墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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芝ヶ原古墳 京都府城陽市寺田大谷

正道官衙遺跡の後は250mを北へ上がって、芝ヶ原古墳へ。

 

住宅街の中に出現する墳丘。

もともとは手前側に前方部がつく前方後方墳です(右がくびれ部)

 

こちら側にあった説明板。

史跡 芝ヶ原古墳
芝ヶ原古墳は、古墳時代の初め(3世紀前半9に築造されたと考えられる前方後方形の古墳です。
現在地は古墳の南側にあたり、道路で削られていますが、前方部があった場所にあたります。この場所から復元した前方部の一部と後方部と見ることができます。城陽市教育委員会

 

東側に回り込んで、整備された敷地内から見る後方部側面。

 

古墳時代最初期の前方後方墳です。

芝ヶ原古墳と前方後方墳
前方後方墳は、弥生時代末に濃尾平野に現れた突出部をつけた墳丘墓が、古墳時代に突出部をより大きな前方部へ発達させて生まれた墳形です。古墳時代前期を中心に全国で約二百数十基が確認され、東日本で数多く築造されますが、西日本にもおよんでいます。
芝ヶ原古墳は、前方部の形状が不明ですが、まだ未発達で短く、前端に向けて開いていることから、初現的な前方後方墳と考えられます。
京都府南部では、西山1号墳(城陽市)、元稲荷古墳(向日市)、茶臼山古墳(八幡市)、大住車塚古墳・大住南塚古墳(京田辺市)など、古墳時代前期の前方後方墳が数多く知られています。
城陽市教育委員会

 

さきほど見た、くびれ部側。柵から内側には入れません。

 

後方部先端側。

 

そこにあった説明板。

史跡 芝ヶ原古墳
芝ヶ原古墳は、南に前方部がつく前方後方形の古墳で、現在地は後方部北側にあたります。後方部は東西19m×南北21m、前方部は前端部が開いた比較的短い形をしていたと推定されます。後方部の東側には、墳丘を丘陵から切り離すための溝が掘られています。後方部の中心には、墓壙を掘り、組合式木棺が納められていました。
築造時期は、まだ未発達な墳丘の形態、出土した土器から、古墳時代初め(3世紀前半)と考えられます。
城陽市教育委員会

 

後方部裾から北側。谷を隔てた屋根の先に丸塚古墳の樹木が見えます。

 

現地では久津川車塚古墳だと誤認していました。もうちょっと左に見えていたはず。

史跡 久津川車塚古墳
昭和54年(1979)指定
ここからは、5世紀前半の久津川車塚古墳が望めます。大谷川扇状地のほぼ中央に位置する墳丘長180mの前方後円墳で、墳丘は3段に築造され、葺石や埴輪で飾られていました。外濠を含めた全長は272mとなります。後円部から「王者の棺」と言われる兵庫県で産出する竜山石製の長持形石棺が見つかり、鏡や甲冑などの豊富な副葬品が出土しました。

 

斜面下の広場には立体模型が。

 

そこから見上げた芝ヶ原古墳。

 

こちらがその模型。周囲の状況がよく理解できました。

左下の灰色が久世廃寺跡、右の灰色が正道官衙跡で、そのすぐ左上の茶色が芝ヶ原古墳。ひと際大きな前方後円墳が、久津川車塚古墳。

 

久津川古墳群との関連の解説。

久津川古墳群と芝ヶ原古墳
宇治市南部から城陽市北半の丘陵や扇状地には100基以上の古墳が分布しており、とくに大谷川扇状地や周辺の丘陵には多くの古墳が築造されています。これを久津川古墳群と呼んでおり、京都府内で最大規模の古墳群です。芝ヶ原古墳をはじめ、古墳時代前期から後期にかけて(3~6世紀)、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳など、さまざまな形や規模の古墳が築造され、有力者集団の本拠地であったことがわかります。とくに5世紀前半の久津川車塚古墳は山城地域最大の前方後円墳です。この地域は、奈良時代には久世廃寺や平川廃寺などが建立され、郡衙(正道官衙遺跡)が置かれるなど、南山城地域の中核であり続けました。
芝ヶ原古墳は、久津川古墳群の中心部である大谷川扇状地を見下ろす丘陵上に位置しており、久津川古墳群の出現を考える上で重要な古墳といえます。
城陽市教育委員会

 

古墳公園にはトイレのある休息所完備。そこに出土品の解説も(鏡は立体レプリカ)

芝ヶ原古墳の出土品
重要文化財 平成2年(1990)指定
墓壙上面:庄内式土器(二重口縁壺、高坏)
木棺内:銅釧(2個)、四獣形鏡(1面)、硬玉製勾玉(8個)、碧玉製管玉(187個)、ガラス製小玉(1300個以上)、鉇(やりがんな:1本)、錐(8片)
銅釧は、貝輪を模した青銅製の腕輪で、全国的にも数少なく、また本例のような形態はほかに例がない貴重なものです。径は12.1㎝あります。
四獣形鏡は、4匹の獣が配置された鏡で、中国の鏡を模した日本の鏡としては初期のものと考えられます。径は12㎝あります。
庄内式土器は、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時期に作られた土器です。文様で飾った、古墳に置くためにつくられたものです。
これらの出土品は城陽市歴史民俗資料館で展示しています。城陽市教育委員会

