改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

憲法を守りたいなら「護憲」を捨てよう

今、日本の人々を最も苦しめているものは、労働問題・貧困である、と少なくとも私は考えている。

 

おそらくアメリカもそうだろう。

その結果がかつてのオバマであり、そのもっと顕著な結果がトランプ・サンダース現象である。

多くの人は変化を望んでいる。

オバマが期待されたほどに効果を上げなかったため、もっと大きな変化を望んで、トランプやサンダースに期待するのだろう。

 

日本でも、かつて人々は、変化を望んで小泉首相を支持し、変化を望んで民主党を支持した。しかし、いずれも期待されたほどに効果を上げることなく、小泉後の自民党は大敗して下野し、民主党も大敗して下野した。

アベノミクスが今の日本の問題を解決することがあれば話は別だが、そうでなければ、人々は今後もっと顕著な変化を望むことが予想される。

 

護憲」を最大の旗印にする主張が、顕著な変化を望む人々の受け皿になりうるか。

 

護憲」とはリベラルな保守である。

日本国憲法、とりわけ憲法9条は、憧れる対象としての新たな理念ではなく、70年の歴史を持つ日本の伝統となっている。伝統を守ろう、というのは、保守である。

そう表現するなら、「改憲」はコンサバティブな革新である、ということになるだろう。

 

人々が、この国を根本的に変えなければ今の問題は解決しない、と望むなら、憲法を変えたいという気持ちも、今よりもっと強くなり得る。

今後、外交での危機も重なれば、なおさらである。

 

もちろん、憲法など、人々がより良く暮らすための手段なのだから、変えた方がプラスならば変えれば良いし、変えた方がマイナスなら変えなければ良い、というだけのこと。憲法を守ることや変えることが目的化するのはおかしな話だ。

 

しかし、この国の今後のためには、どうしても憲法を守りたい、という考えもあるだろう。

どうしても憲法を守りたいなら、多くの人々が、「変化を望まない」という意味で保守的になった方がいい。現状の生活に満足だから、今まで通りで良い、という姿勢になった方がいい。

今まで通りで良い、が大勢を占めるなら、たとえ外交的に危機に陥っても、せいぜい9条に項目をひとつ付け加える程度の条文改憲で落ち着くのではないか。

 

多くの人々が、「変化を望まない」という意味で保守的になるためには、生活状況の改善が必要である。今の日本の最大の問題、と冒頭で言った労働問題・貧困の状況改善が必要である。

そういう意味で、どうしても憲法を守りたいなら、護憲護憲と保守的な主張を繰り替えすよりも、労働問題・貧困問題に真っ先に取り組んだ方が良いだろう。

トランプは悪で、サンダースは善?

アメリカ大統領の座をめぐる争いの中で、トランプとサンダースの躍進が大いに話題となっているが、いずれも、中下層階級の怒りを支持の基盤としていることは、すでに多くの論者が指摘していることである。

 

怒りを持つ中下層階級から支持されるトランプとサンダースとを、前者は悪玉として、後者は善玉として、決めつけて論じるような言説が、とりわけ護憲・リベラル系の側から多いように見受けられる。

それでいいのだろうか。

 

共和党の中で見ても、トランプはたしかにその言動から「いかにも悪そうに」見えるかもしれないが、過激派のクルーズや、ネオコンのルビオが、トランプよりマトモだ、トランプより弱者に優しい、トランプより好ましい政策を実現できる、と言えるだろうか。少なくとも、「左翼」である私には、そうは思えない。

 

今、アメリカで、中下層階級の期待を集めているのが、トランプとサンダースなのだ、ということを、謙虚に受け止める必要がある。

なぜ、トランプが悪で、サンダースが善だと言わなければならないのか。

だとしたら、トランプに踊らされるのはバカな中下層市民で、サンダースに踊らされるのは良識ある中下層市民である、ということだろうか。

そんなこと、どの口が言えるのだろうか。

もし、そう思っているなら、中下層階級の支持を集められる「左翼」にはなれないだろう。

 

