人見知りって言えない人見知り

コミュ障発言に対して思うこと

「私、人見知りorコミュ障なんですよ。」

こんなセリフを初対面の人に言ったことない。

 

言うことがあったとしても、本当に心を開けた友達に

「私、本当は人見知りだから、ああいう場苦手。」っていうときぐらいです。

 

初対面の人に自分の性格、しかもダメなところを先に言うのって、恥ずかしくない?

ただでさえたどたどしい言葉遣いなのに、よけいに評価下がっちゃわない?

  

初めて会話する時に、「自分、人見知りorコミュ障なんですよね」って言ってくる人いますが、普通の人に言ったら話繋げてくれると思いますが、それ人見知りの人に言ったら、「はー、そうですか・・・」って、切られると思います。

自分は切っちゃいます。

あなたの性格がまだ分からないから、否定してあげるべきなのか、そうじゃないのか分からないし、かといって共感してあげられるほど仲良くなってないし・・・かける言葉が思い浮かばない。なんて言うべき?私の方こそ会話切り出せなくてすいません、と頭の中はパンク状態です。

 

その日の帰りに、話せなかったな、申し訳ないな・・・と反省します。

でもその後に、

こっちは人見知りなのに、人見知りであることを悟られるのさえ恥ずかしくて、人見知りなんですって自己紹介できないのに、あなたはのうのうと自分の本来の短所ではないところを、これが私の短所なんですって自己紹介してくるなんて、本物の人見知りに失礼だぞ!って。

あえて自分を低く見せといて、あとで好感度あげていこう作戦ですかー?ずるいですよ!

なーんて思ったりもします。

 

いつだか、コミュ障ですって自己紹介するのは、相手に対して自分は話を回せないので、あなたが回してくださいと言っているようなもんだ、というコラムを読んだことあります。

なるほどね。こういう考えもあるんですね。

自分がどう思われるかとか、どういう発言すべきかで頭がパンクしてた私には思いつかなかった発想でした。

 コミュ障発言によって、会話の進行を放棄させてたんですね。そりゃあ人見知りの頭の中はパンクしますわ。

 

 

私は人見知り

ブログだから言っちゃうけど、実際の私は、極度の人見知りだと思います。

どれくらいかと言われると、一言も話さずに人見知りの人を感知できるくらいです。

 

人見知りの人は、おとなしい印象があるので、まあだいたいの方は分かりますよね。

これじゃあ、人見知りの程度、分からないですね笑。

 でも不機嫌で静かになってるのか、私のことを苦手で静かになってるのか、本当は仲良くなりたいけど・・・っていう人なのかは分かります。分かるつもりです。

 

だからですかね、私が感知した人見知りの人と、ゆくゆくはめっちゃ仲良くなれます。 

私のこの能力は人見知りであったがゆえに、身につけられたものだと思います。

 

歓迎会などで、最初はうわー友達出来そうにないよー!って心の中で泣いていても、

だんだん友達が出来ていく感じは、じわじわうれしさがやってくる。

しかも、お互いに距離感を保っているから、近くなりすぎて仲が悪くなっちゃうっていう事態も防げる。

ちょうどよく、程よく、心の扉を自分のタイミングで開いていけるから、とても心地よい関係でいられる。

人見知りでよかったなぁ、と自分を肯定しちゃってます。

 

人見知り、人見知り書きすぎちゃってますが、人見知りリスペクトとかじゃないですよ。

いわゆるコミュ強の方たちも好きです。

同じ団体に所属してるだけの、空気みたいな私のことも誘ってくれるから、ありがとう。実はめっちゃうれしいです。

 

 

最後にまとめとして

初対面で自分の短所を教えない方がいいでしょう!

短所を伝えることによって、お世辞ごっこで終わればいいでしょうけど、無駄に短所のレッテル貼られちゃったりします。

しかも、中には私みたいな考えのやつが、静かに逆上してたりするかもしれません。

 

人見知りって言えない人見知りのまま、生きていこうと思います。

もちろん改善の努力もしつつ、でもこれも自分の個性なんだって受け入れてあげられるようになりたいな!

