masamasa41’s diary

日々、考えている事をメインに書いていきます。

生きることが辛い日々を乗り越えた3つの方法

これから、生きることが辛い日々を乗り越えた3つの方法を、私の経験談も交えて書いていく。


私自身、今まで自殺を考えたことが何度もある。


正直、生きるのが辛く、死んで自分の存在を何もかも消し去って楽になりたかったからである。


なぜ、自殺を踏みとどまったのかと言うと、死ぬのが怖くて、死にきれず、その選択を選ぶことが何よりとても悔しかったからである。


私が、最初に本気で自殺を考えたのは高校を卒業後、実家で浪人生活2年目を送っていた19歳の時である。


それ以前にも、私の体は女性だが性自認は幼い頃から男性で、その葛藤から死にたいと思ったことが何度もあった。


父は「東北大学以下は大学じゃないから、行くな。」と、何度も言ってきて、そのレベル以下の大学を受けさせてもらえなかった。


というのも、父自身もその当時の難関大学を卒業しており、祖母の甥は東京大学を卒業していたりと、そのレベルに入って当然という雰囲気があった。


生まれてから、12年間児童養護施設で育った私にとって、それはとても高い目標に感じた。


それと同時に、頑張る気力が失われていった。


その当時は私と祖父と父の3人で暮らしていた。


父子家庭で、経済的にも余裕が無かったので、授業料がどこから出るのか不安なまま就職もせずに実家のりんご農家を手伝いながら、浪人生活をしていた。


私が高校を卒業した2011年は、リーマンショックの時期でもあったので、高校を卒業後に正社員の就職先を探すには厳しいものがあった。


現役時はセンター試験を受けたが、どこも受験しなかった。


浪人1年目の2012年の18歳の冬に、広島大学経済学部の夜間主を受けた。


夜に大学に通い、昼間に働いて授業料を稼げば何とか自力で大学を卒業できると考えたからだ。


しかし、センター試験の点数がボーダー得点のあたりで、2次試験の英語で点数を取りきれずに、落ちた。


レベルの高い大学なだけに、そう甘くはなかった。


浪人生活を送っていた時に、家の掃除から洗濯、そして料理まで家事を全て私が担当していた。


ことある事に、「料理の味がどうだ。」とか、「ここの掃除ができていない。」などと、父や祖父から言われ、これから受験をしようとしているのにまるで自分は家政婦か何かなのではないかと思い、ひどく心が疲弊していった。


