泣くほどでもない曲聴く夜が

実は1番愛おしかったりする

オタク、紫の海を泳いだ

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Love Yourselfのコンセプトって実は1番辛い試練だったのかもしれないと終わってみておもった。私たちは元来から自己肯定の低さがある(まあ中にはかなり高いマインドの人もいるだろうが)。

自分を好きになれないから自分ではない誰かを求めている。それはアイドルだろうがアーティストだろうが恋人だろうがパートナーだろうがそこに一定の負い目の感情が無きにしもあらずだということ。‬だって考えてみてくれ自分を愛していただろうか自分を愛してないから愛してくれる人を探すのではないか。弱くて難しい自分の存在に負い目を感じて、誰かを求める。負い目のある私もしっかりと見てくれる、しっかりと忘れないでいてくれる、そんな人を探して三千里。私の場合、それはたやすく、そしていつだって優しい防弾少年団であった、それだけだ。君の推しは優しいか?そうか、ならばそれは愛だ。

 

とまあ、こんな具合誰かに愛してもらってようやく愛を知るのが世の常。誰かに愛してもらえたら、誰かに笑って大丈夫だよと言ってもらえたら、抱擁をして、頬をつけて、優しい声音で君の味方と言ってもらえたら…。そしたら私は私を好きになれる気がする。君が好きになってくれた私を私は愛そう。

そんな具合に自分を愛することの手探りが未来永劫死ぬまで追いかけっこのように続くのは人間の過ちであり、宝だと思うのだ。

 

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私たちの旅はもうずっと前から始まっている。

愛して愛され愛をいただく旅路の今がただ、このツアーの終わりだっただけ。きっと、未熟なファンであっても、それは彼らのレスポンスから愛をしっかりと確実にもらっていた小さな存在の私。彼らが自分を愛そうと言うテーマになる前から実はきちんと自分を愛する旅をしていた。

それは防弾少年団を愛する旅とイコールだからだ。

私はこのテーマ以前からしっかりラブマイセルフをしていたよ。ナムジュナ。

 

でも、彼らはどうだっただろう。

ラブユアセルフとともにもう一つの対になるテーマ、ラブマイセルフ。

自分を愛してあげるテーマの枠組みにそれ以外の万物全ての存在も愛を耕して、愛を植えて、愛に水を与えて、成長させなければならない。辛い時、苦しいとき、自分を1番に大事にしてあげないといけないのに、それは何かの犠牲になる。

 

本末転倒、テーマに不忠実。彼らにとってラブマイセルフを考えるとともにラブユアセルフにも手を伸ばし、ラブユアセルフを尊重するためには自己犠牲が必ず付着する。

こんな人生って…とおもうこと。こんな人生なんかに…とおもうこと。口に出さずともそう思えて唇を震わした夜が何度あったことだろう。

それでもやっぱりラブユアセルフなのだ。何が正解かわからない。ただ花様年華のような足掻きやもがきの中で見つけた正義を実は今度は、茨の道に咲かせないといけないのだから。

それは自分の心に咲かせて、そして誰かの心に種を植えるのだ。

神様にしか見出せない、修行じゃんそんなの。みんなは自分を愛するためにあなたたちを追うのに、あなたたちは私たちを救うためにあなた自身を愛するんだね。それがコンセプトツアーだからしょうがない。そう言ってしまえばそれまで。愛そう全て。あの時の迷いもあの時の過ちもあの時の恥ずかしさも。赦免しよう全て。その心に咲かせた花の名をラブユアセルフとしたら、それを育てていこう。

みたいな。神か?みたいな。あたしにはできん。だって苦しいもん。苦しいし恥ずかしいことや辛いことまで思い出す旅なんかやりたくねえもん。誰かに投げられた石を、今度は手に取ってそれを宝物として道を進むってことじゃん。ツレ〜!そんなの重てえし捨てていきてえよオタク…

