Vergesslich

文章の練習帳

空想について

最近、わたしがファンをやっている人達が日記を書き始めているのでわたしも便乗する。
とはいえ特筆するべき近況もなく、春休みに入ってからは寝るかゲームか食べるかくらいしかしていないため、オルタエゴというゲームの感想を書く。最近クリアしたゲームのことだ。

オルタエゴというのは最近流行っているスマホゲームで、性格テストをやってくれるらしいということでダウンロードした。エゴというパワーを一定ためるとエスという少女と会話でき、その中で彼女の出す質問に答えるとそこからさらにプレイヤーの性格が分析される、というものだ。しかしどうも性格分析をしてもらうだけのゲームというわけではないらしい。
このゲームはプレイヤーの診断から性格分析をするだけではなく、先程のエスという少女の悩みを解消するストーリーでもある。わたしがこれに気づいたのはエンディングかと思った最後の対話で「今度は私を愛してくれ」と悲しそうな顔をしたエスが突然消えてしまったことからだ。嫌ったつもりはなかったが、自分の好きな選択肢を選ぶだけではだめなようだと気づく。それなら愛してやろうとリセットし、今度は甘やかすとエスが狂った。ここでようやく彼女を本当の意味で愛さなければトゥルーエンドにならないと気づく。思うに愛するということは導くこと(あるいは祈り)だ。わたしはエスの性格について分析を始める。

このゲームの登場人物はその性質も含めて対立関係がはっきりしている。規範を重んじる壁男と、激しい衝動を内に秘めたエス。自分は理性というのをそれなりに重んじているので初めは「規範寄り」の選択をしたのだが、するとエスは消えてしまった。共存できないらしい。壁男が理由も言わずただそうあるべしと命令してくるのが嫌と言っていたこともあり、「規範に従う」か「自分の欲求に身を任せる」かという二元論の中で葛藤しているのがわかる。反対に「衝動寄り」の選択すると、今度は発狂した。前者のエスの反応は理解できるが、わたしにはこの発狂の意味がよくわからなかった。この「衝動」寄りの選択をするとエスは「この世界はすべて私が作り出した」、「私が絶対的に正しい」などうわ言を繰り返すようになる。これはかなり「閉じた」思考だ。それがなぜ発狂に繋がるのか。

発狂というのは人間の一種の防衛機能だと思っている。耐え難いことを耐えるために理性を手放すのだ。エスにとって耐え難いことはなんだったのだろう。もはや規範は必要ない、すべて衝動に任せよと許したつもりが狂ってしまったのはなぜか。わたしは愛される可能性を放棄したからではないかと思う。プレイヤー(旅人)の首に手をかけようかと迷っていた頃は旅人という「他者」を認めていた、愛してもらえる可能性を保っていたが、その旅人が自身の妄想に過ぎないと考えた瞬間、エスはこの世にひとりになった。自分を愛してくれる人はいないという絶望に彼女は発狂したのだ。彼女はかわいい子だなと思う。わたしには分からないが、彼女に自己投影する人もいるのかもしれない。

結局、規範か衝動かという二元論の中間を取った選択肢を選ぶことでこのゲームはトゥルーエンドをむかえる。答えは出ない、むしろ出さずに考え続けるべきだという選択だ。鏡がたびたびモチーフとして出てくるように、旅人という他者を認めることによってエスは自分を獲得し、悩みながらもこれから生きていくらしい。エスおめでとう。
それにしても愛されたいという思いは切実だなと思い知らされる。自分の感動や意見や悩みもすべて他人にとってはくだらないことだ。それでも自分にはあんなにも悲しかったのにとか、嬉しかったのにとか、感動することは確かにあるし、アリョーシャの言うように昔のよい思い出が寂しい世界を生き抜くあたたかさになる。しかし他人との思い出は物語には代えられない。物語を信じることは自分に対する祈りである。人は物語の中でしか生きられないし、登場人物に他者を「自分の存在と同じように」投影できないかぎり永遠にひとりだ。自分だけは愛せるが、自分しか愛せない。

わたしは連想する能力が高いと思うし、物語や空想のおかげで楽しく生きられていると思う。でも物事の類似性を見つけるのがうまいというだけで頭がいいわけではないし、これについて誤解されるといつも申し訳なくなる。