物事をシミュレートするとき、シンプルな例から始めると良い

なんか昨日寝る前に思い浮かべたな。こういう話。

 

「難しい問題を考えるとき、みんな一足飛びにやろうとするから直ぐに頭が混乱する。まずは一番解きやすい簡単な例で初めて、そこから少しづつ複雑化してみれば良い」

 

それを教えてくれた彼は、日本で最も難易度の高い数学のクラスを受け持つ予備校の先生だった。彼の講義は常にシンプルで且つ明快でしかも直感的な教えを主としておりとても分かりやすかった。あまりに分かり安すぎて、講義の内容はとても難易度の高い内容ばかりだった筈なのだが、一度聞いただけで全てを理解した気分になってしまうぐらいであった。

 

そのときの経験からか、頭のいい人は複雑なことが考えられるから頭が良いのではなく、どんなに難解なことも単純で簡潔な理論の組み合わせであるという信念を持つ用になった。何か込み入った物事を考えるときには自分は何時も一番考えやすいシンプルな例から思い浮かべるようにしている。

 

昨日寝る前にこんなことを考えていた。

 

『なぜ人に勝ちたい、お金持ちになりたいと思うのだろうか? それは他人がいるからだろうか?』

 

この問題は何を取っ掛かりに考えればいい分からない。取っ掛かりが無いのは、問題の定義が複雑だからだ。まずはシンプルに、こう考えたらどうだろう。

 

『もし明日、世界に自分ひとりしかいなくなったらどうだ? お金持ちや、飽食、所有感などに興味を持つか?』

 

私の中での答えは間違いなく”否”だ。そんなものはとても虚しくなるだろう。

 

『では、明日、世界に自分ひとりとパートナー一人になったら?』

 

そのパートナーに大して興味津々になるか、いとおしく思うかどちらかでだろう。そして自分との違いに興味を持つだろう。しかし、それだけでは勝ち負けや嫉妬などは生まれない。それが生まれるのは、パートナーが持つものと自分が持たないモノの差が見えたとき、そしてその差が生きていくうちでの辛さをもたらす時に、そういった感情が芽生える。しかし、その人と共に生きていこうと思う気持ちのほうが強いだろう。

 

『では、明日世界に3人だけ残ったら?』

 

どうだろう。自分が除け者にされたら? そしたら自分が世界に一人になったら時とほぼ変わらない状況になってしまう。考えやすい状況は3人とも同程度に仲良しか、特定の二人だけが凄く中が良いかだ。ようするに、3人が男男女の組み合わせであり、そのうち1ペアの男女が恋仲であるとしよう。残った一人の男も性格が良く、他の二人と仲が悪くなくない。この場合は除け者の一人は嫉妬と絶望に打ちひしがれるだろう。

 

結局問題はこうだ。自分に近しい状況にあるものが持つものを自分が持たない、そういう状況に陥ったとき、人間は何かを渇望する。しかし、それは何なのだろう? その感情は意味のあるものなのだろうか。渇望、欲望、嫉妬、怒り。。。何なんだろうこれは。

誰も君らの事なんか考えていないからね?

別にわざわざ声に出さなくても良いのに。

入社して初めて担当役員がくれたアドバイスがそれだった。

正確には、

 

「誰も君らのキャリアなんて考えていないからね。自分で考えるんだよ」

 

だったかな。まぁ同じ事だ。

彼は会社を辞める際にこうも言った。

 

「僕は辞めることになりました。だけど、暴力はよくない」

 

と言って辞めていった。殆どの同僚や先後輩がポカンとした目で執行役を見つめる中、僕は直ぐにこの言葉の含意に気付いた人間の一人であった。彼は要するに、『部下全員を見捨てて逃げるけど、俺は悪くない』ということを、彼を逃げるなと責め立てる人に言いたかったのだ。会社って言うには偉くなる程、部下のことを考えなくなるんだなっとこの時しみじみと学んだ。そしてこう思った。

 

 それじゃあ・・・・・・ 僕らも会社のことも上司のことも考えなくて良いよね?