恋人ほしい時に限って恋人できない説を都合よく解釈したよ

恋人ほしい、って思ってるときに限って、恋人はできない。

逆に、今はある目標に向かって頑張ってるから、恋人いいや〜って思ってると、恋人できる。

 

モテすぎず、適度に恋人がいたことのある人たちがよく言う、この説はなんなんですか?

私に彼氏ができないのは、ずっと彼氏欲しいって思ってるからできないってことですかー!!私だって、今は忙しすぎて、彼氏欲しいとか考える暇もないときだって、今までたくさんあったよー!!でもね、でもね…涙。って叫びたくなるよ。

 

この説を聞いた知人は全員女性でして、だいたい受け身の姿勢で付き合うに至ったので、攻める男性側の気持ちってどんなだったのかな、と気になりました。

 

女性が恋人いいや〜って思ってるときに、自分を好きになってくれる人が現れるならば、

男性側は、同じように恋人いいや〜って思ってて急にひとめぼれしたのか、それともその人のことを前から狙っていたのか。

告る男性側の、恋人が出来る前は、どんな心持ちだったのか気になる!

もし、恋人ほしいときに限って恋人できない説が正しいなら、先に好きになった方は、恋人ほしいって思うから、恋人できないんじゃないかと思っちゃうんですよね。ひねくれててすいません。

 

恋人いいや〜って思ってるときに告ってくる男性の気持ちとして、2パターン(勝手に)考えました。

 

①恋人いいや〜って思ってるときに、ひとめぼれしてしまった、すぐ告ろう!

行動力のある男性なら納得できる。男女とも恋人いいや〜って思ってるときに、恋人ができるパターン。

 

②ずっとその人のこといいなと思ってて、今のタイミングで告ろう!

やっぱり前から狙ってたパターン。

恋人ほしいな、じゃなくて、この人がほしいな、だと恋は成就しやすいのでしょう。

女性が今は目標に向かって頑張ってるというイキイキした表情を魅せることで、男性が、なんか最近あの子さらにかわいくなったなあ、告ろう!に至るのではないでしょうか。

 

私は経験が浅すぎるので、実際はどうなのか知りません。相談する異性もいません。

 

 恋人ほしい時に限ってできない説は、とくに好きな人もいないけど、恋人ほしいっていうぼんやりした欲を持つ人の話。そう信じたいです。

 

というのも今、好きな人がいます…。なんもアプローチしてないけど。

とりあえず、次会えるときに、イキイキした表情を魅せられるように、目標に向かって頑張ります!

恋人欲しいときに限って、恋人できない説を聞いて、ちょっと不安になったので、自分なりの都合の良い解釈をしてみました。

 みんなリア充になーれ☆

楽しかった後の落ち込みは、どうにかならないものか

この1ヶ月、ほとんど誰ともご飯食べに行くことがなかったのに、突然のお誘いや、前から約束してたご飯が重なって、5日連続で誰かと夜ご飯食べた。

5日目とかは、突然のお誘いでやめようかとも思ったけど、なによりとてもお世話になった人だったので、ご飯行ってきた。

 

一人暮らしだし、学校にいても1人でご飯をすませるため、誰かとご飯はとても楽しかった。楽しかったんだと思う。動画や写真、つぶやきがそれを物語っている。

 

それが終わってからというもの、大変無気力な日々が続いている。

以前であれば、楽しかった翌日の学校や研究室は、行きたくないなぁと思いつつも、なんやかんやちょい遅刻ぐらいで行けた。

でも今は、なんだか動く気すらない。でも行かなきゃ、って葛藤はするんだけど、勝てない。勝たない。うだうだしてるうちに、活動し始めるには遅い時間になっちゃって、考えるのも嫌になって、眠くないけど寝る。

起きた時には、学校行かなかったことの罪悪感がヤバい。授業だけ受けてればいい学部の頃に戻りたい。お家にいたら論文読むかって言われたら、なにもしないわけだけど、なんで研究室にいなきゃいけないんですかね。なんてうだうだ考え始める。

最近感じてた嫌なことを思い出し、将来に対する不安も感じ出し、いろいろとどん底な考え方になる。

 

