死んだヤギの墓10

1:去年『ウイルスの意味論』という本を読んでいたのですが、登場人物に強キャラっぽい人がいて、それをメモしたものが出てきたので書きます。フェリックス・デレーユという細菌学者、生物学者で「世界を放浪しながら、細菌学を独学で学」び、その後バクテリオファージの発見者の1人となる人物。バクテリオファージ(ファージ)というのは細菌に感染するウイルスの総称で、デレーユはファージを細菌感染の治療薬とするアイデアを最初に思いつき実際1919年に赤痢の治療に成功し一躍その名が知れ渡る。かなり強キャラで良いですね。

 

2:先日多人数で通話をしていたらゴリラの話題になり、私を含む3人がゴリラが大好きだということが発覚して、ゴリラ礼讃の流れになった。でも褒めてばっかりだと気持ち悪いから、悪いところも挙げようということになったんだけど、誰も挙げられなくて面白かった。ゴリラは良いですね。よくゴリラを使って笑いを取ろうとする人間いるじゃないですか、あいつらセンスゼロですからね。終わってます。これはツイッターにも描いたけど、だいたいゴリラがゴリラであるというだけで一律に笑い者にしていいという思想って、ユダヤ人を虐殺したり黒人を奴隷にしたりした人たちの中にあったものと何が違うの?と思う。危険思想じゃん。

 

3:『清水ニューロンの死が怖い』という漫画のシリーズを描いてるんですが、3話目がなかなか出来なくて困っている。自分がいかに死が怖いか、どう死が怖いかをコミカルに描くという作風なのだが、3話目は『生殖しても死が怖い』にしようかなと、そこまで考えて止まっている。そういえば友人が友人に「にゅろたん(私のことです)って『死が怖い』をやってて苦しいのかな」訊いたら「苦しいに決まってるじゃん」と言われたというのを聞いて笑った。確かに実際苦しい。ネタ探しに死に関する本を読んだりもしているんだけど、死は怖いということのディテールが鮮明になっていくばかりで、そこに救いとか無いですからね、あっても取ってつけたようなものすごい薄っぺらいやつですよ、「死があるから今を一生懸命生きることができる」みたいな。そんなの知るかよ。やっぱり宗教なのかな。そのあたりも漫画にしたいですね、怒られそうだけど。

 

死んだ山羊の墓9

1:今「首に爆弾を取り付けられた人」の漫画を描いている(大変爽やかな漫画になった)という話をしたら「にゅろたんっぽい」と言われた。にゅろたんっていうのは私の事です。そうか、私っぽいのかと思う。あとカート・ヴォネガットの小説も私っぽいという複数の意見があるのでそうなんだと思う(というか私がヴォネガットの影響下にあるという話だと思うけど)。私の漫画はロバート・アルトマンという映画監督の映画っぽさもあると言われて、アルトマンは見たことないと言ったら「まじか」と言われた(その後よく考えたら1本見ていた、『バード★シット』というやつ)。

私っぽさって何だろう。最近観たラース・フォン・トリアー監督の映画『ハウス・ジャック・ビルト』は部分的にかなり私っぽいと思った。主人公は殺人鬼なのだが、殺人にのめり込むにつれて強迫性障害が治っていく。アンモラルな行いによって救われていく主人公。しかし並行して進めている自分で設計した家の建築は、途中で気に入らなくなって壊す、を繰り返す。このあたりがかなり私っぽいと思う。

それから私は諦めみたいな笑いが好きだ。私の作品における笑いはそうであってほしいな。

2:夜から朝にかけてたくさん人と話した。大事なことを話し合った気がするけどだいたい忘れてしまった。もっと濃密な、そして自分らしい漫画を描こうと思った。

死んだ山羊の墓8

1:誤読が面白い。この間ツイッターで「人類は滅ぶべき」と書いたら(いつも書いているが)、友人が「人間を肯定したい派」なのでその意見とはそりが合わない、というようなことを言っていたけど、ぼくだって「人間を肯定したい派」で「人間を肯定する」と「人類は滅ぶべき」は両立する思想だし、ぼくが「人間を肯定し、なおかつ人類は滅ぶべき」と思っていることが伝わっていなかったので面白かった(これは誤読というか、ぼくがそれを言ってこなかったというだけだが)。

