不安と食事/解決策 

毎日、色々なことが不安だ。

 

・就職活動

・好きな人との距離感

・人との距離感が20代にもなってつかめない

・一人でいること

・街中で親子や母子を見ること

・すべてを話せる誰かを見つけられる日は来るのか

・睡眠の質の低さ

・夜中に食べ過ぎてしまうこと

・体重 

 

色々なことが不安だ。街中で親子を見かけただけで、ストレスを感じ、どうすればいいのか分からなくなってしまう。バイト中、上司が横で見ているだけで、慌てて自分が何をしているのか分からなくなってしまう。何もかもが不安で、怖くて、どうすれば良いのか分からない。

精神科に行ったら病名が付くようなものではないのだが、だからこそ逆に不安だ。

 

で、食べ過ぎてしまう。

正直、今のところは食べ過ぎてしまう理由と解決策が自分でも分かっていないので、ブログに書いて整理することで、考えていきたい。 

 

<不安を覚えるようになった理由>

家族や、結婚して新しく家庭を持つことを考えたり、楽しそうにしている家族を見かけたりするなど、家族の明るい面について触れると、不安になる。

 

恵比寿の家を出たので、数週間は安泰だった。

不安を覚えるようになったきっかけは、年が明けて、2021年1月5日(たしか)にブルーライン関内駅のホームで、笑顔で走る小さい女の子とその両親を見たことがきっかけだ。

その女の子を見た瞬間、過呼吸みたいな感じになった。なぜそんな風になってしまうのか。慌てた。どうすればいいのか分からなくなった。

 

その数日後、横浜スタジアムの前を歩いていた。数日前に、パニックになったことを思い出した。自分の体が自分のものではなくなったような感覚がした。明らかに待っている車がいるにもかかわらず、赤信号の時に横断歩道を数歩歩いたところで待ってしまった。クラクションを鳴らされたが、ぼうっとしていて自分に対してクラクションを鳴らしているのだと理解できなかった(ちょっと経ってから、自分がクラクションを鳴らされていると理解できた)。

 

1月18日が冬季実習企画の締め切り、19日がドキュメンタリー企画の締め切りになっていて、企画を考えていると、自分の過去について考えてしまうことが多かった。自分の過去に関する企画は、アイデアが浮かんでも、あまりにも自分と近すぎるので、これを提出することは難しいと思った。

自分についての企画を(精神的に)提出できないということは、それだけ自分の過去に囚われていることだと思う。そんな自分が嫌いだ。もっとサバサバと、「こういうことがありました」というただの事実として、受け入れられるようになりたい。しかし現状では、過去に囚われず、自分の未来を考えることができない。

 

人と繋がっていないと不安になる自分は、人に病的に依存してしまっているのではないかと不安になる。

 

食べている時は、幸せで、すべての不安を忘れられる。でももちろん、その幸せは一時的な幸せでしかない。食べ終わればまた不安になる。家族関連への不安だけでなく、太ることへの不安も生まれる。不安から逃げたくて、また食べてしまう。その循環だ。

 

 

<解決策>

家族に関する不安を根源的に解消し、不安を覚えなくなる日が来ることは可能なのだろうか?どのようにすれば、そういう日が来るのだろうか。

 

私には「ご飯を味わって食べる」「おいしいものを丁寧に食べる」という感覚が(ほぼ)なく、「ストレスでただただ食べる」という感覚が強い。前者の感覚を体得することが、解決策になるのではと考える。

そのためには、「ながら食い」を基本としてしまっている現状を改める必要があると考える。テレビを見ながらごはんならまだしも、最近はスマホをいじりながらとか、課題をやりながらごはんを食べることがほとんどだ。

食事を取るときは、食事の道具以外のもの(本、スマホ、PCなど)は食卓に置かないようにして、食事に集中するようにする必要があるのでは。

また1週間に1回は外食して、カロリーや値段(ただし適当な範囲内で)を気にせず、食べたいものを食べる時間を設けるのが良いのではないか。

思考の備忘録

他者とのかかわりと孤独について

 

時々、私は死ぬまで誰とも分かり合うことができないかも、という恐怖に襲われる。

そもそも「分かり合う」ということはどういう状態を指すのか、自分でも分からない。既に今いる知り合いの中で、分かり合えている人がいるのかもしれないし、そうではないかもしれない。

