友人への手紙
5か月の末っ子とそれほど歳が離れていない男の子が、隣でベビーカーに乗ってせんべいをかじりながら私を見つめています。
「気になるの?」と声をかけると、目を背けることなく、恥ずかしがることもなく、私の目を直視する、すさまじいエネルギーを感じます。
何でも眺め、何でも掴み、何でもかむ。そしてきつくなると抱っこして!と手を広げる仕草に抱っこひもであやすおかあさん...当たり前のような風景ですが...愛おしい。かけがえのない風景でもあります。
そのように感じるのは、同じ年頃の娘の存在と、テーブルを挟んで互いにスマホを眺める無言の人々に、そういう日常に、あまりにも慣れてしまったせいかもしれませんが...
今年の秋は、迷いが多い時期でした。そしてそれは今も進行中のようです。自分は何がやりたいんだろう。足りないのは覚悟なのか、時間なのか、それともじっくり自分を見つめる余裕なのか…3人の子供の親なのに悩みは膨らむばかりです。笑。
それから、偶然流れた末期がん患者とその家族のドキュメンタリーをみて、死について考えています。
嗚咽、感嘆、悲しみ、いろんな涙と涙。死は不思議なものです。
経験できないもの、乗り越えることのできない絶対的な終わり、覚悟も時間も何もかも意味を成さないもの...それを美化することも、その反対のことも何もかもできません。ただそこに...あの得体のしれない恐怖から逃げ出すために目を背け、もがく思考があり、そして思考そのものである、私がいます。
クリシュナムルティは日常への死こそ、毎日死ぬことこそ生であると言いましたが、毎日への、穏やかな日常への執着から、それらがまだまだ続くと思う平凡な安心感から、生の喜びを...生きる実感や意味を見つけようとする私のような人に、死とは...まさに巨大な悲しみでしかないということを感じる一日です。
いつか... そうね~いつかやろうね。
自分に、子供に、妻に投げかける言葉のように、自分の死もまた同じくいつかの死として片付けて生きていますと、ますますそういう自分に対して死ぬことは、はるか遠い未来の出来事のように感じてしまい、クリシュナムルティの言葉は単なる言葉にとどまってしまうのです。
自分の趣味や思想に合う何かに、誰かに出会うたびに、歓喜とともに湧き上がる喜びやエネルギー(たとえそれが違う意味のエネルギーだとしても)、そしてその背景にある自分の過去や条件づけに気づくたびに、また思い浮かぶクリシュナムルティの言葉。
だからこそ...その全てに素直に喜べないジレンマにまた気づく日々。条件づけからの自由、それこそ死そのものなのに、決してそれを欲しない、私がいます。
思い出が増えれば増えるほど、分かち合いたい家族が増えれば増えるほど、生は毎回微妙に異なる執着を感じ取ることで生まれるエネルギーをもって人を動かしているようにも見えます。まるで生への執着こそ、生きている感覚だと言うかのように。
何十年もの歳月を経て幾千の思い出や過去を眺める、死との距離が物理的に近くなる、そういう年齢になれば...自分は死をどのように眺めるでしょうか、年齢という尺度を拒む思考が...それをどうながめるでしょうか...。
執着があるところには必ず葛藤や矛盾があるでしょうけれども...それらがいけない、死とはそれらへの執着から自由な何かであり、それこそ生であるという...まさにその言葉への執着もまた気付きにくい葛藤と悲しみでもあります。
夜空がとてつもなく広大で圧倒的な存在感を放つ夜です。遠く、黄緑色で光る家の中に、私の執着が愛情が、その全てがあります。
余計な話、失礼しました。お休みなさい。
思考をみることは…
夢から目を覚ます。
寒い、温かい、暗い、明るい...
