肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第2章 

坂本龍一氏の死後、昨年6月に出版された「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読破したので、僕なりに感銘を受けた箇所を少しずつご紹介していきます。

今回は第2章「母へのレクイエム」となります。

 

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1⃣ テレビの可能性と限界

坂本龍一氏は、2010年4月からNHKEテレで、「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」に出演していました。

主に小・中・高校生に生徒として出演してもらい、坂本龍一氏がメインの講師となって、毎回扱うジャンルや作曲家などのテーマを決めて、ゲスト講師も招き、レクチャーやワークショップを行うのです。

YMO細野晴臣氏や高橋幸宏氏もゲスト講師として数回参加したこともあり、毎回番組の最後に三人でいろいろな曲を演奏するのが見ものでした。

僕はこの番組が大好きで毎回見ていました。

 

しかし、本書を読んで、実は坂本龍一氏が人知れずかなりの苦労もしていて、またテレビ局側への腹立たしさがあったことを初めて知りました。

テレビというのは視聴率を取るために、あらかじめ理想的な結論というか青写真を決めておき、それに沿った台本を作り込んでくることが常なのだそうです。

よって、出演させる子どもたちも、テレビ局側のいうことをきちんと聞いてくれる「いい子」を選んでしまうのだそうです。

「聞き分けの良い子」ばかりを揃えてしまうために、どこか「予定調和」というか「結論ありき」となってしまい、面白くもなんともなくなってしまったのだそうです。

坂本龍一氏はこういうアプローチが大嫌いで、生理的な拒否反応が出てきてしまうため、ある時は台本を作り込んできた制作陣に対して、「ふざけんな、あるがままにやらせろ!」とカンカンに怒ってしまったそうです。

いつの頃からか、僕もテレビが本当につまらないと思うようになり、ほとんど観なくなってしまいました。

今では民放はおろかNHKでさえもそれほど観ることはなくなり、YouTubeNetflixなどばかり観ています。

坂本龍一氏は「ある意味では日本の劣化を感じた」と言っていましたが、組織優先で動く日本社会の劣化が至る所で進んでいるように思えてなりません。

 

2⃣ 大貫妙子さんとの思い出

坂本龍一氏は、大貫妙子氏の初期の作品「Grey Skies」「SUN SHOWER」をはじめ、RCA最後の作品「カイエ」に至るまで、全ての作品にアレンジャー及び演奏者として参加していました。

近年では2010年11月にコラボレーション・アルバム「UTAU」を二人で共作し、ツアーも行い、僕も同年11月にグリーンホール相模大野で開催されたライブを観に行っています。

大貫妙子氏は、元々シュガーベイブ山下達郎氏と活動したり、細野晴臣氏や高橋幸宏氏などとも親しく、坂本龍一氏の元妻の矢野顕子氏とも親しいので、坂本龍一氏にとっては昔の音楽仲間の一人だったのだろうという認識しかなかったのですが、本書を読んで驚きました。

2010年11月坂本龍一氏と大貫妙子氏がコラボした「UTAU」のCD、DVD、ライブ会場で特別販売していたツアーブックです。

 

坂本龍一氏は本書の中で、20代前半の一時期、大貫妙子氏と一緒に暮らしていたことをはっきり言っていたのです。

ただ、坂本龍一氏に別の相手が出来たために、一緒に暮らしていた部屋を出て行ってしまったのだそうです。

その当時、大貫妙子氏が発表したのが「新しいシャツ」という曲で、その曲の歌詞を聞くと、つい泣いてしまうだそうです。

このような経緯があったためか、坂本龍一氏は大貫妙子氏に対してずっと負い目を感じてきたようです。

しかも、大貫妙子氏からはいろいろな面で助けられてきたそうで、それなのにこのような迷惑をかけてしまい、ずっと恩返しをしたいと思っていたのだそうです。

 

また、一緒に暮らしていた当時、よく麻雀をやっていたエピソードにも驚きました。

2人だけでは出来ないので、電話で仲の良かった山下達郎氏に電話して誘うと、達郎氏は練馬にあった実家の軽トラを運転してすぐにやってきたそうです。

もう一人は近所に住んでいた伊藤銀次氏で、4人で雀卓を囲んで、三日三晩徹夜でやることもザラだったそうです。

とても懐かしいと本書で言っていましたが、今となっては「夢の跡」という感じですね・・・

ただ、あの大貫妙子氏のイメージから、麻雀を三日三晩やるようなタイプには全く見えないのですがね・・・

 

