いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

6年ぶりにiPhoneの機種変更をして、少しだけ切なくなっている。


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 1か月前に、久しぶりにスマートフォンの機種変更をしました。
 iPhoneXSを6年くらい使っていたのですが、バッテリーももたなくなってきたし、新しいゲームもやりたいし、スマホアクセサリー売り場に行っても、XS用のケースを探すのが難しくなってきた。
 僕はスマホ(パソコン)大好きだし、本と文房具とパソコン・スマートフォンは基本的に「使っていて気分が乗るような、好きなものを多少価格が高くても買う」ようにしているので、今回はiPhone15Proにしたのです。あと半年待てば次のが出るかな、とも思ったのですが、XSの挙動がかなり不安になってきてもいたので。

 で、買い換えてみての、率直な感想。

 うーん、ヌルヌル、サクサク動く!さすが最新機種!
 ……ってことはほとんど実感できていません。
 性能的には、ちょっとできないゲームがあるくらいで、XSでとくに不便は感じていなかったし。むしろ通信環境の影響のほうが大きいのかも。

 いまのスマートフォンの機種変更時の引き継ぎ機能って、ものすごく優秀で、XSから15Proでも、ほとんど同じ環境、同じ画面で使えています。
 金融機関などのアプリは、再設定やパスワードの再入力を要するものがいくつかありましたが、それ以外は、本当に、引き継ぎ後は「前といっしょ」なんですよ。
 すごいなこれ。
 でも、これなら、XSをメンテナンスして使うか、最新じゃなくて型落ちの安くなった数年前への機種への変更でも良かったような気もしています。


 20万円以上かけて、得られたものはTypeCと高性能(らしい)カメラ。急速に存在意義を失ったライトニングケーブルの多量のストック。

 いやしかし、写真撮らないんですよ本当に。いや、正確には撮るんですけど、僕が撮る写真って、株取引の記録とかパスワードや仕事関係の会員番号の備忘録、駐車場で車を停めた場所を忘れないためとか、食べたラーメンくらいのもので、こんな高性能で出っ張っているカメラじゃなくても十分でした。
 アプリも『デス・ストランディング』とかやろうかな、と思っていたのですが、そもそもスマホでやるゲームをやる習慣がほとんどなく、スキマ時間にはKindleで本を読んでいることがほとんどなのです。
 メールとAmazonとX(Twitter)と「はてなブログ」が使えて、ラジオが聴けて、YouTubeが見られればいい人間には、宝の持ち腐れ感がつのります。

 
 あらためて考えてみると、僕は50年くらい前に生まれて、パソコン(マイコン)の劇的な進化とともに人生を過ごしてきたのですが、最初は「方向キーを押すと、画面のキャラクターがその方向に動く!」ことに感動していたのです。それまでのテレビ(画面)って、視聴者にとっては受動的というか、「放送されているものを見るための道具」であり、こちらから何かを働きかけるものではなかったから。
 最初にグラフィック付きのアドベンチャーゲーム、『デゼニランド』とか『惑星メフィウス』で遊んだときには、「画面に絵が描かれて、自分で物語を進められる」ことにワクワクしましたし、『WILL』(1985)というゲームのタイトル画面で「女の子がまばたきをしているアニメ」には、のけぞって驚きました。

うわっ!ゲームで、キャラクターが動いているっ!って


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 コンピュータ、とくにホビーで使われたコンピュータの歴史って、最初は人間がやりたかったことにコンピュータの機能(性能)が追いつかず、それが、機械の進化とともに、どんどん実現されていく面白さがあったのです。
 『ドラゴンクエスト』のデータ量は、今のスマートフォンの普通の写真1枚分よりずっと少ない、という話があります。
 そして、そんな制約があったからこそ、そのなかでアイディアを振り絞っていろんなことがなされていきました。

 しかしながら、今の僕は、自分がやりたかったこと、が、コンピュータ(スマホ)の性能に追い抜かれてしまったと感じています。
 それはそれで、本当にすごいことなのだけれど。

 冒頭のエントリでは「Apple製品の魅力がなくなった」ことについて、多くの人が意見を述べているのですが、Apple製品に限らず、「コンピュータには、こんなことができるのか!」と驚く機会はかなり減ってきた、というか、むしろ、それを利用する人間側の想像力・発想力の限界、みたいなものを思い知らされつつあります。

 インターネットは、僕にとっては「最後にして最大のコンピュータによる革命」だったのだけれど、そこから生まれてきたものは「買い物が便利」「ホテルやレストランの予約に電話をかけなくてもいい非コミュにとっての福音」「ブログとか書けてささやかに承認欲求が満たされた」というメリットとともに、「結局、使うのが人間である限り、これで世界を平和にしたり、人類の最大多数の最大幸福に繋げたりはできないな」という「諦め」だったような気がします。
 いまや、「機械の性能」よりも「使うのが人間である」ことが、コンピュータの進化のボトルネックになっている。


 どんなにカメラの性能が上がっても、僕には撮りたいもの、撮って世界に見てもらいたいものがない。
 誰にでも投稿できる「機会平等」がもたらしたものは、「結局、見せたいものがなく、見向きもしてもらえない自分」だった。
 それはそれで、他者が提供してくれたコンテンツで、それなりの束の間の幸せをつなぎあわせて、死ぬまで生きてはいるわけですが。
 
 まあでも、妄執みたいなものは、なかなか捨てられないよね。それこそもっと安いスマートフォンでも今の僕には十分なのは客観的に見れば明白なのに、ハイエンドな機種に、どうしてもこだわってしまう。スペックを要するゲームをやるわけでも、動画配信者でもないのに。

 新機種発売直後に、新しいiPhoneを、飲み会でみんなに見せびらかす人が少なからずいたのは、そんなに昔のことではありません(でも、もう10年くらい前かな)。
 スマートフォンが「普通の家電」になっただけではあるし、僕自身が、以前ほど外界への興味がなくなったことの方が大きいようにも思います。
 子どもたちは、今でも、スマートフォン大好きだしね。
 物心ついたときから、インターネットやスマホがある人生って、どんな感じなんだろうな。


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