世界を眺める意識が体にもどるとき、
ものすごい現実感(リアリティー)がもたらす
漠然とした不安と恐怖。
生きることは、
日々の生活の中で、
繰り返す喜怒哀楽の積み重ね。
生きることへの強い執着や渇望と同時に
...その全ての外側にいたいと願う感覚。
そう、いつものように...知らない何かを、
未知の何かを警戒し、遠ざけようとする感覚。
思考をみることは、
その全てをみること。
それは、意識(私)無しにただ気づくこと。
肝心なことは、
実際にそれを自ら感じ取れるか、
過去(重荷)を背負わず、その重要性を見出し、
探求するエネルギーがあるかどうか。
もし単に言葉を弄んだり、思考遊びに耽ったり、
議論そのものだけに気を囚われれば...
それは探求でも何でもない、
虚しい空論になってしまうから。
思考をみることは、
苦痛を呼び起こすこと、
自己憐憫に浸る喜びに気づくこと、
自分(私)という肥大化した軸に気づくこと。
その軸を手放すことで何もかも消え去り、
もはや自分ではなくなるという不安と恐怖に慄く
...自分の姿に気づくこと。
そう...思考をみることは、
過去の重荷から自由な目で、
リアリティーを眺め、それを恐れずにいること。
夢から目を覚まし、
今を精いっぱい生きること。
♪ 冬のこども・ビューティフルハミングバード
不安と恐怖
未知の挑戦に
臆病になっていく。
予期せぬ出来事が...
全て不安やリスクとして
得体のしれない恐怖として
自分に襲いかかってくる。
はたして自分は、
新しい何かに挑戦できるんだろうか
輝くあの場所にふさわしい存在だろうか。
...
次々と生まれては、
消えていく思考が...
経験したこともなく、
決して知るはずもない
未来やそれへの不安を...
大きく膨らませていく。
…
その不安は...
目の前に置かれたあの花瓶のように
ものすごい存在感を放ち始め、
やがて巨大な恐怖として自分を圧倒する。
そしてその恐怖に…
その不安と不快感に…
思考は必然的に間違った問いを連れ込む。
あの巨大な恐怖に立ち向かう時間や気迫が、
その全てであるエネルギーが...
はたして今の自分に残されているのだろうかと。
大丈夫。
...きっと大丈夫。
膨らむ不安に慌てた思考は...
自分ができる最大限のこと、
幾千の経験や知識を駆使し、
恐怖に立ち向かおうとする。
それは...誰かに、
世間に認められてきた
記憶や華々しい実績や
もしくは少しは自慢できる
自己肯定感溢れる数々の出来事だったりする。
しかしその思考(行為)こそが...
未知のものを既知のものと比較する
その思考こそが…
古い過去をかき集め、
そこから基準や目標を作り上げ、
それに及ばないかもしれないと思う、
その思考こそが...不安であり、恐怖である。
****
現実や理想、あなたや私...
葛藤は分離から生まれる。
その内面的な分離こそ、
葛藤を、不安と恐怖を生み出す。
思考の中(内面)で
言葉や過去の出来事を、
眺めているもの(私)は決して…
眺められるもの(悩み)と違う存在ではない。
それは分離できないし、一つのものである。
しかし依然として私は悩みで苦しむ。
私が、即その悩みであることに...気づかないまま…
*****
九月十四日。
恐怖は存在する。だが恐怖は決して現実ではない。それは進行する現在の前か後にあるものなのだ。進行する現在に恐怖がある場合、それは恐怖だろうか。
それはそこにあり、逃げたりうまく避けたりすることは不可能なのだ。肉体的、もしくは心理的危機の現実の瞬間には、完全にはりつめた注意がある。完璧な注意があるときには恐怖は存在しない。それより不注意という事実が恐怖を生むのだ。事実を避け逃走するときに恐怖は生じる。とすれば、逃避そのものが恐怖であるといえる。
恐怖と、そのさまざまな形態である罪悪感、不安、 希望、絶望などは、関係から生じるあらゆる動きの中につねにある。それは安心感を求めるときに決まって生じる。いわゆる愛と崇拝に、野心と成功に、生と死に、肉体上の事柄と心理的要素の中にそれはあるのだ。
