海外文学読書録

書評と感想

クリント・イーストウッド『荒野のストレンジャー』(1973/米)

荒野のストレンジャー (字幕版)

荒野のストレンジャー (字幕版)

  • クリント・イーストウッド
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★★★★★

鉱山の町に流れ者(クリント・イーストウッド)がやってくる。彼は絡んできた3人のならず者をたちまち撃ち殺すのだった。町の住人は過去に刑務所送りにした3人の無法者の復讐に怯えている。住人は破格の条件で流れ者を雇うことに。一方、町では1年前に保安官が無法者に鞭打たれて殺される事件があり……。

『許されざる者』に匹敵するラディカルな西部劇だった。本作から『ペイルライダー』を経て『許されざる者』に到達したということだろう。この世には無垢な善人などおらず、みな罪で汚れている。また、人間とは多かれ少なかれ私欲や保身で動いており、悪党と呼ばれるのはその度合いを最大化した者である。そして、町を無償で守ってくれる都合のいいヒーローも存在しない。ひりつくような冷徹な世界観に痺れる。イーストウッドがキャリアの初期からこういう映画を撮っていたとは思わなかった。

作家のジョン・ヒッグスは『人類の意識を変えた20世紀』【Amazon】で次のように述べている。

西部劇というジャンルで、理想的な個人主義を追求した当然の帰結として誕生したのが、いわゆる「名無しの男」だ。一九六〇年代にセルジオ・レオーネ監督が撮った三本の映画で、クリント・イーストウッドが演じた役どころである。このキャラクターは観衆の賞賛を集めた。なにしろ、完全に一匹狼で、地域社会とのつながりもないために、名前すら必要としないのである。二〇世紀を象徴する数々のアイコンと同様、孤独こそがこのキャラクターの魅力の源泉だった。(p.160)

本作の主人公にも名前はない。便宜的に流れ者(ストレンジャー)と呼ばれている。セルジオ・レオーネの映画と同様、孤独ゆえに名前を必要としないキャラクターになっている。ところが、実は名前がないことが作劇上のギミックになっていた。彼は一匹狼であるものの、この町と繋がりがないわけではない。むしろ、断ち切り難い因縁があるのである。その因縁を隠蔽するために名前がないのだ。「名無しの男」を出すにあたって捻った設定を用いるあたりなかなか食えない。しかも、その設定が冷徹な世界観とがっちり噛み合っている。ジャンルの制限をやすやすと越えたうえ、セルフイメージを逆手に取ったところに意外性があった。

フランス文学者の中条省平は『クリント・イーストウッド』【Amazon】で次のように述べている。

主題的には、イーストウッド映画はアメリカン・イデオロギーの矛盾を丸ごと抱えこみ、ドラマトゥルギーの原動力にしている。徹底的な個人主義と自衛のための暴力が肯定されるいっぽうで、差別される弱者のチームワークが重大なテーマとして浮上し、リンチや死刑への反対と否定が表明される。また、自分のできることを能力のかぎり遂行するというポジティヴな姿勢の裏には、自分を含めてすべてを破壊してやまないネガティヴな衝動がひそんでいる。(p.254)

周知の通り、アメリカの精神は自警団の精神である。自分たちの身は自分たちで守る。これは西部開拓時代からの掟であり、21世紀の現代まで受け継がれている。世界一の先進国は未だに銃社会だった。銃社会ゆえに無敵の人による銃犯罪が絶えない。社会にとってマイナスであるにもかかわらず、アメリカは自警団の伝統を維持している。銃がなければ自衛はできない。その一方、銃がなければ銃犯罪も起きない。アメリカはその矛盾を丸ごと抱え込みながら今日を迎えている。本作はある意味でその写し絵だ。警察権力が隅々まで及ばない時代だったら自警団も止むなしだろう。ところが、現代はそれが隅々まで及んでいる。もはや自警団など必要ない。アメリカの精神を維持するために半ば強引に銃社会が維持されている。本作もまたアメリカの精神を肯定していて日本人の我々にはついていけないところがある。

というわけで、善人が存在しない冷徹な世界観とアメリカの精神を融合させたところが良かった。

マーティン・スコセッシ『カジノ』(1995/米)

カジノ (字幕版)

カジノ (字幕版)

  • ロバート・デ・ニーロ
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★★

ラスベガス。予想屋のエース(ロバート・デ・ニーロ)がマフィアのボスたちからカジノの責任者に抜擢される。組織はエースの護衛に粗暴なニッキー(ジョー・ペシ)を派遣する。2人は幼馴染だった。また、エースはゴージャスなジンジャー(シャロン・ストーン)に一目惚れするが、彼女にはヒモ(ジェームズ・ウッズ)がいる。ヒモはジンジャーにエースの金を掠め取るべく結婚を勧める。

