ネコと鮮魚

ネコと鮮魚が仲たがい

ある日の京成本線で

首都圏に引っ越してきて半年以上が経過した。

満員電車で通勤する日は息苦しさもあるけれど、何とか元気にやっている。

在宅勤務の日に、日が暮れているのに気づかず、机のスタンドライトだけで仕事をし続けていたせいで、そのままミーティングにジョインしたとき、お化けかと思いましたと言われたのはさすがに笑った。

まだまだ分からないことばかりだけど、分からないことを知って、分かろうと努力し続けることの大切さを日々感じている。

 

東京は、小さい頃に見ていた「特別な街、東京」とは違って、近くに住んでみるとただの街だったけど、それでも、かっこいい街だと思う。

先日、用があって、京成本線に乗ったとき、子供の頃に見た、見たこともないのに、なぜかすごく懐かしい景色が、突然車窓に現れ、私はハッとした。

 

青砥、お花茶屋周辺の景色だった。

 

昔、単身赴任中の父が東京の病院に入院していて、静岡からお見舞いに行った時に乗った電車がまさにその電車だった。

東京に土地勘のない田舎生まれの母が、東京駅の人の多さに翻弄されながら、小さい娘×2を連れて父を見舞いに行ったことや、見舞い終わりに3人で青砥駅の近くで中華料理店に入りラーメンをすすったことを、車窓の景色を見て思い出した。

 

当時の場面がパノラマのようにいくつか思い浮かぶけど、それでもあの時どんな気持ちだったとかは忘れてしまったね。どんな気持ちだったんだっけ。

あのとき、母はすごく大変だっただろうなと今になって思う。

 

あの時の景色を、こんな大人になってから、また見て、思い出すなんて、思いもしなかったな。

 

人生は不思議だらけ。

 

大人になっても記憶として残るもの

昨日、「우리들」という映画を見たんですが、本当に名作でした。

 

友達のいない、いじめられっ子の小学生ソンが夏休みの直前に転校してきたジアという女の子と出会い二人は友達になる。夏休みの間に、塾に通うようになったジアは、そこで、スクールカースト上位のボラと仲良くなる。そして学校が始まると、ジアはボラたちの一味にすっかり溶け込んで、ソンはまた一人ぼっちになってしまう。そこから、ジアとソンは報復合戦のように、周りのスクールカースト上位層(ボラたち)を巻き込みながら、互いに傷つけ合う。

 

というのが、物語のあらすじだ。

夜勤明けのぼんやりした感覚で見たので、あらすじに入れるべき大事な描写が抜けているかもしれない。(誰かの映画レビューの記事を参照してください。)

 

私がこの映画の感想として一番に述べたいのは、「どうして大人が、このような子供時代の瑞々しい感覚をここまで鮮明に、絶妙に表現できるのか」ということだ。

 

一通りこの映画を噛み締めてから、浮かんできた疑問がこれだった。

 

そして1分に満たないくらいの時間考えて出た結論が「寂しい、悲しい、怖い…という記憶ほど、いつまでも、しつこく残る」ということだった。

 

だから、大人が「우리들」という映画を作れるのだ。きっと、監督の心の中にそういう記憶が鮮明に残っていたからだ。…論理が飛躍していますが、映画を見たら、きっと分かります。

 

たしかに、自分自身も、子供の頃の楽しかった記憶よりも、「体調を崩したけれど、お母さんは仕事で一緒にいられなかったこと」や「幼稚園の年少ペアの子が泣いてばかりで、全くお姉さんになれなかったこと」とかそういう記憶ばかりを嫌に鮮明に覚えている。

 

では、なぜ陰性の感情(悲しいとか怖いとか)は、しつこく記憶に残るのかということを自分なりに考えてみたけれど、分からなかった。

 

きっと陰性の感情を脳のどこかで処理する時に陽性の感情処理と違う方法で処理されるんだろうとか、よく分からないけど、何か脳科学的な知見がありそうだよね。難しいことはわからないや。机上の空論クラブだからさ。

 

 

 

それからね、最近、感情というものについて考えることがあった。(まぁしばしば考えているんですが…)

 

感情には数えきれないほどのいろんな種類がある。ほんとうは、言葉なんかをあてられるものじゃないかもしれない。仮に言葉をあてたとしても、その定義も人それぞれで、曖昧だから、すごく不確かなものだと思う。

 

まだ言葉になっていないけど、どこかにある、名前のない感情も世界に無数にあると思う。そう考えたら、感情というのは、まことに一つの宇宙のようなものだ。おもしろいね。心情をchaosと表すことがあるけど、まさにそういうことなのかも。

 

0と1を考えた時の、「0がnothingで、1は確かに在る」みたいな数字のような正確さは、感情を表す言葉にはない。

 

数字は私にとっても、あなたにとっても0と1という絶対的なものだけど、私の嬉しいと、あなたの嬉しいは違うし、私の悲しいとあなたの悲しいも違う。不確かだね。

 