さまざまな形の恐怖が意識のあらゆるレベルに存在している。防御や抵抗や否定は恐怖から起きる。暗闇への恐怖や光への怯え、進むこと、もどることへの不安。 恐怖は安全でありたいという願望ーたしかなもの、永続するものでありたいという願いを秘めた、内的外的な安全への欲求に終始する。
永続性を保つことがあらゆる方面ー美徳や関係、行動、経験、知識、そして外面的、内面的な事柄において求められる。安全を確保し安全でありたいというのは、尽きることのない訴え····恐怖を生みだしているのは、まさにこの執拗な要求なのだ。
だが、外的にも内的にも、永遠なるものなどあるだろうか。…盲目的に、あるいはもっともらしく、内的なたしかさや、持続性、永続性が求められるが、いったい直面できないということが、あらゆる形の希望や絶望を生みだすのだ。思考そのものが恐怖なのである。「クリシュナムルティのノート」一九六年九月パリより
雨粒と気づき
みるみるうちに…
まわりに広がる雨粒。
静かな草の傍らで
騒然とした音を出す
金属のフェンスや建具。
雑草だらけの庭の片隅に
見え隠れするガボチャの花。
夕方の終わりに降り注ぐ雨と夕焼け。
その余韻がもたらす景色。
****
何かをその前と後とに区別し、
始めと終わりと名付けること。
それはただ...
少しだけ草が伸び、
少しだけ花を咲かせただけなのに...
人は過去(記憶)から
そのイメージから眺め、比較し、
最後は...言葉にして忘れてしまう。
...疲れた...
そう嘆くたびに、
吐き出された自分の言葉に甘え、
無神経な行動を何度も正当化する。
ふと...そういう自分の姿に気づき...
ハッと驚き、つい逃げ出してしまう。
***
どうして働かなきゃいけないの?
どうして懸命に生きなきゃいけないの?
問いに答えられずに...
戸惑い、苛立つ日々。
または...
あのさ、生きることというのは、
夢中になることを見つけることなんだよ!
生きていれば何とかなるんだよ!
それっぽい言葉を投げ出し、
少しでも問いから逃げ出したい日々。
あんなことしていいの?
今の時代を分かっているの?
あの政治家は...あの誰々は...どうして。
絶えず...誰かを批判することで、
自分の人生が、
それを支えるちっぽけな正義が、
崩れてしまわないように
声高に叫び続ける日々。
...
傷つきたくなくて...
できるだけ心配しないで済み、
安心安全の中で生きていたくて...
誰かを傷つけ、誰かの安心安全を批判する日々。
***
みるみるうちに…
まわりに広がる雨粒。
静かな景色の傍らで
騒然とした音を出す思考。
美しい夕方の終わりに思い浮かぶ問い。
どうして働かなきゃいけないの?
どうして懸命に生きなきゃいけないの?
問いに答えられずに...戸惑い、
苛立つ自分に気づくとき。
何も名付けず、誰かと区別したり、
今の自分の姿を正当化もせず…
そうやってどこにも逃げないでいるとき。
あの恐ろしい胸焼けは、
音も立てず…静かに自分の居場所を見つける。
(引用) 不満をくすぶらせておく
私たちの人生に起こる不満は、様々な問題を提起したり、何かを探求したり、厳密に調べたり、何が現実であるか、何が真理であるか、人生において何が必要なのかを見出したりするのに、必要不可欠なものではありませんか?
学生時代には、このような激しい不満を抱いていたかもしれません。しかしその後良い職に就くと、この不満はどこかへ行ってしまいます。
私は満足し、家族を養うために必死になって働きます。生計を立てていかねばならないのです。すると不満は鎮まり、砕かれてしまいます。
私は人生の様々な出来事に満足している中途半端な存在となり、不満も持ちません。しかし不満の炎は、最初から最後まで絶やされてはならないのです。
そうすると、不満とは何かという問題に対する
真の探求、真の精査が起こります。
しかし精神はすぐに、何か夢中になれるものーそのおかげで精神は徳や性質、観念や行動で満足するようになりますーを探し求めるので、型にはまった行動を築いて、それにはまってしまいます。
私たちはこのようなことには、すっかり慣れっこになっていますが、私たちの問題は、どうやって不満を鎮めるかということではなく、いかにそれをくすぶらせておくか、殺さないで、生き生きさせておくかということなのです。
...
