電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

ジョリヴェのTp.協奏曲二番について / 運指練習に関する覚書

トランペットについての話題。

最近ジョリヴェのTp.協奏曲二番をさらっている。これも先日も書いたおさらい会で本番にかける予定。

ジョリヴェのTp.協奏曲二番について

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私はこの作品が(現代楽器のための)トランペット協奏曲というジャンルの中で最高の作品だと思っている(ちなみに、私が演奏とか作品について「最高」と言う時は、聴いている時に最高な気分になるというのが正確なところで、原義通りの「一番」という意味ではない)。
「現代楽器の」という括りは重要で、バッハのブランデンブルク協奏曲二番やハイドンの協奏曲は素晴らしい作品だけれども、あれらは現代のヴァルブ機構を備えたモダン楽器のために書かれた作品ではない。現代の楽器とナチュラル管や有鍵トランペットとの間で単純に優れている劣っているだのと言うのは愚かしいけれども、広い音域に渡って半音階を自由自在に均質な音域で操ることが可能であるという意味では現代の楽器に軍配が上がる。そういった楽器の可能性を十分に引き出して作品を書いたという意味で、ジョリヴェのこの作品には独特の魅力がある。ミュートまで駆使していていろんな音が鳴るし、ジャズのフレーバーがまぶされているのもそうだし、打楽器のけたたましい騒音に対抗してのおどろおどろしい音響からポップな楽しい音楽や穏やかな響きに一瞬で行き来できるのはこの楽器ならではだろう。

この作品に取り組む

まずは楽譜を買う

という風に大好きな作品なので、吹いてみたいということはかなり前から思っていた。しかしまず楽譜が高い。8000円くらいする。演奏する訳でも無いのにこの額のものを買うのは酔狂だと思う。しかしそこに、友人がおさらい会というのを始めた。トランペットもいつまで続けるかわからないので、曲がりなりにもやりたいものはやってしまった方が死ぬ時に気分が良さそうだ。ヒンデミットソナタハイドンの協奏曲とやってみて、大した演奏も出来なかったが手応えもあった。しかし一方でソロ曲を吹ける状態を保つ大変さも感じた。いま勢いでやっちまうのが一番まともに演奏できる可能性が高い気がする。いいや、とりあえず楽譜買っちゃえ。何のために給料もらってるんだ。

とりあえず吹いてみる

楽譜を見るまでもなくわかることだが、この作品は私からするととても難しい。耐久力が要求されるし、音域は広いし、跳躍が多いし、音程も取りづらい。
ひとまずは「この長さの曲を吹けるか」を判断しようと考えて、とりあえず細かいところは適当にしつつ、通して吹いてみた。うーんまぁ、しんどいけど最後までいけた。打率はともかく、後半まで行っても高音域も当たる。ヒンデミットとか頑張って吹いたお蔭かな。本番かけれるかもなあ。かけよう。伴奏してくれる人を探したところ無事見つかった。ヘボな割に周囲の人には恵まれているなと思う。
とにかく、ちゃんとさらい始める。

しかし問題は運指かなと

トランペットと言うのは運指が合っていても間違った音が出る楽器だし、他の楽器ほど機動性に期待されていないので、トランペット奏者というのは運指がおろそかになりがちである。いや、自分がそうなだけか。とりあえず自分はそうだ。それでもまあ、ちょっと難しいなと思った作品は楽器を持っていない時も重点的に指をさらいまくったらある程度対応できて来たものだ。いや出来てなかったこともあったが誤魔化してきた。
しかし今回は本当にシャレにならない。何と言ったってソロだ。私が主役だ。そしてピアノと二人きりだ。しかし、いつものように電車の中で楽譜を眺めて指を動かしているものの、上達のスピードは遅々としている。なので、効果の出る運指練習について(今更、ようやく)本腰を入れて考えてみた。

どうしてこの曲の運指が出来ないのか

というと、今まで見たことが無い音のパターンがたくさんあるせいだ。半音階とか普通の長調短調のスケールとかアルペジオというのは楽器を始めてしばらくの頃にさらいまくるものだから、普通に続けていれば結構速く動かせるようになるものだ。普通の曲だったらそれを組み合わせていくだけだから、多少早くなってきてもまあ何とかなる。しかしジョリヴェのこの曲はそうではない。何の調かよくわからない箇所が頻発する。そうすると、もっと調性のはっきりした音楽だったらギリギリ出来るかな、くらいの早さの指が、笑えるくらい回らない。