「楽しかった後 落ち込み」で検索しても、引き寄せの法則だの、うつ病だの、あるいは共感だの、今の私にはなんにも解決策に繋がらないものばかりだった。

つぶやいてみようかと思ったが、メンヘラって思われちゃう、140字じゃうだうだ語れん、ってなって断念。

最後にたどり着いたのは少し疎かにしてたブログである。このうだうだした気持ちを、つらつらとブログに書いてみることで、少し変わってきた気がするんだ。いや変わった!(・・・と自分に言い聞かせる)

 

明日こそは研究室行って、ちょっと大変だけどやらなきゃいけない事片付けて、バイトして・・・。こう思うから、行きたくないのかな、と思った。だから、こう考えようと思うの。

明日は研究室行けたらそれだけで自分を褒めよう!

研究室に行けなかった日々を考えると、かなりの成長、それぐらい大げさに考えてもいいのかもしれない。

 

こんなうだうだを話せる相手は、正直今の環境にはいない。だからブログやってみて、よかったなぁと思う。

こんな暗いブログだけど、自分の気持ちの整理のためだから、どうなってもいい。

 

「気分が沈んだらブログにGo!」

ブログはもしものための特効薬、そのくらいの気持ちでいれば、今後もまた乗り越えられるかもしれない。

今度、落ち込んだ時は、もうちょっと早くブログなり、他の方法なり、自分を元気づけるものに早く取りかかろうと思う。

ブログの内容が暗いこと続きであっても、自分のためのブログなんだから、暗いことが続いても気にせず、特効薬として活用していこう!

読書感想文も今なら書けそう

夏休みの宿題や作文コンクールのために何度か読書感想文を書く機会がありましたが、とっても苦手でした。

なんで苦手だったかを考察しつつ、過去の自分へ向けて応援メッセージを書きたいと思います。

 

私が文章書くことが嫌いだった理由 

文章を書くこと自体も苦手でした。

小学校の頃の日記でさえ、書いた作文はチェックされ、直され(主に母親)、本当に正直なことは書けませんでした。

 

私の小二くらいときの週末の日記。

「自分で卵焼きを作りました。卵を割ったときに、卵をひとつ床に落として割ってしまいました。両親にバレないように、床をきれいに掃除しました。卵焼きは味がしませんでした。」

床掃除までするなんて、なんていい子なんでしょう。この日記は両親にのぞかれるなんて1ミリも考えずに書いた日記でした。

 

しかし、日曜の夜9時くらいにバレました。こっちは日曜日の楽しいテレビを見ていたときに、「書き直しなさーい!」と怒られました。

それだけでも嫌な気分なのに、卵を落としたことも怒られた。両親にバレないようにと書いたことが、嘘を隠す悪い子って思われるからやめなさいと怒られた。正直に書いただけなのに、なんでこんなに言われなきゃいけないんだろう・・・と悶々といてました。

マスタイプの日記帳だったので、直すべき文のところまで全部消しゴムで消しました。筆圧が強かったので、日記帳のそのページは破れる寸前まで薄くなり、表面はザラザラになりました。消した上から、母に半分指示されるがままに、何とか日記を書き終えました。

そのころから、日記に何を書いていいのか分からず、日記を半泣きになりながら日曜日の夜に書いていた記憶があります。 

 

下手なことは書いてはいけないという家庭で育ってしまいました。両親の日記のチェックがなくなる頃になっても、下手なことは書いてはいけない、と自分自身に暗示をかけていました。この暗示こそが、私が文章を書くのが嫌いになってしまった原因ではないかと思いました。

 

 

様々な文章に触れてみて

文を書くのが苦手だったので、ついつい国語も嫌いになってました。国語が苦手という意識からか、本を読むことも避けるようになっていました。

本を読まない私が読む文章といえば、国語の文章題や教科書だけです。そんな完成された文章ばかりを読んでいると、やっぱり書ける人は選ばれた人なんだな、私には書く才能も国語の才能もないや、って勝手に思ってました。

 

しかし、大学生になり、スマホを持ち始め、twitterを始めて、最近はブログを始めるようになると、文章の定義が自分の中で変わっていきました。

 

文章って長く書く必要ないんだな、短くても適切に伝わるように書いたらいいんだな、というのがtwitterを始めてみて感じたことです。今までは原稿用紙指定されていたので、いかに文字数を埋められるかを考えていて、起承転結なんて後回しでした。結果、起承転結のどこかが異様に長い文章を書いていました。

