読んでつくる知の体系

読んだ本、お勧めしたい本を紹介。ノンフィクションが多め。

人はいままで読んだ本でできている 『教養読書』福原義春

 

私たちはいま、人がどう生きてきたかを本によって知り、何千年も積み上げられてきた知性を学び、その体験や、いかに多様な思想を持つか、いかに想像と創造の能力を持つかなどのすべてを知ることができるようになった。

 資生堂代表取締役会長を務め、生粋の読書好きとして知られる筆者の福原義春さん。50年に及ぶ仕事人生の中、窮地に陥ったことも一度や二度ではない中で、進むべき先の判断を考えるとき、古今の名著に支えられたという。

 

「教養」という言葉

本書のタイトルにも使われている『教養』という言葉、現代では「教養をひけらさす」といったように、教養が知識の多さであるかのように誤解されている。

しかし本当に大切なことは、情報や知識や経験を糧にして、その人が全人的にどのような人間になれるのか、ということです。人間という入れ物の中で知性(インテリジェンス)に変換された「知の遺伝子」が教養だと筆者は考えます。冒頭にも挙げた言葉のように、何千年も前に書かれた知識や思想の集積である「本」を読むことは、教養を身につける第一歩になるのです。

 

古典の大切さを学んだ

第3章の「主食を食べなければ教養にならない」で、「無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら?」という質問があります。ここで分厚い本という比較で『聖書』と『タウンページ』を挙げます。『聖書』はそれが生まれるまでの永年におよぶ人々の営みや、その中から生まれた英知を編纂しているから、人間の知恵がぎっしりと詰まっている。それに対し『タウンページ』には、新しいビジネスのアイデアや、推理小説の新たな構想が思いつく可能性があります。タウンページにさえ、無限の情報が詰まっています。

今の例を挙げたのは、本に対する姿勢の違いがよくわかります。本をただの情報源としてみるのか、それともそこから人生の何かを学ぼうとするのかの差が。またいわゆるハウツー本と、古典とを比べてみての違いともいえます。

ハウツー本も時には役立つと思っているが、それはポテトチップスやチョコレートのようにおいしいけれど、あくまでも副食であって、やはり主食を食べないと健康な体は作れないと考えている。主食にあたるのはもちろん先人が深い考えで書いた古典、あるいは人間や物事の本質を見極めようとする本といえる。

情報を蓄えただけでは「雑学」の域を超えることはできません。「雑学は『一問一答』的に設定された問いに『正解』を与える能力のことである。『すでに知っていること』を取り出すことしかできない。しかし教養は『まだ知らないことにフライングする能力である。』」と評論家がお書きになります。一問一答では答えられないような、人生とは何かを探る上で、人間の本質を見極める能力が必要です。それには、即効性があり、そのときは効き目がある本より、血となり肉となる古典本を読むことが大切なのだと学びました。

 

本書で何度か登場する、『ラ・ロシュフコー箴言集』は読んでみたいと思います。

「〇〇という方法で本を読もう!」など読書法について書かれた本ではなく、読書をすることによって得られる「何か」について深く書かれた本です。

 

最後に素敵な文があったのでご紹介して終わりにします。

人はいままで読んだ本を編集してでき上がっている。

そう考えると、これからでも、本を読むことで、いまよりも深みのある自分を編集することができるのではないか。

良書と出会うことで何者にでもなれるのだ。