浪人生活2年目の19歳の時に、父や祖父から「東北大学以上に行けないのなら、家の家事でもして過ごしたらいいのではないか。」と、言われた。


正直、心の中では「まだ、挑戦したいことも沢山あるのに、こんな所に居てたまるか。」と、強く思った。


また、「最初から、そうしたかったのではないのか。」とも、思った。


それと、同時に八方塞がりのような気持ちにもなり、ひどく焦った。


本音を言えば、実家にも居たくなかった。


なぜならば、幼い頃に虐待を受けた父の側から離れたかったからである。


その当時も、父から威圧感のようなものを強く感じていた。


どうしようもない状況に追い込まれて、「このまま死んで楽になりたい。」と、強く思った。


部屋に包丁を持ってきて、自分のお腹に刺そうとした。


けれども、怖くて刺せずに死にきれなかった。


翌年の2013年の冬に受けたセンター試験は、完全に無気力になって、2日目を受けずに帰って来た。


悔しさと、やるせなさと、どうしようもない気持ちで、あの時は涙が止まらなかった。


その後、誰にも依存せずに自分で大学を卒業することを決め、関東にある製麺工場でパートとして働き始め、1年間学費を貯めた。


そして、その後そこで夜に働き、昼に大学に通う生活を4年送り、何とか私立の中堅私大を卒業することができた。


ここで、1つ目の方法は思いきって行動を起こすことだ。


行動を起こすことで、道が開けることもあるからだ。


私が再び強く自殺を考えたのは、26歳の時だ。


同じ職場で、好意を寄せていた女性が気がついたら私の男友達と付き合っていたからだ。


その女性が「相手は誰でも良いから、早く子供が欲しい。」と、以前から言っていたことにも、ひどくショックを受けていた。


その男友達は、私の友達をビッチ呼ばわりし、私に対して、しつこく付きまとってきたので、あまり良い印象を以前から持っておらず、正直嫌いだった。


私が好意を寄せていた女性と、その男友達が初めて出会った時、その男友達は無職で30代半ばになろうとしている今も、定職につかずフリーター生活を送っている。


死にものぐるいで大学を卒業し、学生時代の陸上競技では市で5位、県大会のリレーでは7位、成績も学年でビリから単科目だが1位になった自分にとって、その男友達に女性を横取りされたことはとても屈辱的に感じた。