あらゆる書籍、宗教指導者や政治組織のせいで、精神はなだめられ、おとなしくさせられています。それらは精神が鎮まり、不満を捨てて、ある種の充足感に浸るように働きかけているのです。
何が真理であるのかを発見するために不満を持つことは、 必要不可欠なことなのではありませんか?
- J. クリシュナムルティ 四季の瞑想 p. 253 -
子どものいない入学式
スーツの上に降り注ぐ日差し。
キラキラ輝く子供たちの笑顔。
校庭の片隅に静かに咲いた花。
「来賓客様用」...
ガラガラの駐車場を後に
遠くのグラウンドに並ぶ
砂埃の車と車。
入学式と書かれたパネルに群がり、
順番を待つ子どもと親。
どこか懐かしい古びたスーツを
ぎこちなく身にまとう緊張感と
未知の何かに目を光らせる瞳。
小1の壁。
小4の壁。
中学受験。
育児と仕事の両立...
不安だらけの未知の何かに
顔を曇らせる親の遠い視線。
同じ不安、同じ居心地悪さが、
言葉にできない悲しみが、
生み出す不思議な一体感。
...
「ご入学おめでとうございます」
あちらこちらから聞こえる
お祝いの言葉の先に、
書類を片手に流れ込む親を
眺めるPTA役員の眼差し。
どんな記憶よりも古い
椅子と机が並べられた
体育館が放つ存在感。
あの時の懐かしさが...
一瞬にして時代遅れの失望や
未知の恐怖へと変わる感覚。
赤い日の丸と市役所の旗。
子どものための演出や配慮は
全く見当たらない、
どこかで見かけた、そう...
戦後の学校写真のような景色。
白髪混じりのお年寄りや教育委員会、
そう呼ばれる来賓客に...
深々と頭を下げる校長と先生。
広大な体育館を埋め尽くす...
伝統という名の不快な規律と
無意味な演出が...息を詰まらせる。
...
「入学式」
順序やそのやり方、厳粛さ...
何もかも全て...子供ではなく、
大人のための入学式。
そう、それは新しい門出を祝う、
楽しくてめでたいイベントではなく...
校長、委員、PTA...
無意味な関係者のために
作られた彼らのための式。
校長、市長、市議会委員...
ポスターでしか見かけない人々が
各自の目的に合わせた仕事を、
やるべき役割を果たすための式。
...
そして静かに...
そのすべてを眺めて思うこと。
...
もし本当に...
私たち大人が...子どもの目線で、
彼らの立場で考えることができれば...
入学を祝うという目的だけに、
心を一つにすることができれば...
入学式はどんな姿になるんだろう。
...
「元気」
「挨拶」
「好奇心」
...
宿題という名の押しつけも、
校長や来賓客様の長い祝辞も、
気持ち悪いほど綺麗に並べられた椅子も、
体育館を埋め尽くす堅苦しい空気も...
きっと存在しなかっただろう。
もし本当に...
私たち大人が...子どもの目線で、
彼らの立場で考えることができれば...
あの長く退屈な式を終えて
友だちとはしゃぎまわる子どもを、
無理やり引っ張ったりしないだろう。
「早いほうが楽ですよ!」
PTA役員の空席をむりやり
そうやって決めたりはしないだろう。
…そう、それはまさに...
子どものいない入学式。
...
...
閉会という言葉に
さっさと帰りを急ぐ
親の手を振り切って
友だちと弾ける小さな背中。
その子どもたちの隣で、
ご多忙中お越し頂いた来賓客を
見送る校長の大きな背中。
...入学式とは何だろう?