 

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第1章 その3

坂本龍一氏の死後、昨年6月に出版された「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読破したので、僕なりに感銘を受けた箇所を少しずつご紹介していきます。

今回は第1章「ガンと生きる」の中からの3回目となります。

 

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6⃣ 「戦メリ」に対する想い

坂本龍一氏の代表曲と言えば、「戦場のメリークリスマス」を思い出す人が多いと思いますが、坂本龍一氏は、「坂本龍一=戦メリ」と思われることがイヤでイヤでたまらなかったそうです。

世界中どこへ行っても、「戦メリ」を弾いてくれないかと言われることにいい加減うんざりしてしまって、10年位封印してコンサートで演奏しなかったとのことです。

そして、「戦メリ」を超える名曲を!という思いをずっと持ち続けて、曲作りを続けてきたそうです。

にもかかわらず、晩年になって再び弾き始めたきっかけとなったのは、2010年のキャロル・キングジェイムス・テイラーによる武道館コンサートを観に行ったことだったそうです。

キャロル・キングの代表曲と言えば、「You've Got a Friend」ですが、なかなか演奏してくれず、焦らすだけ焦らされて、坂本龍一氏はイライラしてしまったそうです。

やっとラストに弾いてくれて、生で聴けた喜びに安堵し、そこで、はた!と気づいたそうです。

ミュージシャンである自分ですら、他のアーティストのコンサートとなると、なかなか代表曲をやらないことにイライラしてしまうのだから、自分のコンサートでも「戦メリ」を弾いてくれることを切望している人の存在を決して無視できない、と納得したのだそうです。

この本のインタビュー当時の2021年頃でも、「坂本龍一=戦メリ」というパブリック・イメージには抵抗はあったそうですが、淡々と自分の作りたい音楽を作り続ければそれで十分であり、イメージを打ち破ることを終生の目標にして、残された時間とエネルギーを使うのはつまらないことだと、認識を改めたのだそうです。

 

坂本龍一氏の代表曲は「戦場のメリークリスマス」という見解が大方だと思いますが、
実際に坂本龍一氏が最も気に入っていたのは、
この2017年にリリースされた「async」というアルバムだと僕は思っています。
坂本龍一氏は生前「好き過ぎて、誰にも聴かせたくない」と言ったそうです。

 

7⃣ 死後の世界

「死後の世界」というと、なにかとても非科学的で、スピリチュアルな世界というイメージがあります。

僕自身は、このようなスピリチュアルな「死後の世界」というものにはとても興味があり、末期ガンで死を身近に感じたこともあって、「死後の世界」や「転生」というものはあるのではないかと秘かに思っています。

坂本龍一氏は芸術家ではありますが、とても知的な人物であり、現実的な考え方も持ち合わせている人です。

しかし、この章の部分で、坂本龍一氏は2つのことを例に挙げています。

ひとつは、「コンタクト」という映画で、ジョディ・フォスター主演・ロバート・ゼメキス監督で、NASAで惑星探査のリーダーも務めたカール・セーガンの小説を原作にしたSF大作です。

もうひとつは、敬愛する「ボサノヴァの父」と言われるアントニオ・カルロス・ジョビンのエピソードです。

そんなジョビンが生前アマゾンの森林破壊を大いに悲しみ、こう言ったそうです。

「神が、こうもあっけなくアマゾンで300万の樹木を打倒させているのは、きっとどこか別の場所で、それらの樹木を再生させているからだろう。そこにはきっと、猿もいれば花もあり、きれいな水が流れているに違いない。ぼくはね、死んだら、そこへ行くんだ」

詳しくは、本書をお読みいただければと思いますが、この章の最後をこう締めくくっています。

「セーガンやジョビンの想像力、そして死んだらお星様になるという素朴なファンタジーを、今の僕は決して否定したくありません」

「果たして死後の世界があるかどうかは分からないけれど、ぼんやりとそんなことを考えています」

亡くなってしまった現在、坂本龍一氏は「死後の世界」を見ることが出来たのか、もしくはその場所にいるのか、知る由もありませんが、ぜひとも「死後の世界」でも生前と変わらず、バイタリティ溢れる活動を続け、まだ現世界にいる僕たちに時々警告を発して、導いていただきたいと切に願います。

