書くザトウクジラ

人類の幸せから、仕事の愚痴まで。

最高の日も最低の日もない

最高はない、そうかといって最低もない。それは結局、人生を振り返るときでないと分からない。終末のときでないと答え合せできない。長い目で見れば、当時最低なことが、振り返れば最高につながる出来事だったということもあるだろう。傘を忘れて雨に降られ、全身ずぶ濡れの日。最悪と呟く。ぜったいそんなことはない。人生における最悪なんてそんなものではない。だから多少のことが起きようが人は前を向ける。毎日布団から跳ね起きるように。人は地球上で唯一自分の意思で起床できる動物だと思う。人生という時間を切り拓き、時間を生み出せる存在である。シリアスになったり、楽天的になったりもできる。いっけん困難のように見えて困難ではない。毎日が人生のスタート地点である我々は強い生き物だ。

頭空っぽになるまで書き続ける

最後空気になるまで、ひたすら書き殴ればいい。心の中のモヤモヤをすべて吐き出す。そうでもしないと、本音と建前の日本社会で生き抜くことはできない。息苦しくせせこましい人間関係のなかで、書くことは「酸素ボンベ」のようなもの。二酸化炭素しかない有毒な海にある、唯一の酸素。たとえば何かを話すとなるとハードルは高まる。話を聞いてくれる他者が必要になるからだ。しかし、書くことは限りなく一方的行為で、なおかつ自己中心的であってもなりたつ奇跡の行為だ。我々はもっと、書くことに頼っていいし、お気に入りのペンとノートがあってもいい。

人生という業務、人という駒

日々やることで頭が埋め尽くされていると、余裕がなくなる。息がつまる。きっとそれは、人生に疲れたんじゃない、人生という業務に疲れたんだと思う。自分の代わりはいくらでもいるという錯覚が、自分を会社の駒と勘違いさせる。心は溶かされていく。だんだん原型がなくなっていく。この場合の特効薬はない。だが、人間は強い生き物で、時間の経過とともに我に返ることができる。日にち薬にまかせてしまえば、なにもかも全力で取り組むことがバカらしくなる。過去の自分の慎重さに笑う。人生という業務?人という駒? 望むところだ、貴様は何様だ。深刻になりやがって、悲劇のヒロイン気取りか。心の中の偽りの自分に問いかける。なるべく高圧的に。

人生じゃなく考え方を変えたい

人生を変えるなんて、だいそれたことは成し遂げなくていい。考え方だけ変えたいのだ。だがそれも相当な難行だ。ある程度の成人であれば、とくに考え方なんてものは凝り固まっている。脳にこびりついている。ある本で脳の性質上、繰り返しを好むらしい。MP0で実行できるルーティンは大好物。脳はめんどくさがりで、リスクを良しとしないのだ。だが意外にも、考え方が変わるきっかけは日常にいくらでもある。ある本とか、ある人とか、あるドキュメンタリーとか。材料は申し分ない。まずは、「考え方は変えられないもの」という考え方を変えよう。「考え方は変えられるもの」とする。これも立派な人生における革命だ。

きょうがいつでも人生の頂点だ

毎日、人生のピークを更新している。思い込みじゃなく、腹の底からそう感じる。たいへんだったころを振り返ることも、たのしいこれからの未来を想像することも同じ意味をもつ。なぜなら、そのときの私はいつでも同じ表情をしているから。今か、今以外か。今はいくらでも変えられるが、今以外のことは髪の毛一本変えられない。過去を受け入れることは、未来を引き受けること。そして、今を懸命に生き抜くこと。毎日に最高の瞬間を。そのためには少しでも気分よく。他人にやさしく、自分にやさしく。