トリニダード鶏肉

考えていることや考えていないことを頑張って書きます。

『TENET テネット』を見ました

先週の日曜日に『TENET テネット』を見てきた。

 

『TENET テネット』と言えば、見てもよく分からないことで話題になっている。

クリストファー・ノーランだし、また訳の分からない映画を作ったのかと。

 

自分は「一度見ただけでは理解できない映画」に対しては基本的にネガティブな印象を持っている。

そういう映画を見たときに(というかそういうアートを前にしたときに)、理解できなかった自分が悪いと、自分のアートリテラシーの無さを責める人が多いのをいいことに、映画内の情報を整理し、間口を広げることを放棄しているのは、映画製作者としての怠慢だと感じるからである。

それに、一度見てきちんと内容が分かる素晴らしい映画*1がたくさんあるのだから、2回見てやっと内容がつかめるような映画の方が相対的に価値は低いと考えるのは自然なことだと思う。

 

というわけで、よく分からない映画という前評判の本作に対してもあまり大きな期待はしていなかったのだけど、普通にすごい映画でした。

そもそも「よく分からなかった」というけど、この映画はみんなが思うほど「よく分からない映画」ではないと思った。少なくとも、ノーランが映画内の情報量の調整を怠っているとか、失敗しているとは全く思わなかったし、寧ろあれだけのギミックを用いながら、2時間半という限られた時間の中に、映画を楽しむのに必要な情報をよく取捨選択して盛り込めているとすら感じた(当たり前だがギミックを詳細に説明する時間など映画には与えられていないのだから)。

 

では、「よく分からなかった」と感じる人と自分の感じ方の違いはどこから来るのかと言うと、何を以て「よく分かる」と言うかという感覚の違いだろう。

つまり、仮に一度見た後でこの映画の70%程度を理解できたとして、それを「分かった」と言うか、「分からなかった」というかの違いだと思うが、個人的にはこの映画は70%も理解できればそれでよしの映画だと感じた。

 

思うに、現代の映画を見慣れている我々にとって、時間軸の操作というのはありふれたものである。大学の講義で聞いたのでかなりうろ覚えだが、時間軸の操作には大きく3種類あって、物語内を流れる時間の長さの操作*2、時間の順序の操作*3、時間の回数の操作*4だったと記憶しているが、現代の映画ではどの手法も当たり前のように使われている。

そのため、この映画においても「時間が逆行する」という概念自体は多くの人が自然と理解しているであろうし、どういう仕組みで時間が逆行しているのかを理解することはこの映画には必要なかったと思う。(逆にあと2~3回見たところで仕組みの理解はできないのではないかと思う)

 

勧善懲悪の話の流れと敵・味方の構図も映画を見ていればすんなりと理解できたし、「理解させたいところ」と「理解させなくてもよいところ」がよくコントロールされ、アクションもリアルにこだわっているだけあって真実味があり、印象的なシーンも多く用意された、よい映画でした。

 

ノーランの過去の作品を見たのが大分前なので、映画内の情報のコントロールという観点で見直してみたいな。

*1:『ユージュアル・サスぺクツ』とか見る側への情報の与え方が素晴らしいと思う

*2:例えば、物語内での1日の経過が映画では5分に短縮されて描かれるとか。逆も然り。

*3:物語内でA→Bの順番で時間が流れるところを、映画ではB→Aの順序で描くとか。過去の回想みたいな。

*4:一つの行為を反復して描くとか、そんなんだったと思う

そういう仕様

社会に改善の波が押し寄せている。

いつからだろうか。少なくとも自分が就活をしていたころには、既にその波が来ていた。「周囲を巻き込んで会社を変えられる人間」みたいな像が求められていて、特にやりたい仕事もなく、周りに流されてしか生きてこなかった自分はかなり苦労した。まだ入社してもいないやつに何を求めているんだと思いながら、ろくに会社のことも調べずにへらへらしていたのだから、今思えばうまくいくはずがなかったな。

そんな自分でも入れた今の会社はかなり保守的というか、ストレートに言うと改善意識が低い方だと思うが、うちの会社にもとうとう改善の波が押し寄せていて、自分の部署も例外ではなくいろいろと対応することが多い。

 

そんな中で少し疑問に思うことがある。

なぜか「仕様」という言葉がやたらと強い。

業務改善となると新しいシステムを導入したり、既存のシステムを改良することになるが、基本的にシステムには限界があって、そのシステムで改善しきれないところは「そういう仕様」として飲み込まれる。まるで工事中の道路を迂回して目的地に向かうかのように。強いおじさんが文句を言っても、「そういう仕様なので」と言うと渋々納得をせざるを得ない。むしろそこが改善できないのなら意味合いが薄いのでは?と思うこともある。

 

ただ、「仕様」の前に泣く場面は仕事以外にもあると思う。

雨が降った時にどんなにうまく傘を差しても靴が濡れてしまうが、傘はそういう仕様であり、靴が濡れないような傘は一生開発されない。

洗濯物の部屋干し臭はいつまで経ってもなくなる気配がない。部屋干し臭がしないという謳い文句の様々な洗剤のCMをもう何年見ているだろうか。洗濯物を部屋で干すと臭くなるのはそういう仕様なのだ。

人間が大便をした後にトイレットペーパーでお尻を拭かないといけないのも人体がそういう仕様だからである。犬も猫もお尻を拭かないのに人間だけがなぜかお尻を拭かなければいけない。これについてはまじでどんな仕様?自然界だったら生存に不利でしかなくない?もはやこの仕様を受け入れた上でシャワートイレなるものが開発されている。