それと、同時にその男友達に対して激しい怒りに襲われた。


どうやって自分を肯定したら良いのかも、分からなくなってしまった。


紹介するのなら、もっとまともな人を紹介すべきであったと後悔した。


一方、他者のことをそんな風に批判的に見てしまう自分にも嫌気がさした。


交際を知った日から、眠れない日々が続き、食事もほとんど食べれなくなってしまった。


一人で居る時に、不安定になり泣き続ける日々が続いた。


ボクシングをしていたが、ジムに行く気力も無くなってしまった。


何よりもその女性と色々とあり、「気持ち悪い。」と言われ避けられたことは、とても辛かった。


もしも、その女性と男友達との間に子供ができたら、自分はその子にどう思われるのかと考えるとさらに辛さが増した。


そんな生活を送り、精神的に限界に達したある時に無意識にホームセンターで練炭を買いに行く自分がそこには居た。


その練炭を焚いて死ぬことを何度も考えた。


休みが来るたびに、今日は死ぬことができると思うと気持ちが楽になった。


実際にお風呂場で練炭を焚いて、意識がぼんやりとしてきた所で、我に帰り焚いた練炭を消したことがあった。


死の恐怖もあったが、それ以上にここに住んでいるマンションの人や、職場の人や、父や、親戚の人など多くの人に迷惑をかけてしまうと思ったからだ。


今は思いきってずっと挑戦してみたかった青果会社に転職をし、毎日充実した日々を送っている。


転職という選択をし、そこから離れることでだいぶ気持ちが楽になった。


ここで、2つ目の方法は死ぬほどに辛い事があった場合に、思いきって一度そこから離れてみることだ。


自分の場合、そこで知り合ったほぼ全ての人と縁を切った。


なぜならば、その人達と繋がっていると思い出したくないことも、思い出してしまうからだ。


そこから、離れてみて客観的な見方もできるようになった。


3つ目の方法は辛いことを思い出してしまう関連の人達と、思いきって縁を切ることだ。


死ぬほどに苦しくて、追い込まれた時はそこから逃げても良いと強く主張する。


精神的に追い込まれた状況だと、視野も狭くなり、短絡的な1つの事しか考えられなくなってしまうからだ。


私の祖父は約4年前の冬に自ら死を選んだ。


これから先も死を考える日が何度も繰り返しやって来るかもしれない。


しかし、私は祖父の分まで、またもう亡くなったお世話になった親戚の人達の思いを背負い、社会に恩返しができるような生き方をしていけるよう努力していく。


もしも、次にまた人間に生まれ変われるのなら、来世はこんなに辛い人生にならないように、今を一生懸命に生きていこうと思う。


長文を読んでいただき、ありがとうございました。

夜勤中に本当にあった介護現場での怖い話

これから、私が介護職として働いた1年半に起きた心霊体験について書いていく。


ちょうど働き始めて1年が経つ頃に夜勤をし始めた。


夜勤者は5人必ず居て、2階と3階の格フロア60人のご利用者様を2人と、3人にわかれて夜勤中は勤務にあたった。


深夜帯は、基本一人でフロアを見ることになっている。


ある夜勤中のことであった。


ちょうど9月も終わろうとした涼しくなってきた日のことである。


深夜に一人でステーションに居た時に、おじいさんからコールが鳴った。


身体が痛いから、起きたいとのことであった。


起こして、いつも座っている席にお連れし、その方が読んでいる本を渡して、少し談笑していた。


すると、反対の奥の居室からコールが鳴った。


そこに行ってみると、頭のクリアなおじいさんが、「誰かが、俺の足を触ってくるんだ。気味が悪いから見てくれないか。」と、頼まれた。


そうは言っても、その方の隣のベッドはショートステイの方がおもに利用する為、その日は空いていた。


それを伝えている時に、コールが鳴った。


話している途中であったので、そのコールを取れなかった。


すると、またコールが鳴った。


なんと、さっき起こしたはずのおじいさんのベッドから2回鳴っていたのだ。


その時は、背筋が凍りそうな程に驚いた。


内心おかしいなと思いながら確認の為、その居室に向かった。


すると、やはり誰も居なかった。


つまり、誰も居ないベッドからコールが鳴っていたのだ。


後から知った話なのだが、そのベッドの隣に居たご利用者様が、ちょうど3日前に、病院でお亡くなりになっていた。


よくその方とお話をしていたので、最後の挨拶をしに来てくれたのかもしれない。


夜勤をしていた時に、他にも不思議な体験をした。


眠りスキャンいうシステムが存在し、ご利用者様の心拍数や、ベッドから起き上がろうとしているのか、眠っているのかがパソコンの画面に映し出され、把握できるシステムだ。


ご臨終を迎えるほとんどのご利用者様が、最後に医務室前の静養室に運ばれてくる。


夜勤中、その静養室の誰も利用していないベッドに眠りスキャンが、反応していた。


心拍数も動いていた。


確認しに行くと、やはり誰も居なかった。


荷物がベッドの上に置いてあるだけであったのだ。


介護現場では、このような体験をいくつもした。


1年半で、介護職を辞め、現在は他業種で働いている。

短期間で内定を取った5つの方法

これから、私が実際に大学時代の就職活動で、短期間で内定を取った5つの方法を書いていく。