サンダースを支持したいという気持ちを持つ中下層階級に対して共感するなら、同じような善意的な共感を、トランプを支持したいという気持ちを持つ中下層階級に対しても持つべきだ。

サンダースに期待する人たちも、トランプに期待する人たちも、賢者でもバカでもない、我々の多くと同じ凡人であるはずだ。

 

日本に置き換えて考えた時に、もし中下層階級からの支持を得たいというのであれば、サンダース的なものを支持したい人たちだけでなく、トランプ的なものを支持したいという人たちからも共感してもらえるような言説を展開しなければならない。

「トランプ」は悪いんだ、騙されるな、あいつは嘘つきだ、「サンダース」が善いんだ、期待しよう、彼は本物だ、と決めつける言説で、中下層階級からの十分な支持が得られるとは、私には到底思えない。

「ネット右翼」と「プロ市民」

たとえば、こんな情報が出回っている。

matome.naver.jp

 

こういう噂は今までも流れていた。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

また、自民党に限らずどの党だろうが、このご時世、ネット上で自党のPRや、他党のネガキャンをするのは、不思議なことではないだろう。匿名でだっていくらでもできるのだから。

 

ところで、私の知り合いにも、いわゆる「ネット右翼」というレッテルを貼られがちな行動をしていると思しき人は何人もいるが、自民党工作員であるとは思えない。

仮に、本当に自民党のバイトが存在するとしても、それは一部の話であって、全体像ではないと私は予想している。

もっとも、私の予想に反して、ネトウヨ現象が全て自民党の手による演出だったら、それこそその戦略性の高さには賞賛せざるを得ない。

 

さて、問題はそこではない。

ここで、「プロ市民」という言葉と比較して考えることが大切なのではないかと思う。

プロ市民」もだいぶ使い古されてきた言葉だが、要するに、「市民」と称して反自民党的な運動をしている人たちを、「プロ」(つまり金で雇われている)であるかのように見る、「ネット右翼」側からの中傷である。

右が左を「プロ市民」と中傷し、左が右を「自民党工作員」と中傷する。

この対称性が面白い。まるで鏡を見ているようではないか。

 

私たち「左派・リベラル・護憲」派は、ともすれば彼ら「ネット右翼」たちに対して、不思議な思いで見てしまうことがある。

彼らが主張しているような、在日・反日が世の中にものすごく悪影響を持っている社会。

マスコミはNHKを筆頭に政府に反抗的なことばかりを主張しているという見方。

戦後行われてきた政治が左よりで、戦後行われてきた教育が自虐的で、という歴史観

異口同音に同じような妄想的な主張をしている、と感じて、宗教のような気味の悪さを覚えることもあるのではないだろうか。

 

そう感じた時に忘れがちなのが、私たち「左派・リベラル・護憲」派が、彼らからそう見られている、というものだ。

「左派・リベラル・護憲」派が今の社会について、マスコミや政治や教育について、主張していることも、彼らの立ち位置から見れば、「異口同音に同じような妄想的な主張をしていて、宗教のような気味の悪さを覚えることもある」内容だということ。

ここにも、対称性の構造、鏡の構造がある。

 

いや、お互いに「相手が妄想だ」と言ったところで、「こっちはきちんとした主張であって、相手は妄想なのだ」「だからこっちが正しいのだ」と言いたくなる人もいるだろう。

どっちにも、いるだろう。

そう。両派を突き放して、両派ともに信じない立場から眺めれば、「どっちもどっち」なのだ。

 

いずれかの主張を信じる側からすれば、自派が正しく、相手が間違っている、で終わるだけの話だろう。

しかし、それを互いに繰り返していたら、どういう結果が待っているだろうか。

私の予想では、声と力の大きい方が勝つ、と思っている。

つまり、「左派・リベラル・護憲」派は負ける、ということだ。

 

それが嫌なら、この対称性を崩すことから始めなければいけない。この構図そのものを打破する策を考えなくてはいけない。

慰安婦についての杉山外務審議官発言について

www.sankei.com

 