 

 如何に自分のために生きるか。

会社というものは、学校でもサークルでも仕事場でも無い。ただの狩場だ。生活の糧を収穫する場だ。利用できるものを如何に集められるかだけ考えて、利用する価値が無くなったら捨てればよい。

無為に時間を過ごしたと感じた時の覚書

「人生に解決策などない。あるのは前に進む力だけだ」

 ——夜間飛行(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

 

前に進む力って何だろう。多分、進みながらもがく姿だと思う。

進む先には、自分の本然から浮かび上がる願望の糧となるものがあるだろう。

前に進む力とは、ただ時間の流れに身を任せて叶うことではなく、大抵は苦しくて、やりたくなくてしょうがなくて堪らない事をこなす力のことだろう。

 

「なにが“星の下に生まれついた”だ! つらいことなんか誰にだってある! 自分だけが 不幸だなんて自惚れんじゃない!」

「“自分なりに真剣にやっていた”なんて恥ずかしげもなくよく言えたもんだな!  そんなことは当たり前だ! 何をやってもうまく行かないなんて、なんでもかんでもうまく行く方がおかしいんだ!ほとんど のことは失敗の繰り返しで、それでもみんな、それを承知でやらなきゃならないことをやっているんだ!」 

——ブギーポップパラドックス ハートレス・レッド(上遠野浩平

 

そう。嫌で嫌でしょうがない。つまらない。分からない。何が起こる変わらない。どうせ何も変わらない。失敗するかもしれない。嫌で嫌でしょうがない。

結局、君が招いたことだ。君が行動するかしないか。ただそれだけの問題だ。アルフレッド・アドラーに言わしてみれば、「人生が困難なのではない。あなたが人生を困難にしているのだ。人生はきわめてシンプルである」ということだ。

 

君が行動して、君が成功して、君が失敗して、そして何も起こらない。

夏目漱石の道楽と自由

職業は卑俗であればあるほど儲かり、他人本位であればあるほど儲かる。それは人の”ため”になるから。自分本位であればあるほど儲からない。世間のご機嫌を取り得ないから。

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そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌ごきげんを取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支さしつかえないくらいのものです。

 

だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪けしからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世とせいにしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒ふらちにもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢ぜいたくを極きわめていると言わなければならぬのです。道徳問題じゃない、事実問題である。

 

現に芸妓げいしゃというようなものは、私はあまり関係しないからして精くわしいことは知らんけれどもとにかく一流の芸妓とか何とかなるとちょっと指環を買うのでも千円とか五百円という高価なものの中から撰取よりどりをして余裕があるように見える。私は今ここにニッケルの時計しか持っておらぬ。高尚な意味で云ったら芸妓よりも私の方が人のためにする事が多くはないだろうかという疑もあるが、どうも芸妓ほど人の気に入らない事もまたたしからしい。

 

つまり芸妓は有徳な人だからああ云う贅沢ができる、いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がないという結論に落ちて来る。

 

途中略

 

それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安めやすにして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。

 

途中略

 

ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做みなすよりほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠こもって深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。

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左を向きたがる社会学屋

社会学者、社会学就学者はなぜ基本的に左向きなんだろ?