私たちはいつまで...
この無意味な式を、
無価値なナンセンスを続けていくのだろう。
「早く帰ろう」
つい反射的に口にしようとする自分に、
そこに込められた思い出や時間、
その全てである自分の過去に気づき、
言葉が消え去る時...
「... 」
「... 」
「... 」
校庭の片隅に咲いた
誰一人、気にかけない、
名前のない、あの花のように...
決して言葉にはできない何かが
だけど最も大事な何かが...
あらゆる過去と未来の外側で...
...静かに...花開く。
決して解決できそうになかったあらゆる問題が…今となってはちっぽけでそして美しく、愛おしく見えてくる。
保育園最後のお迎えのために、久しぶりに昼下がりの電車に乗る。事務所の窓越しとは異なる眩しさが、花束のような鮮やかな赤と緑が、水色の空を背にして放つ存在感。その全てが流れゆく窓際で、互いを見つめ合うカップルの瞳に浮かぶ笑みと期待。
...がたんごとん。
...がたんごとん。
優しい沈黙の後に突然広がる壮大な海に...喜ぶ背中と絡み合う手。ロマンチックな何か、いつもの日常とその反対の何か...そして偶然それらを分かち合う今ここにいる人々の存在感...その全てが赤い電車の中で、果てしなく広がっていく。
あの二人も…いずれ結婚をし、互いの道を行くのだろう。もしくはどちらも一人で生きていくことを選択するかもしれない。...けれども確かなことは、今この瞬間、生き生きと互いの存在を分かち合いながら生きている、そしてそこから生まれたエネルギーを、あらゆる感情を、心から満喫しているということ。たとえ二人がそれに気づいていないとしても..
...他愛もない言葉、微かな手の触れ合い、胸と肩に伝わる柔らかい感覚、その全てに敏感に注意を向ける、かけがえのない瞬間を感じること。
そう、それは自分のこと。
喜々として喜ぶ瞬間を幾度なく通り過ぎてきた思い出も、あの二人やまた誰かの過去とそれほど違わないということ。生き生きとしていた瞬間の数だけ、無数の悩みや問題に挫折した... 決して解決できそうになかったあらゆる問題が…今となっては道端に落ちたあの桜の花びらのように...ちっぽけでそして美しく、愛おしく見えてくる。
河川敷に咲き乱れるあの一本の桜…生きている限り、耐えず今を眺め、感じ取る限り、無数に咲いては落ちるあの花びらのように、悩みや問題、そこから生まれる苦痛(苦悩)もまた...風に流されてしまうのだろう。それは決して「こう生きなきゃ」とつい力んでしまう何かの信念とも、苦しい今から逃げ出すための希望や夢という名の幻影とも...全く異なるもの…そう、それは生きること、生きることで過去ではない今を全うするという、生そのものだと…
がたんがたん
…揺れるバスを登った矢先に...その全てを語るかのように...はち切れそうな頬の赤ん坊が美しくそして愛おしい瞳で、僕をじっと見つめる。
私たちは本当に生きているのでしょうか。
Q) 生の意義は何でしょうか。
生の意義は生きることです。
恐れがあるとき、生全体が模倣、まねすることの訓練をされているとき、私たちは本当に生きているのでしょうか。生は生きるに値するのでしょうか。
権威に付いていくなかに、生きることがあるのでしょうか。あなたが誰かに付いていくとき、あなたは生きているのでしょうか。たとえそれが最も偉大な聖人や政治家、もしくは学者であっても、です。
あなたは自分自身の道筋を観察するなら、あなたは誰かしらに付いていくことしかしないことが、 分かるでしょう。この付いていく過程が、「生きること」と呼ばれるものです。そしてあなたはその終わりに「生の意義は何でしょうか」と言う(聞く)のです。
...