さて、先の合意での約束は、「日本政府は、韓国政府と共に、今後、国連等国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控える」「韓国政府は、今般日本政府が表明した措置が着実に実施されるとの前提で、日本政府と共に、今後、国連等国際社会において、本問題について互いに批判することは控える」とある。

つまり、合意で禁止されているのは、

・日本政府が慰安婦問題を題材にして韓国政府を非難・批判すること

・韓国政府が慰安婦問題を題材にして日本政府を非難・批判すること(ただし、日本政府が合意を遵守している時に限る)

ということである。

 

韓国政府は、これに対して、日本政府が合意に反していると判断すれば批判可能であり、そうでなければ批判不可能である。

 

今回の杉山発言は、上記の産経の記事で読む限りにおいては、日本政府は、韓国政府と共に、今後、国連等国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控える」には違反していない。なぜなら、朝日への批判をしているのであって、韓国政府への批判をしているわけではないからである。

では、韓国政府はこの杉山発言に対して批判不可能なのだろうか。

強いて言えば、「今般、日本政府の予算により、全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる」という部分があり、この発言が「全ての元慰安の方々の心の傷を癒やす措置」に逆行するものであるという判断で、杉山発言を批判することは不可能ではないかもしれない。

ただし、解釈が分かれるところであろう。そういう解釈のもとで韓国政府が杉山発言を批判したら、日本からは、別の解釈により、合意を韓国政府が踏みにじった、という批判をすることも可能になるであろう。

 

これが、この「合意」での韓国政府の苦しいところである。

もっとも、韓国政府も、日本政府を非難・批判するために慰安婦問題を取り上げるのでなければ、慰安婦について発言することができる。つまり、杉山発言が韓国政府を直接批判しているのではないのと同様の手法をとる、ということである。

「合意」で禁止されているのは、慰安婦問題について日韓両政府が互いに非難・批判することであって、日本政府あるいは韓国政府が国際社会の中で慰安婦問題について、互いを非難・批判しない範囲で自分の主張をすることは控える必要がない、ということなんだろう。

しかし、杉山発言が韓国メディアでセンセーショナルに報道された時、韓国政府が、どう対応するのか。ぬるい対応では韓国の国内世論を敵にすることが予想される。思い切って日本政府批判をすれば、合意は反故に近い形になることが予想される。

 

この杉山発言も、合意を不当とする側からの韓国政府への挑発と解釈することが可能であろう。韓国側から合意を破ってくれる、というのが理想的な展開だからである。

 

一方、韓国政府にしてもそれくらいのことは予想した上で「合意」していることが予想される。

杉山氏が朝日新聞を批判したように、韓国政府の代表も、「慰安婦の強制連行は捏造」と主張する研究者なりマスコミなりを批判し、強制連行された、と淡々と主張することは可能であろう。問題は、それで韓国世論をどこまで納得させられるか、である。

 

いずれかの側が合意破棄に踏み切るのか、あるいは合意範囲内ギリギリ(orグレーゾーン)での応酬をするのか。

いずれにせよ、あまり前向きな展開を想像できないのが苦しいところである。

部活問題への補足

先日、部活問題についての記事を2本書いた。

日教組などの組合に求めるもの〜部活動問題など、教職員の労働状況改善をメインに据えたPRを〜

部活動〜提言するなら「日曜日の教育活動厳禁」を〜

 

いくつかの反応があったが、Twitter上では、

知教労 (@chikyourou)

という組合の方から「部活問題に取り組む教職員組合」がある、とのご指摘をいただいた(というより、「知教労」すなわち知多地方教職員労働組合のPRと捉えても良いものと思っている)。

知教労・知多地方教職員労働組合ホームページ - 知教労・知多地方教職員労働組合

上記のサイトを見ればわかるとおり、たしかに、このサイトには護憲・安保反対・原発反対・辺野古反対、といったカラーは見受けられない。

部活問題、新任への仕事押し付け問題などについての文言が並び、「活動成果」には人事の問題への取り組みなどが載っている。

是非、日教組を初めとする各団体も、労働者である教職員を守る取り組みをする団体、ということを全面に出してほしい

先述の記事でも書いたが、教職員の労働環境を守るための取り組みがそういった組合の手によって現実に行われていることは知っている(それが充分かどうかの議論はここでは行わないが)。だからこそ、そういう趣旨の団体であることをまず押し出してほしい。