運指の練習方法について考える

やれるものなら普通に吹いてたくさん練習したいなとは思うものの、なかなか音が出せる環境にない。仕方がないので、楽器を取り出して指だけ動かして練習してみた。一応指だけ動かしたら動くかなあと思ったものが、楽器でやってみると出来ないということは往々にしてある。しばらくやっていたところ、次のようなことに気付いた:

1. ピストンを押し切るまでの指の動きが遅い。
2. 普通に吹くよりは指だけでやった方がまだ正確に動く。吹いてしまうとやっぱり吹くための他の動作にも気を使わないといけない。

まあ当たり前と言えばそうだ。
現状ボトルネックは運指なので、指だけ集中して練習するのが先決だと判断した。

一工夫

確かクラウド・ゴードンだったか? が言ってたと記憶している方法を試してみることにした。ヴァルブのねじを軽く外してカチカチと音が鳴る状態にしてさらうというものだ。
試してみて分かったのだが、この方法の良い点は特にピストンが上がるタイミングで鋭く「カチッ」と音が鳴ることだ。そうすると、自分が思っているタイミングでピストンが戻っていないことに気付く。押さえることにどうしても気を取られがちだが、離すタイミングでも音が変わるのだし、これは問題だ。

という訳でまず、上記の状態にして、メトロノームに合わせて単に指を上げ下げするという練習をした。特にピストンが上がる時の「カチッ」という音が正確なタイミングになるように気を使う。次に、二本の指を同時に上げ下げ。
それが出来たら三本。

いやいや、こんなのですらちゃんと出来ていなかった。何年楽器やってたんだかと。まず基本的な動作が鈍いから、これだと難しいことが出来ないのは必然である。

それにある程度納得がいったら二、三本の指が互い違いに上下するようなパターン。片方の指が上がる時の音ともう片方の指が下がる時の音がばっちり合うように気配りする。じゃないと綺麗に音がつながらないだろう。鋭くカチーンと音を鳴らす。やってると案外楽しくなってくる。

これらが曲中の一番速い動きのテンポまで納得が行く精度で出来るようになったら、さらっている曲の運指パターンに移行する。本当ならスケールとかを同じ方法でまずやった方が良いかもしれないが、ともあれ……おっ。ちょっと前より良い感じがするぞ。

そういえば別の方法として

アダム・ラッパの書いた教本だったか、左手でも練習すると右手の運指が良くなる、といったことが書かれていた。
うーん、本当かな。それだったら両手を使う楽器の人は相乗効果で際限なく運指が出来るようになる気がするが。でも確かに、右手だと何となーくで済ませていたことが左手だと意識しないと出来ないので、脳みそに新たな刺激が行っているという気もする。そういえばソルフェージュのリズム系の課題は両手を入れ替えてやらされるなと言うことと結びついた。


とりあえずはこういう感じでやっていこう。

しかし、まだまだ目標のテンポに追いつかないけど。

――本番に間に合うのか!?

優雅な生活が最高の復讐

そういうタイトルの本があったな。読んだ本のタイトルすら忘れるのだが読んでいないのにこの本のタイトルは覚えている。あらすじすら知らない(から今調べたところだ……画家の夫妻を題材にとったノンフィクションらしい)というのに。

何となく私は SNS だのに自慢げなことを書きたくなることが多い。いま自分がどんな立派な仕事をしているのか、どんな美味しそうなものを飲み食いしているか、どんなものを見たか、どんな楽しそうな趣味を持っているか、どんな優れた人々と交流しているか、――よくよく見れば大したものでないとしても、精を尽くして飾り付けて語ったならば相応に輝いて見えもする、そのような現状であるとは思っている。時々そのように語ろうと焦がれる――いや、正直になるべきで、私はそういうことを時々ひけらかしている。単にそうしようと思った時の全てを表に出していないだけのことだ。
そのような欲求が私にあるのは生来浅ましい人間だということもあるのだろうけれども、いろんなところで低い扱いを受けてきたコンプレックスが染みついてしまっていて、そのせいで無意味に威嚇しようとしていることが多いのだ、というように自己分析している。小学校の部活で、中学校で、あるいは大学のサークルで、私はとてもイケていない奴として扱われていた。それぞれに関して理由のない話ではなかったのだけれども、「イケていないヤツ」というのは見えない焼印のようなもので、一度押されてしまった人間に対しては、あらゆる不当な扱いをコミュニティ内の多くの人間から受けることが許されてしまう。大学のサークルが本当にひどかった。何もかも否定して笑いものにして良い、そういう対象にされていた。私はずっと見返したいと思っていた。

