに元気をもらう」(笑)とか、そういう褒め方をしてくれます。彼女とつきあっていると、自分がいままでの人生でいかに褒め方のレパートリーが乏しかったか思い知らされるのです…。きっと知らず知らずのうちに「美人」「細い」「背が高い」「肌が綺麗」「顔が小さい」・・・そんな容姿先行型の褒め言葉で満足して、思考停止してきたからなのかな…。

まだまだこのテーマについては考え始めたばかりでまとまらないのですが、少なくとも自分の中に長年あったルッキズムベースのものの見方を、少しずつでも見直していくことから始めていきたいなあと思っています。また、例えばルッキズムで溢れかえった会話の中に身を置くときに、少なくとも自分はそれに加担をしないことも大事かなと思ったり。

 ルッキズムが密接に絡む様々な差別や不平等やジェンダーなどの社会的な問題を少しでも改善できたらというお利口なモチベーションだけでなく、ルッキズムの呪いが解けたなら、自分自身が世の中をもっと豊かな視点で見て、他者についてもっと豊かな発見があるのではないかという期待があるからです。

ちなみに最後にこれは別で今後とも考えたいなと思うのは、アイドルについてです(笑)。私は推しアイドルのダンスも歌も性格もさることながら容姿もいつも完璧で最高ですね、とひたすらべた褒めして生きているのですが、これは大丈夫なのかと。プライベートな直接の関係のある人間関係とはまた違う視点での考え方が必要なのかもですが、少なくとも、太ったとか痩せたとか、整形したとかしてないとか、そういうことを(たとえ心配したり擁護する意図があったとしても)外野が過度に騒ぐのはアイドルを縛っていくのだろうな…と思いました。最後いったい何の話、ですけれども、また引き続きなにか考えがまとまったらUpdateしますね! 

 

年齢の呪いが解かれた2019年…体調すこぶる良くありがとうございます

あっという間に2019年が終わりを迎えようとしています。

いや、本当にあっという間だったのでびっくりしてます!!

今年は、子供たちだけでなく私にも「新しい居場所」ができ、そこで「仲間」ができ、自分の好きなことを再確認し、新しい勉強を始め、好きなアイドルを力強く推し、膝下の筋肉がつき、スパークリングと絞め技を覚え、攻撃力と機動力が上がり、スタミナがつき、体調がすこぶる良くなりました。(最後やっぱり体の話になる)

歳をとっても、普通に自分の体を前より良くすることはできるんだな。本当に普通に!と、改めて実感しています。

もちろん髪とか肌とか歯とか視力とか聴力とかハード面は普通に加齢してますけど、「自分が快適に感じる体」という意味では、毎月の生理痛に悩まされて鎮痛剤すら効かなくなって恐怖を覚えていた大学生の頃よりも、ずっと良い体になっている。つまり運動や食事というソフト面のメンテナンスにより、快適な体を継続させる・手に入れることは普通に可能なんだなと改めて思いました。

さらに考えてみたら、非常に体調がよくイキイキしている自分を感じる理由のひとつは、日本に比べるとこちらでは「年齢による呪い」を感じる機会がものすごく少ないからではないかと気付きました。

つまり、ある程度の歳を重ねたら誰でもひとつやふたつ不調で当然だ、というような固定概念とか、何か体調不良になると「もう歳かなw」って自虐で笑いをとるとか、

はたまた、「もうおばさんなんだからファッションもわきまえないと」とか、「もうおばさんなんだから調子に乗らないようにしないと」とか、

そういう巷の声に出くわすことが、びっくりするぐらいない。

私の言っているボクシングジムにも10代の子から50代の大人まで年齢さまざまにいるけど、中年以上の人も「こんな歳で始めちゃいました」みたいに萎縮することなく、どんな初心者でもみんな普通に堂々としている。

そしてどんなに近所のコンビニに行くときも基本はファンデーションをしていた私が、ジムやスーパーには平気ですっぴんで出かけるようになり、

それは美容の意識という意味ではさらに後進したような気もするけどw

同時に、新しいメイクや新しいアイカラー、リップの色、新しい色の洋服に、恐れず挑戦できるようになりました。

つまり、自分が日常生活でなにげなく選んでいるメイクの有無やメイクの種類、ファッション、髪の色などなど、「他人にこう思われたらいけないから」という何かを避けるための考慮要因が減り、