あなたにとって、生はいま意義があるのです。あなたがこの権威すべてを片づけるときだけ、意義は訪れうるのです。権威を片づけることは、とても難しいのです。
権威からの自由は何でしょうか。
あなたは法律を破るかもしれません。それは権威からの自由ではありません。しかし過程全体を理解するなかにこそ、 自由はあるのです 。
すなわち、精神がどのように権威を創り出すのか、私たちの一人一人がどのように混乱していて、ゆえに自分が正しい種類の生を生きているのだと保証してもらいたいのかを理解するなかに、 です。
私たちは、何をすべきかを告げてほしいから、誰かにより利用されるのです。科学と同じく心霊においてもです。 私たちはまねをし、模倣し、付いていっているかぎり、生の意義を知りません。自らの探し求めているものが成功ばかりであるとき、どうして生の意義が知られるでしょうか。...それが私たちの生なのです。
私たちは成功がほしい。内外的に完全に安全でありたい。 私たちは正しくやっている、救済や解脱などにつながる正しい道に付いていっている、と誰かに告げてほしいのです。
私たちの生すべては、伝統に付いていくことです。昨日の伝統や数千年の伝統に…そして私たちは、あらゆる経験を、自分たちが結果を達成するのを助けてくれる権威にするのです。それで、私たちは生の意義を知りません。
私たちが知っているのは恐ればかりです。
誰かの言うことへの恐れ、
死ぬことへの恐れ、
ほしいものを得ないことへの恐れ、
間違いを犯すことへの恐れ、
良いことをすることへの恐れ、です。
私たちの精神はとても混乱し、理論に捕らわれています。そのため、私たちは生が自分たちにとってどんな意義があるかを、説明できないのです。
...
生は何かとてつもないものです。
「生の意義は何でしょうか」と問うとき、質問者は定義がほしいのです。彼が知るのは、定義、単なる言葉ばかりになるでしょう。
もっと深い意義、
とてつもない豊かさ、
美しさへの敏感さ、
生きることの無量性ではないのです。
J.クリシュナムルティ | 知恵からの創造
波が打ち寄せる渚で。
...
波が打ち寄せる渚で、
砂が消えては現れる
その曖昧な境界線で...
ズボンを巻き上げて
靴を脱ぎ裸足になる。
...
五本の足の指に...
当たっては引いていく感覚。
遠くで響き渡たる波が耳元で弾け...
それから全ての音を消し去る感覚。
冷たい、温かい...
力強い波の後に感じる、
ふわっとした感覚。
...
注意深くいること。
波が打ち寄せる渚で...
自分の感覚に耳を傾けること。
日々の浮き沈みのように、
全身に襲いかかる海風のように
目の前に広がる今を…
あらゆる感覚と共に眺めること。
終わりの無いその繰り返しを
限りある生の中で眺めること。
幸せ、喜び。
悲しみ、怒り。そして不安。
注意深くいることは...
自分が好きな感覚だけを眺め、
追いかけることでも、
また好まない感覚から逃げ出し、
隠れることでもないことを…
私(たち)はつい忘れてしまう。
あの時の傷や苦しみ。
未知の不安や恐怖。
私(たち)を苦しめる何かから...
喜びや幸せに満ち溢れる
居心地の良い場所にたどり着くまで
逃げ出してしまう。
そう、この命が続く限り...
終わりのないその動きを、
限りある生の中で飽きもせず…
今日もまた今日も…
繰り返してしまう。
...
でもね。
あの自然の前では無力な人間だから...
不安な自分を思考で誤魔化すしかない、
か弱い人間だから...
だから...波が打ち寄せる渚で、
壮大なあの自然ではなく、
ちっぽけな自分を眺めてしまうのね。
…
注意深くいること。
それは...そうやってささやく思考を…
肯定も否定もしないで眺めること。
あの海風のように...
あらゆる感覚と共に眺めること。
...
そう、それは...
感覚や思考...その全てを消し去る、
あの海...
あの子供の笑みを…ただ眺めること。
人生をどう生きますか?