そのような、不確かで主観的な「感情」や「痛み」を表すスケールとしてそれらに数字を当てることが医療やアサーショントレーニングなどでもある。不確かなものを数字を使って表すことで、不確実性を限界まで可視化できるようにしたものであるが、たとえば、私の怒り5/10は、あなたの怒り8/10かもしれない。だから、数字で表しても、未だに感情や痛みの不確実性は残る。

 

だから、感情はすごく難しい。

数字よりも難しいんだ。

 

誰も絶対に、完全には理解できないんだ。

誰かの感情を理解しようとする時、言葉や数字で解釈を埋めることはできるけれど、完全に埋まることがない。

 

そう考えたら、人間、未知すぎてこわい。

でも感情が、宇宙みたいだと考えたら、ちょっと面白い。

 

誰にも完全には理解されない、誰のことも完全には理解できない人間が集まっている家と会社と学校と国と世界。なんてこった!

 

 

2022年、春の日記

 

春になると日記を書きたくなるのは、なぜだろう。

 

この冬はすごく寒くて、京都でも雪がたくさん降った。あまりにもたくさん降るので、この前までは珍しいと思っていた雪も、次第に「またか…」と新鮮さを失っていったけれど、それでもやっぱり雪が降ると、うれしいという気持ちは変わらなかった。

 

わたしが生まれた街は雪が降らない。

だから、新鮮さを失ったとしても、雪が降るとやっぱりうれしい。

 

寒波が何度も到来して、冬はとても寒かったけれど、やっと春がきた。もうすぐ、春が来るかしらと思ってから、春が来るまではあっという間だった。散歩に出かけたくなるような穏やかな日差しと、小さな部屋の窓辺に吹く風が愛おしい季節。

 

冒頭の問いかけの答えは、「この季節の愛おしさを、誰かと共有したいから」なのかもしれない。

 

さて、私はこの夏に現職を退職して、実家に帰り、しばらく仕事をせず、勉強に勤しむつもり。だから、この街で過ごす冬は、最後だったし、この街で過ごす春もこれが最後になる。

 

次は首都圏で就職することになるので、関西とさらに西にいる友達には気軽には会えなくなる。すごく寂しいけど。

 

この街のことは好きだ。

光都市として栄えるこの街は、コロナ禍で変わっていったことがたくさんあったけど、変わらなかったことや、新しく生み出された価値もある。

 

ここで、いい職場に恵まれて、安心を得て、たのしい思い出もできた。歴史と文化が息づくこの街で、興味深い経験もたくさんできた。いつかまた、この街に住む形で、帰ってきたいなと思う。

 

静岡→広島→京都と、いろんなところに住んできたけれど、私は住めば都タイプの人間で、わりとどこにでも住めるタイプだと思う。住んでいる街のことを嫌いだなと思ったことはない。それぞれの地域にその歴史と、魅力がある。街の中に好きな場所が一つでも見つかれば、それで十分である。

 

静岡で好きな場所は、家の近くの大きな池のある公園。広島で好きな場所は、京橋川から宇品港にかけての川沿いの道。京都で好きな場所は、鴨川沿い。

 

首都圏で過ごすことになったら、好きな場所を見つけられるかな。新しい街で過ごすことは不安もあるけれど、きっとどこかに、いいなと思える場所があるだろう。

 

早く桜を見たいな。

この街で過ごす最後の春の桜だ。

 

お花見をしよう。

 

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春と言ったらやっぱりこの曲

https://music.apple.com/jp/album/%E6%98%A5%E3%81%AE%E6%97%A5/1099672403?i=1099672408

 

新幹線の下で

一昨日、駅中の本屋で時間を潰していたら、ほんとうに微かにガラスが連続的にぶつかるような音が聞こえて、すごくうれしかった。

 

その本屋の上には新幹線がはしっていて、新幹線が通る時の振動で店の中のなにか、ガラスのようなものが音を立てていたよう。

 

小さな本屋さんなんですよ、そこは。

それでね、その音を聞いた時、映画でも始まっちゃうんじゃないかと思った。

 

この本屋を出たら、いつの間にか別の世界になってたりしてなんて思った。

この音を聞くたびに外は別の世界になってたりしてなんて考えた。

これはもう完全に映画の見過ぎなのだけどね。

 

うれしかった〜。

また聞きたい。

あの音を聞くためだけにあの本屋に行きたい。

 

大きい音が苦手で、おまけにびびりだから、いつもちょっとしたことで驚いてしまうけど、あの音は本当に、魅力的でした。

 

 

みんなにも聞いて欲しかったな。

 

 

 

寒い日の日記

寒いのって何でこんなにも心細いのか。

 

寒すぎてこたつのこととか、炬燵の上にあるミカンのこととか、仏壇の前でマッチを擦ったときに灯る炎のこととか、そんなことばかり考えてしまうよ。

 

実家にいた頃、たまに炬燵で寝てしまうことがあったんだけど、その度に決まって毎回風邪をひいてた。あたりまえである。

 

夜中に寒さで目覚めて起きて、布団に潜るんだけど、朝起きると案の定、風邪っぴきである。

 

そういう日の朝は母さんに怒られたっけな。

 

 

そんなこと思い出して、ああ両親に会いたいなと思ったら、余計に心細くなっちゃったよ。

 

あたたかいものと思って頭にうかぶのは、多くが実家でのことがらだ。

 

普段は気にもしていないが、一人暮らしの潜在的な心細さが露見する寒い寒い冬の一夜である。

 

冷めたペンネ

冷たくなったものが好きだ。

冷たいものじゃなくて、温かかったのに、冷めてしまったものが好き。

 

これはね、実は昔からそうなの。

 

猫舌だからということもあるけれど、それだけじゃなくて。

 

冷めていた方が、味わって食べられる気がしていて。熱いと、あちッ…てなってそっちに気を取られちゃうじゃない?