そういう扱いを受ける場に居続ける必要はなかったのだし、むしろ避けるべきだった。本当の意味でちゃんと能力だとか人間性だとかを見据えて評価するなんてめんどくさいことを基本的に人間は他人に対してしない(誰もが誰に対してもそうしない、と言いたいのではない。そうするだけの興味を払えるキャパシティは誰にも限られている、ということである)のであって、一度こういう人間だと解釈してしまったならそのあと評価を変えたりするような几帳面なことは期待できないのだ。集団としての他人の評価という場合はさらに同化圧力も加わるので、一度決まった身分を覆そうとするのは基本的に不毛な戦いになる。

私はいま、私を否定するような人間とは付き合っていない。これは耳触りの良いことを言う人間とだけ付き合いたいという訳ではない。何かおかしいことについておかしいと言うことは根本的に人間性を下に見ることとは異なるのであって、仮に時々正鵠を射たことを言ってくることがあったとしても、後者の態度で向かってくる人間との関係は消耗することの方が多く価値に乏しい。

要するに、時々コンプレックスに苛まれて何か尊大なことを SNS の類に書いたところで、私が殴りつけたいと思ってきたような相手のところに伝わりなんかしないし、逆にそれを見るのは基本的に、もっと良好な関係を結びたい人々だ。書いて何になろう。落ち着いて考えてみれば、私にコンプレックスを植え付けた連中に届けたいのかすら怪しいものだ。

充実した気分でいるならそれ自体を肯定すればよく、人に告げる必要も別にないはずだから、だから私が何か自慢げなことを書きそうになった時にはただ――「優雅な生活が最高の復讐」と自分に向かって唱えるようにしていきたい。この言葉はもう少しカラッとしたニュアンスの言葉らしいから、カラッと唱えられる日が来ればなお良い。

三月

「観たもの」が昨年の8月で止まっており三日坊主っぷりを露呈してしまっている。そのうちまとめて書こうかとも思ってはいるけれども……。もっとも、助かることにというか? 2015年の3月はあまり観に行ったものがない。

観に行った展覧会

三菱一号館美術館の「ワシントンナショナルギャラリー展」に行った。印象派が中心だったけれど、きっちりとナビ派の作品を締めに持ってくる辺りがこの美術館らしい展示だと感じた。主に観たかったのはポスターにもなっていたルノワール、特に、その人が纏う魅力が絵に封じ込まれているような女性肖像画だ。視線に愛情を感じて幸福な気分になれる。

最初の週にあった本番

友人が主催するソロ曲おさらい会でハイドンの協奏曲を演奏した。ピアノの伴奏は学部時代の友人に頼んだ。彼女は学業も優秀だけれどもピアノもヴァイオリンも凄い技量で、私みたいなぺーぺーとは釣り合わないのだけれども、プログラミング実習なんかで一緒に苦しんだよしみでやってもらった。合わせをやっていて、何となく私が「こんなもんかなぁ」って思って次に進もうとしたら「こんな風にも出来るけれど」といろんな解釈を示してくれて、楽しかったし勉強になった。
もちろんソロを吹く自分の方が頑張る必要があって、客観的に言って満足すべき出来だったとは思わないけれども、ちょっとずつ進歩が出来てるかなという感触はあった。古典派の作品にこういう風に取り組むのは初めてだったけれども、自分なりに楽譜や資料を読んでいろいろと考えはした。半年前だったら考えているだけで終わっていたこともある程度は音に出来たと思う。