私が就職活動時に受けた業種は、介護業界と、小売り業界と、不動産業界だ。


就職活動をしていて、特に大切だと思ったことは受ける企業のことを、こちらもしっかりと理解するということだ。


その企業の何に魅力を感じたのかや、どの分野で自分の力を生かすことができるのかを自分なりに分析する必要がある。


私が実際にした1つ目の方法は、面接前に企業から渡されたパンフレットや、企業のホームページを入念に暗記するくらいに何回も見たことだ。


それを通して、どの分野に挑戦してみたいのか、またその理由も頭の中で整理できると更に良いと思う。


そうすることで、面接時もスムーズに受け答えや質問をすることができた。


2つ目の方法は、企業説明会や、面接の際にはできるだけ時間に余裕を持って30分前にはその場所に到着して、20分前にはその会場に入ることだ。


時間に余裕を持って会場に入ると、相手企業の人事の方のこちらへの印象も格段に上がると考えるからだ。


3つ目の方法は、マイナビリクナビなど就職サイトに登録することだ。


私はマイナビをメインに活用した。


その中にスカウトサービスというのが存在する。


自分の経歴や、長所、短所など自己分析を書き、それを見た企業からスカウトが来るサービスのことだ。


これは、登録するだけで簡単に利用できる。


4つ目の方法は、受ける企業の口コミなどを事前にネットで調べることだ。


なぜならば、その企業がブラック企業の場合もあるからだ。


実際に2次面接まで進んだ不動産会社の口コミを後で調べてみるとブラック企業だということが分かった。


5つ目に大切だと思った方法は、前向きな気持ちで就職活動に臨むことだ。


落とされた時に、その企業に拒絶された気持ちになり、落ち込むこともあるだろう。


自分の場合は、最初に受けた企業がブラック企業で、それでも2次面接まで進めたんだから、まだ頑張っていこうと自分に言い聞かせた。


この5つの方法で、大学4年の6月までに介護業界と小売り業界の2社から内定をもらった。


去年の8月下旬から始めた転職活動時も、この方法で1ヵ月以内に内定を取ることができた。


皆さんにも、是非この方法をオススメしたい。

初めて友人にトランスジェンダーだとカミングアウトして思ったこと

これから、私が友人に初めてトランスジェンダーだとカミングアウトして思ったことを書いていく。


その友人は前職で知り合った方だ。


とても話しやすく、こちらの話をいつも受け止めてくれた。


今までは、トランスジェンダーだという理由で、友人に関係を断たれたり、「気持ち悪い。」と避けられ、その度に悲しい気持ちになり、大きなショックを受けていた。


正直、生きるのが辛く、とてもしんどく感じることが多かった。


トランスジェンダーだと、打ち明けたら、どう思われるのかを想像すると、恐くて誰にも言えなかった。


初めて友人に打ち明けたのは、今年の3月上旬だ。


その友人が家に遊びに来ていて、お酒を一緒に呑んでいる時に、恋愛の話になった時だ。


なぜか、その友人には打ち明けることに対する恐怖があまり無かった。


打ち明けた時に、その友人が「私は自分から、告白することは無いけれど、初めて自分から好きになったのは女性なんだ。」と、話してくれた。


私のことを、気遣って言ってくれた言葉なのかもしれないが、受け止めてくれたことが、とても嬉しかった。


心が軽くなり、救われた気持ちになった。


その友人とは、それ以降も、たまに遊ぶ仲だ。


もしも、周りにトランスジェンダーの人が居たら、拒絶せずに、できるだけ歩み寄ってあげてもらいたい。


それだけで、その行為によって私達の心が救われるからだ。

トランスジェンダーとして伝えたいこと

皆さんは、トランスジェンダーと聞いて何を思うだろうか。


これから、トランスジェンダーを生きる一人として、頭の中で考えていることを書いていく。


自分自身、まだ病院で診断を受けたてはいないのだが、体は女性である一方、頭の中すなわち心は完全に男性である。


これは、男性的であるとか曖昧なものではなく、完全に男性なのである。


自分の中に、女性は存在しておらず、むしろ女性を知りたいと、思っている程だ。


体が女性でありながら、周りの女性と自分は完全に異なる生き物なのだと、日々強く感じている。


体が男性のトランスジェンダーの方は、その逆なのである。


ただ、私達は純粋に男性、女性として生きることを望んでいるだけなのだ。


確かに、外見が生まれた性のままであったら、どう受け取って良いか混乱するであろう。


ましてや、男性なのに声が高かったり、女性なのに声が低かったりしたらなおのこと。


過去に友人だと思っていた方に、「気持ち悪い。」と、避けられた経験がある。


あの時は、とても深く傷ついた。


そのような感情になる前に、一度立ち止まってその人間の本質を見て欲しい。


先入観が先行すると、本質が見えなくなるからである。


社会から、トランスジェンダーに対する差別を無くしたい。


そのための、活動に今後力を入れていく。


これからも、発信を続けていく。

これからのブログについて

しばらくブログを更新していなかった。


これから、どのようなブログを書いていこうかと、考えていた為である。


これまでは、自分の経験談から学んだことを中心に述べてきた。