 

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第1章 その2

坂本龍一氏の死後、昨年6月に出版された「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読破したので、僕なりに感銘を受けた箇所を少しずつご紹介していきます。

今回は第1章「ガンと生きる」の中からの2回目となります。

 

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4⃣ 友達という存在

坂本龍一氏は余命宣告を受けて入院していた日々は、とにかく気が滅入っていたそうです。

そんな時、ふと「友達」という存在について深く考えたのだそうです。

不思議なことに、ジャンルを問わず、いろいろな人たちと、音楽や音楽以外の分野でコラボしていた坂本龍一氏は、「自分には友達がいない」というのが口癖だったそうです。

そして、この機会に「友達」の定義づけをしてみたのだそうです。

その結果、自分が本当に困った瞬間に、真っ先に連絡できる人が友達だろうという結論に達したのだそうです。

今回「死」というものに直面して、相談したいと思える人を数えてみたところ、アメリカやヨーロッパ・もちろん日本にも数人いたそうで、とても安心し、自分が幸せだと感じることが出来たそうです。

そこで、「友達とは思想信条や趣味が違っていたって全然問題ない」「ただただ、頼りになる人」と言ったことが心に残りました。

 

僕も末期ガンになり、一応「死」に直面した人間の一人なので、これらの言葉はよくわかります。

ただ、僕の場合は悲しいことに、それが皮肉な結果となってしまったことでした。

それまで、「この人は親友だ」「この人は信用できる」と深く思っていた人に限って、全く頼りにならず、頼りにならないどころか、見舞いに来ることも連絡をしてくることもなく、それほど深く付き合っていたわけではなく、深く信用していたわけでもない人に限って、とても頼りになり、見舞いに来てくれたり、連絡をくれたりしてくれたことでした。

それは、「友達」「親族」を問わず、当てはまりました。

親族にしても、妻の親族は頻繁に見舞いに来てくれたり、いろいろ面倒を見てくれたりして、とても頼りになりましたが、僕の方の親族は妹以外は全く頼りにならず、見舞いにすら来てくれませんでした。(母は僕の妻が迎えに行ってようやく来てくれたようなさまでした・・・)

 

坂本龍一氏の話に戻りますが、中でもいちばん頼りになったのが、ドイツ人アーティストのカールステン・ニコライ氏だったそうです。

「アルヴァ・ノト」という名義でミュージシャンとして活動し、坂本龍一氏とは2002年リリースの「Vrioon」以来、数枚のアルバムやサウンドトラックを一緒に手掛けた関係でした。

一見すると、強面(こわもて)な顔つきで、作る音楽も思いっきりアヴァンギャルドなスタイルなのですが、性格は「おとっつぁん」と呼びたくなるような親しみやすい性格で、人は見かけやスタイルではわからないものだと思ったそうです。

tower.jp

 

同時期に脳腫瘍を患い、闘病していた高橋幸宏氏には、励ましの手紙と一緒に素敵な花を病室に贈り、高橋幸宏氏の療養していた軽井沢の家にまで見舞いに行ったエピソードを聞きましたが(残念ながら直前に入院してしまい、会えなかったそうです)、高橋幸宏氏のことも「友達」と思っていたのでしょうね。

 

同じ時期に、脳腫瘍を患い、軽井沢の自宅で療養していた高橋幸宏

 

5⃣ こういう時に心を落ち着かせてくれる「音」「音楽」

入院して気が滅入っていた時期、坂本龍一氏はひたすら「音楽にもならない音」を聴いていたのだそうです。

特に「雨の音」が良かったのだそうです。実はこれまでの10年くらいよく雨音に耳を傾けていたのだそうです。

入院中も、窓の外の雨音に耳を傾けていて、降っていない時はYouTubeでひたすら雨の音を8時間も流し続ける動画を見つけて、一晩中聴いていたのだそうです。

 

また、普段まったく聴かないカントリーミュージックを聴いて、不意に涙が止まらくなってしまったのだそうです。

アメリカのカントリー歌手の「ロイ・クラーク」という人の「Yesterday,When I Was Young」という曲で、坂本龍一氏にとっては非常に縁遠いミュージシャンであり、こんなミュージシャンのこんな曲に心を動かされることに、自分でも非常に驚いていたそうです。

坂本龍一氏は普段音楽を聴いても、歌詞の内容はほとんど頭に入ってこない性格なのだそうですが、今回この曲の歌詞の内容に非常に感銘を受けてしまったとのことでした。

「病気でもしなければこんな曲を良いとは思わなかったかもしれないし、歌詞の内容に耳を傾けられるようになったのは年齢のせいもあるのかもしれません」

このように言っていましたが、こういう「死」に直面するような非常事態になった時、「友達」にしても「音楽」にしても、本当に自分を支えてくれる存在がわかるのかもしれませんね。

 

長くなりましたので、続きは次回のブログで! 