次の週

知り合いの演奏会があったのだが、わざわざこんなことを書かない方が良いのかもしれないとも思うが、行かなかった。というのも私が大好きな、ストラヴィンスキーの最高の作品の一つである(バーンスタインが述べたようにこの作曲家には最高の作品がたくさんある)ペトルーシュカを演奏するからで、昔一緒に演奏した人たちあまりに多く乗っているので仲間外れな気分になろうと考えたからだ。別に彼らにそんなつもりは無いだろうけれども、羨ましいを通り越して妬ましい気分になりそうだったから、家でCDを聴いていることにした。それもクラシックじゃないやつ。
参加した人たちのツイートをSNSで見るだけで気分が翳りそうになったので、この選択は正しかったと思っている。

さらにその次の日

あまりに不公平な乗り曲配分に腹を立てて辞めたオーケストラの演奏会があった。曲目は「エスタンシア」に「シンフォニック・ダンス」に、結構楽しそうだった。メインはスター・ウォーズのテーマ曲だったが、11月に私はジョン・ウイリアムズづくしのプログラムをやったし、これはまあ良いか。
このオーケストラの Tp. パートは団長の昔からの知り合いで固められていて、面白い曲は全て昔からの知り合いで回されていた。曲自体は面白いものをやるからエントリーするのだけれども私に来るのは一番最初の小曲ばかりだった。もう一人別の伝手で乗ったらしい人がいたけど、彼女にも全然曲が回っていなかった。ふざけるなと言って辞めてしまった。謝罪のメールすら来なかったから、厄介払い出来て良かった、というところだったのだろう。腕前や参加意欲に明らかな差があるならまだ理解できるが、他のメンバーに比べて別段技量が劣っているとは思えなかったし、私は欠席もほとんどしなかった。
私が辞めた時の演奏会のプログラムにはバルトークの「管弦楽のための協奏曲」が含まれていた。これは私がクラシックを始めて聴いた頃から聴いていた愛着のある作品だ。今でもよく聴く作品がこういう不快な記憶と結びついてしまったのは残念だ。
この演奏会についても、参加した人や聴きに行った人の話が TL に流れてきてちょっと気分に良くなかった。結局のところ勢いで辞める程度の団体だった訳だが、あまり気分がせいせいもしていないということに気付いて、もうちょっと良い納め方があったのかもしれないとは思っている。

何にせよ、要するにアマオケ関係の話題を追うのはストレスが多いのだ、と気付いたので、それを見ないための Twitterアカウントを作ることにした。

三月に聴きに行ったライブ

結局観に行ったのは二回で、見知った人たちのジャズライブが二回。一緒に演奏したこともある友人や後輩の演奏で、会った頃から彼らは凄かったのだけれども、そこからもずっと先に進んでいた。たぶん何年かかっても私が彼らに追いつくことはないのだろうと思うのだけれども、不思議と自分ももう少し頑張って音楽やったらもう一段先の楽しさが見えるんじゃないか、という風に思わされる。

ゆとり世代の文書作成法

現代人の大半はそうだと思うが、私は Word を憎んでいる。しかし私はゆとり世代なので、何もかもを TeX で書くことに支障を感じないほどのハードコアでもない。入力支援があったところで \begin{itemize} ... みたいなものを入力したくないし、もっと言えば見たくもない。ではどうしようということに悩むのだが、Markdown で書いて、人に提出する時だけ Pandoc + XeLaTeX で綺麗な pdf を出力する(docx も出せる)のが良いのではないかと最近考えている。
Markdown は良い。平文テキストに毛が生えた程度だからそのままでも見やすいし、検索もしやすい。正規表現で一斉置換だってかけれる、何ならバージョン管理ツールを使えば編集のログを取って diff で追っていけるんじゃないか……そんな長期に渡って管理するものを Markdown で書いたことはないし書くべきかもわからないが。ただ、重要なことは Word を触らなくてすむということだ。Word は機能が多すぎるし、何だか不審な挙動を見せることが多く、ゆとり世代にはとても使いこなせない。
それに、What You See Is What You Get な文書作成ソフトというのはおしなべて、ad hoc な書式設定の連発によってレイアウトの一貫性を破壊することが容易だ。分別がある良い大人ならそういうことはしないのかもしれないが、ゆとり世代というのはそういうことをやってしまいがちなのである。
Pandoc は何ていうかヤバい。この多種多様なマークアップ文書フォーマットをコマンドラインで相互に変換してくれるというソフトについて適切に表現する語彙がゆとり世代にはない。
XeLaTeX はフォントさえ対応していれば Unicode 文字を出力してくれるし、そのフォントについてもシステムにインストールされているものを参照してくれる。21世紀に入って15年も経ったのに TeX文字コード周りなんかで苦労したいと思わないゆとり世代に打って付けだ。
私はエディタとして Sublime Text を使っている。Emacs キーバインドを習得する根性が無いゆとり世代でも使えるからだ。これに Pandoc のプラグインを入れておけば、ちょいちょいとショートカットキーを叩くだけで、TeXスタイルシートに従った、少なくともレイアウトに関してはしっかりした pdf の文書が出来る。体裁だけでも何とか綺麗にしておけば、或いは内容の薄さをある程度誤魔化せるのではないか? ……などと希望を抱くのも、ゆとり世代ゆえである。