原作はニコラス・ピレッジ『カジノ』【Amazon】。

金の亡者が愚行を繰り広げていて一種の博覧会みたいになっている。裏社会を活写していて勉強になったが、映画としてはだらだらしていてつまらなかった。何より尺が長い。178分(2時間58分)もある。せめて2時間に収めていれば印象も悪くなかっただろう。映画監督は売れっ子になると無駄に長い映画を撮るから良くない。昔はプロデューサーが不要なシーンをカットするのが当たり前だったが、その仕組みは正解だった。監督主導にすると本作みたいな弛緩した映画になってしまう。

際限のない欲望は身を滅ぼす。そういう意味で本作は反面教師になっているし、処世術の何たるかを教えてくれる。確かにアメリカが資本主義の王者になったのは人々の欲望が強大だったからだ。まっとうな業界でまっとうな働きをするのだったらそれでもいいだろう。しかし、裏社会で野心を剥き出しにして突き進むと命に関わることになる。この世界ではマフィアのボスが絶対なのだ。悲しいかな、ボスの意向に反するとあっさり消されてしまう。また、非合法的な分野に足を突っ込んでいるため、FBIも監視の目を光らせている。捕まったら長期刑は覚悟しなければならない。この世界で生きていくにはあらゆる方面を警戒する必要があるのだ。ところが、エースもニッキーもその辺の認識が甘かった。エースは我を張って余計な敵を作ってしまうし、ニッキーも野心が肥大化して暴力行為をエスカレートさせてしまう。すべては金のため。手に入れる額は多ければ多いほどいい。そのような野心が自身の命を危うくするのである。見ているほうとしてはヒヤヒヤすることしきりだった。

エースはプライベートでも問題を抱えていて妻のジンジャーと上手くいかない。ジンジャーは結婚して子供が産まれてもヒモのことを愛していたのだ。彼女はエースのことを愛したことがない。すべてはエースが所有する金目当てである。エースはジンジャーに散々贅沢させるも、ジンジャーの欲望もまた底のないバケツである。彼に感謝することはなかった。それどころか、財産を奪ってヒモのところへ逃げようと躍起である。ゴージャスな見た目のジンジャーは典型的なトロフィーワイフだが、この手の女はせめて愛人に留めておくべきで絶対に結婚してはならない。愛もまた身を滅ぼす要因であり、エースは結婚したことで公私にわたって問題を抱えるようになる。どんなに金があっても人の心は思い通りにできない。金持ちだからといって必ずしも幸せになれるとは限らないのである。

俳優陣ではシャロン・ストーンが素晴らしかった。ぶん殴りたくなるようなクソ女を好演している。一方、ロバート・デ・ニーロとジョー・ペシはいつも通りでもはや味のしないガムだった。彼らはシャロン・ストーンの引き立て役に甘んじている。

ニコラス・レイ『夜の人々』(1948/米)

★★★

刑務所で服役していたボウイ(ファーリー・グレンジャー)が仲間2人と脱獄する。彼は15歳のとき殺人罪で収監され、7年間臭い飯を食ってきた。ボウイは恩赦を求めるべく弁護士を雇いたい。その金を捻出するため仲間と銀行強盗をする。アジトでキーチ(キャシー・オドネル)と出会ったボウイは彼女と結婚するが……。

原作はエドワード・アンダーソン『Thieves Like Us』【Amazon】。

フィルム・ノワール。アメリカの自然主義文学みたいだった。

アメリカ文学者の諏訪部浩一は『ノワール文学講義』【Amazon】で次のように書いている。

多少なりとも図式的に整理すると、自然主義といえば「遺伝」と「環境」によって人間が支配されると決まっていわれるが、アメリカ文学においては概して「環境型」の自然主義が発展した。(p.41)

また、英文学者の藤井光は『勇気の赤い勲章』の解説で次のように書いている。

クレインはアメリカにおける自然主義文学の代表的作家と言われている。小説において「人生」のありのままを見つめようと試みるなかで、彼は「環境」が人間の行動や、ひいては人生そのものを決定していくさまを描き出した。

もちろん、ヨーロッパではそれに先立ち、エミール・ゾラを筆頭とする自然主義文学が大きな影響を与えていた。ダーウィンの進化論による、自然とは遺伝や環境の力によって決定されているのであり、人間も例外ではないという同時代の思想が、自然主義の大きな原動力となっている。ゾラはみずからが登場人物たちを描写する手つきを死体を解剖する外科医になぞらえ、文学は社会科学であるとも述べた。

そして、本作はまさしく環境型の自然主義文学だ。15歳で殺人を犯したボウイは、父親を喧嘩で殺された過去を持つのである。しかも、父を殺した相手は母親を寝取っていた。その事件がボウイにどう影響したのかは分からないが、犯罪を誘発する環境だったのは間違いない。ボウイは殺人を犯し、7年間服役した後に仲間と脱獄する。ところが、脱獄してからの行動が支離滅裂だった。