しかし、それでは書くネタにも限りが出てくると痛感した。


これからは、Twitterの延長線上のように、断片的に、短いコラムにして、日々感じたことを述べていこうと思う。


更新頻度を増やしていけるよう、これからもブログを書いていく。


いつも、読んでいただき、ありがとうございます。


これからも、よろしくお願いします。

成績がビリから学年で1番になった3つの方法

これから、私の成績が実際にビリから単科目だが、学年で1番になった3つの方法を書いていく。


私の両親は、私が生まれてから直ぐに離婚をし、その後、児童養護施設に預けられ、中学1年の秋までそこで暮らした。


そこに居た当時は、将来大学に行くなんてことも考えもせずに、漠然と「高校を卒業したら就職をするんだろうな。」と、思っていた。


なぜなら、施設に居た周りの子供たちも皆、経済的な理由で進学を諦めていたからである。


そんな環境からか、勉強にも身が入らず、テストでは数点を取ることが当たり前で、いつもビリ争いをしている状況であった。


同じ施設に居た1つ、2つ上の先輩と一緒に煙草を吸ったり、学校をさぼったり、いじめっ子の男子を喧嘩で泣かせたりと、いわゆる不良であった。


転機は中学1年の秋に訪れた。


その施設を卒業して、父の実家がある秋田に転校することになったのだ。


父は、長年塾の講師をしてきて、新聞社に以前勤めていた時は、社会科のラジオ講座を担当していた。


父は、よく「勉強は方法を間違えなければ、努力をすれば一定の所までは行ける。」と、言っていた。


「本を読んで、国語力をつけろ。」とも言っていた。


ここで、1つ目の方法は、環境を変えることだ。


勉強に対する動機付けがなければ、モチベーションも上がらないからだ。 


私は、それを実践することに決めた。


家には、小説から詩集から専門書まで父が読んだ多くの本があった。


アリスト.テレスや、ルソーや、アダム.スミスといった当時の私にしては、あまりにも難し過ぎる本を除いて、ほとんどの本を読んだ。


英語も、毎日教科書を音読した。


それを続けている内に少しずつ結果が出てきた。


数ヶ月後に行われた3教科テストの数学で、学年を代表して表彰されるまでになった。


部活をやっていた中学3年時の秋頃までは、成績の浮き沈みがあったが、その後は少しずつ安定していった。


勉強に本腰を入れ始めた中学3年の秋頃からは、5教科の定期テストでは400点を下まわらなくなった。


実力テストの英語では8割以上を取れるようになってきた。


その後も、成績が上がり、実力テストの総合得点では、学年で10番代になった。


その勢いで、私の住んでいた地区では、1番手の進学校に進んだ。


その当時の、中学の先生は、「今まで、こんなにも成績が変わった学生を見たことがない。」と、驚いていた。


獣医になるという具体的な夢が、頑張る気持ちを後押ししたのだと今になって思う。


高校に入ってから、冬に行われた実力テストの生物で初めて学年で1番になった。


総合では11番であった。


あの時は、とにかく必死に徹夜で勉強をした。


今になって思えば、懐かしい思い出である。


高校2年時から、本格的に行われた模試の国語の成績だけは良かった。


マーク式では、現代文で8割以上を取ったり、記述式では偏差値60を越えたこともあった。


ここで2つ目の方法は、読書をして国語力をつけることである。


問題を正確に読むにも国語力が必要だ。


国語力が勉強における、全ての基本になると強く痛感した。


その頃辺りから、法律に興味を持ち、文系に進むことに決める。


高校を卒業してからの2年間は、家業を手伝い、その後、関東に出てきて1年間学費を貯めて迎えたセンター試験


現代社会と、国語の現代文で8割以上を取り、大学入試では、センター3教科型を利用し、私が受けた学科の中で、全体のトップ20番代に入った。


アカデミックスキルという講義は、入学時の成績で、学部内でのクラスの振り分けがされており、そこでトップクラスに入ることができ、早稲田大学を出た有名な教授の講義を受けられたりと、とても充実した濃い内容であった。


入学時の英語のクラス分けのテストでも、9割以上を取り、学部内でトップクラスに入ることができた。


これまで、つけてきた国語力は、大学に入ってからも、生かされた。


現代デモクラシー論という科目の論述式の試験では前期、後期ともに満点を取ることができた。


その教授が、「しっかりとした文章を書く学生が居る。解答例として皆に配ろうか。」と、聞いた時は、とても嬉しかった。


他の論述式の試験でも、他の学生が難しいと、言っている科目でも、しっかりと点数を取ることができた。


大学1、2年次に、英語の単語テストがあったのだが、それでも全体の10番代に入ることができ、学内で2回表彰された。


今までを振り返ると、本当に国語力に救われてきた。


国語力は、なにも大学入試に限ったことでは無く、全ての試験に共通して大切であると考える。


ここで、3つ目の方法を書く。


それは、諦めずに努力することだ。


勉強は、才能は関係無く努力次第で、何とでもなると強く主張する。


こんな私でも、努力することで、ある一定の所まで行けたのだから、皆さんにも絶対に諦めないでもらいたい。