すでに紹介したことがある「名も無き市民の会」というタカ派の市民団体が、労働運動にも力を入れ、労働組合設立などの運動をしている。

すでに労働者のための多くの実績のある労働組合が、左派的護憲的主張ばかりを全面に押し出し、まるで労働者のための取り組みについてはサボっている「金持ちの道楽」的左翼団体でしかないかのように解釈されてしまってもいいのか。

「既存の組織が、そんな労働者目線に立てない組合ばかりなら、未知の新たな市民運動に期待をかけよう」、という声が広まってもいいのか。

それでも、結果として労働環境が改善されるなら良いかもしれないが、「既存の組織」の立場からは、そうではない危険性を考えるべきではないか。自分たち「既存の組織」が積み重ねてきた実績の部分が壊れていき、却って状況が悪化するのではないか、と、「既存の組織」の立場から心配するべきではないのか。

部活問題 対策プロジェクト」が良い例だ。ネット上でのPRという上手さから、すでに世の中では、部活での労働環境の改善に努めてきたであろう「既存の組織」である各教職員組合の活動より、「未知の新たな市民運動」である同プロジェクトが脚光を浴び、実のある成果を上げる可能性がある。

もちろん、これは、部活動労働の問題、という観点からみれば、プラスの結果に結びついてくれるかもしれない。しかし、教職員組合の問題、という観点から見たら、どうなのだろうか。

 

あくまで私の感覚だが、「名無し会」の方が「日教組」よりも、Web上での市民向けのPRは上手であるように感じる。事務局長の藤原興氏が「ネット右翼大将軍」を名乗っているのも、決して名前負けではないのだろう(なお、藤原氏ご本人も先日の記事についてTwitter上で言及してくださったようで、ありがたく思う。私のような無名のブロガーの記事まで拾い上げる、そのアンテナ力に驚いている)。

市民、と敢えて言ったが、「憲法を守りたい」「辺野古移転してほしくない」「原発よくない」と言っている人たちだけが「市民」ではないことに注意しなければならない。そんなことは当たり前のことなのだが、驚くべきことにそれがわかっていないかのような護憲・左派・リベラルを見かけることがある。是非考えを改めてほしい。党派別にみれば、他のどの党を支持する市民よりも、自由民主党に投票する市民の方が多いという現実をしっかり考えてほしい。自民党の得票率は野党の得票率の合計よりも・・・なんて寝ぼけたことを言っていてはいけない。

 

知教労からのご指摘に答える形でこのように書いたが、実際には、私が知らない様々な教職員組合が、知教労同様のPRをきちんと行っているものと推察する。

(以下は2016年2月17日に訂正)

実際に市レベル、地域レベルなど、全国的にメジャーではない教職員組合の公式サイトを調べてみたところ、どちらかというと政治団体要素よりも労働組合要素の方を強く打ち出せているものが多い。

有名どころばかりをあたっていたこちらの姿勢を反省したい。

是非、それらの地域に根ざした教職員組合の上位組織なども、サイト等で教職員の労働環境改善への取り組みの成果こそ強く打ち出してくれると嬉しいのだが。

 

また、今回は部活問題に関連付けて、教職員の組合だけに絞って記事化したが、もちろん、それだけでは考察として全く不十分であることは承知している。それも含め、機会を改めて書いていければと思う。

部活動〜提言するなら「日曜日の教育活動厳禁」を〜

部活問題 対策プロジェクトについては前の記事でも少し言及したが、この問題についてもう少し掘り下げてみたい。

上記のサイトでは、部活動の負の側面について、教師の労働問題、生徒に対する教育のあり方としての問題、家庭・家族の問題などの側面から述べている。いずれも、私が見聞きした範囲での事実と矛盾するものではなく、私個人としても賛同できる内容ばかりである。