でもぼくは「この世の事象、特に人間のふるまい全てを肯定したい」とは全然思っていなくて、そうじゃないから人類には滅んでほしいんですよ。人間のふるまいなんてだいたいはクソですし。では「人間を肯定したい」とはどういう事か、というと例えばこれは一例でしかないけど、どんな人間であっても内にどんな野蛮を秘めていたって、それはいいのよ、みたいな話だ。この辺のことはまた改めて書きたい。

そういえば、ローマ法王か誰かが相模原の殺傷事件に言及したかなんかで「全ての人間の肯定が必要」みたいなことを言っていて、宗教の人がそれを言うのはジョークみたいで笑っちゃうなと思った。宗教がやってきた分断を反省しろ。してるならもっと反省しろ。

2:世界は「自分向け」に作られていないと感じ、辛い。感じるというかほぼ事実そうなんだ。そして「あなた向け」にも作られていない。誰向けにも作られていない。誰もが大なり小なりフィットしていない世界に無理やりはめ込まれている。どうしようもない。でもぼくは少し抗いたいと思っています。少しでもその中で生きやすく、周囲だけでも作り変えたいと思っていて、思っているというか少しずつやっている。ぼくが作り変えようとしているここが、たまたま誰かの生きやすさに貢献したらそれも嬉しい。これも恥ずかしいからまた違う機会にまた書きたい。

死んだ山羊の墓7

どんな悪い奴でも死んでほしいとは思わない。映画とかでクライマックスで敵のボスが死ぬじゃないですか、人が死んでハッピーエンドて、そんなぁってなってしまう。人が死んだ余韻でハッピーエンドを祝う気持ちにはなれない私は。話が逸れた。どんな悪いやつでも死んでほしいとは思わない、と言うと言われる。「じゃあお前の子や親や恋人が殺されたら?お前がそんなこと言えるのは他人事だからだよ」とかなんとか。そりゃそうだよ、大事な人が殺されたら誰でも理性的ではいられなくなる。でもですよ、そうじゃない(誰も殺されていない)今、理性で「どんな悪い奴でも死んでほしいとは思わない」と言えることってめちゃくちゃ大事なんじゃないのかな。よく、人間の本性とか言って残虐な例とかを見せられるけど、そういう「シチュエーション次第では人はなんでもやる」とかさ、それが人間の本性だったら理性的な状態で起こる温情や利他的な気持ちだってどう考えても人間の本性だろ。

死んだ山羊の墓6

雑なこと言ってんなと思って1回下げたけど、もう1回読んだら「情動……」だったのでもう1度出します。

 

 

みんなどうやって正気を保ってる?このろくでもない世の中でよ……。興味のないもの、好きじゃないものばかりが礼賛されているのが私は辛い。しかしある人が言いました。

「どんなものにも良さはある、訓練をすればその良さを見つけられる」

うるせ〜〜好きでもないものの良さを見つけて皆とニコニココミュニケーションする、それはただの処世術だ。自分向けに作られていないこの社会でうまくやっていくために自分の凸凹を削いでツルツルにしてベルトコンベアで死に向かうことの推奨か?