 

 

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第1章 その1

稀代の音楽家坂本龍一氏が2023年3月28日に亡くなって、早いもので1年以上が経ちます。

これまでに坂本龍一氏に関する書籍や雑誌類、音楽や映像ソフトなど様々なアイテムが出されてきましたが、本書は昨年6月に出版された書籍です。

2009年に、自身が生まれてから57歳までの活動の軌跡を記した自伝「音楽は自由にする」の続編ともいうべきもので、2009年以降、亡くなる直前までの活動の軌跡を記した自伝であり、坂本龍一氏が口述した内容を、親友である鈴木正文氏が記載してまとめたもので、まさに坂本龍一氏の「遺書」とも呼べる内容です。

全8章から成り立っており、最後には「著者に代わってのあとがき」というタイトルで、鈴木正文氏が晩年の坂本龍一氏に寄り添った、とても長く素晴らしい文章を綴っています。

感銘を受けた箇所が多かったため、ほぼ1章ずつ僕なりの感想を簡単にお話したいと思います。

今回は、第1章「ガンと生きる」の中で、感銘を受けた箇所をいくつか抜粋してお話します。

 

 

1⃣ ぼくはあと何回、満月を見るだろう

本書のタイトルである「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という言葉は、1990年に公開された「シェルタリング・スカイ」(監督:ベルナルド・ベルトルッチ・1987年公開の「ラストエンペラー」と同じ監督)に出てきたセリフなのだそうです。

しかも、映画の最後に原作者であるポール・ボウルズが登場して語ったセリフなのだそうです。

とても長いセリフの一節で、全体は以下の通りです。

「人は自分の死を予知できずー/人生を尽きぬ泉だと思う/だがすべて物事は数回起こるか起こらないか/自分の人生を左右したと思えるほどー/大切な子供の頃の思い出もー/あと何回心に浮かべるか/4~5回思い出すのがせいぜいだ/あと何回満月をながめるのか/せいぜい20回/だが人は無限の機会があると思う」

・・・なかなか含蓄のある言葉で考えさせられます。

坂本龍一氏も、当時まだ38歳であり、この言葉を耳にしても、あまり自分のこととしてピーンとは来なかったそうです。

しかし、晩年ガンを患ってからは、急にその言葉が現実味を帯びてきて、死についても自然と考えざるを得なくなったそうです。

僕自身も15年ほど前に末期ガンを患った経験があり、この本のタイトルを目にした時、他人事とは思えない真実味を感じました。

 

2⃣ 最悪な精神状態の中での演奏

坂本龍一氏は2014年に発症した中咽頭ガンは寛解したのですが、2020年6月にニューヨークの病院で「直腸ガン」と診断されてしまいます。

更に同年12月の日本の病院での検査で、直腸ガンが肝臓やリンパにまで転移していることを告げられました。

そして、その時の主治医からこう告げられたそうです。

「何もしなければ余命は半年ですね」

その他様々な絶望的とも思える断定的な診断を下され、ショックで落ち込んでしまったとのことです。

僕の場合は、主治医から妻と一緒に診察室に呼ばれ、簡単な説明の後、僕だけ病室に戻るように言われ、妻だけが残り、坂本龍一氏と同じような絶望的とも思える診断内容を告げられたそうです。

坂本龍一氏より更に深刻な内容で、このままでは「余命2ヶ月」だと言われたとのことでした。

僕は当時直接言われたわけではありませんが、病室に戻ってきた悲壮な顔をした妻の顔を見て、おおよその察しがつきました。

しかし、坂本龍一氏はこのような絶望的な診断内容を直接言われたわけですから、本当に強く落ち込んだであろうと、深く同情いたします。

しかも、翌日はオンラインのピアノ・コンサートを控えていたわけですから、想像を絶するツラさだったと思います。

最悪な精神状態の上に、映像を使うためにかなりツラい演奏環境だったらしく、その撮影監督もかなり厳しい人だったそうです。

そのピアノ・コンサートはのちに音源化されてリリースされた「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 12122020」ですが、僕もオンラインで観ていました。