そして、さしあたっての要求が、「学校の教師に部活動の顧問をする・顧問をしないの選択権を与える」という内容である、ということ、今後は、「生徒の強制入部の廃止の提言」や「部活動の環境整備」が目標とされることなどが記されている。

 

その主張、姿勢、私も賛同できる内容ばかりなのだが、一方で不安もある。

 

土日まで勤務して、1年間で休みが10日もない、という教師の例を私も知っている。彼は平日も、放課後の部活の後に授業準備や提出物チェック、その他の事務処理などを行い、徹夜で仕事をしていたこともあった。

一方で、土日は部活しない、と言って悠々過ごしている教師の例も知っている。放課後も毎日部活があるわけではなく、定時退勤とまではいかないまでも、そんなに深夜まで仕事をしているわけではない印象だった。

一体誰が、部活動というブラック労働を強制しているのか。

どうも、簡単なルール変更で解決する問題には見えないのだ。

 

たとえハードな運動部の顧問になっても、顧問が絶対的な権限において、平日は週3回、土曜は半日、日曜は休み、などと決めれば、それでその顧問はブラック労働からある程度解放されるはずである。

ところが、それができない例がある。

生徒の意欲、保護者の願い、職場の空気、教師自身の義務感、・・・そういったものが、その顧問をブラック労働に追い込んでいるのなら、いったいどうすればその顧問をブラック労働から解放できるのか。

どうしても県大会出場したい(ついでに言えば、それが調査書・推薦書に書けるから、進学・就職にも有利になる)、そのためにはライバル校よりも練習しないと、と願う生徒や保護者の気持ちを、誰が否定できるだろうか。そういう気持ちを受け止めてあげなければと思う学校側の姿勢を誰が否定できるだろうか。

部活動で大いに子ども達に競争させている、という現状や、部活動での活躍が将来の進路選択に有利になる、という現状がある限り、ブラック労働からは解放されにくいのではないか。

その点の構造的な問題から考えていかないと、とりわけ生徒想いな熱心な若手教師のブラック労働は終わらないだろう。

 

また、「学校の教師に部活動の顧問をする・顧問をしないの選択権を与える」というルールを設けたとしても、「しない」という選択権を若手教師が選べるのか、という問題がある。若手のくせに年休取るのか、などと言われる職場もあるという(これは教職員に限った話ではなく、どんな職種にもそういうところはあるようだが)。

部活動の輝かしい実績が、様々な学校の校舎に掲げられ、サイトに掲げられていることからわかるように、部活動は学校のPRになっている。中学生は、○○部のある高校に行きたい、○○部で実績を出せる高校に行きたい、という理由で高校選びをすることもかなり多いと聞く。

「学校の教師に部活動の顧問をする・顧問をしないの選択権を与える」ということは、結果的には各学校からの部活動の減少を促進することになる。そして、部活動を減らすのは、学校のPR力のダウンに繋がる。部活学校のような私立に、公立がますます勝てない、という話になったりするわけだ。

その点の構造的な問題から考えていかないと、「学校の教師に部活動の顧問をする・顧問をしないの選択権を与える」というルールを設けても、有名無実化するだけの可能性がある。

 

そして、「部活動のメリット」という問題も考えなくてはならない。

部活動は無料である。これが部活動の最大のメリットである(それが、ブラック労働の原因でもあろう)。

スポーツクラブや音楽教室に通う、というのでは、ある程度経済的に余裕のある家庭の子どもしか享受できない。部活動は、貧しい家庭の子どもでも(放課後子どもにバイトさせて生計を立てないと、というレベルの家庭でなければ)享受できる。そして、それを武器に進学や就職の競争を闘うことができる。

そこをどう考えるか。

 

私が今、それらの問題について結論を出せることはない。

このような記事を書くと、まるで、「部活問題 対策プロジェクト」を批判しているようだが、その動き自体には大賛成だ。部活動という労働がブラックである、という現状を、世の中に、教職員の組合でもできなかったような大規模な形で呈示した、という実績は非常に大きい。これからも是非応援したい。