 

以前、そんな質問を社会学を履修していた友人にぶつけてみた。すると彼の返答はこんな感じだった。社会学を学ぶとなると、小さい単位の社会や部族などについて研究することが多くなる。そうすると、それを守るべきという話になり、どうしても対国家という構図の中で議論が進んで行ってしまう。だからじゃないかな。と。

 

それは学問なのか? ちょっと違うような気がする。彼らは対国家の中で少しづつ薄れゆく民族意識という構図を描いて、国家は小さな社会体や少数民族とその文化を尊重して優遇しろ、と要するに言う。そして、国の発展の結果として小さな社会体が薄く成りゆくなんてことはあり得ない、という話の展開を好む。しかし、そういった主張を持つ者が多く社会学者として存在している理由は本質的には彼らが学問として成り立つ何かを研究しているわけではなく、自分が保護者として代弁できる団体から”サポート”を得られるからなのではないか? だとすると、それは”商売”でしかなく、学問ではない。

 

学問ではないから、社会学を”商売”としているから、物事の本質を語らなくなり、自分たちの存在意義を示すために小さいコミュニティを煽って安易に国家と対立させる。そして、それを糧にして飯を食う。

 

全員がそれに当てはまるとは言わない。しかし、講演や権利団体の代表になり左向きの発言を行ってお金を得る活動家になることが、社会学の分野で稼ぐ近道になってしまっているという構造が、彼らが左を向きたがる原因なのだろうなぁ、と思った。

頭が良いこと=(イコール)性格が悪いことではないけど、人との距離を開かせてしまう

アルジャーノンに花束を より

「誤解しないでくださいよ」

私は言った。

「知能は人間に与えられた最高の資質の一つですよ。しかし、知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです。これはごく最近ぼくがひとりで発見したんですがね。これをひとつの仮説として示しましょう。すなわち、愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。

・・・・

僕の知能が低かったときは、友だちが大勢いた。今は一人もいない。そりゃ確かにたくさんの人間は知っている。ほんとうにたくさんの人間をね。でもほんとうの友だちは一人もいやしない」

 

顧みない子

想像力の無い人達との行動は徒労と苛立ちの連続である。

27歳だけど、背が小さく化粧も少し幼げなガーリーな形に仕上げている”女の子”(H子)がいる。あまり働かない上司(上司T)についてしまった故に、会社の中で自分の不遇を嘆いていた。

ある日、日々の不満が限界を超えて、事務の補佐をしてあげている仲の良い営業職の要職付きのおじさん(営業K) に、自分の上司が使えないからどうにかできないのか相談し始める。

この営業Kは際物で、何かどこかでボヤがが起きるたびに囃し立てて、問題だ問題だと言い回って事態を混乱させる質(たち)の人間。営業K は可愛い事務の女の子の頼みと思って様々な部署の人間を巻き込み、これを機に自分が目をつけていた人を自分達の事務の担当にしろと言い出す。

事務方の部長は急に、自分の部下の一人をひたすら代わる代わる罵倒され始めるが、寝耳に水。ただ、この事務方の部長、お気に入りの部下を並べる質(たち)の人間で、つかさず反撃に出はじめ、事態が次第に混とんとなっていく。

事が大きくなっていき、事務部長と営業方の部長格が出て着ての話し合いに発展。事務方の部長はやればできる人間だから、特に異動させる必要はないし、勝手に特定の人物の一存で配置転換なんかしないと言い。営業の部長格は使えない事務方の女の子の上司Tが如何に使えないかテストさせるという。

一方で、そもそもなんでこのような事態になったのか、事務方の部長が気になり調べてみると、事の発端がH子が営業Kに上司Tのことについて相談したせいだと分かり始め、H子の立場が事務方の部内で急激に悪くなり始める。H子も、自分の不満のために複数の部署の人間が自分の上司たちと喧嘩を始めてしまい、自分がかなり疎ましい存在となってしまったことを認識し始める。

そこでH子はこう出てくる。「もう騒ぎを広げたくないんでこれ以上話を広げるのはやめてください。T上司の仕事が前より仕事をするようになったのはよかったですけど、お蔭で敵ばっかり作りました。。」

誰が始めた喧嘩だったのか。敵を作る事態になるとは認識していなかったのか。彼女は1年に一度は癇癪を起し、自分に甘いおじさんを頼りに敵を作る。また来年も敵を増やすだろう。そのうち誰からも手助けを受けられなくなるまで。