根本的に、人との距離感というものが20代半ばになっても、よく分からない。基本的には時間さえあれば、人に会いたいと思う。一人で過ごす時間は大事だ。一人でいる時間がなくて、ずっと人と一緒にいると息が詰まるような感じがして、耐えられなくなる。だから程よく人と一緒にいたいと思う。他人と一緒にいる私は楽しい時間を過ごしていても、私と一緒にいる他人の方は楽しいとは思っていないのではないか、と不安に感じることは多い。直接会っている時だけではなく、LINEで誰かを誘うときはいつも、私に誘われたら迷惑かな、、と不安になりながら送っている。

 

これまで熱中してきた物事を振り返っても、「人と一緒にいて、コミュニケーションを取るのが楽しい」という感情がモチベーションになっていたように思う。私が表現したいこと、というのがないわけではない。けれども表現そのものより、表現により生まれるコミュニケーションをしたいから、表現に取り組んでいるんだろうなあと思う。

考えが合わない人と何度も話し合って、思いを共有できるようになったとか、とんでもないハプニングを仲間と乗り越えたとか、そんな大げさで立派なエピソードは正直1個もなく、ただただ各自がやるべきことをやるためにやり取りをしているだけだけど、一つのモノを作り上げるという目標のもと、何の共通点もなく、その目標がなければ知り合いようもなかった人たちと、ああでもないこうでもないと言いながら一緒に作業できる時間は本当に幸せだと思う。

しかしそんな瞬間を私が幸せだなと思えるのは、私という個人が本来孤独な存在であることを理解し、孤独を楽しむこともできるけれど、孤独であることに寂しさも覚えているからだと思う。孤独でも人生は楽しいけれど、人と会い、一人では生まれることのないコミュニケーションを楽しむことで、孤独でいるよりも楽しい人生を送れている。これからも孤独を恐れることなく、人生を充実させていきたい。

 

、、、あ~やっぱりコロナ禍きつい。コロナにかかりたいわけでも、周りをコロナに感染させたいわけでもないが、やっぱりあの人をご飯に誘いたいな~という思いが浮かんでくる。食事なしで会おうよ~と誘うのってほぼ無理だ。緊急事態宣言が終わったら、大手を振って飲みに誘いたい。

自分語り2(長期インターンに向けて) #非公開ブログ

だいたい上記のような理由で、①どうすれば映画、に限らず商材をヒットさせられるのか、徹底的にマーケティングを構築できるようになりたい ②自分の力で企画を立てられる人になりたいです。 

で、長期インターンもどちらかの軸に当てはまるのを探しています。

自分語り #非公開ブログ

私はマーケティング/広告手法を極め、将来的にはどんな映画もヒットさせられるプロデューサーになりたいです。

 

突然ですが、私は映画が好きです。

映画を見ている時間が、一番幸せな時間だと感じます。

具体的にどういう映画が好きかというと、一言でいうと【何か得るものがある映画】が好きであると思います。(こちらも時間とお金を投資して映画を鑑賞するわけなので、当然リターンがないと嫌です)

「得るもの」というのは、癒し(ストレスからの解放)/知識/前を向く気力/世の中を捉える新たな視点/自分とはかけ離れている立場にある人の気持ちを想像する力/夢を追う勇気 など、本当にいろいろあります。
正直私はcinephileです!と自信をもって言い切れるほど、映画を多く見れていないという自覚のある私ですが、昨今の日本映画には一言申したい!

 

内容が薄く、クオリティの低い映画が多すぎじゃないですか?

有名俳優で人を惹き付けられれば、内容は二の次(というかどうでもいい)と思っていませんか?

従来の成功パターンに従い、そのパターンから外れる冒険的な映画の製作に躊躇していませんか?

文化を成熟させる、という視点を持って映画を制作していますか?

日本映画の対外的な評価を向上させるという意識を持って映画を製作していますか?内需だけが満たされればよいと考え、国内でのbox officeのみを最大化するという目的のもとに映画を製作してはいませんか?
あとこれは特に映画配給会社や、官僚の方々に対して言いたいのですが、映画制作現場の労働環境がよろしくないことについて、対岸の火事だからとそこまで改善させようとしていないのではないでしょうか?
クリエイター(映画監督や脚本家)の意図よりもプロデューサーの意図を優先し、いかに利益を確保できるかというプロデューサー的思考のみに則って映画を製作していませんか?