 

今度はブログを始めてみて、いろんな方の思いの丈を語った文章を読んでみて、こんなに自由でいいんだ!しかも形式的な文章じゃない自由な語り口のおかげで、とても暑いものが伝わってくるぜ!って思いました。ブロガーにとっては当たり前かもしれないけど、私からしてみたら、何をネタに書いても良いし、個人のスタイルで文章書いちゃっていいんだな、と感動しました。

実際自分も書いてみたら、さらーっと長い文章(当社比)が書けちゃって、驚きました。下書きに保存してありますが。

 

 

読書感想文の苦手な理由推考

私自身、読書感想文はとても苦手でした。参考にしようと、うまいと言われる読書感想文を読んでみたり、ブロガーの読書感想文を読んでみたりして、うまい人って、その人なりのストーリーに落とし込んでるなと感じました。その人なりのストーリーに落とし込まれるからこそ、読んでるこっちもなんかワクワクするのかも。これがうまい読書感想文のコツなのかな、と思います。

 

読書感想文の書き方って、習ってないけど、読んで字のごとく「本を読んで感じたこと、考えたことを書いてください。」ですよね。これを真に受けた小学生の感想文は

「へぇー」の一言に尽きます。

(あくまでこれは私の体験談です。)

 

のんきに遊んでいた私にとって、読書感想文用に読んだ本に対して抱く感想は、「こんな出来事があったんだねー、かわいそうねー」ぐらいで、いざ原稿用紙に向かっても何も書けませんでした。

また人間関係に悩む主人公の本を読んで、自分の体験とリンクしてすごく考えさせられる文章を読んでも、こんなこと書いていいのかな・・・となかなか筆が進まないことがありました。

 

私なりに考える、小中学生が読書感想文を書けない理由をまとめました。

①そのような体験をリアルにしたことがないから。

②感情をちょうどよくきれいに表せる言葉が少ないから。

③リンクする体験があったとしても、先生やクラスメートに読まれるかもしれないことを考えると、書きにくい内容であるから。

 

小さい頃の読書感想文が苦手なのは、本の内容とそれにリンクする自分の体験がないからかもしれない。リンクする体験がないからこそ感想は「へぇ〜」の一言に尽きます。

 

それと感情をきれいに表せる言葉が少ないからかもしれない。自分も読書感想文書きながら、何回「~で、かわいそうと思った。」「~でびっくりした。」を繰り返してんねん!って思ったことか。

「感想+それに対して自分がどうしようと考えたのか」を書けばよかったなと思います。どうしようと考えたのかを具体的に書くことで、文字数が稼げます。

 

もし本の内容にリンクする出来事があっても、書きにくい内容なのではないかもしれない。大人だったら、私にはこんな過去がありました、と語れる過去は誰でも持っている。しかも、その過去は小学校、中学校での出来事で、過去の自分を知る人はいない状況であるから語れるものです。

小中学生の過去とはつい最近のことであり、その時のことを知っている同級生も多いです。小中学生における過去って、ほぼ今に直結してますからね。

匿名でかけるならまだしも、こういう体験をしてそのとき自分がこう思った、を紹介するとなると、つい最近の出来事すぎて、正直な黒い感情はなかなか書けないと思います。自分の名前が作文に書かれているし、その当時の友達はあの子だから、きっとあの子との出来事だったんだろう、なんて担任に予想されちゃいます。先生に読まれることを想像すると、悪い子に思われたくなくて、比人道的な感情や考えは書けないと思います。

読書感想文に指定されてる本って、たいてい主人公につらい出来事があるけど乗り越える物語が多いから、自分のストーリーに落とし込むにはつらかった思い出を書かなきゃなりません。部活でレギュラーを勝ち取るなど、つらかったけど、努力して乗り越えられた場合は良いけど、いじめとかスクールカーストでの人間関係とか努力しても変わらなかったものに関しては、何とも書きにくいものです。読書感想文で過去の嫌な思い出をつづるもの、十分に時がたってからではないとしたくありません。

 

読書感想文は、本を読んでみて、自分が感じたこと考えたことを思い出して書いた日記である、と伝えてくれたらもう少し書きやすかったのかもしれません。

読書感想文を書くのにふさわしい本を選べるように、あらすじを紹介した上で、自分と同じような環境や考え方の主人公が出てくる本を、題材にするように指導してくれたらもっと書きやすかったのかもしれません。

いい子ちゃんである必要はない、何を思っても何を書いても自由なんだ、と言う考えが自分にあれば、もっとすらすらと書けたのかもしれません。

 

読書感想文は廃止すべき?