純粋に「今の自分はこうしたいから」という自分の素の欲求のほうに前よりもう少し耳を傾けて、ひとつひとつの選択をしているような気がしなくもない。

いくつになっても自分がそうしたいと思う自分でいることは、「痛々しい」のではなく、誇り高くかっこいいのだという共通認識がここには当たり前にある気がします。


これって「年齢の呪い」が少ないのと同時に、「アメリカ人、誰も人のことなんてそれほど気にかけてない」っていうのがあるかもw

ほんとに、気にかけてない。道で歌おうが踊ろうが。というか、なんであんなに私は日本でそんなことを気にかけていたのだろうか?それがむしろわからなくなって、知りたくなってきた。

アメリカのすべてが最高だというつもりはないけど(特に健康保険と郵便システムはkusoだし何より大統領がyabai)、ここで住んでいるからこそ得られた、自分の国についての発見がびっくりするぐらいあります。

2018年の10月に暮らし始め、数ヶ月かけて家族での新天地での暮らしを安定させ、2019年は家族それぞれが新しい国での自分の居場所をつくり、今のアメリカを身をもって学んだ年だったと思う。

2020年は、日本人である私がアメリカに住んで学んでいることを、将来どう還元していくかについて、もう少し本腰をいれて考えたいと思っています。


Facebookを覗く頻度が激減し、日本のみなさまには本当にご無沙汰しすぎていて呆れられているかもですが、今の自分の暮らしから浮き上がってきたものをこうして言葉にしていくことが今自分ができる最大の誠実さかなと思っているので、来年もブログは継続して書いていきたいと思います。もう少し更新するのが目標かな。。

前のブログに書いたルッキズムについては、考察しながらちょくちょく書いていきたいと思ってますー!

みなさま、良いお年を。
そして遠くにいてもつながってくださっていて、ありがとうございます。

マイノリティになることで発見できること

おそらくこれでひとまず終わりになるはずですが、子供の英検受験から自分が感じたことのまとめ記事第三弾です。この記事は単なる英検運営への文句みたいになってしまうかもしれないので、愚痴は早々に終えて、何か少しでも意味のある考察になるといいなあと思います…。

 

英検の受験後の次のステップは合否の確認ですが、結果が郵送で送られてくるのを待つ前に、「英検ナビ」という英検公認のwebサイトに登録すれば、そのサイト経由で合否を一足先に確認することができます。

 

無料で登録できるのですぐに確認しようとwebサイトの登録画面に進んだのですが、ここで驚きの事実が二つ。

 

一つ目は、「ひとつのメールアドレスにつき一人分の英検番号しか登録できない」。つまり二人の子供の英検結果がみたい場合は、別々のメールアドレスが必要になる。一旦ログアウトしてから同じメールアドレスで別の英検番号の登録をしようとしても、固有のメールアドレスひとつにつき、ひとつの生年月日しか登録できないようになっている。

 

確かに同じ受験回で一人が複数の英検番号を持っているはずはないけれど、英検ってかなりの割合がキッズではないですか?日本の会場は大人の割合が多いのかもしれないですが、NYの試験会場でぱっと見たところ受験者の9割が小学校低学年〜高校生の少年少女でした。

 

つまり子供に英検を受けさせるために親が受験料を払って各種手続きをしているケースが(特に海外受験組は)多く、受験結果も保護者が子供達の分をまとめてみるのは自然な流れ、かつ二人以上の子供を受験させているケースも多いと思うのですが…。おかげでオタク活動(ファンであるBTSの情報収集)に使っているサブのオタクメールアドレス(※もちろんアイコンはアイドル)を使わなくてはならず、まぁいいんですけど微妙な気持ちでした。

 

でもそんなことより二つ目の驚きです。会員登録するためには住所登録しないといけない。それは良いのですが、住所登録の必須項目の・・・郵便番号が・・・コレー!!!

 

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ふたつに分かれるやつー!日本の郵便番号のやつー!


アメリカの郵便番号は「12345」みたいな5桁になり、日本の「123-4567」みたいな途中の「-」もないので、この様式には対応できません。

でも両方の空欄を埋めないとエラーになるし必須項目なので、とりあえず自分の前住んでいた日本の住所を入れておきました。しかしもう記憶がなくなりかけているので正しかったか不明。

ちなみにオンライン上での受付フォームの不備というか、電話番号や住所で完全に日本在住者しか想定していないがため必須項目の入力ができない、という事態はわりとあります。しかしたいていの場合、そういうサービスは「日本在住者限定」のものだったりして、そうやって外国在住者がレギュラー想定されていないのもまあ理解できます。

でも!!英検の合否確認サービスで、これはあかーん!