 

私はまだ一介の学生で、映画業界事情には精通する術もないのですが、仮説として【現在の日本映画業界はプロデューサー的思考が蔓延しており、それが日本映画の質を低下させている】と考えています。

映画の価値を測る方法として、①商品としての価値(商品価値)②作品としての価値(作品価値)があると定義します。

まず①商品価値について、現在の日本映画の商品価値は非常に高いと考えられます(もちろん、今よりも商品価値が向上する方が望ましいですが)
統計によれば日本人は平均一年に一回しか映画館に行かないようです。その数値も、本当に国民全員が年1で映画館に行っているというわけではなく、頻繁に映画館に通うシネフィル層と全く映画館に行かない層が混在しているため、そのような数値になるのではないかと思います。
とはいえ2019年は、『君の名は。』『天気の子』『ドラえもん』といったアニメ映画、『コンフィデンスマン』のようなTVドラマの映画版、また『キングダム』『飛んで埼玉』など、漫画や小説の映画化作品などの作品がヒットした結果、興行収入が現在の調査方法に変更されて以来過去最大の数値になっています。

一方で②作品価値は、商品価値と共に高まるとも限らないため、近年の日本映画においては軽視されがちな点であると考えます。
アニメ映画、原作モノ、TV映画が主流であると上で述べましたが、それらの系統の作品においては作品価値が二の次と捉えられている印象を受けます。(もちろんすべてに当てはまるわけではありません)


あくまで一例ですが、2020年に公開になった、山崎賢人高畑充希主演の『ヲタクに恋は難しい』という映画は漫画原作、福田雄一監督のフジテレビ資本の映画ですが、この映画に芸術性を期待する方が難しいのは一目瞭然であると思います。
山崎賢人高畑充希が踊って歌い、賀来賢人がオタ芸をするだけの映画だと言っても過言ではないと正直思います。
ですが、映画製作の目的を【日本国内における興行収入の最大化】としている現状では、このような見るのもばかばかしい(ごめんなさい、もちろん山崎賢人ファンやばかばかしい映画を見たい人、原作ファンなど、一定の需要はあることは認めています)映画が量産される事態は不可避です。

そういうわけで、映画製作の目的を【日本国内における興行収入の最大化】とした際に、近年の映画の商品価値は高く、日本人のニーズに最もマッチするように企画を立てる戦略は、方向性として正しいと考えられます。
その一方で、映画製作の目的を【多様なエンターテイメントを観客に届ける】とした際には、方向性としては完全におかしな方に行っています。私はこの目的へとかじを切っていくべきであると考えます。

多様なエンターテイメントを観客に届ける についてですが、
まず【多様なエンターテイメントとしての映画が存在している状態】を定義します。
多様なエンターテイメントとしての映画が存在している状態=映画の作り手が、作りたい映画を作れて、日本国内で公開できる状況 です。
(※ここでは日本映画だけでなく、海外映画の配給も含むことにします)


たとえば原作モノよりもヒットしないリスクが大きいと考えられるオリジナル映画などであっても、作り手が製作したい映画を製作できるだけの予算を与えてくれる会社がある、ということです。

また多様なエンターテイメントを観客に届けることのメリットとして、①日本映画の海外における評価の上昇、需要の拡大 ②日本国内における日本映画需要の拡大 が挙げられると考えます。

そのようなメリットを加味しても、日本において【多様なエンターテイメントとしての映画が存在している状態】の実現は難しいのは自明です。
なぜなら映画業界全体が過去の成功則に基づいて事業を行う傾向にあり、芸術性や独創性の高い映画を配給して成功した事例が少ないからであると考えます。

 