読書感想文のせいで、読書が嫌いになるなんて叫ばれてますが、「読書感想文→読書が嫌いになる」という命題は成り立たちません。読書が好きか嫌いかは、その人次第で、成長するにつれて変わるものです。自分自身も読書は、おもしろいシリーズがあるときや、あの作家さんの本だけは!というときしか読んでません。

 

逆に、読書感想文を書くことで読書が好きになりました、というのは私の周りでは聞いたことがない。しかしこれは、先生や親の指導の仕方ではあり得ると思います。

読書感想文に、「この部分を読んでこう思いました、考えました。」と書いてある部分に対して、「この着眼点や考え方はおもしろいです。これからも独自の鋭い視点で、本を読んで、いい本があったら先生に教えてください。ついでにどの部分にどう感じたかも教えてください。」なんて書いてあったら、もっと本を読みたくなるんじゃないかと思います。

もちろん、本を読んでみて、どの場面で、どう考えたかを教えてください、という指導があってのもとです。 

 

廃止すべきか?と聞かれたら、廃止してほしいです、が正直な意見です。本を読書感想文のためにしか読まない子にとっては、興味のない本を読んでさらに文章化するのは苦痛です。本をよく読む子にとっては、読書感想文が、本の中のどの場面で、どう感じたか、自分はどう考えたかを伝えるために書く日記あるいは意見文だと伝えておけば、書きたい子は書くはずです。

だからやっぱり選択制にしましょう。それと原稿用紙で指定するんじゃなくて、あらすじと印象に残った場面、その場面で自分が感じたこと思ったこと、と項目を分けて、文字数指定なしで書かせるようにしたらいいのではないかと思います。

 

 あのころの自分へ

あらすじでも感想でも、考えたことでも、どんな小さなことでも何書いてもいいんだよ。評価なんていいのさ。早く宿題終わらせて、寝る方がずっと大事。

 

読書感想文は、自分の体験に落とし込むんだ。自分の体験をつらつらと書いて文字数稼ぎ。本を読んだときにも感じることもあるかもしれないけど、書いてみて考えが変わることもある。くだらないって思うかもしれないけど、自分がそのことにどう感じたか、小さいことでもいいから、書いてみる。そうやって一気に手を動かしてみた文書って、結構自分なりにいい文章だったりする。そういう風に書いてみると気持ちいい。

 

そもそも、読書感想文の書き方をきちんと教えてくれてないなら、どれがいい読書感想文かなんて、先生の主観でしかない。正解なんてない。自分の考えを伝えられるように書けたら、たぶんそれでいい。自分の考えだって、くだらない小さなことでもかまわない。ありきたりなこと書いたってつまらないから、自分の考えたこと自由に書いちゃっていいんだよ。

 

評価は気にするな。書き上げることに意味がある。作文コンクールに出せるくらいのいい文章は書く必要ないし、もし内容がいい作文だったら先生が結局書き直しを手伝ってくるから。

 

読書感想文今なら書けそうって言ったけど、やっぱり書きたくない笑。そんな労力残ってないな。論文読むので精一杯な院生でした。

つらいとき、つらいと言えたら、いいのにな~

Aqua Timezの「決意の朝」より。

つらいとき、いろんな曲を聴きながら、励みにして頑張ってきましたが、一番脳内再生されているのはこの曲のこのフレーズでしょう。

「つらいとき、つらいと言えたら、いいのにな。」

 

私はツッコミを入れたくなります。

つらいっていうだけなら、強がりでも弱虫な僕でも言えるんや!言えるけどだれも聞いてないんや!それがむなしいんじゃ!と。

 