というのも、彼は弁護士を雇うための費用を銀行強盗で賄おうとしているのである。どうやら少年犯罪には恩赦が下るらしい。だったら自分も弁護士に依頼すればそうなるはずだ。ボウイはそう考えるが、そもそも彼は脱獄囚であるうえ、仮に弁護士を雇ったとしてもそれは銀行強盗で得た金を元にしている。恩赦など下るはずもなく、刑務所に逆戻りなのは火を見るより明らかだ。しかし、若いボウイはその陥穽に気づかない。弁護士を雇えば未来が開けると信じている。このロジックが我々には理解できない。

また、官憲に追われていることに気づいたボウイは旧知の女を頼る。ところが、その女はかねてからボウイを嫌っていた(ボウイもそのことを知っていた)。結果的にはその女と接触したことでボウイは悲劇に見舞われることになる。彼は頼ってはいけない女を頼ってしまったのだ。このようにボウイは頭が回らない。はっきり言えば短慮である。しかし、彼がこうなったのも環境が原因なのだ。ろくに教育を受けてないうえ、青春の大事な時期を刑務所で過ごした。世間知を学習する機会がなかった。一般人より短慮なのは当然だろう。頭の悪い人間が頭の悪い行動をとって悲劇的な末路を迎える。本作はフィルム・ノワールであるが、同時にアメリカの自然主義文学でもある。

ヒロインのキーチがまともな一般人であるところがいい。いわゆるファム・ファタールではないのだ。彼女には世間知があるし、まっとうな倫理観もその世間知に支えられている。フィルム・ノワールでこのようなヒロインが出てくるのも珍しいのではなかろうか。劇中では無謀なことをしようとするボウイを諌めている。彼女の常識人ぶりが魅力的だった。

セルジオ・レオーネ『続・夕陽のガンマン』(1966/伊=独=スペイン=米)

続 夕陽のガンマン

続 夕陽のガンマン

  • クリント・イーストウッド
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★★★★★

南北戦争。善玉のブロンディ(クリント・イーストウッド)は卑劣漢のテュコ(イーライ・ウォラック)と組んで金を稼いでいた。ところが、ある日ブロンディがテュコを見限って荒野に置き去りにしてしまう。テュコは復讐に燃えることに。一方、悪玉のエンジェル(リー・ヴァン・クリーフ)もひょんなことから2人に絡んでくる。3人は墓に隠された20万ドルを手に入れるべく離れたり共闘したりする。

マカロニ・ウェスタン。『夕陽のガンマン』の続編ではない。

三つ巴の人間関係を遊戯的に組み替えていく脚本が素晴らしかった。3人が目標とするのは墓に隠してある20万ドルの大金である。しかし、墓場の名前を知っているのはテュコとエンジェルであり、墓標の名前を知っているのはブロンディだけである。テュコにとってブロンディは憎き相手だが、殺してしまうと大金の在り処が分からなくなる。だから一緒に組んで旅をするしかいない。一方、エンジェルにとっても同様で、テュコは殺してもいいがブロンディを殺すことはできない。テュコからブロンディを奪い取る必要がある。また、ブロンディにとってもテュコ(もしくはエンジェル)は必要な存在だった。彼らはそういう三つ巴の関係にある。それぞれがそれぞれの思惑で立ち回るところが本作の肝で、これぞ個人主義の世界だろう。まず自立した個人が存在して、他人とは利害に基づいた仮初の関係を結ぶ。イタリア人がここまでアメリカ的な価値観を理解しているのはすごいことだ。脚本家に拍手を送りたい。

主人公は一応ブロンディになるが、クリント・イーストウッドが演じているわりに完全無欠ではないところが面白い。というのも、彼はヘマをしてテュコに銃を突きつけられるのである。それも一度ではない。二度も命の危機に晒されている。面白いのは二度とも強運で切り抜けているところだろう。一度目は部屋に大砲が撃ち込まれたおかげで助かった。そして、二度目は御者のいない不審な馬車が通りかかったことで助かった。特に二度目は振るっている。テュコはブロンディから水も帽子も奪って炎天下の荒野を歩かせていた。ブロンディの足はフラフラ、顔は紫外線でボロボロである。地面に倒れ込むブロンディの前でテュコは水と食糧を好きなだけ平らげる。もちろん、ブロンディに分けたりはしない。こうして復讐を果たしたテュコはブロンディに銃口を向けてとどめを刺そうとしていた。馬車が通りかかるのはその矢先である。ブロンディはここで上手く立ち回ってテュコとコンビを組むことになる。テュコは窮地に陥ってもその都度自力で脱出しているが、ブロンディはそうではない。この対称的な人物像が面白かった。