したがって、【多様なエンターテイメントとしての映画が存在している状態】を実現するために必要なのは、芸術性や独創性の高い映画を配給して成功した事例です。

「日本映画は多様性を欠いている」「アート志向の強い映画が制作しにくいのはおかしい」など、不満を言うのは簡単ですが、日本映画を取り巻く現状の変化を考慮せずに映画事業を行うことはできません。
TikTokYouTube、あるいはストリーミングなど、気軽に家で楽しめるエンターテイメントがここ数年で急激に充実し、気軽にエンターテイメントを楽しむ場としての映画館の価値、DVDで映画を見る価値が下落したのは認めざるを得ません。
TikTokYouTubeの動画は映画と比べてはるかに時間が短いので、映画のように2時間も映像を見続けるのは退屈だ、そんなにずっと集中力が続かないと考えられても全くおかしくありません。

 

そのような状況下でも、作り手に自由な映画製作を許し、映画館で(あるいは自宅でも)芸術性や独創性の高い映画を見る価値を伝えるのに必要なのは完成した作品のマーケティング/広告戦略 だと思います。

※韓国のように、国策として映画の作品性を高めるというのもあると思いますが、ここでは邦画+洋画を対象としてるので、その方向性は考慮しません

 

アメリカでは2012年に、大作主義に縛られず、芸術性が高い映画を専門に配給するA24という会社が設立され、『Moonlight』や『Lady Bird』など、数えきれないほどの亮作映画を配給してきました。この会社はマーケティング手法により自社作品を興行収入的に成功させています。アメリカではこのA24が配給を行い、日本では2020年に公開され、ファントムフィルムズという配給会社が配給を手掛けた『ミッドサマー』という映画があります。この映画はグロ描写、不安定な旋律の音楽、えぐい性描写など、一般的にはウケなそうな描写がてんこ盛りなのに公開初週の興行収入ランキングで6位になり、extended versionも公開されました。

このような事例を見て、どんな映画もマーケティング/広告戦略次第でヒットさせられるのではないか、と考えるようになりました。

 

よって私はマーケティング/広告手法を極め、将来的にはどんな映画もヒットさせられるプロデューサーになりたいです。

「カルテット」と、将来への決意 #非公開ブログ

 

 ※自分以外の人は置いていく気全開で書きました

大学三年生の時、TBSの「カルテット」という連続ドラマを見ていた。

「坂本裕二脚本なんだ!面白そうだな~見てみようかな」くらいの軽い気持ちで見始めたが、私の人生は「カルテット」で変えられたといっても過言ではないくらい、大好きなテレビドラマである。

どうしてそんなに「カルテット」が好きなのかというと、このドラマは世の中の一般常識の真逆を行く作品だからである。

私にとって最も印象的な場面は3話で巻(松たか子)が入院中の父親に会うために病院に出向いたものの、病室に入れずにいるすずめ(満島ひかり)と一緒にご飯を食べるシーンで、巻が

「すずめちゃん、病院戻らなくていいよ」

と声をかけるシーンだ。

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「家族は仲良くなくてはならない」ということが当たり前に信じられている。もちろん私も、家族関係が良好なことは好ましいことであると思う。だけど一見普通そうに見える家族であっても、抱える背景は人それぞれなのだから、世間でどれだけ「家族は仲良くしないと駄目」と言われようとも、家族関係が本当に嫌ならば縁を切っちゃても別にいい、と私は本気で思っている。

だけど「家族が別に仲良くなくてもいいじゃん」と言えるような空気が社会的に存在していないと思う。そういう風に考えている人は意外と多かったりするのかもしれないが、少なくとも私はそんなこと言ったら相手に極度の人間不信とか、性格が歪んでいる、みたいな印象を与えてしまいそうで怖いので、公言は憚られると感じる。(通常の私はまったくもって人間不信ではないし、性格は歪んでない。)

とはいえ私が若干変わった家庭環境ではあるかもしれないとは思う。私の母は幼少期に母親(私の祖母)を亡くし、父親(私の祖父)は再婚したが、その際なぜか弟(私の叔父)は家に残ったのに、私の母は叔母(私の大叔母)の家に大学を卒業し、独立するまで預けられた。そもそも母と私の叔父が同じ家に住んでいた時から、食事の際に叔父は魚を与えられても母には与えられないとか、将来的に家を継ぐ私の叔父が好かれていたらしい。