「ありのまま、人ぞれぞれ生きればいい」
「そんなに深く考えるな」
…
その問いが放つ空気、自分の中の抵抗…その不快な違和感から…問いをまっすぐ眺めることなく、ただ頭に浮かぶ言葉を並べますか?
人生をどう生きますか?
人生をどう生きますか?
‥.
♬ 進行する闇・MEI EHARA
誰でもいい誰かを、生きること。
熱気のように...
慌ただしく動き回る。
玩具のように...
誰でもいい誰かを、待ち続ける。
宝石のように...
光るガラスの中に
飾られた何かをじっくり眺める。
比較し、迷い、
感嘆し、満足する。
...
家族のために
友人のために
自分のために
何かを買うこと。
それと同時に...
高揚感を買うこと。
熱気のような…
何かに包まれ、
紙バックを揺らす人波の中で、
比較し、感嘆し、
そして満足に昂る心の波。
...
喜ぶんだろうな。
びっくりするんだろうな。
あ、幸せ...。
喜びに歓喜し、手に取った
その何かに意味(価値)を与える
自分の姿に…驚き、気づくこと。
人波の中で...
誰でもいい誰かの心の波に…
溺れそうになる自分に…気づくこと。
愛国心、家族愛、仲間...
国や文化、宗教、価値観...
同質感のような、
居心地の良い反応や反射に…
その全てからなる、
誰でもいい誰かに…気づくこと。
…
そう...その中にいると、
約束される感情や感覚に…
何度も何度も得られると
そう思い込んでしまう感覚に…
手を伸ばせば掴めそうな感覚に…
満ちあふれる、その何かの中に、
自分がいることに…気づくこと。
その中に…
足を踏み入れる前に...
心を浸す前に...
生きる意味も…
幸せや喜びも...
何もかもすべて...
その中に限られ、
閉ざされた何かに過ぎないことに…
気づき、その気づきを眺める…
今日を生きること。
…
熱気のように...
慌ただしく動き回る、
誰でもいい誰かの…
…今日を生きること。
♬ SUN SHOWER / LUCA
(旅行記) ある島で見たもの。
小さい窓から聞こえる、
どこか懐かしい店員の声。
長い列に我慢できずに
海を眺める大きな瞳。
綺麗に手入れされた、
古い船に響く軽い足音。
すご〜〜い!
絶えず軌跡を残す、
水しぶきのように...
透き通った子どもの声が、
海風の中に広がる。
...
山道を難なく登る、
バスの窓に映るもの。
見慣れない景色に、
突然不安そうに
僕を眺める娘の気配。
...
たか〜〜い!
(たかい...)
チケット代って
そんなもんだよね...
諦めて財布を眺める親の隣で
弾けて景色を眺める息子と娘。
…
色とりどりの花畑と丘。
山のすべり台に漂う甘い香り。
その全てに向かって
リミット無しに走り出す、
無邪気で元気な後ろ姿。
花の名前や季節感、
人気スポットや珍しいもの、
そういった知識がなくても...
花と飛び交う鳥たち...
その全てとの関係を、
最初から知っているかのように
笑顔を咲かせる子どもたち。
…
...
あらゆるものが、
あらゆる出来事が...
完璧な姿で、
完璧なタイミングで、
ただそこにあることに
気づくある日。
その完璧さは...
何か決められた基準や条件を
満たしているからでも、
その日の気分や好みに
たまたまピッタリと
当てはまって感じられる、
何かの満足感でもなく、
そう、ただ...
基準そのものの不在...
完璧さを求める、
私がどこにも存在しなくなる時...
その時はじめて現れるもの。
…
…
あらゆるものが、
あらゆる出来事が...
本来の姿のままで、
ありのままありつづける
そのことに気づくこと。
完璧。
それを何と表現したらいいか...
迷わった末に仕方なく、
言葉を当てただけの...
そう...
僕が、ある島で見たものは、
まさに...あの名付けられない何かだった。
...