そもそも英検は海外から公式に受験できるような仕組みになっていて、我が家のように数年後に日本への帰国を控えた子供たちがこぞって受験する試験になっている。もしかしたら日本に住む日本人にとって以上に、海外に住む日本人にとってニーズの高い試験かもしれない。しかも海外在住者だからこそ、インターネット上で合否が見えるこのサービスは必要不可欠。なのに、英検ナビは海外在住者を、会員として想定していない・・・。

 

どゆこと?????

単純にサービスとして手落ちだなと思ったのだけど、それ以上に英検という外国語の試験を認定している組織として、この「住所」にまつわるグローバル意識の欠如はまずいのではと思いました。

だって英語の検定ってことは、外国語能力を測るということで、外国語を学ぶということは、外国について学ぶということで、それは将来日本以外の国の人とつながったり、日本以外の国に住んだり、そこで学んだり働いたり、そんな風に将来を開いていくためツールになるものではないのか・・・?

 

もしくはすでに海外に住んでいてリアルタイムで英語を勉強していて検定を受けたい人とか、日本から海外だけでなく、海外から日本への帰国のために使いたいなどいろんなシナリオが考えられるはずでは?

 

そういう検定を運営している人たちの集団のはずなのに、受験者に日本在住の人しか想定していないって、どういうことなのだろう??

英検は日本人の国籍を持ってないと受験できないとかで、あえて住所も日本の住所限定にしているのだろうか?と思って調べてみたのですが今のところそのような条件はみつからず、また仮にそうだとしても日本に住所がないパターンは普通に想定できるはず。単純に、「郵便番号=123-4567」っていう固定概念の考えの人が集まっている。それだけのことの気がする。

 

というかそもそも英検って何のためのものなんだろう?上述した私の考える英検のミッションって本当に合っているんだろうか?と今更ながら疑問が湧いたので英検のサイトを見てきたところ、こんな説明がありました。

 

英検は、学習レベルに応じて7つの級を設定しています。英語の基礎を身につけ、一歩ずつ確実にステップアップできる5級・4級・3級。
使える英語の幅を広げ、世界へ飛躍する力を養う準2級・2級。そして、品格のある英語使用者として国内外で高く評価される準1級・1級。

あなたの英語レベルに応じて、どの級からでもスタートすることができます。英検にチャレンジすることで、自分の英語力が把握できます。ひとつ上の級を目指して学習することが、社会で通用する英語を身につける近道になります。

 

試験問題は、世界各国のアイテムライター(原案作成者)の資料をもとに厳選し、すべてオリジナルで作成されていることから、その質の高さは入試や海外留学、企業など社会で広く認められています。実社会で役立つ、「世界レベルの英語力」を測る資格試験。それが「英検」です。


 

「品格のある英語使用者」というパワーワードに笑ってしまいましたが、それともかく、これを読んで私の英検への考えが思い込みだったことに気付きました。つまり英検は、必ずしもグローバルな環境で地球市民として暮らす・学ぶ・働くためのものではなく、「他者から評価される」「社会で通用する」ためのものであり、履歴書に書いたり受験票に書くための資格試験である、と。

たまたま検定の対象が外国語であるだけであって、グローバルというよりはむしろドメスティックに活躍するために必要なものである、と。そりゃそうか。英検のスコアって日本以外の大学や会社に対しては何の意味もないですものね。


なあんだ。

 

みなさんが遠い昔にとっくに理解していたであろうことに、今頃やっと気づいていろいろ腑に落ちました。わし、なんでこんなにブログで書き散らかしたんだろう…?まあいいか…。でもやっぱり、海外受験組がいるんだから海外の住所で登録させてくれや、英検ナビよ…というのは言いたいので、メールで意見を送っておきました。

ちなみに英検に何か恨みがあるとかではなく、私にとってはアメリカに住んでいながら「日本的なもの」に触れる数少ない機会なので、英検を通じて日本のことをあれこれ考察させてもらっている、という感じになります。駐在家族の先輩のお友達が以前、「子供にとって英検は英語を学ぶというより日本的なものについて学ぶ機会」と言っていたのがいまさらヒットしております。

はたまた、日本にいた頃は仕事の一環でオンラインフォームを使ってクライアントのみなさまの情報収集をしたりSNS上でマーケティング的なものをしていたものとして、身につまされるというか、過去の自分も狭い範囲の人たちしか見ておらず、サービスの受け手に対する想像力が欠けていたんだなあとなんだか反省しています。違った場所、違った属性、マジョリティーではない立場に身を置くことで発見できることはたくさんあるんだなあと思いました。

すごくしり切れとんぼな感じになりますが、英検を通じて感じたことをしつこく書いた連載(笑)はこれで終わります。



次に書きたいなーと思っているのはルッキズムの呪縛と、人を褒めることについてです!