叔父と叔母は母の将来について干渉した。大学卒業後に大学院に進学することと、教員になることを強制した。また大学在学中には縁談を勝手に見つけてきて、大学卒業したらすぐに結婚することも強制された。叔父が亡くなり、叔母が高齢になってからは、意地でも老人ホームに入ろうとしない叔母の家に毎日通い、老人向けの食事を作ったり、体調管理をしたりさせられていた。(そういう指示を受けたわけではないけれど、無言の圧力的な奴である)

叔母の面倒を見る生活を送っていた母だが、本当は叔母の面倒を見たいとは思っていなかったので、毎日のように荒れていた。叔母の家に行く準備をしている時に泣き出すのは日常茶飯事だったし、イライラしているのか、私相手に言いがかりをつけて喧嘩してくるのもしょっちゅうだった。それでも、「子供は親の面倒を見るものだから」と言い続け、自分を叔母の家に行くように説得していた。そういう生活をするのにも限界が来たのか、ある日から母は叔母の家に行くのを一切やめ、以後一度も会っていないようである。

そうやって人の言うことに人生を決められ、社会的規範にがんじがらめになっていた母は、私に対しても「~~しなくてはならない」と言ってくる場面が多かったように思う。小学校から高校までの一貫校に通い、小学校、中学、高校とすべてでいじめにあっていた私は、学校をやめたいと思うことも多かったが、母は「一度入学したら辞めるなんて論外よ」「外部の学校に入学する人は非常識だ」といつも言っていた。また勉強についても、私は勉強が嫌いだったので自分からは全然しようとしなかったが(ごめんなさい)、「勉強しないと駄目でしょう」といつも言ってきて、叩き合い殴り合いはもはや日常の風景だったし、時には包丁で脅してきて「今すぐ勉強しなければお前を殺す」と言われたことは一度や二度ではないどころか、10回、20回はある気がする。

私と両親は身体的特徴がなぜかあまり似ていないので、「私は本当にこの人たちの子供なのか」と疑問を抱いていた。私の両親は私に金銭的な援助をするだけの存在と考えるようになり、愛情だとか、それ以上のことを期待するのはやめた。道で仲良さそうに歩いている家族や、公園などで一緒に運動している家族を見たりすると、心底羨ましく感じた。

これだけ書いたが、今の私と両親との関係は非常に良好である。というのは昨年私は就活がうまくいかず、もはや誰とも会いたくないし何もしたくないという状態になり、ほぼ家に引きこもり()になった。就活自体も親の方から就活しろ就活しろとめちゃくちゃプッシュしてきて、仕方ないからやっていた。

就活へのやる気が出ない大学生なんてクズでしかないと自分でも思うけど、ちょうど就活が始まろうという時、私はこれまで自分が熱量をもって取り組めたことが一つもないと気付いた。世間体ではなく事業内容や身に着けられるスキルを考えて入社したいと思える企業が一社もなかったが、これまで12年にわたるいじめや、殺しにかかってくる両親との人間関係に耐えていたので、忍耐力だけは自信があり、どんな仕事でも耐えられると思っていたので、給料が高くて名が知れている会社なら心底どこでもいいと思っていた。しかしこんな態度では内定するわけがないので、ESではそれっぽいことを書いてごまかせても、会社を受けるたびに基本的に一次面接で落とされた。

内容は捏造ばかりのESを何とか提出して、通過連絡が来たときは毎回「してやったり!」と思ったものだが、面接の前になると、私はこの企業の年収と、ネームバリューに惹かれてるだけで、志望動機が全然わからない、どうして私はこの企業に入りたいんだろう?という事態に陥った。就活生って、みんなそんなものなのかもしれないし、私が実力不足・準備不足で落ちたのかもしれない。とは思いつつも、明らかに無理のある志望動機しか言えなかった。自己PRというのも、「いじめと家庭環境の悪さで鍛えられた忍耐力」なんて言うわけにいかないので、自分でもよく分かんないことをでっちあげて言っていたが、面接してくれた全社員の方々に嘘がばれていたと思う。

そういうわけで就活が全くうまくいかなくなった。そこで私は考えた。私が入りたいと思える会社がない、あるいは企業全落ちなのは私のせいではない。私がこれまで、両親の希望に沿うために私自身の意志を徹底して抑制してきたからだ、全ては両親のせいだ!!!!!と。

いつまで親のすねかじる気なんか?大学生のくせして親に依存しすぎだろ。。。っていう突っ込みは、自分でもそう思うけど、私はこれまで自分で興味を持って物事に取り組んだことは中学で部活に入った時と、留学した時の2回しかなかった。これまでみたいに「私は何でも大丈夫です!なんでもやります!」が通用すると思っていたけど、社会は甘くなかったとようやく気付いた。でも私が就職うまくいかないのは、私のせいじゃねえ!!もう就活なんて辞めてやるー!!!