この歌詞は「つらいとき、(この私を助けてくれそうな人に)つらいと言えたら、いいのにな。」が隠れていて、つまり「つらいとき、つらいと伝えられたら、いいのにな。」じゃないかなと私は思います。

それと、そのあとに「できたら応援か支援をください。」を付け加えたいです。

 

でも、こんな気持ち誰に伝えたらいいんだろう。

伝えたところで、助けてくれる人は誰だろうな。

みんな用事あって、私のこと気にかけてくれる人はいても、助けるまではしてくれないだろうな。

そもそもこのつらさは、自分のものだから、だれかに頼ったところで解決はしないんだよな。

助けてくれる人がいないなら、伝える必要ないよな。

・・・でも、つらい。

つらいの分かってほしい。

メンヘラとか思われるのかな。

・・・かまってちゃんって思われてもいいから、伝えたい。

みたいな堂々巡りですわ。

 

結局twitterにつぶやいて、だれからもリプ来ない。

まあそりゃみんな忙しいよね。ああ、つらい。

 まあ、いいんですけど、構ってもらわなくても・・・。

 

たとえ「大丈夫?」ってリプ来ても、

「大丈夫だよ。」って強がっちゃうんですよ。

だから、聞いてくれたらそれでいいんだよね、結局。

 

その後に続く「僕達は強がって笑う弱虫だ」も気になる歌詞だよね。

強がって笑ってるのに弱虫だなんて。

 

小学生のとき体育でサッカーしててね、かわいい子がボールぶつけられたら、みんな寄って集って心配するのに、私にボールぶつかっても、ぶつけた男子さえ謝ってこないときあったなぁ。

友だちは気を使ってくれたけど、私はたくましい系女子だったから、笑って大丈夫って言った。

私だって痛かったけど、泣かなかった。泣いたら弱虫だと思われるから。(それと私が泣いたところで助けてもらえるルックスではないから。)

 

こうやって男に媚びるとか、他人に弱みを見せるということをしないで生きてきた私にとって、強がってる人が弱虫だなんて言われるのは心外だった。「できな~い」ってくねくねしてる女子の方が弱虫じゃねえか!その謎を抱えたまま、負けず嫌いで頑張る女子で生きてきた。

 

でも最近思ったのは、本当につらいときにつらいと言えないことは、周りにさらに迷惑をかけることになるということだ。

つらいって、友達や家族に相談できない人は、つらいって思っている自分がダメなんだと思ってしまう。だからつらさに気づかないように自分の欲を無にする。そうしてただただ耐えて、ある日体にガタが来ちゃう。

私はそうなりかけたことがあるので、本当につらいとき、つらいって言えることは大切だなあと思った。また自分の家族や友達は、そうしたことを相談できる大切な人たちだと認識したので、これからはどんどん頼っていきたいと思った。

 

結局、強がって笑うのが弱虫かどうかなんて分からなかったけど、歌詞の最後の方に「僕が僕として生きてきた証にして」とあったので、うまくまとまってんなあ、と思いました。

どんなことがあっても、結局は人生の教訓になるのよ!あとで酒の肴になるからね!って感じでね。

 

 個人的にですが、

「大丈夫?」って聞かれても「大丈夫!」って答えちゃう強がり女子には、

「大丈夫じゃねぇだろ。無理すんなよ。俺を頼れ!」みたいな強引な対応してほしいです。(なんてわがままな。)

 

 個人的にですが2、

「つらいときつらいって言える?だってさ、つらいときにつらいって言ってたら、つらいって発した言葉によって、脳が今つらい状況ですって認識して、もっとつらくなるから、私はつらくても限界までつらいって言わないんだ。」

 って友達に熱弁したら、

「つらいって言い過ぎ!笑」

と一蹴されてしまいました笑。

 

だから私は、つらいときに「つらいとき、つらいと言えたら、いいのにな。」って歌詞が思い浮かぶと、それと同時に、そういえば友達に「つらい言い過ぎ!」って一蹴されたなあって思い出して、ひとりでにやにやしてます。

行こ行こ!って言われたら・・・

「食堂で豚キムチ丼やってるんだって!俺あれ好きなんだよね。行こいこ!」

ってバイト中に先輩のチャラ男さんに言われた。

 