 

だからね、電子レンジでペンネをあたためるときも、熱々にしない。半分冷たくて、半分温かいくらいが、私にはちょうどいいのです。

 

冬に食べる鍋、もちろん鍋は熱々のお料理なのですが、鍋もすこし冷ましたいと思う。

 

いろんな野菜がはいっていて、大好きなマロニーもいて、それぞれが出汁風呂の中でひたひたになって、とても美味しいのに、熱さに気を取られて、おいしさを70%で感じたくないじゃないですか。

 

鍋冷ますとか邪道なのは分かっているのだけどね。

 

一緒に鍋を食べることになっても、みなさんは湯気がぼわぼわ出ているうちに食べてください。私は器によそって、ちょっと待っときますが、放っておいてね。鍋がすこし冷めたときに、私のターンが回ってくるので。

 

「俺のターン!冷めた鍋!」

 

 

ペンネの話に戻るんだけど、10月くらい、ペンネにハマって、朝も昼もペンネばかり食べていたんです。

 

ペンネってすごいのよ。

あたたかくても美味しいし、冷たくても美味しい。

 

トマト系の味付けにしたときは温かめのが美味しいし、マヨネーズとシーチキンでサラダ風にもできて、それも良い。

 

そしてなにより簡単に一品になる。

 

最近食べてないのだけど、ペンネのこと思い出したら、また、食べたくなってきた。

 

最後に…ペンネって言葉もかわいい。

ペンネって響きがいいなと思う。

 

それだけ!

 

 

宝箱みたいな

宝箱みたいだなぁと思いました。

 

小さい頃にお祭りの屋台とかですくって集めたプラスチックのクリスタルとか、調子乗って床に叩きつけたらすぐどっかにいっちゃうスーパーボールとか、つやつやして飴玉みたいだけど、食べれそうで食べれないおはじきとかビー玉とか、ビーズで作った小さすぎるブレスレットとか大きすぎる指輪とか、アイロンあてすぎて、ちょっと溶け気味のアイロンビーズで作ったハートとか。

 

そういう、かわいい!とおもって、ときめいた大好きなものたちをぎゅーっと集めて、一つの箱におさめたもの、それが宝箱なんだけど、象の背が10月にリリースしたアルバム、「Tidyin' Up My Room」は、私にとってまさに宝箱みたいなものでした。

 

自分がまだ大学生の時、レコ屋がTwitterで音源をアップしていたのを聞いて、ビビッときて即、ファーストを購入したのが、私が象の背ラバーになったはじまりなのですが、当時は広島に住んでいたので、ライブを見に行くことがなかなかできなくて、ずっと憧れみたいな感じでした。

 

そこから大学卒業してしばらくして、色々あり京都にお引越しをしてきて、やっと生で象の背を拝むことができたのです。

 

初めてステージを見れたあの日は、本当にうれしくて、持参したファーストにサインをもらいました✌︎ ちょっと懐かしい。

 

軽音部だったのに音楽のことあんまり分からない私だから、どこがどういいの?とか、具体的には言葉にできないけど、とにかく象の背はかわいい。それとね、時々やってくる憂鬱とか、なんて言ったらいいか分からない変な気持ちとか、あるじゃん?そういうのも全部かわいいのなかに溶け込ませちゃうっていうんですか、そんなところに、ときめいちゃうんですよね。

 

なんでそういうところにときめいちゃうかってきかれたら、それはもう直感でしかないんだけど、やっぱり結局は宝箱なんだと思うんですよ。

 

小さい頃にかわいい!とおもって大事にしてたものたちは全てわたしのかわいい!の直感によって集められたものたちだから。

 

もちろん、宝箱は持ち主が大きくなるにつれてさようならをしていくものかもしれないし、そうでないかもしれないんだけど、宝箱をつくる根本にあるものは、形を変えてその人のなかに存在し続けると思うんです。

 

わたしの宝箱(現物)は実家にまだあるのやらないのやら…もうとっくにさようならをしてしまったけれど、わたしの中に、宝箱を作り上げたときめきってのはまだちゃんと存在している。

 

いまもかわいい!と思う気持ちと、その対象をとっても大事にしている。

 

象の背はそのときめきをいつも感じさせてくれる、私にとってそんなバンドなのです。

 

 

はぁ〜ほんとキュ〜ト…!

ラブじゃん?

 

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