ブロンディもテュコも酷い目に遭うが、悪玉のエンジェルだけはそうでもない。彼は終盤の決闘まで涼しい顔をしている。しかし、そのエンジェルが最後に死体になるところはバランスが取れている。いくら酷い目に遭っても生きてれば再起ができる。しかし、死んでしまったらすべてがお終いだ。だからもっとも酷いのは死ぬことなのだ。背景に南北戦争を据えたところにもそういう哲学が窺える。劇中に下半身を失った身体障害者が出てくるが、彼だって命が助かったから元気に暮らせているのだ。人間は死んだらお終い。期せずして命の大切さを思い知ることになった。

それにしても、西部劇の俳優はクローズアップが様になる。クリント・イーストウッドも、リー・ヴァン・クリーフも、イーライ・ウォラックもみんなクローズアップで渋い表情を見せている。顔に刻まれた皺、彫りの深い顔立ち、ワイルドな男臭さ。これが平たい顔族の日本人だったら格好がつかない。セルジオ・レオーネはクローズアップを多用する監督だが、そりゃこんなにいい俳優がいたら多用したくなるのも無理はないだろう。メインキャストの3人はみんな素晴らしかった。

山崎貴『ゴジラ-1.0』(2023/日)

ゴジラ-1.0

ゴジラ-1.0

  • 神木隆之介
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★★★

1945年。特攻を逃れて大戸島に来た敷島浩一(神木隆之介)は現地でゴジラに遭遇する。そこの整備兵たちがゴジラに殺されてしまった。戦後。復員した敷島は赤ん坊を連れた大石典子(浜辺美波)と知り合い、3人で同居することになる。敷島は機雷撤去の仕事に就くが、海で再びゴジラと対峙することになるのだった。やがてゴジラは東京湾から銀座に上陸し……。

『シン・ゴジラ』と正反対なことをやっているのは評価できる。ゴジラと戦うのが公的機関ではなく民間人。政治家は一切顔を見せない。内閣総辞職ビームもない。ここぞというときに伊福部昭の音楽を使っている。また、ゴジラ巨大化の原因がビキニ環礁で行われた米軍による核実験で、ゴジラによる東京破壊も地を這うような視点で迫力がある。ただ、好き嫌いで言ったら『シン・ゴジラ』のほうが好きで、本作はドラマ部分がきつかった。率直に言えば茶番だと思う。

戦争で敗れた兵士たちの再生の物語というのがきつい。先の戦争では国を守れなかった。空襲で多くの同胞を失った。戦後復興の最中、再び国難が訪れる。今度は何とかして国を守りたい。ゴジラという巨大な敵を相手に復員兵たちが再起をかける。特に敷島はやる気満々だ。彼はゴジラの銀座襲撃によって典子を失ったし、また、大戸島では自身の怯懦のせいで整備兵を死なせたトラウマがある。それを乗り越えるにはゴジラを倒すしかない。典子と同胞の仇を討ち、己の男性性を回復させる必要がある。この構図がどうにもきついのだ。

太平洋戦争を含む十五年戦争は日本による侵略戦争である。日本兵は長期にわたってアジアの人たちに加害してきた。言ってみれば敗戦はその報いである。アメリカによって正義の鉄槌が下されたわけだ。大勢が殺されたからといって呑気に被害者ヅラしている場合ではない。そしてそのような背景がある以上、ゴジラ襲撃を太平洋戦争と重ねるのは茶番に見えてしまう。国を守る? そもそも先にアジアを侵略したのが悪いではないか。本作は国を守るという視点が強調されていて、日本が侵略戦争を行った事実が隠蔽されている。確かに兵士は国家に無理やり動員された犠牲者だ。しかし、だからといってアジアへの加害が免責されるわけではない。共同体の罪は共同体の成員が負うべきである。たとえ上層部が悪いとしても、選挙でそれを選んだのは当時の国民なのだ。本作は徹底した被害者性で構築されていて違和感があった。

映像はとても良かった。特にゴジラが暴れるシーンが素晴らしく、この部分は『シン・ゴジラ』を超えていたと思う。自宅のテレビで見ても迫力があったのだから、劇場で見たらとんでもない臨場感だろう。ただ、欲を言えばゴジラにもっと暴れてほしかった。破壊したのが銀座とその周辺だけというのが物足りない。我々は巨大生物が引き起こす地獄絵図が見たいのである。近代文明を跡形もなく消し去ってほしかったのである。とはいえ、当時の東京は今よりもスカスカだったから破壊の快楽もそんなになかっただろう。この辺は時代設定の限界が感じられて残念だった。

ゴジラのやられっぷりがいい。口の中に戦闘機がガコンとはまったシーンは笑ってしまった。ちょっと間抜けに見えるところが喜劇的で面白い。