 

しかし、上記の諸問題を含めて考えると、今の構造のままで少しでも状況を改善するなら、

「日曜日の部活厳禁」

くらいが妥当なのではないかと思っている。

いや、そうすると、日曜に補習を入れる学校もでてくるだろう。

より広く、

「日曜日の教育活動厳禁」

として、学校は日曜日には閉ざしていないといけない、日曜日に児童・生徒に対して必ず休養を与えなければならない、くらいにすることはできないものだろうか。

もちろん、私立の学校も同様である。

 

最後に、ある厳しい部活動経験者から聞いたエピソードを載せておきたい。

土日も含め年間ほぼ毎日厳しい練習をしているその部活に、卒業生がきた。

そこで、卒業生がありがたいお話をしてくれたという。

「高校時代、この厳しい部活を乗り切ったことが、今、社会に出てからとても役立っている。どんな厳しいことを上から言われようと、ハードな仕事だろうと、高校時代の経験を思い出して、乗り切れる」

ああ。厳しい部活が、ブラック企業の戦士をこれからも量産し続けるのだろうか。

日教組などの組合に求めるもの〜部活動問題など、教職員の労働状況改善をメインに据えたPRを〜

部活問題 対策プロジェクト」についてはすでに大いに話題になっている。

たとえば、下記の記事。

bylines.news.yahoo.co.jp

「これまで教員の労働に関する部活問題については、教職員組合が音頭を取ってきた。だが、同プロジェクトは、既存の組織の枠組みを超えた、まったく新しいかたちでの連携であり、以下に示すその活動目標もきわめて斬新である。」

というのが象徴的である。「既存の組織」とは、日教組を初めとする教職員の組合のことだ。このプロジェクトは組合の運動ではない、という。

 

私自身、組合に入っている教員の知り合いは何人かおり、教職員の労働状況改善のために取り組んでいる彼らの行動はよく知っている。

しかし、「ブラック部活」の問題の根本的解決を目指す運動が、その組織外から出てきて、話題になっている、という状況はどうなのか。

組織外だからこそ動きやすい、ということはもちろんあるだろう。

いや、それではいけないのだ。

「教職員の組合の運動としてこそ、こういう問題に取り組みやすい」という組合に、なぜなっていないのか。

 

ためしに組合系のサイトをぐぐっていくつか見てみた。上の方に出てきた、

日教組:日本教職員組合【e-station】

全日本教職員組合

日本高等学校教職員組合

東京都教職員組合(都教組)

あたりをみても、管見の限り「部活動問題対策プロジェクト」に言及するものはない(あったら是非教えてほしい)。

 

組合、とは、労働者の権利を守ることこそが第一の団体であろう。

もちろん、「部活動問題対策プロジェクト」の掲げる内容については賛否あるかもしれない。

しかし、部活動労働が問題である、という点は疑いようのない事実であり、既存の組合も、(そもそも既存の組合が音頭をとるべきだったのだが、それができなかったのだから)支援するなり、運動のさらなる改善のための建設的な提言をするなり、そういうことがあっても良いのではないだろうか。

 

上記のサイトにはだいたい各団体の「取り組み」について書いてあるが、憲法を守ろう、と叫ぶ声明ばかりが目立つ。

もちろん、そういう声明が出ることは構わない。公務員として、憲法の擁護の義務があるのだから(日本国憲法第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。)、その義務を果そうというのは全く正当な行動だ。

しかし、それはそれとして、まずは教職員という労働者の人権を守ろう、という姿勢を、まずウェブサイトからでも示してほしい。

どんな取り組みをしているのかな、とクリックした時に、真っ先に、教職員の労働状況の改善のための取り組みが出てくるようにしてほしい。

サイトをよく見ればそういうコンテンツはあるのだから、そちらがメインの団体としてアピールしてほしい。

実際に、勤務形態についての交渉や、臨時的任用の教員の採用についての交渉を始め、いわゆる「組合」として機能している実態が、確かにあるのを知っている。それこそ、最もアピールするべきことではないのだろうか。