だが違う。それがテーマなのだ。脇道でも散歩道でもない。本筋ど真ん中の彼らの正道なのだ。重たくて気が滅入って肩こりになるものも背負うのが彼らが決めた今回のコンセプト。

 

自分を愛する時間の旅が始まってすぐジョングクの怪我やさまざまなことがあった。ツアー最後にはメンバーのありとあらゆる噂が噂を繋いで正直誰も彼もが疑心暗鬼。(っていうかそもそも日本ツアーのときかなりメンタル擦り切れる思いしたよねオタクたち。それはいつか思い出になったときっと笑って過去になるんだってあのとき泣きながらラブマイセルフをやっぱり聴いていた。どびしゃびしゃに泣きながら。だって、信じたかったから。話がそれたな。なんの話?そうそう、コンセプト。)

その時のコンセプトはラブユアセルフ。

何がラブユアセルフだよ、適当なことをぬかすなよ、これ以上彼らにどんだけ愛をもらうつもりだよ、どんだけ彼らに愛をすがって求めるんだよ。そうとさえ感じた。

 

けど、それがラブユアセルフなのだ。

彼らが決めたラブユアセルフだったのだ。

辛くても、孤独でも、寒くても、信じてもらえなくても。それでもそれがラブユアセルフ。ラブマイセルフって何?ラブマイセルフってどうするのさ。から始まった旅路。

マイからユアに変わるのは自分がちゃんともらったから今度はあなたからという投げかけ。答えが見つかったのかな。わからない。正直マイでもユアでもセルフが彼らの中にあったかも知らないし。せめてマイセルフだけはあってほしいと望むけれど、遠い場所で微かに微笑むその仕草から彼らの中にある砂漠に水があるのか芽があるのか花の香りがするのか実際わからない。

 

っていうか彼らのセルフが何なのか、膨大な景色とデータの中で生きている7人のこと知りませんけれど。

けど、ツアー最終日、ソウルコンファイナルで流したナムジュンのあの涙の重さを、ジョングクの震わした声の叫びを、ソクジンの終わりを見据えた寂しい温度を、私は私自身に問うてみたときそれが答えなんじゃないのかなっておもう。

自分を愛せたのか、前よりももっともっと大切に、尊重し、敬意を表することができたのか、それを探す試練に答えが出たのか、このコンセプトはだからこそ辛く長い試練だった。そして簡単に答えを見つけさせてくれない戦いだった。のだと思うだよ。

 

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簡単に見つかる答えなんかじゃないだろうし、簡単に見つけたい答えでもないだろう。でもあのときのナムジュンの涙、言葉、眼差しは葛藤の中に見つけた唯一の雫だったんじゃないかな。そしてこのツアーのすべてはラブユアセルフの目的地はナムジュンやメンバーの瞳の中で瞬く紫の光の海だったんじゃないだろうか。

紫の光の数だけ、感情があって、怒りや悲しみや喜怒哀楽があるのに、どうしてかあの空間の紫の光たちはみな一斉に、とある7人に向けていた。

その気持ちは人によりだけれどそれでも《希望》に満ちていた。何十万もの光が皆一斉に7体という人類へ向けて降り注がれていたわけだ。

ラブユアセルフは彼らだけが私たちに提示して向けていたのではない。いく数もの紫の塊の灯火が、彼らへ向けたメッセージでもあった。そしてそれはどの公演でもお互いの矢印が付になっていた。

 

お互いがお互いに投げかけていたラブユアセルフ。あなたたちを愛しているから、あなたたちもあなた自身を愛していてね、約束しようよという目的地。

何も最初から穿ったことは考えなくてよかったのだ。物事の根本は、結構単純な事柄で占めていた。普通にアンタたちが好き、私を見てくれるアンタたちが好きな私が好き、私が好きなアンタたちもアンタたち自身を好きになってちょうだいよ。それだけ。

答えのないようなコンセプト、けれど確実に終着に向かったコンセプト。私は私に問う。私は私が好きだろうか。私は私を好きになれるだろうか。

 

多分好き、彼らが彼らを愛しているから。