素晴らしいバーチャルな映像を施したコンサートで、真剣にピアノを演奏する坂本龍一氏の姿はとても末期ガンとは思えない感じでしたが、実際はこのような悲壮極まりない状況だったのですね。

3年以上経って、坂本龍一氏も亡くなってしまった現在ではありますが、本当に心から「お疲れ様!」と言ってあげたい気持ちになりました。

 

3⃣ 病院食の不味さ

坂本龍一氏も指摘していましたが、病院食というものは、どこの病院も本当に不味いです。

僕は今まで末期ガン・心房細動・飛蚊症を患って、様々な病院に入院し、病院食を食べ続けてきましたが、美味しい病院食を食べたことはほとんどありませんでした。

飛蚊症手術で入院した横浜の深作眼科だけは別でした。この病院の病院食は高級料理店並みの美味しさでした!)

健康管理などいろいろとあるのかもしれませんが、極端に塩分を控えているのか味が薄すぎてほとんど味がしません。

そして、どんな料理でも冷えてしまっています。カレーやシチューなど出ることがありますが、冷えてしまって興覚めと言った感じです。

そして、どうしたらこんな料理を思いつくのだろうかと言わざるを得ない、わけのわからないメニュー・・・

坂本龍一氏も本書で「どうやったら、こんなに不味い料理が作れるのかと思うくらい」と吐き出していました。

家族にわがままを言って、ウナギやカツ丼を差し入れてもらっていたそうですが、僕も病院側に内緒でおにぎりや惣菜・アイスクリームなどを家族に差し入れてもらっていました。

病院食のくせに、これで栄養が足りるのか心配で、妻は毎日カリウムなどがふんだんに入っているトマトジュースも差し入れてくれました。

 

長くなってしまいましたので、続きは次回のブログで!

 

休職中の5回目の精神科受診~復職を決める重要な日 その2

K先生の要請で、妻が入室し、診察が始まりました。

前回からの続きです。

 

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「この3週間ほどの状況ですが、いかがですか?」

K先生から尋ねられ、僕の方から口火を切って答えました。

「晴天の日に自然の多い公園などを散歩などしたりすると、とてもメンタルの調子は良くなります。近所の公園を始め、立川の昭和記念公園・世田谷の砧公園・鎌倉などに行きましたが、どの時もとても調子が良かったと思います」

「でも、雨など降っていて、空が鉛色となって天気が悪く、暗い時に家に閉じこもっていると、メンタルの調子が非常に悪くなります」

「天気が悪くなくても、夕方の黄昏時になると、たいていメンタルの調子は悪くなってきます。このような傾向は以前からありましたが、以前より強まってきているように感じています」

「メンタルが絶不調になった時は、何をやってもダメで手につかず、死にたくなるほど落ち込んでしまう傾向になります。そういう時に処方していただいた不安を和らげるリーゼを飲むのですが、正直効いている感じがしません。前回の診察で先生がおっしゃったように、抗うつ薬を飲むように変えた方が良いのでしょうか?」

 

ここまで話して、K先生は腕を組んでしばらく上を向いて、考え込んでしまいました。

やがて口を開き、こう質問してきました。

「夕方だけ調子が悪くなるということが気になりますね。うつ病の特徴としては周期性というものが挙げられます。外出した時の夕方ころも調子が悪くなりますか?」

僕は答えました。

「いえ、外出した時の夕方ころは、そのような症状は現れません」

「1月・2月ころにこのような症状が起こった時は、よくある典型的な『冬季うつ』ではないかと自分なりに思っていたのですが、3月・4月と暖かくなって日が長くなっても症状が治まらず、かえって悪くなってきているので、これは違うのではないかと思うようになりました」

K先生はこれには答えず、更に質問してきました。

「以前、音楽や読書が好きだと言っていましたが、それらのことは楽しめていますか?」

僕は答えました。

「普段は楽しめていますが、夕方ころなどいったんメンタルの調子が悪くなると、そういうことも楽しめなくなってきます」

 