行こ行こ!って誘ってるのかと思って、「いいですね(そんなに仲良くないのでノリノリではない)。行きましょう。」と返事したが、彼の方が先にバイト終わって、そのまま帰っていった。

 

・・・食堂行くんじゃないの?私は誘われたわけじゃないの?その1時間後にシフトが終わりましたが、彼は待ってるわけでもなかったみたいです。

 

行こ行こ!は、誘ってるのではなくて、自分で行こ行こ!っていう、自分のこれからの行動の告知にすぎなかった。方言のせいか、滑舌のせいか勘違いしてしまった。なんで、たかが食堂行くことを笑顔で報告したんだ。

 

ああ、全然好みでないチャラ男とご飯行くのか、とドキドキしてしまった自分を殴りたい。(このドキドキは、男性とご飯なんて久しぶりだわ、っていうのと、このチャラ男と何話したらいいんだ?のドキドキです。)

むしろ私のことからかうつもりだったんでしょうかね。

 

チャラ男はこの手を使って、よくデートとかに誘ってるのかな?と思ったら腹が立ちました。よかったら誘い文句として、この作戦使ってみてください。

チョコのおもいで

生チョコのおもいで

2月ですね。

女子ですが、高校時代のチョコの思い出を。

 

女子しかいない部活だったので、バレンタインは大量生産してました。

部員のほとんどが作ってくるので、作ったりもらったり、家でたべまくったり、楽しいバレンタインでした。

 

その中でも一番記憶に残っているチョコは、東大志望の子からもらった生チョコです。

2月14日を結構すぎてからもらいました。

大きなタッパーに手作りの生チョコが、数個残っていて「食べる~?」と餌付けされ、食べました。

ふつうにおいしかったんだと思います。

 

でも、その子があらぬセリフを言いました。

「この生チョコね、一ヶ月ぐらい前に作ったんだ。」

 

(・・・・・!食べちゃったよ・・・。タッパーやたらでかいのはそのせいか。)

 

「えっ、ちょっ、1ヶ月とか大丈夫なんすか?賞味期限的に?」と聞くと、

 

彼女は悪びれもなくこう言いました。 

「うん、大丈夫だよ!だってチョコってほとんど糖分でしょ!糖分濃度が高いから、菌は生きれられないから大丈夫だよ!」

 

・・・・衝撃すぎました。味忘れました。

東大様の言うことは絶対です。逆らえませんでした。

頭の中では、チョコを溶かす際に一回、バレンタイン当日に配るために学校に持ってきて最低一回、そして今日学校に持ってきて放課後までの間に一回、最低でも三回チョコ溶けてるよ!しかも生チョコでしょ!絶対やばいよ!なんて思ってました。 

 

科学信仰恐ろしや・・・

 

かくいう私も、塩分濃度や糖分濃度が高いからというのを大義名分にして、ソースやジャムの室温放置は気にしなくなりました。

 

 

チョコは腐らないのか

ふと思い出したので、気になって調べてみました。

でもこういうのって、たいてい知恵袋ばっかりなんですよね。正式な文章じゃないと、レポートに引用できません。

 

いろいろ調べましたが、食品の腐りやすさには、水分活性というのが関わってきます。これ授業でやったことあるやつだーと思い出しました。解説はめんどうなんで省略。

確かに、チョコレートは水分活性が低く、腐らせる微生物が住めないので、かなり腐りにくいそうです。

しかし、生クリームを入れることで水分活性が高くなり、微生物が住みやすくなるため、あまり日持ちしないそうです。

それでも水分活性を低く抑える工夫をすることで、微生物を住みにくくさせ、より長く持つ生チョコを作ろうと、試行錯誤してるそうです。

また、糖分や塩分を加えることで水分活性を下げることも出来るので、「糖分濃度が高いから大丈夫だよ。」は、ある意味当たりです。

 

知恵袋などでは、やはり手作りの生チョコの賞味期限は、3~5日という意見が多いですね。

あのチョコを食べた後、私はなんともなくて良かったな、ふぅ。

 

もらった人におなか壊してほしくないのもあって、私はバレンタインはブラウニーかクッキーしか作れませんね。

今年は研究室とバイト先に配ろうかなー。

みなさん、よいバレンタインデーを!