 

主体部に関する解説。

史跡 芝ヶ原古墳
平成元年(1989)指定
芝ヶ原古墳は、大谷川扇状地を見下ろす標高50~52mの丘陵北縁部に立地します。墳形は南に前方部がつく前方後方形で、後方部は東西19m×南北21mあります。全欧部は調査前に大部分が壊されていたため全体の形はわかりませんが、前端部が開いた比較的短い形をしていたと推定されます。後方部の東側には墳丘を丘陵から切り離すための溝が掘られています。この溝は後方部中央の東側で狭くなっており、丘陵側が半島状に掘り残されています。
埋葬施設は、後方部中心に設けられた墓壙の中に、長さ3m、幅0.7mの組合式木棺を納めるものでした。墓壙の上面には礫が敷かれ、その上に壺や高坏などの土器が置かれていました。埋葬後に行われた祭祀に伴うものと考えられます。副葬品は、銅釧、四獣形鏡、勾玉、管玉、ガラス製小玉が木棺内の北側に置かれており、被葬者の体に直接つけるのではなく、被葬者の頭部周辺にまとまめられていたようです。これら一括副葬品の南側で、鉄製の鉇、錐が出土しています。
出土した土器から3世紀前半に築造されたと考えられ、古墳が造られるようになる古墳時代でも初期の墳墓として重要な資料となっています。
城陽市教育委員会

 

正道官衙遺跡 京都府城陽市寺田正道

久世廃寺跡・久世神社の次に向かったのは正道(しょうどう)官衙遺跡。

 

下記は、その後に訪ねた芝ヶ原古墳にある立体地図。

左手前の久世廃寺跡から右へ、点線の坂を上がり、右(東)へ進むと正道官衙遺跡。上(北)に平川廃寺跡と久津川車塚古墳があります。

古墳と古代寺院、官衙が近接するエリアです。

 

”久世の鷺坂”を上がって住宅街を東へ。


右手(南)方向は下りの地形。


公園として整備された、正道官衙遺跡に到着。建物の様子が柱で復元されています。

 

南側から。

 

公園の南端。

 

築地塀の復元も。

 

南門跡から南方向。

 

北東側に公園を見通せるスポットがあります。

 

そこにあった説明図

 

と、解説板。

史跡 正道官衙(しょうどうかんが)遺跡
昭和49年(1974)9月指定

遺跡の発見
標高40~50mの南向きの台地上にあるこの遺跡は、昭和40年(1965)、台地西端の池畔で瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定されて「正道廃寺跡」と名付けられました。
しかし、昭和48年(1973)2月からの大規模な発掘調査では、寺院跡とみるより、奈良時代の郡衙中心部分と推定される建物群跡が確認sれ、昭和49年(1974)には名称も「正道遺跡(しょうどういせき)」と改められました。その後、付近で部分的な発掘調査を続けた結果、遺跡西側にも建物群跡のあることがわかっています。

国の史跡に
この遺跡は、5世紀の小規模な古墳と6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構、そして7世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構などが重なりあう複合遺跡です。
特に官衙遺構は歴史・地理的背景や出土遺物などから、奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定され、昭和49年(1974)9月、城陽市では最初の国史跡の指定を受け、翌年3月に史跡地全体の約10,850㎡が公有化されました。

史跡の整備
この遺跡は、発掘調査後埋め戻されて長い間広場になっていましたが、遺跡の保存と活用を図りながら、積極的にまちづくりに生かしていこうという機運が高まり、平成元年(1989)2月、文化庁の指導を得て、kの遺跡を含む市内全5箇所の史跡整備構想を策定。翌年、この官衙遺跡の整備基本計画を作り、平成3年(1991)10月から整備工事に着工、平成4年(1992)11月に工事が完成しました。

整備の方法
整備にあたっては、官衙建物群のうち、ほぼ同時期のものと推定される建物群を復元の対象とし、時期を異にする建物遺構は一定の覆土をして地下に現状保存しています。
建物復元の仕方は、発掘調査の結果に基づいて柱の位置を太さを忠実に表現し、一方、柱の高さや柱組みは近い時代の建築様式を参考にして、これらの建物の規模が想像できる「イメージ復元」となっています。
また、遺跡内の樹木は、在来の中から選び、特に奈良時代の「万葉集」の歌に詠まれている、いわゆる「万葉植物」には代表的な万葉歌を添えて紹介しています。

 

万葉歌も。

 

城陽市による、郡司のイメージキャラクターも。