再びK先生は腕を組んだまま、しばらく考え込み、こう答えました。

「典型的なうつ病の症状ですと、好きな事を楽しめなくなります。リラポンさんの場合、普段は楽しめているということなので、典型的なうつ病の症状とはいえないと思います」

「但し、在宅時の夕方ころだけ気分が落ち込むということが気になります。人間誰しも夕方ころになると疲れてくるので、疲れが原因とも考えたのですが、そうとも言い切れないところがあります・・・」

 

また腕を組んで考え込み、妻に向かって言いました。

「奥様から見て、ご主人様の普段の様子はいかがですか?」

妻は言いました。

「確かに在宅時の夕方ころになってくると、気分の落ち込みが激しくなってくることは見受けられます。その時間帯はよくボードゲームをやっているのですが、主人は負けが込んでくると、輪をかけて落ち込みが激しくなってきます」

「なので、そういう時はすぐに寝るように言って、さっさと休ませます。足裏のマッサージなどをすると、すぐに眠ってしまいます」

「あと、私が気になる点としては、自分から鎌倉に行きたいとか外出したいと言い出して、自分から誘ってくることです。私から誘うことはあまりありません」

「もし、うつの状態がひどければ、そういう風に自分から誘うことはないと思います」

 

腕を組んで上を向きながら、妻の話を聴いていたK先生が、僕に質問してきました。

「奥様のお話を聴く限り、やはり典型的なうつ病の症状とは言い切れないとは思います。そこで、もう一度質問ですが、症状としては夕方ころになって暗くなってくると、ただ気分が落ち込んでくるということでしょうか?それとも夕方ころでなくても常に強い不安の症状はあるのでしょうか?」

僕は答えました。

「確かに夕方ころ暗くなってくると気分は落ち込んできますが、それだけではなく常に強い不安感はあり、両方あると思います」

 

僕の話を聴いて、少し理解できることがあったのか、K先生はこう切り出してきました。

「それであれば、ノルアドレナリン(ストレスを受けた時に発生する脳内物質)の量の調整を図るために、抗うつ薬の「アルジロン(?よく聞き取れませんでした)」を飲んでみることを試してみることをお勧めします」

 

K先生にこう言われて、今まで処方してもらって飲んでいた薬のこと、睡眠のことについて話しました。

「リーゼは毎日2回(起床時・就寝時、その他メンタルの調子が悪くなった時)、睡眠剤のロゼレムも就寝時に必ず飲んでいます。そのせいか睡眠は改善傾向にあり、寝つきも良くなって、毎日平均7時間から8時間は眠れています。ただし、中途覚醒は必ず毎日1・2回はあります」

「あと、お話したい事としては、週に1・2回は必ず不安感が強くなる日があり、3・4時間しか眠れない日が発生します。実は今日も5時間半くらいしか眠れませんでした」

すると、これらのことについてはあまり意に介さないようで、こう答えました。

「調子が悪い日が週に1日くらいあるのは特に問題ないかと思います。リーゼという薬はうつ状態に落ち込んだ症状を改善する効果はありません」

「なので、より鎮静効果のあるワイパックス抗うつ薬であるアルジロン?の服用をお勧めします。ただし、両方同時に服用すると、どちらの効果があったのかわからなくなってしまうので、まずはワイパックスを2週間ほど飲んでみて様子を見ることをお勧めしますが、いかがでしょうか?」

僕「それでお願いします」

 

ワイパックス」は一番最初の初診時に処方されて飲んでいたのですが、
鎮静効果が強すぎると感じたため、約2週間でリーゼに変えたのでした。

 

そして、先生は言いました。

「まずワイパックスをこれから2週間飲んでみて様子を見てみましょう。そして、2週間後の5月11日の診察で、その後抗うつ薬のアルジロン?の服用を開始するかどうか判断しましょう」

「そして、その時の状態を診断して、復職を認める診断書を発行するか、まだ休職を継続した方が良いとする診断書を発行するか、判断しましょう」

このK先生の言葉を聞いて、僕も妻も安心しました。

そして、2回目の傷病手当金支給申請書の記載の依頼を先生にお願いして、診察室を後にしました。

次回の診察は2週間後の5月11日の午後1時50分となりました。

復職するか、休職を延長するか、大詰めの時が迫ってきたのでした。

 

(次回に続く)

 

 

 

 