そういうわけで、私は引きこもりになった。アルバイトは面倒くさくなったので辞めて、毎日好きなものを食べ、映画をストリーミングで見まくる生活をした(この体たらくな生活のせいで体重6kg増えた)。でも夜はストレスで寝付けなくなり、3時より前に寝る日がほとんどなくなった。さすがに見かねた両親が就活しろと言ってきたが、それを固辞したので大喧嘩になった。私は思っていることを全部言った。そしたら両親は、思いがけないことに私を受け入れてくれたのである。それどころか、これまでのことを初めて本気で誤ってくれた。そういうわけで、わが家は雪解けした。

ある意味では私はこの上なく親不孝で、世の中のごみなわけであるが、別の視点から見たときには、「親の言うことをひたすら従ってきて、気づいたら自分というものがなくなっていた人」なのだと自分では思っている。家族というのは本当にいろいろなのだ。私と両親の仲が最も険悪だった時期でも、はたから見れば私の両親は「ただのいい人」だった。家で包丁を持ち出して子供を脅しているようには全く見えなかったことだろう。

私はこれまで、私自身も私の家も普通ではない、と思って生きてきた。とはいえ他の家庭も、うちのように、人には言えないことの一つや二つはあるのかもしれない。

世の中には正論や、一般化されたことを言ってくる人がたくさんいる。「勉強して良い大学、良い会社に入ればよい人生が送れる」「結婚すべきだ」「夫は仕事、妻は家庭」「稼ぎがあるほど偉い」「恋人がいるほうがいないより良い」・・・それらの中には、もちろん真実もあるだろう。

しかし私は、「そうじゃなくてもいいんだよ」「無理してまでも正しくあろうと、頑張ろうとする必要はないんだよ」と言ってあげられる人になりたい。その一方で東大や京大、あるいは海外トップ大学を出て外銀・外コンに入社、起業して大儲けしつつ結婚して子供もできる、というエリート街道への執着が正直現状ではめちゃくちゃ強い。でもエリートへのあこがれは、結局のところ、自分の対外的な評価に基づく将来像の描き方でしかない。そして対外的な評価をベースに生きていたら、どれだけ高学歴でも、年収が高くても、自分自身に満足できる日は死ぬまでたっても来ない。

そういう世俗的な評価に、常に私自身が負けそうだけれど、私はこれまでデキる子では一度もなかった分、エリート街道一直線の人には見えない光景が見えているはずだ。人の背景を想像したり、社会的規範に必ずしも縛られる必要がないと考えられるところは、就活のESでの自己PRとしては使えないけど、相対的に見ても私の強みというか、誰にもあるとは限らない部分であるはずだ。

昨日、映画の「マイヤーウィッツ家の人々」("The Meyerowitz Stories (New and Selected)")を見た。虚栄心が強く、子供のことを顧みない父親は、生命の危機に瀕して入院を経た後も、その性格が変わることはなく、大成しなかった息子のことを自分の都合で振り回す。それに対して子供たちは、父親は自分たちなしでも生きていけるのだと気付き、父親の支配下から精神的な独立を果たす。

「カルテット」そっくりの内容ではないか。と思った。そして、「カルテット」を初めて見たときのことを思い出した。問題に対する解は一つでないのだ、ということを改めて思い出した。

私は、「そうじゃなくてもいいんだよ」「無理してまでも正しくあろうと、頑張ろうとする必要はないんだよ」と言ってあげられる人になりたい。またそういうメッセージを伝えるものを作る社会人でありたいと思うのである。

 

これはただのnoteではない。朝令暮改な性格の私だからこそ、考えたことをきちんと記録して、必要な際に見返す必要がある。つまり私の本気の決意表明として、文章にしてここに残すものである。