私は凸凹のまま暮らしたいんだよ。

これらの事から、どんな人生にも生きる価値など無いという事が分かってくる、だって誰しもが99パーセントの自分と合わないものの中でそうやって生きているからだ。そうじゃ無いという人は「自分の凸凹を削いでツルツルにした人」あるいは「めちゃくちゃ痛みに鈍感な人」だ。前者は完全に悲劇だし、後者はもっと悪い、そういう人は他人に痛みを与えることにも鈍感で、世界をより「生きる価値の無い世界」にすることに貢献している。

私が「滅びましょう」と事あるごとに言う理由の1つはこの辺にある。ただしこれには「『自分の辛い事』を一般化した上での結論にすぎない」という批判があると思う、それに対しては拙著「苦痛の濁水」にて答えているので読むように(無い)。終わりです。

『ビギニング・ビギニング』正しい後書き

5/12コミティア128でリリースした漫画『ビギニング・ビギニング』の後書きに重大な欠陥がありました。正しい差し替え版をpixivでも公開しましたが、読みにくそうなので、ブログでも公開します。本編を読んでない人は読まないでください。

 

『ビギニング・ビギニング』後書き

◎タイトルについて

『ビギニング・ビギニング』つまり「始まり始まり」ということなんですが、こういう表現は英語では無いらしく、でも語感が気に入ってタイトルにしました。おとぎ話のような雰囲気の漫画にしたいという思いでした。なってないと思いますが。

 

◎内容について

「100ページ越えの雰囲気漫画が描きたい」というのが発端でしたが、最終的には100ページ超えませんでしたし、雰囲気漫画にもなりませんでした。

シンプルな物語だと思います。「平和な町」がある人物の登場によって「良くないもの」に変わっていくという筋書きです。ただ「平和な町」は「平和」ではあるものの、どこか歪な感じがします。主人公はその町での妹との平穏な暮らしが気に入っています。そして仮面の男、彼は歪にデザインされた町(世界)とそこで平穏に暮らす人々を面白く思っていないようです。彼は町民に本によって「正しい知識」を与え、町の平和を乱します。虚構の中の平和と仮面の男の志向する世界、どちらが良いのでしょう。一応私のスタンスを発表しておくと「その二者択一ってどうなの?」といった感じでしょうか。ですが物語はそのようには進みませんでした。

主人公の妹〈作為〉は賢い子供として描きました。彼女の知的欲求は図書館によって加速します。物語の終盤〈作為〉は「進化」について口にします(もちろんこれは自然選択説における進化のことで、舞台である「歪にデザインされた町」と対になっている感じです)。主人公は自分たちの平穏な暮らしを守るため仮面の男を殺しましたが、〈作為〉はもう姉が守りたい世界では満足しないでしょう。

 

◎〈作為〉という名前について

主人公の妹の名前は最初期には〈無為〉でした。それを友人に披露したところ「ありがち」と言われてしまったので〈作為〉になりました(ありがちか……?)。この名前は物語を進める上で私の中でいつの間にかキーワードになっていました。友人には感謝したいと思います。

 

◎挨拶

読んでいただきありがとうございました。私はまだまだもっと優れた漫画が描けると思いますので、今後も付き合っていただけたらと思います。

 

死んだ山羊の墓5

最近思っているんですが「自分だけが『真実』に気付いてしまった病気(と思われる)の人」になりたい、なりたくないですか?少なくとも主観では真実を掴んでいるわけで、掴みたくないですか?真実。そうじゃない人はお帰り下さい。そりゃ自分だけ真実に気付いていたら周りの不幸な仔羊たちを導いてあげたくて怪文書も書きますよ。「真実を掴んだ」という実感ってどんな感じなんですかね。

真実を掴んだら突っ走るしかないんですよ。よく「異なる意見を尊重しましょう」みたいのあるじゃないですか。そんなものクソじゃないですか。事なかれ主義者の戯言ですよ。そんなものは本気の言論では無い。だって例えば奴隷制度が敷かれている国で、それは良くないと気付いたらどうですか?今もまさに苦しんでいる人がいるというのに「異なる意見を尊重しましょう」なんて言えます?

つまり私は本気の言論が好きなので、怪文書を書きたい。実は私はたまに漫画を描くんですよ。で、創作についてもそうありたいと常々思っているのですが、本気度が足りず怪文書みが足りない作品しか作れていないですね。せめて怪文書みの強い他人の漫画を読みたい。以上です。