観たもの、2014年8月

展覧会「不思議な動き キネティック・アート展 ~動く・光る・目の錯覚~」 @損保ジャパン東郷青児美術館

http://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input%5Bid%5D=82788
キネティック・アートというのは初めて観たけれども、雑にまとめれば錯視などの視覚効果を利用したアートということになるだろうか。何となくこういうのは「作者の精神と向き合う」「作品の有機的な構成を楽しむ」みたいな(言ってしまえば19世紀的な)芸術観からすると「アート」と括ることに抵抗を覚えないでもないでもない。とても面白いのだけれど。逆に考えればこういうものも「アート」と扱われるようになったことはこの言葉の捉え方が変わったと言うことなのかもしれない。

映画「VHSテープを巻き戻せ」

VHS でしか観られない(他のメディアにはない)映像の世界について嬉しそうに語る人々がひたすら映っているドキュメンタリー。面白かったけど、白石晃士氏(映画監督『コワすぎ!』シリーズ)と坪井篤史氏(名古屋シネマスコーレスタッフ/VHS狂人)の禁断の秘蔵VHSの上映を含むアフタートークが強烈すぎて、映画よりも記憶に残っている。

Erimaj@コットンクラブ

ジャマイア・ウィリアムズの率いるバンド、各人の技量の高さはわかったがバンド全体としての方向性はいまいち。モコモコして何をやっているのか届かないPAのひどさ(バンドのやりたいことがはっきりしないからやりづらかったのかもしれない)とも相まって満足度の低いライブだった。上手くないなら歌わなくても良いのに。コードチェンジの少ないところでバンドとしてのサウンドのまとまりの無さが致命的だったように思う。

「フィオナ・タン まなざしの詩学」@東京都写真美術館

http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-2248.html
明示的なストーリーを廃しながら、被写体の背後にあるストーリーを強く暗示する映像作品の数々。異なる撮影手法によって最古の個人博物館を写した6つの映像を同時に一面の壁に映す「インヴェントリー」と、写真収集家の間をめぐっていくドキュメンタリー「影の王国」が特に記憶に残っている。「イメージを残す」ということに対する面白さについて考えることをエレガントに触発してくれた。
この展覧会に触れた記事があり、面白かったので以下に引く。
あらためて知っておくべき映像作家フィオナ・タンの美しき世界
http://www.cinra.net/column/fionatan-manazashi-report

サントリーサマーフェスティバル

シュトックハウゼンの「幻の作品」「暦年」(雅楽版・洋楽版)を聴きに行った訳だが、これが正直にいってあんまり楽しくなかった。演出は本当に寒いし音楽も冗長だった。もっと取り上げて良い作品はあるんじゃないかと思った。

靴に住む老女

一度さらっと読んだ J. M. Coetzee の Age of Iron を読んでいると、よくわからない文に行き当たった。

So now I have five people in the backyard. Five people, two dogs, and two cats. The old woman who lived in a shoe. And I didn't know what to do.

という二章始まってすぐにある段落で、これはお手伝いの Florence が子供たちを連れてきたことを受けた主人公が綴る言葉だ(この小説は一人称視点で書かれている)。
後半の二文が唐突でよくわからなかった。恐らく最初に読んだ時は何かの慣用表現だろうと思って読み飛ばしていたのだろう。くぼたのぞみ訳ではここに注釈がついていて「マザー・グースのもじり」とだけある。もう少し調べてみると Wikipedia のエントリがあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/There_was_an_Old_Woman_Who_Lived_in_a_Shoe
全体としては以下のような詞らしい:

There was an old woman who lived in a shoe.
She had so many children, she didn't know what to do;
She gave them some broth without any bread;
Then whipped them all soundly and put them to bed.