 

「仕様」を受け入れる習慣は日常生活の中で染みついてしまっているのかもしれない。

 

カレー作った

最近はカレー作りにハマっている。カレー粉を使わずにスパイスから作るやつ。

これは休日の貴重な時間を割くのに値する作業だと感じられているので、6月に始めてから10回以上は作ったと思う。チキンカレー、サグ(ほうれん草)チキンカレー、キーマカレー、ジンジャーポークカレー、エビカレーあたりを作った。

 

何でハマったのか考えてみると、スパイスの調合具合で味が変わる奥深さや、玉ねぎを炒めてだんだんと色が変わっていく感じが理科の実験みたいで楽しいのと、作る度に上達するので、手軽に自己成長が感じられるからかと思う。

 

最初はパウダースパイス4種類で作っていたが、物足りなくなってきてホールスパイス(実みたいなやつ)3種類を買い足した。一つひとつのスパイスが高くないので、手を広げやすいのも良い。ただし、インド人がやっているスパイス屋さんは怪しい雑居ビルに入っていることが多いので入りづらい。(普通のスーパーでもスパイスは買えるが、量が少ない分割高だと思う。)

 

自分が行った2か所は、どちらも雑居ビルの1階にインドカレー屋があって、もう何階か上のアパートの一部屋みたいなところにスパイス屋があるパターンだった。雑居ビルに入ろうとすると、インドカレー屋の店員に声をかけられたので、「あ、スパイス買いたくて。。」的なことを言ったが、声をかけてきたインド人が少し嫌そうな顔をしたところを見ると、インドカレー屋とスパイス屋はあまり協力関係にはないのかもしれない。

仲良くしてくれ人間たちという気持ちになった。

 

この間作ったバターチキンカレーが店のレベルに達した気がしたので、ブログらしく写真を載せておく。

 

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そのうち、作り方も書いてみたいですね。

今回は書いているうちになんだこれ?となってしまったので諦めた。

何をするのも面倒くさいな

こんなタイトルでブログを始めるのは本当に本望ではないのだが、マジで毎日がこれでそれ以外の感情がない。

 

 

確かに昔からあまり活動的ではなかったが、社会人になってから拍車がかかっている。

理由は簡単で会社で全てのエネルギーを使い果たしてしまうからだ。

別にブラック企業でもないし、社会人3年目の平均を取ったらたぶんこういう仕事だろうという仕事をしているとは思う。が、ダメ。

 

とにかく基礎体力がない。

ロングスリーパーで8時間寝ても仕事中眠くなる。これは昔からで、高校もだいたい遅刻していたし、大学時代も1限の授業に出られた記憶がない。

そのため、毎朝きちんと起きて、日中に眠そうな顔をしないまともな社会人を演じようと思ったら、21時過ぎくらいから着陸態勢に入る必要がある。

ちょっと席を立とうかと思うときにはもうベルト着用のサインが点灯してしまうので、平日は本当に何もできずに終わってしまう。金曜以外の飲み会はオールキャンセル。

 

平日の疲れは土日にも影響してくる。

仕事で頭を使いすぎるせいか(実際のところ、頭を使うような偉そうな仕事はしていない)生活のことにまで頭が回らない。

水道代を払い忘れたり、家賃の口座の残高を調整し忘れて引き落とせなかったりしてしまうが、水道代を自動引き落としにする手続きすらも面倒くさい。

 

休日にやりたいことはいろいろとあるが、ある程度進捗を生むために気力・体力を要することには全然手を付けられない。

例えば、映画を観たり、本を読んだり、楽器を弾いたり。映画に関しては本当に見たい映画がいくつもあるのだけど、見始めるまでのハードルを異常に高く感じるので、そこら辺にあるファストフードのような映画を消費している。

このブログも面倒くさくて手が付けられないことの最たる例で、大学の友人がやっているブログに感化されてページを作ったのが2年前の夏である。そこからしばらくは、後で書こうとタイトルだけを下書きに保存していたけど、いつの間にか書く気が失せてしまった。

 

では頭を使わないで済むことをしてゆったりと過ごそうということになりそうなものだが、社会人に与えられた休日はとても貴重なので、無為に消費したくないという思いがある。ゲームを起動しようとすると頭の中の自分が待ったをかける。「それやって本当に後悔しない?」と。

 

自身の体力のなさと自我に挟まれて身動きが取れない状態。建物のすき間に挟まった中国の赤ちゃんでももう少し身動きは取れると思う。

 

今回ブログを書き始めたのは、この状態から脱そうと足掻いた結果である。

大学時代は比較的アウトプットの場があったような気がするが、社会人になってからというもの、一人でいるときに考えたことをまとめる場がないので、頭が悪くなっている感じというか、シナプスがぷつぷつと途切れている感じがして焦っていた。

(上手くまとまる気はしないが)考えていることをまとめるための場所として使ったり、日々の活動報告の場とすることで生活に進捗を生みたい。こういうのは、ある程度自己肯定感の高い人がやるものだというのは認識しているが、人のためではなく自分のためという理屈を免罪符にして、恥ずかしさとの折り合いをつけることにする。

日記とかが人生で続いたためしがないのだが、とりあえず週一くらいで頑張りたい。

自己採点で80点で提出します。