休職中の5回目の精神科受診~復職を決める重要な日 その1

休職してから3ヶ月半あまりが経ち、僕はそろそろ今後の復職に向けた進路を決める必要がありました。

前回4月6日の受診日以降のメンタルの状況や体調はとても良いと言えるものではなく、むしろ以前より不安定さが増していました。

しかし、生活上の不安もあり(傷病手当金というものは申請してから審査が下りるまで1ヶ月以上かかるらしく、しかも正規の給与額の60%程度ということで、あまり当てにできるものではないようです)、いつまでも休職しているわけにもいかないと、心に焦りが生じ、そういったこともメンタルの不調を増幅させているのかもしれません。

とりあえず、この約3週間程度の状況をきちんと先生に伝え、それに対する先生の見解を聞くため、ノートにざっとまとめた後、スマホのメモ欄にきちんとまとめておきました。

そして、翌4月27日、休職中の5回目の精神科受診に、妻と一緒に向かいました。

前回からの続きです。

 

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緊張していたのか、4時間半くらいしか眠れず、電車に乗っている時、クリニックまで歩いている時も、ストレスというかプレッシャーが重くのしかかり、非常にメンタルは悪い状態でした。

約束の時間よりだいぶ早めの40分くらい前に到着したのですが、クリニックはそこそこ混んでいたのか、約束の時間を10分ほど超えて、名前を呼ばれることになりました。

 

名前を呼ばれて、兜の緒を締める思いで、診察室に入っていき、軽く挨拶をして、さっそく質問事項などをまとめてきたスマホのメモ欄を開いて、席に座って、スタンバっていました。

すると、K先生は「ご家族の方もいらっしゃるのであれば、同席していただくことは可能ですか?」と言い出しました。

妻も同席して診察を受けるのは、2回目になります。

僕としては、僕の話だけではなく、客観的に僕を見ている妻の話も聞いた方が、よりK先生が判断しやすいだろうと思い、喜んで妻を呼び寄せました。

 

そして、妻が入室し、診察が始まるのでした。

 

(次回に続く)

 

休職中の生活 その6

4月6日に精神科の診察を受け、次回4月27日の診察はいよいよ復職に向けた話し合いになるぞ!と覚悟を決めた気持ちとなり、何かと力が入っていました。

前回からの続きです。

 

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K先生に書いてもらった傷病手当金支給申請書と自分の書いた書類をレターパックに収め、2日後に郵便局から会社へ発送しました。

そして、徐々に早寝早起きを進め、日々のルーティンにしていることをより効率的に進めて、朝散歩もなるべく朝早い時間に出来るよう、工夫しようと考えていました。

また、4月14日には武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを観に行き、明るい太陽の日差しが照り付ける中、鎌倉に行ってお寺や神社巡りで長時間歩いたり、立川の昭和記念公園や世田谷の砧公園などの大きな公園も長時間歩き回ったりして、セロトニンをたっぷり補給し、体力づくりにもかなり励みました。

 

そんなこんなの比較的張り切っていた毎日を送っていましたが、人生とはなかなか自分の思惑通りにうまくいかないもので、問題が発生していました。

それは、以前から傾向はあったのですが、夕方頃、日が落ちてくる黄昏時になると、急にメンタルが落ち込み始めてくるのです。雨が降っていたり天候が悪い時はもう最悪で、メンタルは絶不調となり、何をやってもダメで手に付かず、死にたくなるほど落ち込んでしまう傾向が以前よりより強まってきたのでした。

妻も心配しており、こういう時に不安を抑えるリーゼを飲んでも効いた感じが無く、前回の診察の時にK先生が話したように、少し強めの治療として、抗うつ薬を飲むことに変えた方が良いのではないか、そう考えるようになりました。

 

また、この期間は、スマホやパソコン、ブルーレイレコーダーなどの不具合が多く発生して、機械ものが好きな僕としては、これらの不具合もメンタルを悪化させていた原因だと思っていました。

 

とりあえず、受診日の前日、5月中旬頃の復職に向けて、今現在不安に思っていることを「一人合宿」という感じで、頭の中の考えを正直にノートに書き散らしました。

それを、あらかじめ「先生への質問事項」として、スマホのメモ欄にまとめておき、何度も見直しました。

 

翌日は今後の復職に向けた進路を決める大切な受診日です。

なかなか心に重くずしっとのしかかり、非常にメンタルの調子が悪い日となりました。

 

翌日の診察の結果につきましては、次回のブログにてご報告いたします。