色々異なるバージョンもあるようだ。
知っている読み手には(そこまでよく知られているものなのか推測がつかないが)引用されていない後半の二文も想起させられるのだろう。実際には主人公は「パンも与えず、鞭でベッドに追い立てる」ような残酷な仕打ちはしないのだが、冗談めかしているのだろう。

観たもの、2014年7月

いまさら。

東京シンフォニエッタ定期演奏会

曲目はジョージ・ベンジャミン、マグヌス・リンドベルイ、ジェラール・グリゼー「周期」、ヤニス・クセナキス「ジャロン」。
残念ながら聴けたのは休憩後から。元々目当てはその休憩後の二曲だったこともあり、それでも十分に満足感のある演奏会だった。生演奏で聴くグリゼー作品は凄い、スペクトル解析に基づいて作られたオーケストレーションの中で各楽器同士の音の境界は曖昧になり、空気がドロドロに溶け出していくような印象を与える。もっと演奏機会が増えて欲しい。クセナキスの「ジャロン」の中のクラスターはさまざまな楽器・音高の組み合わせによるサウンドの違いが探求されていて、飽きさせない。録音ではなかなかわからなかった。
東京シンフォニエッタは流石にエキスパートで、安心して聴いていられた。

調布音楽祭「ブランデンブルク協奏曲

BCJ の実演に触れるのは初めてだった。編成が曲ごとに大きく変わるこの曲集を六番から逆順に演奏していっていた。こうすると段々編成が大きくなっていく。序盤の曲の編成にはこの会場は大きすぎた。前から七列目辺りで聴いたのにも拘わらず、かなり遠くて薄い響きだった。
鈴木雅明氏の見事なソロが堪能できた五番、寺神戸氏の言葉を語るようなアーティキュレーションに聴き入らされた四番が印象的だった。でも特に素晴らしかったのは一番。鈴木氏の解説によるなら、この曲ではホルンは王をダブルリード楽器は民を表していて、曲の最初では足並みの揃わないそれらが最後には調和して共に踊る、ということだった。ホールで聴いたこの日の演奏はまさにその通りだった。特に一楽章なんて、ごちゃごちゃしたよくわからない曲だなぁとおもっていたものだけれど。

新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会

新音楽監督のメッツマッハーは就任した最初の年をの演奏会を「ベートーヴェン+ツィンマーマン」という構成で固めてきている。ツィンマーマンは現代音楽の作曲家の中でも、脚光を浴びてきたとは言えない人だと思う。

ハーデンベルガー氏のトランペットはただただファンタスティックだった。この作曲家を特徴付ける多様式主義による急激な曲調の変化に寄り添い、微妙な感情の揺らぎを描き出していた
ハーデンベルガーのトランペットを聴いて、もう元は取れた、帰っても良いかな、といったくらいの気持ちで休憩中はいたのだが、後半の「英雄」の最初の二つの和音を聴いた瞬間にそんな考えはどこかへ消えた。新日フィルからこんなに重くそして引き締まったサウンドを聴いたのは初めてだった。基本的なテンポはピリオド系同様にかなり速いが、ところどころで大胆にテンポを動かす
任期に就いたばかりなのにメッツマッハーがこれほどオーケストラから充実したサウンドを引き出していたのは驚きだ。このスタイルのベートーヴェンがこれからしばらく聴けると思うと楽しみ。