…
「空(幸せ)になる」
それは空になることを、
目標に掲げ、努力することではない。
そうではなく...
なることが止むときに初めて...
人は空になるのである。
努力が止むとき、
意思として現れた私というものが
止む(消える)とき...
そうやってならずになること。
絶えず自分の姿に気づく、
その受動的な気づきこそが...
空そのものである。
****
…
遠くから聞こえる、
全く新しい子供達の声。
長いロープと遊具に、
はしゃぎ回る天真爛漫な顔。
綺麗に手入れされた
古い親の顔に浮かぶ軽い笑み。
(... ...)
高ぶる感情が、
名付けられない何かが...
絶えず舞い上がる、
無数の花びらの中に広がる。
…
♬つきひ・浮
そのとき…偶然花開くもの。
初めて目にする体験に、
一歩引いてしまう重い足。
子どもたちができるだけ
失敗しない道を歩むようにと
焦り、願う…ため息。
戸惑い、ためらい、
喜び、幸せを感じるほど…
はっきりと浮かび上がる、
「私」という名の杭。
…
ああ、、、
言葉にできない、
何かの違和感に気づくとき...
そのほんの少しの間...
言葉も、動きも、
何もかも止まってしまう、
そのほんの少しの間...
人は自由になる。
…
落ち込み、
喜びや歓喜、
絶えず流す涙...
その全ての感情の出発点に…
気づくとき。
テーブルの向こうで、
語られる何かの信念が、
人生(私)への代弁であることに…
気づくとき。
…
静かにその全てに、
気づくとき...
楽したい。
有名になりたい。
認められたい。
癒やされたい。
煩わしさから逃れたい。
「○○したい」という、
どこかに縛られた杭からではなく…
ただ、、
相変わらず何かに縛られた、
自由ではない自分に…
そのありのままの事実に、
ただ、、気づくとき。
偶然与えられた生に
偶然置かれた環境に
脳に刻まれた反応に
ただ、、気づくとき。
…
そう、愛は…
そのとき…偶然花開くもの。
…
脳がその条件づけを、貪欲、羨み、野望などを洗い落としたとき、そのときにしか、完全なものを理解することはできません。愛とは、この完全性なのです。
Only when the brain has cleansed itself of its conditioning, greed, envy, ambition, then only can it comprehend that which is complete. Love is this completeness.
J. Krishnamurti / Krishnamurti's Notebook
ねえねえ〜きいてきいて〜
ねえねえ〜
アッパ(パパ)〜
きいてきいて〜
大きな瞳を見上げ、
大げさな仕草で、
夢中に何かを話す顔。
…誰の話?
…どこで?
大人の言葉は、
全く気にもせず...
あっちこっち
動き回る大きな瞳。
今もそこにいるかのような、
溢れ出すエネルギー。
...
何の目的もなく、
何の前触れもなく…
ただ分かち合いたくて
ただ誰かに伝えたくて...
そのためだけに、
ありたっけのエネルギーを注ぐ、
力強い眼差し。
...
ついつい叱ってしまう
大人の無神経な言葉も、
激しい喧嘩や泣き声も、
何もかも全て...
忘れたような無邪気な背中。
...
もしもあなたが…
あの眼差しを、
あのエネルギーを、
感じたことがあるならば…
もしもあなたが…
あの全てと共に、
とどまったことがあるならば…
あなたもきっと…
ゆっくり目を合わせ、
無邪気に動く背中を眺め、
大きな瞳の中に映る自分を…
無数の昨日の中に生きる、
今の自分を見つけるはず。
...
... ふう。
…
そしてそこには…
決して言葉にならない、
息を詰まらせる何かが…
胸のどこかを締め付ける、
何かがあることに…気づくはず。
...
ねえ〜ねえ〜
きいて〜きいて〜
…
大きな瞳を見上げ、
大げさに何かを話す、
あのときの自分に。
ずっと探してきた、
愛というエネルギーに
きっと...気づくはず。
...