展覧会「ジャン・フォートリエ展 絵画なのか」東京ステーションギャラリーにて

前回のエントリで触れたもの。

新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会

この演奏会では演奏会場を間違えるという大ポカをやらかしてしまい、一番楽しみにしていたツィンマーマンの「私は振り返り太陽の下で行われた全ての不正を見た」を聴き逃してしまった。日本初演の、当分は再演のなさそうな作品……大いに悔やまれる。演奏会場を間違えたことは実のところ一度ならずあったが、ずっと楽しみにしていた曲目を聴き逃したというのはあまりなかった。気を付けねば……。
さて、そんな次第で間に合ったのは結局ベートーヴェンの第五交響曲だけだった。でもこれがまた充実した演奏だったので、けっこう納得して帰った。
基本方針は前週の「英雄」と同様。一楽章はかなり早くてオケの方もついていくのが大変そうだった。あとこのオケのトランペットの方はいつもそうだけど、もうちょっと大きな音を出して欲しいななんて思ったりする。まぁでも納得の演奏です。聴き飽きるほど聴いたはずだけど、やっぱり四楽章に到達したときはジーンと来る。短調の楽章でのとても暗く深い響きもまたそれを引き立たせていた。

映画「リアリティのダンス」

ホドロフスキー監督の最新作。前月に観た「エル・トポ」には本当においてけぼりにされてしまったから少し身構えて行ったけれども━━確かに強烈なイメージに満たされていたものの━━拒絶するようなところはなく、暖かく深い人生賛歌だった。
この映画はとても印象的で二回観に行った。また別に書こうと思う。

映画「パラダイス」三部作

このシリーズで描かれるのは「パラダイス」というよりも「パラダイスを求める人々の苦闘」。ドキュメンタリーてはないけれども、徹底的な取材と柔軟な製作手法の上に物語は現実の手触りを獲得している。
無機的な冷たさを感じるカメラワークは効果的な時もそうでない時もあったように思う。

展覧会「バレエ・リュス 魅惑のコスチューム」新国立美術館にて

壁を取り払った展示室の一面に衣装が並んでいたのは壮観だった。しかしこういうものって近くで観るようには作られていないんだなぁとは思ってしまった。カタログも買ったけれど、こちらの方が照明とかうまく当てられてて綺麗だ。
バレエ・リュスにもやっぱり成功した作品とそうでないものがあったのは当然ながら、あまり知られていない作品の衣装がたくさんあったので興味深かった。

展覧会「デュフィ展 色彩のメロディー」Bunkamuraザ・ミュージアムにて

たまたま渋谷で時間を潰す必要が出てきて観に行ったのだが、これがとても良かった。
この人の作風の特徴はは輪郭線から解放された色彩の塗り方にある。描かれた対象の中にあるものが溢れ出るかのようだ。色彩の塗り方は大まかにものを捉えて荒々しくすらあるけれど、緻密な輪郭線がその上に乗って形をくっきり浮かび上がらせることで繊細さとエネルギッシュさが両立されたえも言われない表現が産まれる。
特に覚えているのはパリの四季を描いた四部作、そして科学の進歩の歴史を年代記風に描いた巨大なフリース画風の「電気の精」。後者に溢れる文明礼賛は今日の目では何とも無邪気に映るが、眺めているとここに籠められた夢に対する共感が芽生え、そして素直に受け止められなくさせる人類の歴史の流れにあわれを感じる。

映画「プルガサリ

これはだいぶと昔の映画の再上映。北朝鮮の怪獣映画。
当時としてはかなり本気の特撮だったようだけど、それでもショボさは否めない。はっきり言って爆笑シーンばかりだった。

映画「収容病棟」

どう考えてもこれ治療施設として機能してないよね、という中国の精神病院のドキュメンタリー。よくこんな施設の撮影許可が降りたな。収容されている人は精神病の段階を問わず同じ処遇で、のみならず思想上で反動的とされた人までいるようだった。中国の暗所がばっちり出てる施設である。
このワン・ピンという人の基本方針のようだが、音楽などは何もつけず、ただ素の姿を写し続けようという方針で作られていた。食事のシーンも暴れるシーンも排泄のシーンも垂れ流し。ただ画面に映される事実に圧倒される。

映画「GODZILA」

この新しいアメリカ版ゴジラは評判も分かれたようだけれど、この映画の作り方は人間から観た怪獣の抗いようもない力を描き出すという意味でとても効果的だったと思っている。「怪獣の全貌が見えない、暴れ方が地味」?だって普通にビルの隙間に立ってたら全体像なんか見えないじゃん!見えないけど巨大さだけはわかる、ってめちゃくちゃ怖いと思う! って。
いろいろ突っ込みどころのある日本描写とか原子力施設とか、フリスビーみたいに飛ぶ F22 とか、そういうのはご愛嬌。